歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「人格」概念のキリスト教的起源 

2005-04-11 |  宗教 Religion


我が国に於いても、「人格の尊厳」、「人格の回復」、「人格の形成」などの成句に見られるように、「人格」という言葉は既に市民権を得ている。基本的人権とは、「個人の譲渡できぬ生得的権利」のことである。また、「人格への配慮 cura personalis」とは、多くのカトリック系の教育機関が標榜している「人間教育」の基本原理である。しかし、たとえば、「人間」と「人格」は何処が違うのか-人間が、文字通り「人と人の間」すなわち、社会性を含意するのに対して、「人格(person)」は「個人性」を含意するようにも思われるが-その両者は如何なる関係にあるのか、こういった基本的な事柄に対して、必ずしも我々は明瞭な自覚を持っているとは言い難い。そこで、まず、この言葉の持つキリスト教的な含意を検討しよう。

「人格(person)」を何よりも重んじるという考え方は、キリスト教信仰によって可能となり、それによって人類の思想史に提供されたものである。それは、単なる哲学的思索ではなく、哲学と、それに先行する信仰の与件=聖書との間の相互影響から生まれたものであることーこのことをまず確認しておこう。

人格の概念は、「(我々が聖書に於いて出会う)神とは何か」「キリストとは誰か」という、キリスト教にとって二つの枢要なる問いかけから生まれたものである。信仰が自己反省を始めるやいなや、これらの根本的な問いかけに対して、キリスト教的な思索はギリシャ哲学に於いてはそれまで使用されていなかった「人格(prosopon=persona)」という概念を使った。それによって、キリスト教的思索はこの言葉に新しい意味を与え、新しい次元を開いたといえる。

最初に論ずべき人物は テルトリアヌスであろう。彼は una substantia-tres personae = one being in three persons (三つのペルソナ(人格)をもつひとつの存在)という三位一体論のなかで persona という語を用いて、キリスト教的な神概念を定式化した。彼に於いて「人格的存在」という語が、西洋の知的歴史の中に初めて登場したという教理史家は多い。

一見すると、「不合理故に我信ず」とか「アテネとエルサレムとのあいだに何の関わりがあるか」という言葉で知られているテルトリアヌスが、かかる神学的定式を与えたというのは奇妙に思われる。しかし、聖書の神がギリシャ的な哲学的理性によってその本質essentia ないし実体substantia が不可知であるにしても、神の内なる三つのペルソナ(人格)は、そのような認識を絶する闇の中に留まっているのではない。それは、我々にむけて語られる聖書のメッセージの中に現存している。聖書には沈黙もあるが、その沈黙から語られる言葉がある。いうなれば、神の不可知なる本質(essentia) から、言葉へと語り出るところに三位一体という人格的存在が立ち現れるのである。

したがって、このような三位一体の神の意味するものは、「信仰の神秘」から「神秘の神秘」へと「言葉」を通して導くものであり、人間の理性による内在的了解を常に越えでるものであるが、それを把握することから、人格相互の対話に基づくキリスト教的思索が始まるという意味で、決して反理性的なものではない。

テルトリアヌス が人格(persona)という語を使った文化的な背景については、C. Anderson, "Zur Entstehung und Geschite des trinitarischen Person-begriffs" ZNW 52(1961):1-38 に詳しい研究がある。

それによると、聖書テキストの「人格的な釈義(prosopographic exegesis)」というものが影響したという。それは、古代の人文学者達によって開発されたテキスト釈義の方法である。古代の偉大なる詩人達は、単に出来事を物語るのではなく、それに生気を与えるために、人格的存在を登場させて物語らせる。たとえば彼等は神々を人格的存在として描き、彼等に語らせ、それによって物語を進行させる。人格的存在は、「役割」をもっており、そのもろもろの役割を通して、行為が対話の中で描き出されるのである。文献学者はこれらの「役割」を発見する。事件に劇的な効果を与えるために、「役割存在」として人格が創出される。もともと、prosopon=persona とは、「役割」を意味し、俳優の付ける仮面を意味していた。したがって、「人格的釈義(prosopographic exegesis)とは、詩や物語に生命を与えるために著者が創造した劇的役割、対話的役割を明らかにすることなのである。聖書を読むときに、キリスト教の著作家達は非常に良く似た状況に遭遇したという。彼等は、ここでも出来事が対話に於いて進行しているのを見出したのである。(たとえば、神が複数形で語ること、あるいは自己自身と語ること。創世記の「我々の似姿に人間を作ろう」「アダムは我々のひとりのようになった」あるいは、詩編110の「主は吾が主に言われた」をギリシャ教父たちは、父と子との対話として受けとめた。)教父達は、神が複数形で導入され、自己自身と語るという事実を、人格的に釈義したのであり、それによって、人格という言葉に新しい意味が生まれた。二世紀中頃に Justin はすでに「聖なる著者は異なる人格(prosopa)、異なる役割を導入している」と書いている。

しかしながら、私の見るところでは、「人格」という言葉は、「役割」という表層的な意味に尽きるのではなく、それよりも存在論的に深い意味を獲得し、神の言葉への信仰のもとに、根源的な実在性を帯びる様になっている。聖書の著者によって導入された「役割」とは実は、「対話的な実在(dialogical realities)」として、単なる現象にはとどまらぬものを持っているようだ。

「預言者があたかも一人の人が語っているかのように(hos apo prosopou)述べるのを聞くとき、諸君は、それらが霊に満たされた者達(すなわち預言者)によって話されたと思ってはならない。そうではなくて、それは彼等を動かしている御言葉(ロゴス)によって語られているのである」と Justin は言う。

だから、預言者によって導入された対話的な役割は、決して単なる文藝上の装置ではない。「役割」はたしかにあるが、それは、prosoponであり、「顔で」あり、此処で真実を語りつつ、預言者との対話的関係に参入する「御言葉」そのものである。テルトリアヌス が Adversus Praxean のなかで、詩編110-1に言及して次のように書いているのに注目したい。
「第三の人格的存在としての聖霊が、父と子について語っているのに注意せよ。『主は吾が主に言われた、私があなたの敵をあなたの足下に置くまでは、私の右に座していなさい』と。同じように、イザヤを通して『主はこれらの言葉を主キリストに言う』・・・これらの少数のテキストに於いて、三位一体の内的区別が我々の眼前に明らかとなっている。語るものが自ずから存在している、すなわち聖霊である。さらに、聖霊がそれに向かって語る父、そして最後に、聖霊がそれについて語る子が自ずから存在している」(Ratzinger, Retrieving Traditon:concerning the notion of person in theology,communio 17, 1990 参照)
 人格的存在(ペルソナ)の概念は、聖書を読みそれを釈義することの中から生まれた。それは、対話の観念、より詳しく言えば、対話的に語る神現象の「人格的釈義」に起源を有つ。神自身が物語る聖書、人との対話のなかに現存する神が人格(persona)の概念を成立させたのである。聖書文献学のいまだ発達していない時代に書かれた教父達の釈義には今日から見れば時代遅れの部分もあるが、彼等の解釈の基本路線は、全体としてみれば正鵠を得たものであり、聖書の霊的な伝統をよく捉えたものである。我々が聖書によって導き入れられる根本現象は、物語る主体としての三位一体の人格神であり、語りかけられる個人(=person)である。そして、神的人格(divine person)によって世界における慈愛(アガペー)へと召命された人間相互の共同性ーエクレシア-の形成である。

このように、人格の観念は、その起源に於いて、対話の観念と対話的存在としての神の観念を表現している。人格は、ロゴス(言葉)の中に現存し、「私」「あなた」「我々」のような言葉から成立する存在としての神を示している。このようなキリスト教的神認識の光の中で、人間の真の本性が新しい仕方で明瞭となったと言ってよかろう。

五世紀を迎えると、キリスト教神学は、「神は三つの人格に於ける一つの存在」であるというキリスト教的な人格神のテーゼの含意するところを、ギリシャ哲学の論理的なカテゴリーを踏み越えて表現できるような段階に達した。神学者は「人格」は「実体」としてではなく「関係」として理解しなければならない、ということに気づいたのである。

神における三つの「人格」は、並列するあるいは序列を有つ三つの異なる実体なのではなく、活動的する「関係」に他ならない。活動する「関係」、ないし関係づけられて活動することは、「人格」という「実体」に付け加えられる何ものかであるのではなく、それは「人格」そのものなのである。

その本性に於いて、「人格」はただ関係としてのみ活動するのであって、実体として存在するのではない。。たとえば第一の人格(父)は、第二の人格(子)を生むという活動をなすが、この働きはすでに完成した人格に付加されるものではなく、その「人格」が、生むという活動、自己を与えるという活動、自己を発出させるという活動そのものなのである。人格とは、この自己贈与の活動と同じである。

かくして、第一の人格(父)を豊饒なる智と愛の自己贈与と定義することも出来よう。父という「人格」がまず先にあって、彼の中に自由なる自己贈与の働きがあるというのではなく、父はこの自己贈与そのもの、活動の純粋なる現実性なのである。

「人格」は「他者に向けられた純一な関わり」(pure relativity towards the other)であると述べたのは Ratzinger であるが、私は、この「純一なる関わり」という語を、「相互内在をもたらす関係性」すなわち、ペリコーレーシス(回互性)と捉えている。父と子と聖霊は、どのひとつの人格をとっても、他の二つの人格が内在するといういみで、「純一なる他者への関係」なのである。人格は実体のレベルにあるものではなくー実体は一である-対話的な現実性、他者への純粋な関係性のレベルにある。人格とは、かつてキルケゴールは「死に至る病」のなかで、人間精神を「関係が関係自身に関係するような関係」と規定したが、それはここでいう人格の規定にも当て嵌まる。他者への活動的な関係において、自己自身に関係し、自己同一を保持する「純一なる関係」こそが、「出来事」であると同時に「存在」でもある人格を形成するのである。

「人格」を「他者への純一なる関わり」として捉えたことこそ、キリスト教的な新しさであった。存在するためには他を必要としないという意味での実体というカテゴリーではなく、「他者への関わり」がその本質を形成するような活動的存在、「他者への純一なる関わり」という人格観念を生み出し、人間の人格的な現象を視野に入れることを可能にしたものこそ、キリスト教信仰なのである。


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