西谷啓治の「宗教とは何か」は 英訳され Religion and Nothingness というタイトルで University of California Press から1982年に出版された。そのなかで、とくに「宗教に於ける人格性と非人格性」という章をとりあげ、その内容を要約しつつ批判したい。
西谷の「宗教とは何か」の議論は、「人格」と「絶対無」との関わりを巡って展開する。彼は次のように言う。
まず、人格を「理性的本性を有つ個別的実体である Persona est natura rationalis individua substantia」というボエティウスに遡る定義がある。このように人格を「個的実体」ととらえる理解は優れてギリシャ的、あるいはアリストテレス的であるといってよかろう。実体とは、存在するために他を必要としないものであり、アリストテレスの意味では、第一実体としての基礎個体である。それは「理性的本性をもつ」という人間に固有の特有性によって特徴づけられ、他の生物学的個体や単なる物体から区別されている。西谷啓治が言及した「人格」の伝統的なとらえ方に、是が含まれることは間違いない。
しかし、これまで、西谷自身によっても、また実体概念を機軸として展開された西洋の形而上学の伝統の中でも充分に取り上げられているとは言い難いもうひとつの人格概念がある。それは、キリスト教の三位一体論に由来する「人格」概念の伝統である。これについては、私は、既に、「人格概念のキリスト教的起源」のなかでもその一端にふれたが、人格を「実体」ではなく「関係」と見なす伝統といってよい。
中世の初めに於いて、聖ヴィクトルのリシャールは、キリスト教の内部から由来する人格概念を、「霊性を有つ通約不可能な実存=spiritualis naturae incommunicabilis existentia」と定義した。ギリシャ哲学では、常に主題となるのは類的存在としての本質を備えた「人間」であり、個人というものは視野に入っていない。あの人間もこの人間も、「人間性」という共通の本性に於いては通約可能であり、そのかぎりで学問的な研究の対象になる。しかし、人格とは、第一義的には共通本質(essentia)ではなく通約不可能な実存(existentia)である。
また、「霊的 spiritualis」という言葉も、理性的と同義ではない。聖書の伝統では、霊的なるものは、理性だけではなく感覚的な身体を含む人間の全体を指すのであり、身体から分離された精神的な実体ではない。
「通約不可能な実存」としての人格は、すぐれて個々の人間の自由と責任の問題、類的存在のような共通性に還元されぬ、代替不可能な生きた全体としての人間に関わりを持つ。つまり、この考え方は、掛け替えのない個人の価値を第一義的に考えるキリスト教の伝統を表すものと言ってよいであろう。このような「個人への配慮 cura personalis」こそ、人間論を実践哲学へと架橋するキリスト教的哲学の核心にあるものである。
さて、「宗教とは何か」における西谷の人格論は、エックハルトの思想に依拠し、そこにおける「神と神性の区別」をもとにしている。西谷の理解するところによれば、神性とは神の本質essentia であり、「神をして神たらしめるもの」である。西谷には「神と絶対無」というエックハルト研究があるが、そこではこの神性を「絶対無」と等値している。
しかし、本質essentia とは、アリストテレスに由来する哲学用語であり、それはものが「何であるか」を言い表す説明方式(ロゴス)であり、実体のカテゴリーについて本来言われるべき事である。従って、神の本質としての神性というとらえ方自体が、存在を表す言葉に派生するのであるから、それを「絶対無」とよぶことが果たして妥当であろうか。
本当にエックハルトは、神性は絶対無であると言ったのか。ここは西谷のエックハルト解釈の要であるが、私はテキスト的にこの解釈は基本的に誤っていると考えるものである。もちろん、エックハルトが、ある文脈に於いて、「無」に該当する言葉を使っていることは、その通りである。しかしそれは、どういう文脈であろうか。
それは、「神が何であるか」を、我々が、人間の理性の立場ではけっして知り得ないと言うこと、人知の限界を承認することを意味するのである。そして、それは否定神学の正当なる主張を摂取したトマスの根本主張でもあり、エックハルトもこの先人の考えに従っているのである。
したがって、神性が無であるということは、神性については我々はロゴスによって語ることが絶対に出来ないと言うことを意味する。そのかぎりで「無」ということは適当である。エックハルト自身、被造的存在を「有」というその尺度を当てはめる限り、神は決して「有」ではないといったのであるから。しかし、西谷は、この主張の裏にあるもう一つの意味を見落としている。すなわち、神の存在を「有」とする尺度をあてはめるならば、どの被造物も決して「有」ではあり得ないというもうひとつの重要な主張が見落とされている。
エックハルトのラテン語著作を読む限り、彼は「esse(動詞としての有)」を機軸として考えるトマスの伝統を受け継いでいる。その伝統では、神性は、純一なる「有」というべきであって、決して、「絶対無」とはいえない。ニーチェやハイデガーの所謂ニヒリズムの自己超越という文脈で、西谷はエックハルトを論じているのだが、エックハルトは近代のニヒリズムとは無縁のキリスト者である。そしてまさにそうであるが故に、現代のキリスト者である私に直接訴えるものがあるのである。
私は、有無の対立を超える絶対者を、再び「有」または「無」の名前で呼びはしない。そして、それがキリスト者としてエックハルトを現代という時代に於いて受け継ぐと言うことである。エックハルトの著作を後世に伝えたニコラウス・クザーヌスは、「神は有でも無でもない」といったが、その神を「絶対無」などとは呼ばず、「絶対に最大なるもの」すなわち究極の普遍として言い表した。この考え方は、真の意味でのカトリックを目指す私にとって指針を与える。
究極の普遍は、それを限定するものを持ち得ないが、あるものを「無」とよぶ場合は、必ず「有」を否定することによる限定が伴うのである。その限りで、「絶対無」なるものはあり得ないともいえよう。有無はつねに相関しており、その両者を越えるものを言い表すことは出来ない。
聖書に示されるような宗教的経験を言い表すのに、「絶対無」は不適切であるが、そうかといって、それを「有」というギリシャ哲学の用語で概念化するのも不適切である。そこで、出エジプト記の神名の啓示を手掛かりとして、ヘブライ語の動詞「ハヤー」をもって、「有無を超える純一なる生成」を言い表すーこれが私の立場である。
存在論と神学との結びつきを絶ち、「実体の形而上学」ではなく、真の意味でのキリスト教的形而上学は、「オントロギア」(存在論)ではなく「ハヤトロギア」(現成論)でなければならない。「現成」という言葉は、道元の「正法眼蔵」にある言葉であるが、「ハヤトロギア」を日本語化するにあたって、私は、それに最も近いと信じる仏教者の言葉を使った。
ここでは詳説しないが、私の理解するところでは、仏教においてすら、有無を超える「絶対」を再び「無」とは呼ばないのが一般である。「中論」で明示されているごとく「空」は「縁起」と同義なのであり、決して老荘的な「無」ではない。
道元は、「正法眼蔵」において、無や空を「絶対化」せず、有無を超える絶対を「現成」と言っている。「無」を強調したのは、「無門関」の著者や、無字の公案を教育課程に採用した臨済宗の伝統であるが、それを「絶対無」と呼んだのはあくまでも京都学派の哲学者である。
有にせよ、無にせよ、あるいは現成にせよ、それは哲学の概念で絶対者を言い表さんとする試みであるが、それは信仰に於ける言表とはただちに結びつかない。信仰とは、人格的なるものを抜きに語り得ぬものであり、その限りに於いて、人格的なるものの意味が、ハヤトロギア(現成論)において、再び問われなければならないであろう。
西谷の「宗教とは何か」の議論は、「人格」と「絶対無」との関わりを巡って展開する。彼は次のように言う。
人格としての人間という観念が、従来現れた最高の人間観念であったということは疑ひない。人格としての神といふ観念についても同様である。主体的自覚が確立されて以来、人格としての人間といふ観念は殆ど自明的になってゐる。しかし、人格といふものについて従来一般に考へられてきたやうな考へ方が、果して唯一の可能な考へかたなのであらうか。西谷の議論をよく読んでみると、彼はデカルトの自我の概念、あるいはカントの人格概念など、近代的自我の主体性を論じる文脈で「人格」を考えているようだ。そのために、彼の議論を更に補い、人格概念のキリスト教的起源をさらにふまえて話す必要があるだろう。
まず、人格を「理性的本性を有つ個別的実体である Persona est natura rationalis individua substantia」というボエティウスに遡る定義がある。このように人格を「個的実体」ととらえる理解は優れてギリシャ的、あるいはアリストテレス的であるといってよかろう。実体とは、存在するために他を必要としないものであり、アリストテレスの意味では、第一実体としての基礎個体である。それは「理性的本性をもつ」という人間に固有の特有性によって特徴づけられ、他の生物学的個体や単なる物体から区別されている。西谷啓治が言及した「人格」の伝統的なとらえ方に、是が含まれることは間違いない。
しかし、これまで、西谷自身によっても、また実体概念を機軸として展開された西洋の形而上学の伝統の中でも充分に取り上げられているとは言い難いもうひとつの人格概念がある。それは、キリスト教の三位一体論に由来する「人格」概念の伝統である。これについては、私は、既に、「人格概念のキリスト教的起源」のなかでもその一端にふれたが、人格を「実体」ではなく「関係」と見なす伝統といってよい。
中世の初めに於いて、聖ヴィクトルのリシャールは、キリスト教の内部から由来する人格概念を、「霊性を有つ通約不可能な実存=spiritualis naturae incommunicabilis existentia」と定義した。ギリシャ哲学では、常に主題となるのは類的存在としての本質を備えた「人間」であり、個人というものは視野に入っていない。あの人間もこの人間も、「人間性」という共通の本性に於いては通約可能であり、そのかぎりで学問的な研究の対象になる。しかし、人格とは、第一義的には共通本質(essentia)ではなく通約不可能な実存(existentia)である。
また、「霊的 spiritualis」という言葉も、理性的と同義ではない。聖書の伝統では、霊的なるものは、理性だけではなく感覚的な身体を含む人間の全体を指すのであり、身体から分離された精神的な実体ではない。
「通約不可能な実存」としての人格は、すぐれて個々の人間の自由と責任の問題、類的存在のような共通性に還元されぬ、代替不可能な生きた全体としての人間に関わりを持つ。つまり、この考え方は、掛け替えのない個人の価値を第一義的に考えるキリスト教の伝統を表すものと言ってよいであろう。このような「個人への配慮 cura personalis」こそ、人間論を実践哲学へと架橋するキリスト教的哲学の核心にあるものである。
さて、「宗教とは何か」における西谷の人格論は、エックハルトの思想に依拠し、そこにおける「神と神性の区別」をもとにしている。西谷の理解するところによれば、神性とは神の本質essentia であり、「神をして神たらしめるもの」である。西谷には「神と絶対無」というエックハルト研究があるが、そこではこの神性を「絶対無」と等値している。
しかし、本質essentia とは、アリストテレスに由来する哲学用語であり、それはものが「何であるか」を言い表す説明方式(ロゴス)であり、実体のカテゴリーについて本来言われるべき事である。従って、神の本質としての神性というとらえ方自体が、存在を表す言葉に派生するのであるから、それを「絶対無」とよぶことが果たして妥当であろうか。
本当にエックハルトは、神性は絶対無であると言ったのか。ここは西谷のエックハルト解釈の要であるが、私はテキスト的にこの解釈は基本的に誤っていると考えるものである。もちろん、エックハルトが、ある文脈に於いて、「無」に該当する言葉を使っていることは、その通りである。しかしそれは、どういう文脈であろうか。
それは、「神が何であるか」を、我々が、人間の理性の立場ではけっして知り得ないと言うこと、人知の限界を承認することを意味するのである。そして、それは否定神学の正当なる主張を摂取したトマスの根本主張でもあり、エックハルトもこの先人の考えに従っているのである。
したがって、神性が無であるということは、神性については我々はロゴスによって語ることが絶対に出来ないと言うことを意味する。そのかぎりで「無」ということは適当である。エックハルト自身、被造的存在を「有」というその尺度を当てはめる限り、神は決して「有」ではないといったのであるから。しかし、西谷は、この主張の裏にあるもう一つの意味を見落としている。すなわち、神の存在を「有」とする尺度をあてはめるならば、どの被造物も決して「有」ではあり得ないというもうひとつの重要な主張が見落とされている。
エックハルトのラテン語著作を読む限り、彼は「esse(動詞としての有)」を機軸として考えるトマスの伝統を受け継いでいる。その伝統では、神性は、純一なる「有」というべきであって、決して、「絶対無」とはいえない。ニーチェやハイデガーの所謂ニヒリズムの自己超越という文脈で、西谷はエックハルトを論じているのだが、エックハルトは近代のニヒリズムとは無縁のキリスト者である。そしてまさにそうであるが故に、現代のキリスト者である私に直接訴えるものがあるのである。
私は、有無の対立を超える絶対者を、再び「有」または「無」の名前で呼びはしない。そして、それがキリスト者としてエックハルトを現代という時代に於いて受け継ぐと言うことである。エックハルトの著作を後世に伝えたニコラウス・クザーヌスは、「神は有でも無でもない」といったが、その神を「絶対無」などとは呼ばず、「絶対に最大なるもの」すなわち究極の普遍として言い表した。この考え方は、真の意味でのカトリックを目指す私にとって指針を与える。
究極の普遍は、それを限定するものを持ち得ないが、あるものを「無」とよぶ場合は、必ず「有」を否定することによる限定が伴うのである。その限りで、「絶対無」なるものはあり得ないともいえよう。有無はつねに相関しており、その両者を越えるものを言い表すことは出来ない。
聖書に示されるような宗教的経験を言い表すのに、「絶対無」は不適切であるが、そうかといって、それを「有」というギリシャ哲学の用語で概念化するのも不適切である。そこで、出エジプト記の神名の啓示を手掛かりとして、ヘブライ語の動詞「ハヤー」をもって、「有無を超える純一なる生成」を言い表すーこれが私の立場である。
存在論と神学との結びつきを絶ち、「実体の形而上学」ではなく、真の意味でのキリスト教的形而上学は、「オントロギア」(存在論)ではなく「ハヤトロギア」(現成論)でなければならない。「現成」という言葉は、道元の「正法眼蔵」にある言葉であるが、「ハヤトロギア」を日本語化するにあたって、私は、それに最も近いと信じる仏教者の言葉を使った。
ここでは詳説しないが、私の理解するところでは、仏教においてすら、有無を超える「絶対」を再び「無」とは呼ばないのが一般である。「中論」で明示されているごとく「空」は「縁起」と同義なのであり、決して老荘的な「無」ではない。
道元は、「正法眼蔵」において、無や空を「絶対化」せず、有無を超える絶対を「現成」と言っている。「無」を強調したのは、「無門関」の著者や、無字の公案を教育課程に採用した臨済宗の伝統であるが、それを「絶対無」と呼んだのはあくまでも京都学派の哲学者である。
有にせよ、無にせよ、あるいは現成にせよ、それは哲学の概念で絶対者を言い表さんとする試みであるが、それは信仰に於ける言表とはただちに結びつかない。信仰とは、人格的なるものを抜きに語り得ぬものであり、その限りに於いて、人格的なるものの意味が、ハヤトロギア(現成論)において、再び問われなければならないであろう。