学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

ペットボトルと水筒ーー自律と他律

2004年09月30日 01時20分55秒 | 自然保護・修復
ヴィデオ・ニュースの丸劇トーク・オン・デマンドで、ペットボトルの話をやっていた。http://videonews.jp/

 なんでも、ペットボトルは紙容器・ガラス瓶・アルミ缶・スチール缶などと比して、環境負荷が大きいという。
 ゲストの安井さんによれば、リサイクルのイメージのあるペットボトル。だが実際には、電化製品のパッケージや一部の卵のパックに使われるだけだという。
 さらに、コンビニなどで売っているペットボトル飲料は、水なら0円、お茶なら1円。あとは流通、容器、リサイクルコストなどの集合だ、と神保さんは語る。
 これは説得力があった。なんだか高いなあと漠然と思っていたがたった0円や1円のものにいちいち百数十円も払っていたなんて、ビックリした。
キャップに雑菌が繁殖するというのもビックリした。(よく日常的に、真夏でも飲んでいたなあ。

 最近ではガラスではなくステンレス製の魔法瓶が各メーカーから出されていると神保さんのコメントを聞き、希望が出る構成だった。

 さっそく、近所の西友でステンレス製魔法瓶を手にいれた。少し手間がかかるけれど、ペット容器よりも水筒のほうがエコロジーかつエコノミーだ。中身もさめにくい。外出先はもちろんのこと、家の中でも一度入れたお茶を水筒に保存しておくと、冷めにくいため便利だと気づいた。
 中には「これだけペット飲料が増えれば、お茶を水筒に入れると選択の幅が小さくなる」と嘆く人もいる。
 しかしそれは間違いだ。むしろ無限に選択の幅が広がる。
というのは、自分でお茶を入れるとき、お茶っ葉の銘柄、種類、お茶の濃度、温度などを自在に調整できるからだ。多品種少量生産も手作りにはかなわない。自分でお茶を入れれば、世界にたったひとつしかない自分のお茶ができるのだ!
 水筒を持ち歩いて友人や同僚と「今日は静岡産の緑茶」「わたしのは今日はラベンンダーと紅茶を半々にミックスしたやつ」「ウチはハトムギ茶」といった風に中身を教えあえば、会話もはずむ。互いにおすそ分けをすれば、一日に何種類ものお茶が味わえる。そして、お茶から相手の体質や趣味や人柄を知ることができる。コンビニでできあいのお茶を買うのでは、こうはいかない。
文明批評家のイバン・イリイチ風に言えば、ペットボトルは他律的。水筒は自律共生的(コンヴィヴィアル)な道具だと言える。 
 水筒でお茶を持ち歩くことは、環境にやさしいとか、安上がりだというだけではない。宮台さんが主張していた「デイズニーランド・デニーズ的なアメニティ」と「地域商店街的アメニティ」の
バランスをとる行為でもあるのだ。自分(たち)で自分(たち)の運命を左右する力があると、日常生活を通じて確認できることは、絶望ゆえのテロや犯罪・ファシズムを防ぐ防波堤にもなる。ひとりひとりの存在価値を信じる土壌は、自ら作るしかない。
 
 番組の最後のほうで、三人で「水筒をオシャレなものとして流行らせよう。テレビドラマで有名なタレントにやってもらったらいい。そうだ、韓国に頼もう!」といった話になって盛り上がった。本当に、そうしてもらいたい。

(10/1、記事の趣旨を変えない程度に修正しました。)
  
 
 





心真理党(=心理学会)報告ーー最近の人々の「心」について

2004年09月29日 16時00分18秒 | 政治・経済・軍事
はじめに われわれ心真理党は、わが国がよき心に満たされること目的とする教育を支持します。

1.近年、児童・生徒の間には、いじめ・不登校・引きこもり・学級崩壊などが広まっています。
これは、何よりも心がすさんでいる証拠であります。子どもたち・若者たちの心がよい状態であるために、大人や教師は努力を惜しんではなりません。
 常にきめ細かく子どもたち・若者たちの荒れる心を観察し、なぐさめ、落ち着かせねばなりません。

2.いじめられる子は、心が弱いのです。ですから、もっと心を強くせねばなりません。学校や職場のいじめ・ストレスに耐えられない不登校や引きこもりは人間失格です。もっともっと人の心の分かる、そして自分の心の間違いを自ら評価し、心を直せる人間を作る必要があります。
 そうすれば、「いじめは人権侵害だ」「学校側はいじめる側を処罰してほしい」「お金をとられれたら警察に連絡してもいいでしょう」などと言い出す心の乱れた子どもや親はいなくなって、めでたしめでたしです。

3.いじめる側は、むしろかわいそうな被害者です。いじめられっ子はいじめっ子にどれほどの迷惑をかけたことでしょう。みながガマンしているのに自分の考えや感情をみなの前でまじめに公表する。難しい勉強をゲーム感覚で楽しくこなす。スポーツや芸術に長けている。帰国子女は日本人らしくない不自然さで流暢に英語を話す。在日外国人は、日本人らしくない漬物を食し、日本人らしくない言葉をしゃべる。
 近頃、商店街などで勝手に楽器を演奏したり、ダンスをしたりする若い世代が増えています。下品でうるさくて人の気持ちなどおかまいなしです。これは、朝鮮の「マダン(広場)」文化の悪影響です。しかしわが国は韓国の属国ではありません。こんなものを、商店街も「活気があっていい」とヨイショしています。これは日本人として不自然な非日常的な行動であり、間違った心の現われです。

4.不登校・引きこもりについては、わが国の生産力の低下を招く非国民です。特に男がそれをするときは、日本男児らしくないふるまいです。
 わが国は、戦中の国家総動員体制から労働者の福祉を整え、女性の社会参加をうながし、奇跡の高度成長を達成してきました。それは、朝鮮やベトナムの特需とは無関係に、ひとえに日本人の勤勉さにかかっています。
 その豊かな社会に反逆する不登校・引きこもりは、周囲の心配を考えられない偏狭なエゴイストであり、自分だけは王侯貴族だと勘違いする甘ったれです。なんとか彼らの腐った心を直さねばなりません。
 たとえば、平和のためにイラクに行けと命じられたら、気持ちよく素直に「ハイッ!」と受けることのできるすがすがしい心の若人を作らねばなりません。アメリカ追従という日本の国益のために、彼らのような怠惰なものは血を流すべきなのです。
 ところが、学校にも会社にも行かなくてもいい、子どもの自己決定権やeラーニング、あるいは在宅勤務だのフレックス・タイムだのと、怠け・遊びを推奨するがごとき動きがサヨク・プロ市民・過激派の陰謀によって実行されています。
 この日本崩壊計画によって、わが国は未曾有の危機に陥っているのです。モノづくりの生産性が
高すぎて失業が増える、遊びや消費がなさすぎてデフレになる、などと主張する人たちは、心が歪んでいるのです。前者は怠け心、後者はモノに執着してばかりで心が貧しいわけです。
5.とりわけ、子どもの自己決定権など許してはなりません。子どもは大人とちがって未熟であります。また、人は人と人との関係の中で生かされる存在であり、決して一人で勝手に決めることなどできないのです。
 なお、その「人と人との関係」は、わたくしども心真理党が決めさせてもらいます。例えば、プロ市民と過激派の関係などまともな人間関係ではありません。
 また、この世に「悪い関係」「相性の悪い関係」「縁の薄い関係」などあってはならないことです。ですので、たまたま通うことになった学校、偶然所属することになったクラスの友達とあわないとか、仲良くできないとかいったことは、本来ありません。
 それらの「ない」ものを「ある」と強情に言い張り、「いじめっ子とは別のクラスにせよ」あるいは「学校選択の自由を認めよ」「ホーム・スクーリングの権利を広めよう」などと言っているのはキチガイです。
 人間関係とはいつも・必ず甘くうるわしいものです。「夫が殴るから離婚する」などという人間関係に対する侮辱があるでしょうか? 「親が熱湯をかけるから別の親を選ぶ」という子どもは、かわいそうに、この世に存在しないも同然です。
 つまり、選択には実存はないのです。わたくしどもは自分の選ばない(選べない)人間関係を通じてこの世に実存するのであって、決して逆ではありません。科目を、クラスを、席を、学校に行く・行かないを選ぶというのは、自己破壊行為です。
 個人や個々のコミュニティは、それらを選ぶことはできません。ただわが国わが党が、何が人間であり、何が関係であり、何が実存であるかを教え、国民は受身に吸収するのみです。それが一番人々にとっての幸せなのです。

 

 


古賀議員、学歴詐称で辞職

2004年09月26日 11時36分43秒 | weblog
古賀議員が辞職するそうです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040924it04.htm

 いい学歴がなければ就職も結婚もできない。本当にそうかどうかは分からない。けれど、もしそれが神話でなく現実だったら……。いざというときの保険として人は学歴を求める。
「大学出てないのは服着てないも同じ」「博士号をとらないのは知的に半人前」それが「世間の常識」というものだ。

 そこで、実際以上によい学歴を示そうとすると、古賀さんのようなことになる。
 学歴詐称はいけないことか否か。
 ともかくウソをついているのだから、ルール違反なのは確かだ。実際、「不正確→不誠実」ということでイメージも悪くなる。苦労してアメリカの大学でリスクをとり苦労をして学位をとった方にとってはヒドイ話だ。かたや、学歴がなくて恥ずかしくても苦労しても生きている人には「自分ってバカ正直だったの?」ということになる。なので、国政をあずかる政治家としては辞任するのが妥当、という判断だったのだろう。

 しかしなぜか釈然としない。政治家が「公約」を守らないことなど恒例行事ではなかったのか?
社民党は消費税廃止を掲げて選挙に圧勝した。その後、消費税を3%から5%に引きあげた。また、自衛隊違憲論から合憲論に切り替えた。その後、また選挙のために自衛隊合憲論を違憲論にすりかえた。なのにまだ解散していない。誰も辞職しない。
 今は、ウソ社会からホントウ社会への転換期なのだろうか? それとも、ただの気まぐれというか、気分だけで決まっているのだろうか? 報道されない派閥や閨閥や世代にからむ争いが、背後にあるのだろうか?

 自分としては、やはりウソはやめてほしい。コロコロと何の脈絡もなく政策を変え、有権者をあざむいた党も、過日の選挙では圧敗(圧倒的敗北)していた。
 また、ウソをつかなくても「正直者がバカをみない」社会ができればいいと思う。過渡期に混乱して犠牲になる人は気の毒だが、今から10年も経てば変わるのではないだろうか?
 
 
 
 

 

危ない団体の見分け方

2004年09月24日 17時43分50秒 | 反ファシズム
 さる平和団体を辞めてはや2ヶ月。本当に辞めてよかったと思っています。
 というのも、辞めてから気づく「あれは、とても危なかったんだ」という点が多々あったからです。
 
 リーダー層の行動の理解のできなさ。幼児的万能感と傲慢なさま。なぜか共産党と過激派が多い(仲がよい)こと。
 最近ひさびさに閲覧し、また他の団体のサイトと比較した場合のHPの異様さ。
 暴力を肯定し崇拝するような人、明らかに反政府的な人物を講演会に呼びがちであること。
 法律も常識も科学も無視するオームにも似た無法性。
 統一教会にも似た単純で極端な善悪二元論。
 戦前の軍部とソックリの機能集団の共同体化(目的合理性なき仲間意識の強要)。
 
 
 さて、こういったカルトとかセクトのようなグループを、どこで見分ければよいのでしょうか?
 知り合いのあるアクティヴィストは「見分けるポイントなんてない」と言いました。
 わたしは「ある」と思うんです。それで、危ないグループを見分けるポイントを次に挙げます。

1.「仲間意識」または「団結」を無目的/過度に強調する。
2.身分意識の強調。リーダーはフォロアーが行えば罰せられることでも許される。時に「栄  転」する。
3.リーダーが人間不信・被害者意識にとらわれ、必要以上に攻撃的になっている。
4.誰かを「スパイ」だと根拠もなく決めつける。それが非常識・失礼との認識がない。
5.「責任がないことこそ自由」などという二重言語がひんぱんに飛び交う。
6.リーダーたちはみな一字一句同じことをしゃべる。またはチラシ等にも一字一句同じ文章が並んでいる。
7.会議やデモ等への出席を強制する。たった数度欠席したメンバーを激しく責めたてる。
8.公私混同。リーダーが自宅を事務所にしたうえ、会議や親睦会などを名目に人を呼び込むなど。たまたま自宅が事務所だった、だけではすまない。公私混同が自己目的と化す。公私混同に疑問を呈したり、抵抗をすれば悪者扱いとなる。公会堂、市民交流センターなど公の会議場を使うと、特定のメンバーだけを仲間はずしにしたり、大声を張り上げるなどの外のルールでは許されないことをしにくくなるので、大変嫌っているのだ。
9.会議の出席者、主催者などに元赤軍派、中核派など過激派セクトの人間がいる。あるいは、オウム・統一教会・山岸会などのカルト、自殺者を出したことで有名なライフ・ダイナミクスなどの自己改造セミナーに関わった(と思しき)人間がいる。
10.興奮しやすい、暴力愛好的など何らかの麻薬を愛好している(た)とみられるメンバーが
リーダーとして権限を持っていること。
11.リーダー層が細部拘泥主義になっている。ささいなことで神経質になっておおげさに騒ぎ 立てる。
12.いじめ・いやがらせなどが起こった場合、加害者を免責し被害者を責める傾向がある。
13.ウチとソトでしていいことと悪いことがまったく違う。共同体のウチとソトで共通のルールの存在を認めない。いわゆるバイデ・ノルム(二重基準)。ダブル・スタンダード(二重道  徳)。
14.内部批判者を暴力的な態度や脅しによってつぶそうとする。
15.タテの関係が強くヨコまたはナナメの関係が弱い。とりわけヨコの連絡を断とうとする。 16.批判ではなく悪口のチラシやメールが日常的に流れる。人を簡単に侮辱・罵倒する。
17.リーダーが子どもっぽい。幼児的万能感とナルシシズムに満ちている。「ここでリーダーであるかぎり何をしても許される」といった勘違いが強い。また、純粋主義・潔癖主義が推奨される。例えば、「面従腹背」とメールに書いただけで憎悪される。
18.グループ外の人間や組織(家族・友人・恋人・会社・他のNPOなど)を無視または敵視する。
19.内心の自由、良心の自由を認めない。例えば正しい歴史観を強制しようとする。イデオロ ギー注入、洗脳、またはそれに準ずるコミュニケーションへの誘導がひんぱんになされる。言  い換えれば、グループの中での自由主義と民主主義がない。
20.グループの中に退屈でだれたムードが蔓延している。共通の目的や価値観を見失い、なぜ 会議に出席したのか、あるいは休むのか自分でも分からなくなっている。ただ惰性やピア・プレッ シャーや「異心を抱いていない」言い訳のために参加するにすぎない。
21.ザミャーチンの言う「われら支配」。「組織がお前を愛さなければ誰もお前を愛さない」 というのが暗黙の脅し文句になっている。
22.気に入らないメンバーを企業のリストラと似たやり方でやめさせる。そのあと、「リストラされ たあなたは間違っている」旨のメール等を送りつける。リストラではなく相手を怖がらせること、不愉快な思いをさせること、つまりいやがらせが目的になっている。
23.特定の党派・組織の上からやってくる情報以外を遮断しようとする。党やセクト推奨以外 のサイト・本・映画・音楽・新聞・雑誌などすべてが悪か認知不可能である。
24.時代錯誤な/非現実的なイデオロギーや人づきあいの作法を抱いている。そのため急性アノミーを起こしやすい。つまり教義(ドグマ)が通じない場面になると、冷静で合理的な判断ができなくなる。身近な人に八つ当たりをしたり、その場で強者なのに弱者ぶったり、落ち着いた雰囲気の喫茶店で大声をあげるなど奇妙な言動が目立つ。
25.全員に共通するルールがない。慣習だけがある。そのため新入りはいびられやすい。何が ルールや慣習か、説明がないからだ。また、それが合理的かどうか、他の組織で通じるかどうか といった比較・検討はタブーとなっている。
26.リーダーをはじめ中心グループは自意識過剰で傲慢。時に親子ほども歳の離れたフォロアーを幼児扱いする。相手が年少者であれば家畜扱いさえする。
27.自分はよいことをしているので周囲から崇拝され親切にされた当然だと思っている。デモには人が来て当然だと思い、会社の残業や体調や家族とのつきあいなどを軽視または蔑視する。また、理解者・協力者に対して「ありがとう」「お疲れ様」などの感謝やねぎらいの言葉がない。
28.理解者・協力者を奴隷のように扱う。自分の嫌がることをフォロアーに片っ端から強制する。自分が相手に悪いことをしても「すみません」「失礼しました」などの言葉やバツの悪そうな身振りはない。
29.質問・反論・異論を否定する。ブレーン・ストーミング的な会話や議論を禁止する。そのため、状況の変化に応じた新しいアイデアをつぶしてしまう。また、組織の末端のものが気づいた情報や知恵が、ボトムアップされない。そのため、例えばデモや集会における動員戦略が洗練されない。
30.28、29により、フォロアーは受身で依存的にさせられている。また、自分の仕事が少ないので会議では手持ちぶさたになる。フォロアー側にはマンネリや士気低下が見られる。議論や報告の責任がないため自由もないのだ。
31.30により、フォロアー側は、誰かを侮辱したりいたぶったりすることによって退屈さと無力感をまぎらわせようとする。そうすると理由なきいじめや迫害がおこりやすい。半組織的ないやがらせ、脅迫、侮辱が日常化する。また、退屈さ払拭のために暴力を肯定する作家を講演会に呼んだりもする。

ランダムにあげるとざっとこんなものだろうか。

反システム運動

 結局、こういう団体は反システム運動だから、世の中の片隅に小さく存在できるにすぎない。
 当然、孤立しやすく、理解者や協力者を得られにくい。教義を生真面目に信じていればいるほど、またグループの外の人や団体との接触が少なければ少ないほど、教義のウソを知ったときの混乱も大きい。
 
共同体主義者の害毒 
 例えば、共同体を無条件に善だとみなす。これは日本共産党系の共同体主義者が典型だ。
 しかし共同体は近代市民社会とは違って、男尊女卑・年功序列といった身分差別は当たり前だ。
また、人権や自由恋愛もない。選択や自己決定や実存もない。個人とか自立とか自律といった概念もないのだ。
 時に残酷で理不尽な慣習が法を超え人権を超えて行われるのも共同体の特徴である。
 それらの面を検討せずに「共同体はすばらしい!」と思い込み、その教義を信じない他人をサタンのように扱う。あるいは無知ゆえと見下し同情し、洗脳しようとする。単線的な進歩主義と「自分はステージが高い」という自意識過剰が思考停止と押しつけがましさに拍車をかける。異様に観念的で具象性がなく思いやりもない人たちなので、時にイデオロギー注入は暴力や脅し、侮辱と」罵倒を伴う。上品で繊細な人物は、暴力をふるうぞという言葉や雰囲気による脅し、初対面で面と向かって罵倒するといった方法だけで自信を失い、相手のいいなりになってしまう。(これはソルジェニーテインが「収容所群島」で報告している収容所の看守の新入り囚人への行いとその結果と酷似している。)
 そもそもデモ団体はボランテイアのための機能集団であって、共同体ではない。仕事仲間と同時にプライベートでも友達である必要はない。また、イヤだと思う人とは事務的な連絡、必要最小限の共通の行動をするだけでよい。自宅を事務所にして相性の悪い人を家に招いたり、自分がそれを選択したにも関わらず無責任にも被害者ぶるなどは愚の骨頂である。

第二の波と第三の波の錯誤 
 
 トフラーも「第三の波」で言うように、今は少品種大量生産の時代ではない。多品種少量生産の時代だ。
 第三の波(情報革命。ネットワーク革命。)の時代に、みなが同じときに同じ事を同じようにおこない、同じように考えることはありえない。にもかかわらず、18歳以上の社会人の組織であるにもかかわらず、それを欲求する。はじめからムリだと分かっているスケジュールを押し付けてこなせと事前に何の相談も調整もなく押し付けてもダメである。現場は上の机上の計画の唐突さや無謀さにあきれるほかない。しかも「異心(謀反を思う心)」があると分かればリストラかリンチである。そこで従ううちにヤル気が失せないほうがおかしいではないか! にもかかわらずメンバーの「自己責任」を声高に叫び、「ヤル気がないのはロクでもない!」と人を罵る。影で悪口を流す。
 
仲間意識というムリ

ここまで書けば読者の大半は意味が分かったかもしれない。
今時の平和デモには職業・年齢・国籍など多彩な人たちが個人的に集まる。そこで「一体感」や「仲間意識」を訴えても逆効果なのだ。「まったく仲間意識もない。一体感もない人たちが、なぜかいっしょに歩いている」というのがアピール・ポイントなのだ。それなのにリーダーは、さかしまな動員戦略をしかけている。これではデモ動員数が減るものムリはない。
 そもそも個人主義的な人間ほど強制される仲間意識、ピア・プレッシャーを嫌うものだ。世の中には集団や仲間意識を好く人もいれば嫌う人もいる。そんな当たり前のこともリーダーには理解できないらしい。鈍感で視野狭窄なのだ。
 高遠さんたちが捕まったときに動員数がピークに達したのは、活動家の努力だけではない。日本政府・外務省のデタラメな対応に、普段はデモなどどうでもいい人たちもデモにかけつけた。つまり、敵失なのだ。
 それを見誤り、「市民の力で何でもできる」とハイになった。いや、一時そう思うのはムリもない。しかし、2、3ヶ月もすれば冷静さを取り戻して「自分たちの力だけではなかった」と反省すべきだった。「何でもアメリカ流」がイヤならなおさら、謙遜の美徳を示すべきだった。
(2004/11/2趣旨を変えない程度に訂正しました。)


 
 
 

 
 

 
 








  

アオサギ

2004年09月23日 16時29分19秒 | weblog
近所にいたアオサギ。枯山水に色をつけたような写真になりました。
いつもは近くの川で魚を探しているのですが、時々公園にやってきます。
そこそこ人に慣れているのか、携帯カメラで写真をとれる距離に近づいても逃げません。

(9月24日文章を書き足し、カテゴリーを修正しました。)


日本政府のフリーター対策について

2004年09月11日 20時59分23秒 | 労働・失業
 日本政府がフリーター対策に乗り出すと、TBSラジオ荒川強啓のデイ・キャッチ(金曜日・ゲストは宮台真司)で伝えていた。なお政府は、学校にも会社にも行かないNEETも同時に「対策」すると言う。
 それに対して強啓と宮台は、「働かなくても勉強しなくてもまあいいんじゃあないかということで若い世代はやっている。それはそれでいい。」といった旨の発言をしていた。つづいて、「夢とか希望をもつことに意味がないと感じられる社会が問題ではないか」とも言っていた。

 それはそれで一理ある。だが、もうひとつの観点をここで出してみたい。
 わたしはそれでいいとも悪いともいえない。
 ただ、独立したくてもできない人のことを考えると、もう少し最低賃金を上げたり雇用流動性を下げたりする必要はあるだろう。

 政府が対策をするというが、どういうつもりなのか? 個人が勤続年数によらずに使用可能な教育ヴァウチャー制度をやっと整えるというのか? それとも、家事労働や介護労働、町に活気とうるおいを与えるストリート・ミュージシャンに賃金か奨学金か町の活性化功労賞でも贈るというのか?
 頭の固い老人と老人に媚びる中年の男性が集まる閉鎖的な審議会で、茶番としての談義をしたあと、矯正労働収容所をつくる、といったファッショ的な政策が決まることだけはご免こうむりたい。
 
 

 
 
 
 
 

切り株のキノコ

2004年09月05日 13時16分03秒 | 住まいと環境
 写真の不思議な物体は、切り株のあとに生えたキノコ。久しぶりに散歩した長岡公園で見つけた。
 この長岡公園は、長岡天神と隣り合わせの公園だ。近くに阪急が開発した高級住宅街もある。いっぽう、昔ながらの農家や商店もある。周囲の竹林のほとんどは「タケノコ畑」なのだ。

 このあたりにはレンタルビデオのTSUTAYAとかコンビニとかも進出している。昔ながらのムラ社会は今壊れつつある。また、自分たちは優秀だと考えたい「勝ち組」の潔癖主義はすさまじい。
 それらの要素が重なり合ったこの地域には、老人ホームの建設に反対する大きなカンバンがかかげられている。また、障害者の授産所は、ため池や墓場のあるような、山の奥深くに追いやられている。
 一見自然が豊かで環境がよさそうだが、近所の相互扶助的なつながりはない。寂しさと猜疑心から犬を飼う人も多い。
 公園にはここ数年、ゴミ箱がまったくない。出入り口からトイレまで。理由は、家庭のゴミを捨てる人がいることらしいが、やはり「キレイでなくちゃいけない」式の強迫観念だ。また、ゴミ箱がなければ近所のコンビニやテイクアウトのお寿司を、公園の中で食べる人がいなくなることも狙いだ。外食もできないような貧乏人、お行儀のよくない人がいては不愉快だ、失礼だ! ならゴミ箱など設置するのはやめよう、ということだ。

 そんな郊外独特の殺伐とした風景の中で、切り株があった。そこからキノコが生えていた。元は米軍の訓練所で、それゆえにかえって自然が保たれていたこの公園と神社。そこは、年々人の手が入っていた。神社に登る階段、ベンチにトイレ、通り道をつくるくらいならいい。多すぎる竹を削るのもいい。だが、自然に生えて樹齢50年はあるような木を、「見晴らしが悪くなる」程度の理由で切るのはおかしい。おかしいけれど気づいたときには誰かが切っている。
 そのほか池もコンクリートで固めてしまった。そのため、サギのほか岸辺に住んでいたカワセミまで追い払ってしまった。
 
 自然に見せかけながらどんどん目障りなものを切り捨て、排除してきたこの地域。そこの切り株一面に生えたキノコ。なんだか生態系が潔癖主義に対抗しているみたいだ。「どれほどノイズを払っても、生えますよ」、と宣言しているみたいだ。
 それで、ニュータウンの過度の清潔さ辟易しているわたしにとって、このキノコは希望なのだ。

 
 




古い・新しい考

2004年09月04日 07時53分17秒 | ネオリベ・ネオコン
 最近、「古い・新しい」を軸にした思考と表現がはやっている。すべてを善悪に塗り分ける単純思考ではないだろうか?
 ちゃんちゃらおかしい。「古いから悪い」ってホンキ? でもネオコンによる「象徴的点滴注射(ブルデュー)」はすさまじい勢いで進んでいる。新しさの乱用は見苦しく、新しさの独裁は多様性を奪いつつある。
 
 エマニュエル・トッド「帝国以降」によれば、アングロサクソンは核家族が強く、世代交代が強調される文化だという。それに比して、ラテン系やロシア系、日本と韓国も、核家族よりも大きい家族の結合が強く、世代間で文化が継承される傾向にあるとも。

 わたしは、母と祖母が伝統芸能を生業にしている影響からか、古いものへの愛着が強い。よく人から「流行おくれ」「古い」「時代錯誤」とバカにされたり迷惑がられたりする。
 それでも、古くてもいいものはいいと思う。茶髪が流行したときにも黒い髪のままだった。アレルギー体質でかぶれやすいこともあるが、パーマは好きではない。
 今では一般的な人工的な染料で染めた衣服よりも、エスニック雑貨の店でよく売っているアジアの草木染の服のほうが好きだ。
 なぜならば、人工的な染料で染めた服は、新品のときが一番キレイだ。そのあとは少しずつ色があせて、ボロボロになってゆく。
 一方、草木染は洗えば洗うほどいい色合いになる。着ればきるほど味わいを増す。色が薄くなっても別の色合いが楽しめる。洗うたびに別の色になっている。草木染の服は、ひとつの布の中で多様性、いや多彩性を展開したあと、朽ちてゆく。
 
 自称「新しい」文化のいかがわしさは、歴史や伝統に関心と敬意のあるものにとっては笑うに笑えない。
 70年代にエレキギターをヴァイオリンの弓で弾いたイギリスの有名ロックバンドがいた。あるサブカルチャー誌はそのことを「新しい文化」として賞賛していた。
 そもそも楽器の起源をたどれば、発弦楽器よりも弓奏楽器のほうが先に発明されているのだ。要するに“先祖がえり”ではないか。また、発弦楽器に弓を通すための「くびれ」があったり、
逆に弓奏楽器に弓を通す「くびれ」がなかったりすることもある。(前者の例は、アフガン・ラバーブ。後者の例はウイグルのサタール。)それは、そもそも弓奏楽器→発弦楽器、発弦楽器→弓奏楽器という流用があったことを示唆していないか?
 もちろん、そのバンドの曲のよさ、演奏の確かさは尊敬できる。だが、それを「新しい」と言いきってしまうのは、商売用のコピーとしても違和感が残るのだ。日本人として、または東アジア人として「謙遜の美徳」がないと、味気なく感じてしまう。「奥ゆかしさ」がないのは美しくないとも思う。

 ネオコン・ネオリベに関する新しいー古い論と言えば、ブルデューはこう語っている。

「ネオ・リベラリズムとは、最も古臭い経営者のもっとも古臭い考えがシックでモダンなメッセージという衣装をまとって復活したものです。」
「保守革命は今日、新たな形をとっています。かつてのように、太古の農業神話の古臭いテーマである大地と血を歌い上げて、理想化された過去を規範として担ぎ回るようなことはしません。そうではなくて、新しいタイプの保守革命は進歩、理性、科学を(つまり経済学を)根拠に復古を正当化し、進歩的な思想と行動を時代遅れのものと思い込ませようとするのです。それ固有の論理、いわゆる市場法則、つまり強者の論理に支配された経済世界の現実的基準をあらゆる人間活動の規範、つまり理想的ルールとしようとしているのです。」

 わたしは単純な進歩主義者ではない。なので、ブルデューと同じ表現をするわけにはいかない。
 それでも彼の言うことは説得力がある。時系列に沿って見れば、歴史のなかで勝ち取られてきた権利がある。例えば労働者の福祉や国民が国家から守られる権利などだ。それらすべてをネオリベは形骸化し、変形させ、崩壊させている。それをさも「新しい」「よい」ことであるかのように宣伝・広告しまくる。「流通革命」「構造改革」などと、さも左派の改革派気取りで、人々の職を不安定化させ、お金の流れを滞らせてきた。結果として、寡占は進み、創業者も消費者も利益を守られない不公平な社会ができあがっている。
 わたし流に言いなおせば、ネ「オリベはリベラルなものを非リベラルに見せかける」といったところか。あるいは、「ネオリベは反リベラルなものをリベラルだと僭称する」と言い換えてもいいだろう。

 気にかかるのは、かつて「新しい文化」を求めて試行錯誤した全共闘世代とかベトナム反戦世代といわれる人たちが、この手のネオリベ・ネオコンをまさに支持している点だ。
 ヌエバ・カンシオン、ヌーベル・バーグ、アメリカン・ニューシネマを生み育てた世代は、今や超保守となった。
 階層低下に苦しむフリーターに「物質的価値よりも精神的価値が大切だ」と侮辱的な大声をあげて説教する。それも、人の話は聞かないで。給料や保証の話をすると「保障ナシで生きたいんだろ?」とそれ以外は絶対に認めないといった乱暴な口ぶりで恫喝するように同意を求め、同意しなければ人の存在すべてを否定するような暴言を重ねる。
 「親に依存するな」と子どもの権利や解放を真剣に考える元子どもに向かって言い放つ。そのことによって親の権威を守り、子どもの権利や福祉を無視しているだけなのに。
 伝統文化に興味のある若い世代をつかまえて「もっと新しくしろ」と怒鳴る。フランス革命もロシア革命も相対化した世代に対して「革命だ! そのためにオレの言いなりになれ。革命に協力するために何でもしろ」と直接ではなく案に言い張る。そのことによって、人を奴隷化しようとする。

 別のところでブルデューは、ネオコンの御用作家ソレルスについて評している。
「二度、半回転をすることによって、二度、半革命をすることによって、出発点ーーモーリヤックとアラゴンの両御所から序文を寄せてもらった田舎出身のブルジョワ青年沸々と逸る野望ーーに立ちかえるのだ。」

このソレルス評は、「新しい」ことへの強迫観念が抜けないがために、たやすくネオリベに絡めとられ抑圧的な政策を礼賛する全共闘世代にも当てはまる。ブルデューはフランス人だ。フランス俗語でconは「ばか、まぬけ」の意味なので、ネオコンとくれば「新しいバカ」くらい考えているのだろう。それにしても、「新しい」「もっと新しくなければならない」という論理は、日本ならさしずめ電通あたりの流行をしかける戦略ではないのか?
ということはやはり、資本の論理・強者の論理に沿った発想だといわざるを得ない。

「温故知新」「古くて新しい」という感受性は、「新しい」ことに取り憑かれた人たちにはどうやら通用しないらしい。いつの間に、複雑に曲がりくねって行ったり来たりしながら展開してゆく歴史という認識を失ったのだろう? 客観的に時系列に沿ってものを考えることと、主観的な新旧の感覚のズレを楽しむセンスを壊してしまったのだろう?

 ブルデューによれば、それはネオコン勢力の長年の宣伝・広告のたまものにすぎない。したがって、十分に修正可能なものだという。
 わたしもそう思う。日本の伝統は、新しいものができたから古いものを全部廃することなく、古いものも新しいものと平行して受け継いできた。近世に歌舞伎ができたからといって中世からの能が廃れることはなかった。16世紀に堺に三味線が渡来したからといって、雅楽がなくなったわけではない。
 その日本という位置から、「何でも新しければいいとは限らない」「主観的な新しさと客観的な新しさは別だ」「伝統を現代的にアレンジして生かす道もある」と世界に発信してゆけないだろうか? 京都には古い町屋風の建物を中だけ改造して事務所やバーに使っているところもある。伝統と革新の融合による伝統の延命と革新への深い味わいの添加。
 何をもって新しいとみなし、古いとするかは大変デリケートな問題であり、単純に二元論に収まる課題ではないということ。結局は恣意的な正当性(正統性)に従うということ。
 
 GMO(遺伝子組み換え食品)に象徴される「新しい」ものに懐疑の目を失いたくない。パレーシア大学(今のところ仮称)では、やみくもに「新しい」ことを追求せず、「古い」とさげずまれる事をも大切にしてゆきたいと考えている。
 
(1)↓ トッド「帝国以降」藤原書店のリンク
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894343320/qid=1095384288/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8280491-6625028#product-details
(2)若林忠宏「民族楽器大博物館」京都書院 平成11年 p.p.104-105

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飛田さんへのレスポンス

2004年09月02日 22時50分22秒 | weblog
 飛田さん。お返事ありがとうございます。親HPのほう、改めて参照させてもらいます。

 自分は、「フリ-スク-ルの他に学びはない」という立場ではありません。ホ-ムスク-リングももっと普及してほしいと考えています。「旅の学校」も仕事や日常生活からの学びも大切です。
 ただ単に、子どもの選択と実存を否定することに批判的立場をとっているのです。自分の場合はもう少しいろんなフリ-スク-ルをまわりたい、または長く滞在したかったのです。なのに役人としての親の許認可制度によってつぶされた。そのことを問題にしているわけです。

 アンファニズムの話は、「統計調査もなく仮説だけでこんな話をしていいのかな?」「多様性を無視していないかな?」といった疑問を持っています(照)。でもとりあえずこういうプロセスなりスタイルも必要かな、一度は(一部では)子どもを子どもだというだけで過小評価するな、とキツく訴えることも大事だろうなと考えています。
 それで、「古い」と批判が来ることは承知のうえで書いたんです。まだまだ「子どもの権利は日本の伝統」といえる状態ではありませんので。(もし「子どもの中の多様性無視」という批判があれば、具体的に書いてほしいです。)

 それから、飛田さんの言う新しい学び論は、パウロ・フレイレの唱えた「銀行貯蓄型教育」と「対話型教育」の対比とどう違うのでしょう? 
 また、知識の暗記詰め込み学習を否定して、別のスタオルの学びを求める議論と実践は、わたしの知る限り80年代からやっています。
 暗記や知識だけが重要なのではない。もっと実験や実習を(仮説実験授業)。あるいは直接の体験や見聞を(フィールドワークとか)。または日常生活とのつながりや具体的な説明を。思考や表現の豊かさを。礼儀や社交性を。または感性や感情を重視して。もっと具体的な処世術やスキルを。知識がどんな意味や関係があるかを調べるために自分たちで討論したほうがいい。大学では遅すぎる。もっと小さいころから、せめて十代半ばの中等教育レベルからでもやったほうがいい云々。
 それらの主張は、わたしの知る限り、80年代から各種の教育学や教育ジャーナリズムと財界からの要請として、左右の違いを超えて主張されています。
 また、1920年代のニール、シュタイナー、モンテッソーリなどの自由教育が花開いた時期にも唱えられました。実際に羊の毛を刈る授業などは公教育の総合学習でも行われています。また、わたしが公教育を受けていたとき(70年代~80年代)にも、公立学校で、社会科ではTVや新聞を使う、あるいは複数の資料をもとに調べるといったことはしていました。仮説実験授業も、工場の見学もやっていました。
 それらのことを考えると、飛田さんの言う「新しい学び」論のどこが新しいのかよく分かりません。いったいどういうことなんですか? わたしは「新しい」と称するものには警戒的ですので、その辺の事情をハッキリさせていただきたい。

 独学方法または自由教育法について。自分的には学校と離れる時期が長かったので、興味があります。一般にも学校は儀礼として出席するだけ、実際には塾・予備校・家庭教師、それに地道な自主学習が受験の成否を決めています。また、仕事や趣味の勉学も含めて同じ傾向があります。そのことを鑑みても、多方面から教員養成校の教科教育法は信頼されていません。
学校にやってくる教育実習の学生を見ても、教育学部・教育学科以外の専攻の学生のほうが人間として魅力がある、勉強の教え方がうまい、子どもとのつきあいも上手という話はよく聞きます。80年代から90年代の愛媛ではよく聞きました。また、ネットの掲示板でも同様の情報を愛知や千葉の方が書き込んでいるのを見たことがありました。
 学校の外でも使える教育や学習のメソッドは、広く求められているのです。また、その土台となる哲学や思想も、人々は探しているのです。
 それで、「まなび」について、実務面から意見を書いていらっしゃる飛田さんのブログはとても興味深いです。こちらは大学ということもあり、理論寄りの話が多くなるでしょう。その理論が実務の立場から役に立つかどうか、飛田さんのような方からチェックを受けるのは望むところです。
 
 科学や学問は、実務や日常から距離をおかねばなりません。でなければ卓越性、正当(統)性、自律性を失ってしまいます。スポンサ-に遠慮しすぎて原発批判ができないTV局のようであっては困るのです。
 だからといって、まったく実務や日常とかけ離れて、内輪でだけ通じる談義をしていてもいけない。非論理的・非実証的ではダメです。同時に・対照的に、経験則や直感によるリアリティがゼロ、というのもいただけない。
 実用性と非実用性のはざまのちょうどよい所でバランスをとるためには、実務家の視点に晒されることが必要です。したがって、飛田さんのご異論は、ぱれいしあにとって大切です。
 できれば、これからも異論や批判をよろしくお願いします。このブログに来た方もご批判をお願いします。