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学校のない社会 大学のない世界

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教育基本法「改正」反対運動の摩訶不思議

2006年11月16日 05時43分01秒 | ネオリベ・ネオコン
いち参加者として、教育基本法「改正」に反対する京都・四条河原町でのデモには加わった。

運動のおかしな点について例によって報告したい。

・分かる人にだけは分かる、きわめてオタッキーな会合であること。外に人にはわかりにくい・親しみにくい。

・教育=学校教育 という枠組みがある。

・教育=大人による子どもへの教育 という枠組みがある。

・学校教育によって社会的な格差が生まれているにもかかわらず、学校教育には賛成し、格差社会には反対する。この2つの相反するテーマをパッケージにする。

・パっと見で、政治セクトとおぼしき一団がいる。

・正規の実行委員とは別に、勝手にルールを設定したり他の参加者の代弁をしてくる人たちがいる。だいたいは不合理的で、不必要と思われる。それがセクトらしき団体と重なるまたは親しい関係にあることは、その場にいて人と人との物理的な距離や話す口調を見ていれば分かる。
これは自治を通じた支配欲・征服欲の表れだ。
それをまた「当然だから」と正当化する。

なぜ? どーして?

成人教育はどうでもいいのだろうか? 学校教育以外の教育は存在しないとでも言うのか。それは独学者やホーム・スクーラーらに対して失礼・差別的にはならないのだろうか。

そもそも学校・教育・学校教育・子ども時代とは、「善」だろうか?

そうした問いかけや対話というものが成立しないのだ。
この運動は、学校教育や子どもを神聖視したうえで「教育基本法改正ハンターイ!!」「教育基本法の改正はヤメロ」「教育基本法はシビレルー!」
と言い募る
フリースクールやホームスクールについては人の話を聞く姿勢もなく、十把ひとからげにして侮蔑をこめた表情で「あれは金持ち教育だから」「お金のない家の子は学校に通わないと勉強ができないから」などと一方的に通告する。
これは、フリースクールやホームスクールへの誤解と偏見であり、貧乏な家の子や
学校に行かない子の自律的学習能力への侮蔑でもある。
実際には学校が遠いのでホームスクーリングをする場合もあるし、母子家庭・父子家庭・民族性の関係で学校の冷たい雰囲気に嫌気がさしてフリースクールをやることもあるのだ。
また、貧しくとも学校に通っていなくとも子どもは学びを行う。

こういう、人を無視したり見下したりする傾向の強い閉鎖的な運動に、どうやったら風穴を開けることができるのだろうか?
自分たちの思考停止が広く一般の人たちを傷つけ、混乱させ、不安と不信を招いている。そこから運動嫌い、運動ばなれが生じる。
一朝一夕にはいかないだろうが、そこをうまく改めないかぎり、これからもデモや集会の参加者は増えないだろう。
また、一般市民の理解をえられない運動ならば、たやすく特定の宗教団体・政治団体にのっとられる。
いわゆるカルト・セクトといわれる集団による市民運動のM&A(吸収と合併)を避けるためにも、実質的に開かれた社会運動が求められている。


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http://d.hatena.ne.jp/inumash/20060928







自由のために抵抗しよう! 大阪府の不登校「半減」政策

2005年03月01日 18時44分51秒 | ネオリベ・ネオコン
 みなさん、これは緊急のアピ-ルです。FONTE(旧・不登校新聞)のトップペ-ジをごらんください。
http://www.futoko.org/top/

▼大阪の「不登校半減」政策を問う緊急アピ-ル
<ahref="http://www.geocities.jp/futoko_osaka/appeal.htm">http://www.geocities.jp/futoko_osaka/appeal.htm

保坂展人さんたちも賛同しています! ぜひあなたも!
▼参加団体・賛同人
 http://www.geocities.jp/futoko_osaka/member.htm


立場を超えて、個人の自由に反する政策に反対しようではありませんか。

▼大阪府の不登校対策を考える市民連絡会議
http://www.futoko.org/cgi/newsread/newsread.cgi?disc=newest&st=34&ed=34
〒537-0025 大阪市東成区中道3-14-15
℡06-6973-5892/FAX06-6978-6626
e-mail: osaka@futoko.org


▼ 府知事への意見フォ-ム
http://www.pref.osaka.jp/j_message/teigen/tijifmt.html



今・ここにある全体主義 
 
 なんと、大阪府が不登校半減3ヵ年計画を建てているそうです。不登校はあってはならない腐敗・堕落した存在で、登校ならば輝かしく清らかな存在だとでも言うのでしょうか? 個々の事情や選択を無視した総動員の政策です。ということは、ファッショにほかなりません。ナチス、ソ連、文化大革命期の中国共産党を彷彿とさせる、犯罪的な政策なのです。
 誰が不登校かはきわめて不明瞭な問題であり、半不登校や1/4不登校についてあいまいな取締りが行われることも、予想されます。これでは、ナチス期のユダヤ人のように、不登校の親子は国内亡命の隠遁を強いられるでしょう。でなければ矯正収容所のような場所に閉じ込められ、人権と人格のすべてを蹂躙される恐れがあります。
 府は、緊急事業の具体策として、地域住民から選考した「不登校支援協力員」を活用して家庭訪問を行なうとしています。これは将来の徴兵拒否者への取締りを予感させる行動です。何よりも、各家庭の方針を無視した全体主義的な横暴です。プライバシ-をまるごと否定するような、相互監視の網の目の強化に加担してはなりません。
 

恐怖の地域の連携
 
 地域社会の過密にして過熱した共同体主義は、各家庭や個人の自律性を根こそぎ奪ってしまいます。そうすると、かえって親と子、兄弟姉妹、近所の人同士、友人・知人の個と個のつながりが摩擦熱で擦り切れるように滅びてしまいます。
 支配欲と権力欲、嫉妬と同情が入り混じった世界は、人と人との絆が、温度と圧力の急激な上昇によって、集団的な情緒の爆発・炎上が起こります。常に個人は全体の大きな「流れ」や、慢性的・集団的なパニック状態にさらされ、保身以外を考えられない全体への隷属状態に陥るのです。
 極限にまで達する思考不能、生き残りのためのうそや芝居は日常となります。
相互監視とピアプレッシャ-によって、いつでもどこでも神経のはりつめた状態が、個人の神経を蝕みます。やるせない疲弊の連続は、感情と思考をどんどん単純に、浅薄にしてゆくのです。
 具体的には、学校に行かないで家にいる子は、今まで以上に自己否定でいっぱいにさせられてしまいます。
 そうすると、これまで以上に家庭内暴力が増すでしょう。過日の寝屋川の事件のような教育殺人が増えるでしょう。選択肢を奪われ、実存を陵辱され追い詰められた者の最後の抵抗の手段はテロですから。
 単につながっているだけではなく、二重に三重に結合させられた状態から脱出したければ、誰かを殺すことによってしか因果の糸を切れないからです。因果の多重結合を解除するために、通常の話し合いや選挙といった手段は公民権のない子供には使えません。そういったところでは、大人も子どもも意見を言う権利や投票の権利、つまり公民権を奪われます。
 一部の指導者の気まぐれで決定された「全体の決定」への何の抵抗の手段も持たない親は、ただ保身のためだけに子どもを学校へ逝かすでしょう。こうして子と親、町内の住人同士の会話や議論が壊されるのです。過度の自治が適当な自治を食い物にする瞬間です。かつてモンテスキュ-の指摘した、民主政が一人支配へと至る道は、こうして開かれるわけです。
 

特高よもう一度?
 
 不登校支援協力員は、秘密警察のようにのさぼるでしょう。まるで文革期の紅衛兵のように、信じられないほど居丈高に、子どもと周囲の大人に専横を振るうはずです。
 公に誰かを学校に拉致・監禁してもいいのですから。なお、主観的には正義と使命感の塊ですので、あらんかぎりの乱暴を働くことも覚悟しなければなりません。殴る・蹴るといった物理的暴力から、暴言、シカト、セクシュアル・ハラスメント、モラル・ハラスメント、町内会等を通じての報復人事、本人だけではなく家族にも不利益を突きつける(近所の食料店での不売運動、近所の会社での雇用拒否、銭湯への入場拒否)なども起こるでしょう。
 そこには無残な恨みと憎しみの爆発があるだけです。プレートとプレートがぶつかったとき、地震や津波がやってくるように、人と人とがいつもぶつかっていては、地盤は不安定となり、液状化した地面が人をとらえる。
そのリスクの見えない人たちが、もっと人と人とをふれあわさねばならないとあべこべの発想で政策を作っているのです。これはとんでもないことです。何でも変動させればよいというものではないのです。

自然主義の横暴

「子どもは学校に行くのが自然かつ善」だという近代画一的な思い込みが根底にあります。
 しかし実際には子供は、家に生まれ町に育ちます。それから学校に行くこともあれば、逝かないこともある。それだけです。
 その点を根底的に勘違いした人々が、強制収用所としての学校を心のよすがにしています。タチの悪いことに、府の政策レベルで他人にもそれを押しつけようとしています。
 学校に行きたいのなら、行けばいい。だからといって他人まで巻き込んでは迷惑です。いくら暖かい善意によるものであっても、息苦しい者には息苦しいわけです。
 確かモンテーニュは、死の床にあるものに対して周囲の人々が呼びかけたり囲んだりするのはさぞ息苦しかろう、といったことを嘆いていました。そういった可能性をも考慮する、他人に対する繊細で的確な感受性や静かな気づかいは、あってはならない総動員政策によって摩滅させられます。
 一人一人のふとした瞬間の気づき、心の安寧、個人と個人のむきあえる空間は、ファシズム政策の威力によって、ズタズタに切り裂かれてしまうのです。強制動員の(学校の)ない社会という「自然」な共同体、いいかえれば学校に行く・行かないを自在に選べる個人の自然な行動を、自然主義が全体に統括し、総括--昔のサヨク用語で「処刑」の意--しているわけです。
 

まるで原発事故 
 
 あとには個人を燃やしているうちに自分自身も燃えてしまったコミュニティと荒廃した--それによって得る利益よりもはるかに損失が上まわった--国とが残されます。最終的には誰も勝者になれないのです。
 個人が存在しなければコミュニティや社会も国も成り立たない以上、当然の予想された結末と言えるます。
 目先の利益や保身を優先し、接触を絶対視するあまり強制参加を導入し、個を極度に弱らせた結果はざっとこんなものです。
 ひとりひとりの価値に恥辱をくわえ、集団や共同の価値で犯した結末はこんなものです。
 冷たい水域に住む魚と暖かい水域に住む魚を同じ水槽で飼ったのでは話になりません。熱帯魚にはサ-モヒ-タ-が、温帯の魚には常温の水が適当です。
 

適切に権威を選ぼう
 
 メダカとネオンテトラを同じ常温の水槽で飼育して、ネオンテトラが弱ったら「もっと冷たい水にならして、きたえなければならない」「親があたたかい水域に卵を産んで保護しすぎたからこうなった」などと東大の上野千鶴子のようなことを言ってはいけません。
 学校の外でなければ子どもの生命が危ういときに、国の権威と権力を崇拝する儀礼などしている場合ではないのです。国の大学を出られた国の大学の先生の、まるで天下る皇軍のような天下るお言葉に従う義理や義務は、人権と命の視点からはありえません。
 むしろ、朝日のびのび教育賞受賞式において、東京シュ-レの子どもたちに肯定と励ましの言葉を贈られた皇太子・皇太子妃両殿下にこそ、国の権威として崇拝を捧げるべきではないでしょうか? 女性解放のために子どもの命を切り裂くアンチ・アンファニズムとしてのフェミニズムへの動員を拒否する権利もあるはずです。近代市民社会の市民は国の行うことを疑い、批判し、チェックする必要があるからです。

擬似医療と医師

 大阪府は、不登校の個人カルテを作成すると言い張っています。
 市民は、プライバシ-の観点から批判しています。
 
 さて、病気でもないものを政治的な観点から病気扱いするとき、医師は大きく二つの潮流に割れるでしょう。どの医師を信頼するかは市民が選べることです。
 古代ギリシャのガレヌスと16世紀のパレ-が典型的なタイプなので、記しておきます。
 ガレヌスはたいそう優秀な医者でした。しかし性格は奇矯で傲慢。自分が診た患者はみな治った、失敗した例はないなどと吹聴していたこともたたって、医者のギルドと雇い主から追放された時期もありました。ちなみにガレヌスとは「静かな男」という意味ですが、たいへんやかましい男だったそうです。
 それに比してパレ-は、自然に対して謙虚でした。その時代の一線を画する優れた技能を示しながら、あの名言を残したのです。“je le pansay et Deau le guarrit”(我は包帯するのみ、神が癒したもう。)
 具体的にはガレヌス・タイプは稲村博先生とその弟子の一部、あるいは佐々木病院の広告塔の静かな男の人と稲村筋の環という人です。
 パレ-・タイプは、日本児童精神医学のパイオニア渡辺位先生とその弟子筋に見られます。
 ガレヌス・タイプは、政治的な診断増加にとりこまれやすく、パレ-・タイプはとりこまれにくい傾向があるでしょう。
 どちらの筋を支持するかは、市民の選択にかかっています。
 



 
 
 
 
 
 

香田 証生さんを悼んで

2004年10月31日 20時25分52秒 | ネオリベ・ネオコン
 悲しいニュースです。残念なことに、香田さんの遺体が見つかった。http://news.goo.ne.jp/news/sankei/seiji/20041030/e20041030002.html?C=S
ご遺族・ご友人にはおくやみ申し上げます。

 じかに世界を知ることにはリスクが伴う。にもかかわらず、TVやネットの情報だけですべてを知ることはできない。当然、体力のある若いうちに世界を直接に観察し見聞を広めるのは大切なことである。(このブログのブックマークにある Marlboro College においても、直接世界を知ることは奨励されている。)

 そんなことなど歯牙にもかけない人々が、政府の責任を隠すために、香田さんをひとり悪者にしようとしている。「勝手に危険な地域に行った」「目的もなく遊びに行った」「イラクに行った理由がわからない」などと政府要人は発言している。

 その小泉内閣の首相は、天皇陛下に日の丸・君が代おしつけに嫌味を言われたくらいで「政治部口を出すのはいかがなものか」といった旨の発言をしている。総理大臣、あなたの自己責任はどこへいったのですか? 陛下に迷惑をかけて誤ったらどうですか? これほど責任感のかけらもない人間が、一民間人の責任を問う。いったい何を言っているのか……(--;)。

 実は、自分はバック・パッカーも第三世界でのボランティアやスタディ・ツアーもやりたかった。ところが、諸事情により、10代・20代のころにできなかった。
 だからといって、うらやましいそうしている人に嫉妬して足をひっぱろうとは思えない。誰もがそうしたいと考えてもできないような会社の人事管理がゆがんでいるのだ。それと絡めて、学びについて受験と従順さに特化した訓練ばかりを重視し、間接学習のなかに人を閉じ込める教育システムこそ問題なのだ。

 北欧では、旅の学校というのがある。集団で第三世界を訪れ、旅によって学ぶ。多くの人とふれあい、風景を見、聞き、水があうかどうか試す。そして、学校に帰ったらレポートを書いて多くの人に報告する。そのことによって、異文化理解や南北問題解決への一歩を目指すというものだ。
 教科書を暗記し、模試を受けまくる。それだけが教育であり学びだとする発想のいかに貧しく偏狭なことか。それで文化レベルが上がった気でいるのか。世界にはまだ無文字社会もあるというのに。観念的な頭でっかちを作って、そんなにも面白いか。暗記ばかりして考えられない・感じられない・調べられない・人とつきあえない壊れた人を量産して恥ずかしくないのか?
 その手の勘違いした人たちに、香田さんの旅行を非難する資格はない。

 日本で、旅行とそのレポートが学校の単位としてカウントされること。
 お伊勢参りが有名だが、かつての日本には人生の節目に旅に出ることで世間をひろめ自らを高める学習コースがあった。民俗学者の宮本常一は、中国地方のある村の女性が、伊予(今の愛媛県)にわたって働くことで知り合いを広め礼儀をみがく例を「忘れられた日本人」で紹介している。
昔は自分の家しか知らない娘は「かまどの前の礼儀しか知らない」として嫁に行くのがむつかしかった、とも。
 ヨーロッパの革新、日本の伝統、この二つの立場のどちらから見ても、「自分探しの旅」≒スタディ・ツアーへの揶揄は不当である。
 これから、旅を大切な学びの方法として、人生を豊かにするものとして肯定し、社会に組み入れれなければ、香田さんのような行動が非難の的になるばかりだ。

 とにかく、今は彼の冥福を祈りたい。


 


 



分かっちゃダメだ!

2004年10月28日 02時35分53秒 | ネオリベ・ネオコン
 イラクで日本人・香田 証生さんが人質になったことは、みなさんご存知と思う。先の5人の人質をつかまえた「村の自警団」のようなゲリラとは違って、人を殺すことをいとわぬ勢力につかまり、生命が危ないと日本の外務省も認めている。

 自分探しのためのワーキングホリデーの後、イラクに立ち寄ったことを、理解できないとする報道もあった。
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20041027/20041027a1530.html?C=S
http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20041027/20041027i213-yol.html?C=S

 分からなくてもいいのだと思う。
 それに、自分探しは悪いことではない。一部の大切に甘やかされた人たちを除いて、日本ではじかに世界を知ることはあまり奨励されていない。でも、旅を通じた学びが尊ばれてもいいではないかと思うのだが、どうだろうか? 
 日本では今でも、自我の探求や確立は、ムラ社会によってはばまれている。自意識過剰になる権利も、そこから自我を捨てる偉大さも日本ではなかなか保証されていない。それを手にしようとして何がおかしいだろう。
 「本当の自分などない」というこじゃれた説教は、真にアイデンティティを追及した後に発せられたのでない場合、「手の届かないブドウは酸っぱい」と味見もせずに決め付けたイソップ物語のキツネである。
 それに、好奇心であちこちをめぐるのは悪いことではない。憲法にも保証された「移動の自由」を守らねばなるまい。
 そもそも自分を知るだけでも厄介な作業だ。ならば、他人を知ることは簡単にできることじゃあない。それを「分かる(はずだ)」とするのはただの錯覚だ。
 さらに、国務大臣がそれを詮索するのは、個人の内面・良心の自由へのふみこみであり、許されない。分からなくて当たり前、加えて分かっちゃダメなのだ。もし分かったとしても知らん振りをしているべきなのだ。国家が人の意識や心を統制してはならない。家族や友人の役割を国家が果たしてはならない。
 とにかく、国は政府の自己責任を放棄せず、救出に当たるべきだ。そして、すみやかに自衛隊の撤退もすべきだ。


表と裏から教育基本法改正に反対する

2004年10月21日 21時32分23秒 | ネオリベ・ネオコン
今ネットカフェからです。家のパソコンはまだ直りませんが、メ-ルが気になってやってきました。
chance Forum に投稿しようとしたら、なぜかできませんでした。なのでこっちに載せることにします。
以下コピペ。
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教育についての議論が続いていますね。わたしも以前から関心のあるテ-マだけに興味深く読ませてもらっています。

関組長の言う「よい教育があるのか?」という問いかけ、教育基本法改正改正をきっかけに議論する価値のある問題です。

 阿部さんは、リベラルな教育の流れについて語っています。ところが、それは表のカリキュラムであって、裏では別のことが進行しているのではないでしょうか? もちろん、当時は旧制高等学校の教養主義も最先端の知識・文化であり、斬新な試みだったのでしょう。
 けれど、それは帝大に行くのを約束された一部のエリ-トのものだったことを忘れてはなりません。そういった特権的な学校には、社会の上流上層の師弟が結果として高い割合で進学している、という文化社会学の指摘もあります。
 それから、いくら知識として「人権や自由は尊い」と教えたとしても、義務教育のように選べない立場で押し付けられるのと、そうでないのとでは雲泥の差です。
 なお、その平和主義なり人間主義が、実際に学校生活の場で生かされているかも大事な論点です。
 かつてわたしの通ったフリ-スク-ル地球学校では、「民主主義を守れ」というスロ-ガンを唱えさせられることはなかったと記憶しています。ところが、集団でやる作業や夏休みをいつにするか、スタッフ(普通の学校では先生と呼ぶや役割)を雇うときに、子どもたち(生徒とは呼ばない)が面接をしてよくないと判断した場合は雇わない、などを自分たちでコントロ-ルしていました。まさにセルフ・ガバ-ナンス・スク-ルでした。
 スタッフも子どももみなが一人一票の権利をもち、また誰もが召集することのできるミ-テイングがしょっちゅう開かれ、いつも何かについて話あっていました。当時問題になっていた南アメリカのアパルトヘイトについて話し合ったこともあれば、ヴィデオ編集についての会議もありました。どんな授業をするかも自分たちの企画でした。
 はじめはなれないで戸惑う子どもも、やっていくうちになれてきます。意見を選んだり発表することに照れや躊躇がなくなり、プレゼンテ-ション・コミュニケ-ションがうまくなっていくのです。
 いくら先生が「平和や人権は大事だよ」と言っても、子供たちが大事なことを決めるときに意見を言えない学校では、「タテマエは民主主義でもホンネはファッショ」「上半身は近代市民主義でも下半身は封建主義」だと子どもたちは学んでしまいます。
 未来学者のアルビン・トフラーは、「第三の波」の中で、近代学校教育の影のカリキュラムについて言及しています。
義務教育は読み書きとそろばん、かんたんな歴史を教えながら、1.先生・上司には服従すること 2.時間厳守 3.退屈な反復に耐えること の3つを教え込むということです。知識ではなく感情とか身体のレベルでは、有能な工場労働者を作るシステムが近代学校教育だということです。
 
 そのほかバ-ンステインやブルデユ-ら一連の脱学校論者たちは、それぞれの立場から学校の表ではなく裏を暴いています。
 イリイチは学校が人に近代西洋文明への盲目的崇拝を教え込み伝統的な文化の豊かさを破壊することを批判しました。
バ-ンステインは、学校は中産階級の言語が使われており、労働者階級の言葉遣いを劣ったものとして切り捨てると指摘しています。ブルデュ-は、学校は中産階級にとって有利なシステムであり、同時に都市に対する田舎出身者や男性に対する女性にとって不公平な選抜を行っていると実証的な調査を発表しています。
 関組長も言及したフレイレは、ブラジルの貧農の識字教育から、教育には抑圧の教育と解放の教育があるとのモデルを立てました。農民に日常生活に密着した言葉から、スライドや写真を見せて対話式に話してゆくということです。たとえばagua(水),favela(スラム街)といった身近で利害に関わる言葉から優先して教えてゆくと、成人識字教育においてとても効率がよいということです。また、知識を教えるときに、講師は生徒とゲームをやります。互いに質問をしてどちらがより知っているかを試すのです。たとえば講師が「1+1=2」を知っていれば講師の得点。生徒が農業や漁労についての知識を知っていて講師が答えられなければ講師の得点。いくつかそうしたやり取りを重ねるうちに、講師が何もかも知っているわけではないこと、同時に生徒が何も知らないわけではないこと、その差は相対的であって絶対のものではないことを確認するのです。それが権威主義の打破につながり、生徒の自信ややる気につながるわけです。
 いわゆる義務教育ではあまりこういった実践はありません。人を閉じ込めること、選抜すること、ガマンづよく従順
な人をつくることが、教育基本法にうたわれた立派な理念よりも実際には行われています。
 それでも、当面のところ、義務教育を少しでも脱学校化させるのは、脱学校化のひとつの戦略として有効だと思うのですが、関さんどうでしょうか? 
 また、戦後日本の学校教育も単なる単線だったわけではありません。障害児と健常児の隔離、帰国子女や在日外国人への排斥、実際には公立学校においても勉強やスポ-ツのできる子ばかりを集める学校があり、かつての旧制高等学校のように特権的に自由で自治的な学校がある、といったことです。 
 いろいろ例をあげましたが、教育については表の理念や暗記させられる知識だけではなく、裏の面も見なければ、浮世離れした議論になってしまうので注意が必要です。

 もちろん、教育基本法を改正しようとする勢力は、教育の表も裏も抑圧的、排外的、非民主的なものにしようとしています。だから日の丸・君が代、だからジェンダ-フリ-使用禁止、だから純潔教育なのです。その反動に対して、表・裏両方の面から反対してゆくのは当然です。反学校・脱学校・よき学校教育擁護など、あらゆる立場から反対して当然です。

                  
 

古い・新しい考

2004年09月04日 07時53分17秒 | ネオリベ・ネオコン
 最近、「古い・新しい」を軸にした思考と表現がはやっている。すべてを善悪に塗り分ける単純思考ではないだろうか?
 ちゃんちゃらおかしい。「古いから悪い」ってホンキ? でもネオコンによる「象徴的点滴注射(ブルデュー)」はすさまじい勢いで進んでいる。新しさの乱用は見苦しく、新しさの独裁は多様性を奪いつつある。
 
 エマニュエル・トッド「帝国以降」によれば、アングロサクソンは核家族が強く、世代交代が強調される文化だという。それに比して、ラテン系やロシア系、日本と韓国も、核家族よりも大きい家族の結合が強く、世代間で文化が継承される傾向にあるとも。

 わたしは、母と祖母が伝統芸能を生業にしている影響からか、古いものへの愛着が強い。よく人から「流行おくれ」「古い」「時代錯誤」とバカにされたり迷惑がられたりする。
 それでも、古くてもいいものはいいと思う。茶髪が流行したときにも黒い髪のままだった。アレルギー体質でかぶれやすいこともあるが、パーマは好きではない。
 今では一般的な人工的な染料で染めた衣服よりも、エスニック雑貨の店でよく売っているアジアの草木染の服のほうが好きだ。
 なぜならば、人工的な染料で染めた服は、新品のときが一番キレイだ。そのあとは少しずつ色があせて、ボロボロになってゆく。
 一方、草木染は洗えば洗うほどいい色合いになる。着ればきるほど味わいを増す。色が薄くなっても別の色合いが楽しめる。洗うたびに別の色になっている。草木染の服は、ひとつの布の中で多様性、いや多彩性を展開したあと、朽ちてゆく。
 
 自称「新しい」文化のいかがわしさは、歴史や伝統に関心と敬意のあるものにとっては笑うに笑えない。
 70年代にエレキギターをヴァイオリンの弓で弾いたイギリスの有名ロックバンドがいた。あるサブカルチャー誌はそのことを「新しい文化」として賞賛していた。
 そもそも楽器の起源をたどれば、発弦楽器よりも弓奏楽器のほうが先に発明されているのだ。要するに“先祖がえり”ではないか。また、発弦楽器に弓を通すための「くびれ」があったり、
逆に弓奏楽器に弓を通す「くびれ」がなかったりすることもある。(前者の例は、アフガン・ラバーブ。後者の例はウイグルのサタール。)それは、そもそも弓奏楽器→発弦楽器、発弦楽器→弓奏楽器という流用があったことを示唆していないか?
 もちろん、そのバンドの曲のよさ、演奏の確かさは尊敬できる。だが、それを「新しい」と言いきってしまうのは、商売用のコピーとしても違和感が残るのだ。日本人として、または東アジア人として「謙遜の美徳」がないと、味気なく感じてしまう。「奥ゆかしさ」がないのは美しくないとも思う。

 ネオコン・ネオリベに関する新しいー古い論と言えば、ブルデューはこう語っている。

「ネオ・リベラリズムとは、最も古臭い経営者のもっとも古臭い考えがシックでモダンなメッセージという衣装をまとって復活したものです。」
「保守革命は今日、新たな形をとっています。かつてのように、太古の農業神話の古臭いテーマである大地と血を歌い上げて、理想化された過去を規範として担ぎ回るようなことはしません。そうではなくて、新しいタイプの保守革命は進歩、理性、科学を(つまり経済学を)根拠に復古を正当化し、進歩的な思想と行動を時代遅れのものと思い込ませようとするのです。それ固有の論理、いわゆる市場法則、つまり強者の論理に支配された経済世界の現実的基準をあらゆる人間活動の規範、つまり理想的ルールとしようとしているのです。」

 わたしは単純な進歩主義者ではない。なので、ブルデューと同じ表現をするわけにはいかない。
 それでも彼の言うことは説得力がある。時系列に沿って見れば、歴史のなかで勝ち取られてきた権利がある。例えば労働者の福祉や国民が国家から守られる権利などだ。それらすべてをネオリベは形骸化し、変形させ、崩壊させている。それをさも「新しい」「よい」ことであるかのように宣伝・広告しまくる。「流通革命」「構造改革」などと、さも左派の改革派気取りで、人々の職を不安定化させ、お金の流れを滞らせてきた。結果として、寡占は進み、創業者も消費者も利益を守られない不公平な社会ができあがっている。
 わたし流に言いなおせば、ネ「オリベはリベラルなものを非リベラルに見せかける」といったところか。あるいは、「ネオリベは反リベラルなものをリベラルだと僭称する」と言い換えてもいいだろう。

 気にかかるのは、かつて「新しい文化」を求めて試行錯誤した全共闘世代とかベトナム反戦世代といわれる人たちが、この手のネオリベ・ネオコンをまさに支持している点だ。
 ヌエバ・カンシオン、ヌーベル・バーグ、アメリカン・ニューシネマを生み育てた世代は、今や超保守となった。
 階層低下に苦しむフリーターに「物質的価値よりも精神的価値が大切だ」と侮辱的な大声をあげて説教する。それも、人の話は聞かないで。給料や保証の話をすると「保障ナシで生きたいんだろ?」とそれ以外は絶対に認めないといった乱暴な口ぶりで恫喝するように同意を求め、同意しなければ人の存在すべてを否定するような暴言を重ねる。
 「親に依存するな」と子どもの権利や解放を真剣に考える元子どもに向かって言い放つ。そのことによって親の権威を守り、子どもの権利や福祉を無視しているだけなのに。
 伝統文化に興味のある若い世代をつかまえて「もっと新しくしろ」と怒鳴る。フランス革命もロシア革命も相対化した世代に対して「革命だ! そのためにオレの言いなりになれ。革命に協力するために何でもしろ」と直接ではなく案に言い張る。そのことによって、人を奴隷化しようとする。

 別のところでブルデューは、ネオコンの御用作家ソレルスについて評している。
「二度、半回転をすることによって、二度、半革命をすることによって、出発点ーーモーリヤックとアラゴンの両御所から序文を寄せてもらった田舎出身のブルジョワ青年沸々と逸る野望ーーに立ちかえるのだ。」

このソレルス評は、「新しい」ことへの強迫観念が抜けないがために、たやすくネオリベに絡めとられ抑圧的な政策を礼賛する全共闘世代にも当てはまる。ブルデューはフランス人だ。フランス俗語でconは「ばか、まぬけ」の意味なので、ネオコンとくれば「新しいバカ」くらい考えているのだろう。それにしても、「新しい」「もっと新しくなければならない」という論理は、日本ならさしずめ電通あたりの流行をしかける戦略ではないのか?
ということはやはり、資本の論理・強者の論理に沿った発想だといわざるを得ない。

「温故知新」「古くて新しい」という感受性は、「新しい」ことに取り憑かれた人たちにはどうやら通用しないらしい。いつの間に、複雑に曲がりくねって行ったり来たりしながら展開してゆく歴史という認識を失ったのだろう? 客観的に時系列に沿ってものを考えることと、主観的な新旧の感覚のズレを楽しむセンスを壊してしまったのだろう?

 ブルデューによれば、それはネオコン勢力の長年の宣伝・広告のたまものにすぎない。したがって、十分に修正可能なものだという。
 わたしもそう思う。日本の伝統は、新しいものができたから古いものを全部廃することなく、古いものも新しいものと平行して受け継いできた。近世に歌舞伎ができたからといって中世からの能が廃れることはなかった。16世紀に堺に三味線が渡来したからといって、雅楽がなくなったわけではない。
 その日本という位置から、「何でも新しければいいとは限らない」「主観的な新しさと客観的な新しさは別だ」「伝統を現代的にアレンジして生かす道もある」と世界に発信してゆけないだろうか? 京都には古い町屋風の建物を中だけ改造して事務所やバーに使っているところもある。伝統と革新の融合による伝統の延命と革新への深い味わいの添加。
 何をもって新しいとみなし、古いとするかは大変デリケートな問題であり、単純に二元論に収まる課題ではないということ。結局は恣意的な正当性(正統性)に従うということ。
 
 GMO(遺伝子組み換え食品)に象徴される「新しい」ものに懐疑の目を失いたくない。パレーシア大学(今のところ仮称)では、やみくもに「新しい」ことを追求せず、「古い」とさげずまれる事をも大切にしてゆきたいと考えている。
 
(1)↓ トッド「帝国以降」藤原書店のリンク
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894343320/qid=1095384288/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8280491-6625028#product-details
(2)若林忠宏「民族楽器大博物館」京都書院 平成11年 p.p.104-105

9/17注を追加しました!

  
 
 
 
 

 

 
 

 
 
 
 
  
  

わたしが反政府デモに行かない理由

2004年08月30日 02時32分55秒 | ネオリベ・ネオコン
 以前関わっていた平和団体で、時々“反政府”デモがあった。魅力的な講師のやってくるイベントと抱き合わせになっていたこともあったが、行かないことにした。そのほか、いくつかの[反政府]のカンバンをかかげたイベントも辞退した。
 
 理由その1:「反政府」を煽っている仕掛け人たちは、どうやら大学自治体に巣食うK党の亜流のセクト/カルトとつながった人のようだった。それで、組織の指令にしたがって平和運動を反政府運動に変質させようともくろむんでいることは見て取れた。
 
 理由その2:しかしそれでは、平和運動を反政府勢力だと事実誤認させたうえ弾圧しようとする政府側の裏返しになってしまう。政府の見解を何でも裏返しにすればよいというものではない。ポジに対するネガに甘んじる思考停止には、あきれてものが言えない。政府と「共依存」してどうするのか。バカバカしい。情けない。この種の「自由」と「反動」を混同する勘違いにはついてゆけなかったのだ。自立性/自律性を尊ぶ者なら、わたしの判断に同意するだろう。

理由その3:反政府ならば自由・善と信じる単純さ。20代後半から30代前半くらいの世代にしては、全共闘くらいの上の世代と同じ価値観を持っている。アホかと思う。自分たちの世代は、全共闘世代とは違うと自己主張することこそ、全共闘の価値観や行動パターンの踏襲だ。それを、50年代・60年代・70年代の学生運動の縮小コピーを作ってどうするのか。
 どうやら京阪神圏の共産党色の濃い学校で日教組系の教員や、全共闘リバイバルを妄想する文科系大学教員に媚を売ってよい成績や居場所を確保してきた、同世代とつきあうのが苦手な「よい子」タイプが大半のようだ。多分同世代と分かちあえるサブカルチャーをリアルタイムで享受していない。
 それは今の権威を否定できず、すでに終わっている今から数十年前、新しくとも十数年前の権威しか批判できない。エディプス・コンプレックスのよい見本だ。それで、見ていて情けない。
 ずっとパパやママに反発していてどうするの? 先生に教えられたことをうのみにして楽しいの? ホントにリアリティ感じていないんでしょ? 世代もちがうし。よく見て単なるリバイバル映画だよ。歴史とは、暗記よりも時系列思考の訓練じゃなかったっけ? 

 理由その4:今時の反グローバル運動のなかでは、国民国家は「守るべき価値」になっている。
WTOやIMF、それにアングロサクソン系多国籍大企業は政府の機能を停止させ、ひとつひとつの国民国家を機能停止に追いやっている。国が安全な医薬品を選別して輸入することさえ、WTOとIMFらはやめさせることがある。ジャン・ジグレール「私物化される世界」PP211ー230にはニジェールやギニアなどを例にした記述がある。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4484041103/qid=1094001183/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7958788-9819547
 つまり、グローバリゼーションによる流動性の害悪を反政府の連中は分かっていないのだ。今時、「反政府」なんて言っていると、WTO、IMF、多国籍企業よ、改革と称してうちの国の産業を文化をボロボロにしてください、とお願いしているように映るのだ。
 言いかえれば、構造改革で地域商店街をゴースト・タウンにしてください、国内のスーアーチェーンをウォルマート傘下にしてくださいとアメリカのネオリベ官僚に頼んでいるように見えるのだ。その醜悪さがイヤなのだ。

 理由その5:その系統のセクト活動家の危ない自意識過剰。自信過剰。いつも自分たちが一番進んでいると純粋に(皮肉)進歩主義的に考えている。ところが、一般庶民のほうがネオコン派から反ネオコン派にいたるまで、事情をよく知っている。仕事をしながら一週間に一度の割合でブログを更新したり、実際に働いたり生活をしたりする中から、どれほど景気が悪いか、労務管理が崩れているか、何でもアメリカ流によって大事な世界が壊されているか、経験則としてよく知っているのは、彼(女)らが啓蒙しようと試みる一般の人々なのだ。
 事実を無視して自分たちを過大評価、他人を無視または過小評価する反政府の活動家たち。本当にうっとおしい。彼(女)らの行動を見ていると。そのうち、ラスコーリニコフみたいに近所のおばあさんを殺しに行きそうな勢いだ。あるいは、ドストエフスキーの「悪霊」にあるように、仲間内でリンチ殺人でもしそうだ。
 おまけに彼(女)らおすすめの本だの講演会だのに行くと、初歩の初歩しか語っていない。あくまでも入り口の入り口だ。なのに、そんな学習会にたった数度参加したくらいで「よくわかって面白かった」などと大満足してしまい、偉そうにおおげさな身振りと共に人にお説教をはじめるのだ。

理由その6:別の意見を言ったり、疑問点をツッコムと何も答えられなくなったり、被害者意識と憎しみでいっぱいになってヒステリックに騒いだりする。そのついでに人を中傷・侮辱することもある。極端に単純な善悪二元論が強い。潔癖主義や個人を個人として認めない共同体主義も強すぎる。なので、まともに向き合って話ができない。
 もし即答できないなら、後で疑問点を調べなおしたり、考えを整理したりして伝えることもできるはずだ。しかし、裏で数名がかりで取り組んでも、たった一人に反論することもできない。情報の見せ方を試行錯誤する熱意も粘り強さもない。そのくせ、個人主義的に生きている幸せそうな人をつぶそうとして足を引っ張ってくる。端的に言って、人格の敵、人生のジャマ。

 ざっとこんなわけでわたしは反政府デモには行かない。そもそも反政府と反戦をセットにする必要はない。国をWTOに売り渡すような反政府運動は今時の保守・反動だ。本人たちは時代の最先端のつもりでいて、実は最後端にいる。自由のつもりでいて、ただの反動にすぎない。

 これら6つの理由は、おおかたサヨクが嫌われる理由ともオーヴァーラップしている。本人たちは革新のつもりが、かえって古い・保守的→イケてない・流行らないという印象を与えているのだ。わたしはウヨクでもサヨクでもないが、ネオコンに抵抗する一部としてのサヨクにエールを送るとすれば、もう少しよく考えて、レベルの高い情報にも触れ、地道に勉強や仕事をしながら運動を組み立てなさいよ、といったところだろうか。

こちらのパレーシア大学においては、西洋中心の進歩主義を疑うのは当然の前提になっているので、関係ないかもしれない。だが、パレーシア大学の外への情報発信として、より有効な社会運動へのエールとして投稿しておく。お客さんの社会運動に関わる際の参考になれば幸いだ。


 



抵抗勢力になっちゃおう

2004年08月12日 01時24分20秒 | ネオリベ・ネオコン
 今は亡き社会学者・ブルデューは、こう言った。
 「1、2年前までは当然だった権利が、今日は削られている」

 日々の生活実感として本当にその通りだと思う。労働組合関係者と話しても同じ感想が返ってくる。読者は?

 例えば、街を行き交う人々の服装は、だんだんとみずほらしくなってゆく。安いセルフサーヴィスの店を利用している。スーパーのお惣菜を見たら、弁当のご飯の量が以前の半分になっていた。正社員かバイトかを問わず、給与も手当ても減らされてゆく。気がついたら奨学金が縮小されている。累進課税が形骸化されつつある。
 そこそこ賑わっているように見えた商店がいつの間にか姿を消し、ゴーストタウンになっていた。近所の工場が閉鎖された。友人がリストラされた。中小企業の社長の息子が過労死した。リストラをまぬがれた銀行員は年収1000万から380万になり、ローンの支払いと労働密度の強化を前に、途方にくれている。貯金も保険も頼りにならない。今年はおせち料理を一品も食べられなかった……。

 要するに、一部の富裕層を除く大方の人々が第三世界化し、労働者階級化しているようだ。
 就業者の場合は残業、失業者の場合は仕事探しや資格取りが労働となって、生活のゆとりは加速度的に奪われつつある。

 この事態にどうすればよいのか? これまでの「既得権益」を守る「抵抗勢力」が今こそ求められている。
 何でも新しければよいと思考停止している「ネオ・コン(フランス語で「新しいバカ」)」に忠誠を誓う義理も義務もない。

 4名の死亡者を出した福井の原発事故も、効率化のために安全性を犠牲にしてきた結果との指摘もある。

 経済効率・経済成長と人の命や生活と、いったいどちらが大切なのか? 
 
 福井県の日本海沿いにある小浜というやはり原発近くの港町に行ったことがある。日本海側にある町なので、古来より朝鮮との交流も盛んだ。京都文化の影響も濃く、数奇屋づくりの町並みがある。
 海岸には海藻が生えている。白い砂浜はあたり一面カルシウムが豊富であることを物語っていた。
 昔、遊郭だった三丁町で、日本舞踊のお稽古を見学させてもらった。そのとき、京都からお師匠さんが来て教えていた。昔遊女が使っていたという4弦の胡弓(中国のニ胡ではなく日本式の胡弓)を見せてもらった。

 自然や伝統文化と科学の進歩や「豊かな生活」のどちらが優先課題なのだろうか? 高度成長期の“ボタンのかけまちがい”は、次の世代に過酷な暴力を突きつける。プロジェクトXを見てノスタルジーにひたっている場合ではない。

 廃墟のような豊かさの中で生活するわたしたち。かりそめの豊かさは、決して多くの人々の幸福に寄与しない。

 経済成長よりも、自由や民主主義のほうが大事だという選択があってこそ、アメリカ依存の外交も、イラクへの日本軍の派兵も
辞められるのだろう。スペインは民主主義を優先した。それでは日本はどうなのか? どうするのか?

 それは、わたしたちがどう行動するかによってくる。
 意気喪失を乗り越え、希望を捨てずに、自分たちの権利を欲求していこう。もちろん、異なる他者への圧制とならないように注意を払いながら。自分たちの中での民主主義も個人も大切にしながら。
 無理にがんばらなくてもいい。がんばらなくてもできることからやっていけばいい。
 失業や減給で自分の価値が下がったかのように思い込まされているかもしれない。けれど、ギリギリの所であきらめてはダメだ。絶望と奴隷根性に襲われたとき、自由から逃走せずに、自分の権利のためになることをすること。どれほど小さくてもいいから、やってみること。

 そこから人権も民主主義も始まる。ネオコンへの抵抗も。
 
 さあ、はじめよう。削られた権利をひとつでも取り戻そう。
 自分のためにも、世界のためにもなることだから。
 面従腹背もOK、パレーシアもOK。

 わたしは今日も明日も反対モード。あなたは?

(画像は大阪第4ビルでうずくまる人。携帯電話について雑談をすると撮影を許してくれた。)