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心真理党(=心理学会)報告ーー最近の人々の「心」について

2004年09月29日 16時00分18秒 | 政治・経済・軍事
はじめに われわれ心真理党は、わが国がよき心に満たされること目的とする教育を支持します。

1.近年、児童・生徒の間には、いじめ・不登校・引きこもり・学級崩壊などが広まっています。
これは、何よりも心がすさんでいる証拠であります。子どもたち・若者たちの心がよい状態であるために、大人や教師は努力を惜しんではなりません。
 常にきめ細かく子どもたち・若者たちの荒れる心を観察し、なぐさめ、落ち着かせねばなりません。

2.いじめられる子は、心が弱いのです。ですから、もっと心を強くせねばなりません。学校や職場のいじめ・ストレスに耐えられない不登校や引きこもりは人間失格です。もっともっと人の心の分かる、そして自分の心の間違いを自ら評価し、心を直せる人間を作る必要があります。
 そうすれば、「いじめは人権侵害だ」「学校側はいじめる側を処罰してほしい」「お金をとられれたら警察に連絡してもいいでしょう」などと言い出す心の乱れた子どもや親はいなくなって、めでたしめでたしです。

3.いじめる側は、むしろかわいそうな被害者です。いじめられっ子はいじめっ子にどれほどの迷惑をかけたことでしょう。みながガマンしているのに自分の考えや感情をみなの前でまじめに公表する。難しい勉強をゲーム感覚で楽しくこなす。スポーツや芸術に長けている。帰国子女は日本人らしくない不自然さで流暢に英語を話す。在日外国人は、日本人らしくない漬物を食し、日本人らしくない言葉をしゃべる。
 近頃、商店街などで勝手に楽器を演奏したり、ダンスをしたりする若い世代が増えています。下品でうるさくて人の気持ちなどおかまいなしです。これは、朝鮮の「マダン(広場)」文化の悪影響です。しかしわが国は韓国の属国ではありません。こんなものを、商店街も「活気があっていい」とヨイショしています。これは日本人として不自然な非日常的な行動であり、間違った心の現われです。

4.不登校・引きこもりについては、わが国の生産力の低下を招く非国民です。特に男がそれをするときは、日本男児らしくないふるまいです。
 わが国は、戦中の国家総動員体制から労働者の福祉を整え、女性の社会参加をうながし、奇跡の高度成長を達成してきました。それは、朝鮮やベトナムの特需とは無関係に、ひとえに日本人の勤勉さにかかっています。
 その豊かな社会に反逆する不登校・引きこもりは、周囲の心配を考えられない偏狭なエゴイストであり、自分だけは王侯貴族だと勘違いする甘ったれです。なんとか彼らの腐った心を直さねばなりません。
 たとえば、平和のためにイラクに行けと命じられたら、気持ちよく素直に「ハイッ!」と受けることのできるすがすがしい心の若人を作らねばなりません。アメリカ追従という日本の国益のために、彼らのような怠惰なものは血を流すべきなのです。
 ところが、学校にも会社にも行かなくてもいい、子どもの自己決定権やeラーニング、あるいは在宅勤務だのフレックス・タイムだのと、怠け・遊びを推奨するがごとき動きがサヨク・プロ市民・過激派の陰謀によって実行されています。
 この日本崩壊計画によって、わが国は未曾有の危機に陥っているのです。モノづくりの生産性が
高すぎて失業が増える、遊びや消費がなさすぎてデフレになる、などと主張する人たちは、心が歪んでいるのです。前者は怠け心、後者はモノに執着してばかりで心が貧しいわけです。
5.とりわけ、子どもの自己決定権など許してはなりません。子どもは大人とちがって未熟であります。また、人は人と人との関係の中で生かされる存在であり、決して一人で勝手に決めることなどできないのです。
 なお、その「人と人との関係」は、わたくしども心真理党が決めさせてもらいます。例えば、プロ市民と過激派の関係などまともな人間関係ではありません。
 また、この世に「悪い関係」「相性の悪い関係」「縁の薄い関係」などあってはならないことです。ですので、たまたま通うことになった学校、偶然所属することになったクラスの友達とあわないとか、仲良くできないとかいったことは、本来ありません。
 それらの「ない」ものを「ある」と強情に言い張り、「いじめっ子とは別のクラスにせよ」あるいは「学校選択の自由を認めよ」「ホーム・スクーリングの権利を広めよう」などと言っているのはキチガイです。
 人間関係とはいつも・必ず甘くうるわしいものです。「夫が殴るから離婚する」などという人間関係に対する侮辱があるでしょうか? 「親が熱湯をかけるから別の親を選ぶ」という子どもは、かわいそうに、この世に存在しないも同然です。
 つまり、選択には実存はないのです。わたくしどもは自分の選ばない(選べない)人間関係を通じてこの世に実存するのであって、決して逆ではありません。科目を、クラスを、席を、学校に行く・行かないを選ぶというのは、自己破壊行為です。
 個人や個々のコミュニティは、それらを選ぶことはできません。ただわが国わが党が、何が人間であり、何が関係であり、何が実存であるかを教え、国民は受身に吸収するのみです。それが一番人々にとっての幸せなのです。