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学校のない社会 大学のない世界

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いつか見た議論がまた

2006年12月29日 19時44分25秒 | 教育・学習法
この記事はタカマサのきまぐれ時評にコメントしようとしたもののトラックバック化です。

おじゃまします。

この記事に引用されている野依さんのお話、いつかどこかで聞いたパターンだな、と思いながら読ませてもらいました。
東京の山の手中流向き、あるいは関西なら神戸の高級住宅街向きのスピーチととればいいのかな(苦笑)。
反管理教育に近い層や、旧制中学(高校)風の中等教育関係者にもウケそうですね。

だけどこれは上のほうの数%にとっての話でしょう。
塾を利用できない層もいるし、またひとくちに塾といっても浜塾みたいな超進学塾から学校の勉強についていけばいいという補習塾、それに学童保育やフリースクールみたいな雰囲気の居場所確保塾までいろいろなんですけれどねえ。

自分的には荒れている学校なら違法行為・暴力が日常茶飯事というのは分かる気はします。
運動会のマスゲーム訓練といえども、2ヶ月ならともかく3ヶ月も前からやっているかどうか。詳しく調べたことがないんですが、3ヶ月っていうと3学期制なら一学期のほとんどがマスゲームだということになる。
一日の大半をつぶすというのは、自分も経験はあるから分かりますね。すべての学校がどうなのかはちょっと分からないけれど。
これはひょっとして記憶違いか誇張表現ではないかと思ってしまう。(言いたいことはおおまかには分かるけれど少し割り引いたほうがよいかな、と。)
あと、朝礼は窮屈で息苦しくて、倒れる子もしょっちゅういたり、倒れない人もたおれかけで苦しいもので、やめたほうがいいと思います。討論とかするところじゃないし、やらせ質問とかいかにもやりそうな環境ではちょっと。

結局、教科書・授業・ノート・テストを偏愛するたちが、学校の社交機能やしつけ機能を攻撃すると。
しかしどうなのかなあ。別に海外だけが絶対じゃないけれど、ある程度礼儀とか教えるのはそこに若い世代がいる以上当然生じる行動という気もします。
昔、中世・ルネッサンス期の音楽の本で読んだのですが、中世のヨーロッパの大学でも、勉学とともに貴族社会の礼儀を仕込んだそうですし。そうやって教会に拾われた捨て子が立身出世の機会をつかむこともあった。
そういう機能を全部廃止するのが妥当か、分かりかねます。

こういう「高学力」層が、半ば予備校のような進学校以外を軽蔑して、一般公立校(文化)を侮蔑・排除するのもまた何度も見た風景です。

こういう話って、勉強さえやっていれば社交とか礼儀その他は放任だった受験貴族が、学閥だけでは閨閥にかなわないことを庶民層のせいにしながら、エリート意識を保存する運動なのかと思ってしまいます。

あとは補足なんですけど。

不登校するのでもなければ、だいたい学校で掃除もクラブもやったうえで塾にも通う子が大半じゃないのか?

ここでこの種の論者のひとつのサンプルを提出しましょう。
名古屋でとあるフリースペースを主催していた方が、立教の女子中学→高校→大学→院とすすんでおられたのですよ。
彼女は、私立のそうした選抜された自由な学校に行けば管理教育など関係ない、そういうところを選べばいいのよ、が口癖でした。
かなりエリート主義的で排他的な方でした。それでも主観的には誰よりもリベラルのつもりなんですよ。
つっこんで話を聞くと、その学校でも陰湿ないじめとかピアプレッシャーはあったようだし、フリースクールやオルタナテイブ学校と比せばかなり授業等の選択肢が少なく、運営も透明・民主的とはいえません。
また、「あわない人は来なくていい」というのでは、やはり弱者排除、あるいは批判派つぶし、スキャンダル隠しに使われる可能性もある。で、そこからいわばリストラされた層はどこへ行く、ということについては議論停止。
登校拒否も、ある種の文化エリートとしてとらえているようで、わたしとは終始話がかみあいませんでした。
全員が選抜されることはないこと、そういったタイプの学校は東京等大都市に集中すること、金持ちや低「学力」者には近寄りがたい雰囲気であることなどは、ついぞ理解していません。
また、選抜自体が妥当かについてもまったく意識がありませんでした。
いわゆる「失敗」している他の不登校の親や子にも、傲慢に見下す姿勢を崩さず、
福祉関係の人なのですが、日雇い労働者や「障害」者を理解しようとしないでいわゆる中流文化をおしつけて当然とする発想にはずっと違和感がありました。
いわゆる都市下層とか田舎の人間が警戒し嫌う「建前・ファッションとしてリベラルなことを言いつつ、実は傲慢で冷たい利己主義で二枚舌のインテリ」という像の典型です。

塾禁止VS塾礼賛が、右と左のように表裏一体をなしているという指摘も、当たっているんじゃないでしょうか。

学校も塾も相互補完的なもの。そこに無理に対立を作り出す。だから端から見るとどこかわざとっぽく見えてしまう。
肝心の、塾にアクセスできない層との不公平をどうするとか、競争激化で不本意に塾に行かざるを得ない人の選択権はどうするといった議論には届かないのですね。
中高一貫の男女別学校に通う子のうちかなりの部分は、同時に塾・家庭教師も利用しているという現実も有名であることを考慮しても、しらじらしい。

問題の焦点は、学校か塾かではない。
学校で選抜されなければ国内的にも国際的にも悲惨な労働と生活しかない状況を緩和することを忘れたり隠したりしてはいけません。









ハラナさんへのトラックバック2コ目

2006年12月02日 00時01分06秒 | 教育・学習法
この記事は「タカマサの気まぐれ時評」の「文化資本・地域格差・受験文化」へのトラックバックです。


ハラナさん、荒っぽい記事にていねいなトラックバックをいただきありがとうございます。
論点落としなんてありません。ラフに書いたものだから(笑)。

そうですね。わたしのほうから付け加えることがあるとすれば。。。。

1.受験にはジェンダー差もある。若い世代になればなるほど差が縮まっているとはいえ、以前としてジェンダー格差は無視できない。

2.地方ー都市の格差とともに、日本では国公立と私立の格差が大きい。

の2点です。

1.ですが、やはり思春期以降、女の子は出来る子は女の子らしくないというアイデンテイティの混沌を経験すると思います。
また、男の子の間にも、勉強がよくでき=男の子らしさの証とする風潮はなくなりにくいのではないでしょうか。
周りの上の世代もタテマエでは否定しながらホンネではそれを認めたり求めたりする傾向は今も保守的な田舎を中心として存在します。

2.国公立ー私立の格差について。
やはり私立のほうが不利な労働市場にいると、いろんなつきあいを通じて思います。
また、国公立のほうが多少なりとも、たとえテストの枠内であっても因果関係、メカニズム、表現力や独創力などを発揮したほうが入れます。
私立文系のテスト文化は悲惨です。赤本を見比べるだけで明らかです。それも、早慶上智とか、関関同立などトップ・準トップの大学の入試であっても基本的に同じ傾向です。
以前予備校にいたころ、小論文の問題だけは東大と京大のものを講師が選び、解いたことがあります。それほど難しいとは思わなかった。僭越ながら、そのころ自分が書いていた文章のほうが難しかったような記憶も……(笑)。
京大・阪大の英語の過去問もやりましたけど、会話・発音がないのがいかにも学校英語。それに十代の若者に数十年前の文学や科学雑誌の記事みたいなのを読ますのはアホらしい。これじゃ近年の本や雑誌はかえって読めなくなる? 阪大の自由英作文はまあまあ面白かったような。京大の読解問題は、あれをマジでやると「現代思想おたく」ができそうですね(笑)。
国公立はまあテスト文化といっても相対的にはマシだし、入った後の周囲の対応も異質のようですね。それも、おかしなことに、偏差値が高い学校の問題のほうがやさしいというか、少なくともなじみのあるものが出題されているみたいです。
入ったあとの教員の期待度の差や、学生一人当たりの教員の数、学生ひとりあたりの図書館の本の数などをカウントしても、断然国公立有利でしょう。
ちょっとキャンプや合宿で雑談をしていても、国公立大出身者のほうがもれなく勉学しており、中途半端を嫌い、粘り強いといった傾向はあると思うんです。
それから、私立のちょっと名の知れたところを出た人のほうがロコツに人を見下し、そのための姑息な情報操作をします。ある関西の私大出の人が、学校の外で学び子どもたちを農場でタダ働きさせている業者を批判したフリースクーラーを口頭で紹介したさい、「で、そのAさんが、不登校の子らをムリヤリ働かせていた、ということですね」と切り替えされたときには、たいへん驚きました。

あともう少しくわしく展開したい点も。古本屋について。

関東の古本屋事情の紹介、ありがとう。関東の友人から、本郷と早稲田の前にはいっぱい古本屋があるという話は聞いてはいたのですが、まだ行ったことがありません。都丸書店、はじめて知りました。なんか、サイトをのぞいただけでスゴく充実してるっぽいお店ですね。

関西も大きな街ですから、大学とは別枠の古書店もあります。
梅田のカッパ横町にある阪急・古書の街はけっこうレアな専門書があります。
そのほか、上本町六丁目、三宮、河原町などには大きい街ゆえの古本屋があります。特に三宮の後藤書店は明治時代からの老舗です。そのほか京都の寺町通りは、昔お寺さんがあったところらしく、仏教書ばかりおいてある本屋・古本屋が点在し、その他小さくてもいい本屋・古本屋が高密度で営業しています。

ただ、田舎のほうは量・質共に難しいです。
さらに言うと、都会のほうが本を通じ他活発な議論・会話がある。
本好きが2人以上寄ると、最近読んだ本の話、互いの関心テーマにそって「それに関する○◎って本が大阪の中之島の図書館に置いてあるよ」などの会話がある。
こうして、人とつきあうために必要だし、読んでいればつきあいが盛り上がる環境がなければ、なかなか風変わりな本を読む気になれないでしょう。
そのための喫茶店文化もやはり都市・特に大都市のほうが充実・洗練されています。
梅田の紀伊国屋なんかそうなんですが、本屋で本好きの男の子が女の子をナンパするために本を読んで喫茶店に誘ったり(笑)、そういう日常的に楽しく本を読んだりおしゃべりしたりする文化ってなかなか田舎のほうでは難しい。


地方ー都市の格差について。

実家が田舎、実家の実家がもっと田舎なので痛感します。実家は人口50万の県庁所在地、母方の実家は人口十数万の小都市にあります。
人口十数万の都市にもなると、近所に高等教育機関がなく、塾も少なく、本屋にもあまり参考書が置いていません。大人たちの資格取得熱もあまり高くありません。
その町のブックオフ風の新しい古書店に入っても、京阪神圏ならコンビニにあるような品揃えしかありません。
辺鄙な村に行くと、小さい町・村に本屋がひとつもない、あるとしても販売システムの関係で、岩波新書がおけない店も珍しくありません。
これはネット世界にも反映されている。画面を通じて本が無料か格安価格で読めるようにならないかぎり、都会はますます読書に関する情報交換がネット。リアル双方でさかんになり、田舎はとりこぼされる。しかも、ネット普及以前であればそのことに劣等感や疎外感を感じずにすんだものが、感じるようになるだろう。

英才教育・エリート教育について

ダライ・ラマ方式というのか、一本釣りで、見る目のあるお師匠さんがこれはという育ててみたいお弟子さんを見つける。その子をていねいに育ててゆく。それしかないでしょうね。
親の財産と偏差値で上のほうの1割をとって……という方式では、普通よりもちょっと器用だとか、早熟だとかいう程度の大人でしょう。
日本の学校教育が硬直した学年制・クラス制に縛られていることも英才教育には向きません。学校に入学する時期も、同じ講義を受講する人も、前後2-3歳は異なっていて当然、という環境でなくては、本当の意味で同世代の競争といいがたいし、また先輩が自然と敬意を集めて年下の子のめんどうを見るということも起こらないでしょう。
とはいえ社会的隔離所・学校の枠内の改革ですけど。やらないよりはマシでしょ
う。
クラス制度については内藤 朝雄や宮台 真司らが広告しているとおり。廃止、もしくは柔軟な運用・形骸化が早急に求められています。
海陽型の新型エリート校は、財界年配者のヨーロッパ崇拝と集団エゴイズムのたまものですね。
エリート校とはいっても、歴史や伝統がないというのはもの足りない。どうしてこれまでのエリート校・準エリート校にテコ入れしてはいけないのかも、分からない。(別に灘・開成や旧制高校・旧制中学を礼賛しているわけではないのでご注意を。)
それに、本当に家柄のいい旧華族クラス(旧・子爵家・男爵家など)ともなると、東大に落ちたら学習院というコースを歩むわけで。そのまえにだいたい東京あたりの選抜型幼稚や小学校、遅くとも中等教育の時期にはブランドの学校に入って、旧華族、旧財閥、政治家らの子中心の交友圏を築くわけですね。
また社長家ならば、中等教育のうちからの海外留学、特にアメリカ留学もオプションのうちでしょう。
そういう人たちは海陽タイプの「和製イートン」あってもなくてもいいでしょう。

古い頭の親御さんが、旧制中学・旧制高校幻想をもって、子どもをそうした学校にやることは考えられます。ただし、人脈的に見て、日本の上流・上層のなかの亜流・傍流の地位にとどまる可能性は高いと思いますね。(まあそんなところも50年ほどもたてば立場が変わってくるでしょうが。)

あと、財界・政界の手厚い期待とバックアップを受けて開始された以上、いじめ、「体罰」、不登校、成績不良や怠学などのスキャンダルが、通常の私立名門校以上に徹底した情報操作によって隠される可能もあるのではないでしょうか。
大人ー子ども、教師ー生徒という上下関係があるかぎり、少々「自治的」にやろうとも、やはり教師による生徒へのいやがらせが起こることも、他のタイプの学校と同じく考えられるでしょう。
階級・階層が「上」であっても、密室の中で、経験・知識などに圧倒的に差があるものどうしが同居する以上、いじめも「体罰」も起こりうると自分なら考えます。
それから先輩・後輩関係も同じように大変でしょうね。












































「学力」格差という問題

2006年11月23日 14時03分55秒 | 教育・学習法
この記事は「タカマサの気まぐれ時評」http://blog.drecom.jp/tactac/archive/1225へのトラックバックです。


ハラナさん、まるでもぐらたたきのように 次々と おかしな報道が目につきますね。

地方の中流家庭出身者として言わしてください。

やはり格差を是正したいのなら、圧倒的に不利になりがちな地方に手当てを、という点には賛成です。

受験が大都市部の中流の子どもに有利なイカサマレースというのも事実です。
自分の弟が途中までは田舎のエリート準備コースだったこと、読む本の種類から、比較的高学歴の人とお話する機会が多い経験が自分にはあります。
それに、特に大学に行く気もないのに予備校に通っていた(通わされていた)時期もありました。

そういう経験・見聞からすると、受験というのは本当におかしなものです。
あんなものは公平な競争でも何でもありません。
ま、ここで論文やプレゼンなどを導入するともっと不公平だという批判もあるのですが、今の「学力」を重視していては、トフラー流に言えば「第三の波」の世界でやっていけないでしょう。
国内的にも国際的にも通用しない特殊テスト用ジャーゴン暗記、いい加減にやめたらいいのにと思います。

あと、私立中高一貫校、旧制中学だった高校、国立付属校などは、特に中等教育での抑圧が少ない分、知性が抑圧されないので相対的な有利を保っている面はあるでしょう。
また、そうした種類の学校に通っている子らは、そこに集まる子どもやその親らがいわゆる高い「教養」をもつので、受験づけにもかかわらず文化レベルを落とさずにすむのではないでしょうか。
正規の授業・教科書よりも、友達同士の自然発生的なお勉強系サークル活動や、文化資本の高い親御さんの助言やある種の文人趣味(漢詩・英書・楽器・骨董品ごのみなど)が、「知的雰囲気」を作り上げているということです。

「はやおしゲーム」系の人は、話してみれば分かりますね。質問に相手が即答しないと、イラついてそっぽを向いたり八つ当たりをしたりする。
それも人を見下しながら。
じっくり考えたり、いろんな角度から調べていったりするような会話は苦手。
正解はいつもひとつ、それも一言だと思い込んでいる。
話の段をつくるというのか、脈絡が分かるように説明できない。
ちゃんと要点をおさえられない。
端的に言って、こういう人は話し相手としてはつまらないです。

また、古本屋めぐりからも、言えることがあります。関西の私立大学の前の古本屋はあまりレベルが高くなくて面白くないです。(関西大学・立命館大学など。)
だけど元・国立大学の前の古本屋はけっこういい本があります。ちゃんと突っ込んでものを考えたい人、手抜き仕事がイヤな人のためのものがそろっているんです。(関西なら百万遍や大阪大学の前など)。
あと、旧制中学だった高校の近くの古本屋もまた、いいものがそろっています(大阪の十三)。

こういう要素もからんで、学力格差が出来ているわけですね。

それもネットの普及によって、場所が絶対性を失っています。
ただし、ネットの普及があっても、やはり昔からかたい本を読む層はそういうサイトばかり見る傾向もあります。
以前の地政学的な有利・不利は解消せず、ネット時代にも持ち越されたと見るべきでしょう。

そうとう大きな問題で、どうしたらいいのか決定打はわかりません。
ただ、何の手当てもしないでもいいわけではないのは確かです。
のんびりした田舎は競争のはげしい都市と比べていいところだ、なんてヨタ話につきあってはいられない。
こういう話は都会人をなごませ、田舎者の劣等感をなぐさめます。しかし現実を無視したり歪曲したりするお話は、百害あって一理なしです。



コメント転載

2005年09月13日 20時06分02秒 | 教育・学習法
↓ は、「たゆたえど沈まず」というブログの「体罰についての私見」という記事。http://plus-ultra.cocolog-nifty.com/ultra/2005/08/post_8480.html#c3937323
のコメント欄に書いた文章ですーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遅ればせながら、新ブログ開設おめでとうございます。

>暴力は癖になる。
>特に正当化された暴力は癖になる。

そうだと思います。

>コントロールして暴力を振るうことが出来るな>んて、暴力を振るいながら一方で「おまえの
>ためを思っている」なんて、私には生涯到達
>できない神の境地だろう。

教師その他教育者とか指導者を神扱いするのは危険ですね。やめたほうがいい。

>深く反省した。相手を傷つけたことにでは
>なく、そうしたおおごとを招いてしまったことを

いい視点だと思います。というのは、肉体的にも精神的にも相手の痛みなど、実際には分かりようもないので。「相手の身になれ」をバカ正直に実行すると、際限なく相手のプライバシーや内心を聞き出さねばならなくなる。すると、相手に不要な負担をかけ、肉体的にも精神的にも困難を増やすことになる。
社会的に、暴力を振るうと信用がなくなる、軽蔑される、法に触れる…という点を強調したほうがいい。でなければ、うまくかわせなかったとして被害者が不当な責めを負う。加害者も、
永遠に苦しむことになるか、上っ面だけの謝罪・反省におわってしまう。

>ここだけの話、あれくらい鈍感でないと教師
>は務まらないのだろう。(中略)彼らは教師に
>向いていないがゆえに、教師に向いている。

鋭い指摘です。こういう神経していないと、教員にはならないし、なれない。なったとしても、しばらくすれば転職してしまう。

>私は教育を根本的に信頼していないのかも
>知れない。

本当にそうだと思います。教育には、教えるものが神の視点にたってしまう危うさがつきまといます。相手が子どもや未熟者だからといって、教えることにかこつけて相手を殴ったり、閉じこめたり、恥辱を与えたりする。内申書裁判の原告だった保坂展人さんは、学園闘争に参加したために、当時の中学校から出席妨害・監禁・暴行を受けています。文明批評家のイリイチは、近代になって画一的な発展などとともに神聖視されるにいたった教育を、神の意思にそむくものとして批判しています。わたしも、教育は、できればないほうがいいくらいに考えています。もし受けるとしても、処世術上の必要悪でしょう。

名前: ぱれいしあ | September 13, 2005 08:04 PM


学力は社会によって

2005年09月13日 19時10分40秒 | 教育・学習法
↓ 以前、高専に通っていたことのある方のサイトを見て考えさせられた。
http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/impression.htm#050901

 そういえば、ある理工系の教官から、優秀な高専出身の技官について聞かされたことがある。その人は、がんばり屋で、単なるアシスタントではなく、事実上、共同研究者だったそうだ。その教授の研究内容をすみずみまで知っていて、知識・技術・アイデアともに豊富だという。
 だけど、彼は教授にはなれない。学歴のカベがあるからだ、とその教授は語った。ちなみに、その教授は、地方国立大学で学士号→関西の公立大学で修士号→関西の旧七帝大の博士号というルートをたどっている。彼は、毛色のかわった人間への、地方国立大学での「よそもの」へのいやがらせに足をとられて少し昇進は遅れたものの、最終的には教授になっている。学歴による身分格差と言えるのではないだろうか。
 ↑ のサイトに、高専出身者は教養が足りないという悪口も紹介されている。その教授の話していた技官の人は、海に潜って魚をとるのが得意だった。どこに魚がいて、どうすればうまくつかまえられるかについてとても詳しいのだ。彼は、たくさんとれた魚をクーラーボックスにつめて、教授の家に持っていった。すると、奥さんや子どもたちに喜ばれていたという。こうした海の知識・技術を教養、または学力とみなさないのは、偏狭な学校的感受性・学校的評価というものだろう。それは、近代西洋に偏ったイデオロギーに基づたものだ。
 結局、↑ の野村さんのサイトの記述を見ても、学力というのは、社会のニーズにあわせてつくられるのではないかと思う。学力の意味やニュアンスが不明確なのは、必然なのだ。「○○卒は△△の学力を有するものとみなす」というのは、時の政策によって、かなり左右されるのではないだろうか?
 一方、それは、産業界と、産業界との利益の合致する政府の要請する学力だ。ならば、別のタイプの学力もある、とも考えられる。
 教育世界独自の判断による学力。時代の流行・男性中心や白人中心の知識・文化を問い直す学力。や黒人コミュニティの改善のための学力。先住民のもつ川や森の知識、などなど。
 学ぶ行為も、社会とのかかわりのなかでなされる以上、100%周囲の社会やコミュニティの影響・要請から自由ではない。そのなかで、ある一定の自律性を保った学力とは? 人をハイアラキカルに選別しなくてもよいとき、学力の格差を問題にしたり、学力の上昇や低下を計測したりすることの意味は消え去るのではないだろうか?

(9/17読みやすくするために一部の表現をあらためました。大意は変わりません。)
 

 

地域にとっての学力って何?

2005年09月05日 18時42分29秒 | 教育・学習法
おじゃまします。TB・コメントありがとうございます。

学校知は、地方の知識を貶め・殺しながら発展してきたんですね。方言をとりしまったり、「エリート」らの運営する最先端の工場が、石牟礼道子さんが「苦海浄土」で紹介した水俣のように、生きる基盤としての漁師の知識・技術をうばってしまったり。
P・フレイレが、「希望の教育学」で、識字教育がらみでブラジルの海岸地方の漁師の船の位置の決め方が合理的だと、「教師がすべてを知るわけではなく、生徒がすべてを知らないわけでもない」例としてあげていたのを思い出しました。
今は、少しずつ地元の知識や文化と科学や学校知を隔絶または対立したものときめつけずに、双方尊重しようとする動きもあります。(たとえば「ビオストーリー」第1号(昭和堂)の投稿論文(2)多元的現実としての生き物―兵庫県但馬地方におけるコウノトリをめぐる「語り」から)木村さんの報告によると、学校教育のなかではまだまだのようですね。

それから、過疎について。これは、地方の権威主義からの脱出でもあると思います。わたしの田舎はとても保守的で、一種の貧困の文化というのか、中産階級流の趣味をもつと、いじめ・いびりがひどいです。
その窮屈さ・残酷さに嫌気がさして、東京や大阪の大学に行く人はあとをたちません。
バブル崩壊後、本来なら東京や大阪の大学に行けるのに地方にとどまった人は、精神をやられています。
なお、地方に分権をすれば、よりいっそうの地域ファッショ化がすすむ危険性もあります。
地域を植民地化しない「学力」を、地域の歴史・伝統のよい部分をうけつぎ、かつ新しい知識・技術とどう組み合わせるのか、むつかしい課題だと思います。もちろん、教育だけで解決できる問題ではなく、政策的なものも求められます。

ただ、疑問に思うのですが、ここでの学力とは何ですか?
達成? 資格? 

学力に関してはこれまでも大いに議論されています。同じテストを違う教師が採点すると大幅に点数がズレるとか、同じ教師が同じテストを別の時間に採点すると別の点数になるといった実験もあります。また、学校の学力は、会社や日常生活では役に立たないという意見もあります。テストが終われば忘れてしまうとか、学校を出て1~2年もたてば忘れてしまう学力を「剥落する学力」「頭のなかに間借りしている学力」として批判するむきもあった。(よりくわしくは、中内敏雄『学力とは何か』岩波新書1983を参照)
いっぽうで、一度学習したことは忘れても復習しやすいとする抗弁もある。やる気の格差(苅谷剛彦さんの言うインテンシブ・デバイド)なんて、アメリカの貧困層の「発達の遅れ」にからむ研究でも言及ずみなので、特に目新しい話題ではないと思います。(よりくわしくは波多野誼余夫と稲垣佳世子「知力の発達--乳幼児から老人まで--」岩波新書1977.1984を参照)
そのほか、テストの点数も、やはり金持ちのほうが有利で、貧乏な層ほど悪くなる傾向もある。学力≒金力という図式ですね。(くわしくは、ブルデュ-&パスロン、バーンステイン等を参照)
木村先生のお話では、地域にとってよき政策立案のできる人間をつくる地域エリート教育のための教科書が求められているという意味なんでしょうか? そのへん、端的にナゾです。