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学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

NPOによるタイ南部への支援

2005年01月06日 01時00分59秒 | 開発・貧困
 NPOのJVCが、スマトラ沖大地震・津波の被害を受けたタイ南部へのボランティアと募金をしています。
 わたしは今ボランティアに行ける状態でありませんが、行ける方はJVCを通じて行くのがよいのではないでしょうか? 募金はアマゾンや赤十字も集めていました。きっとたくさんのお金が必要なのでしょう。復興には時間がかかり、少しあとになってからもまだ募金もボランティアも必要になるかもしれません。犠牲者を悼みつつ、生き残った人たちのことも考える必要があります。
 競争と放置ではなく、求められているのは連帯です。今後も社会的連帯には関心を失わないでいたいものです。
 
 
 
 

 
 

南アジアの地震と津波

2004年12月31日 13時41分14秒 | 開発・貧困
 スマトラ沖の地震について、みなさんもニュースなどで目にしていらっしゃるでしょう。
 犠牲者はまだまだ出るでしょう。

 むなぐるまさんのブログで知ったのですが、アメリカのAmazonのほか、日本赤十字も寄付を募っています。
 経済状況の厳しい時期ですが、よろしければ寄付を願います。もしご自分が寄付できないのなら、ほかのゆとりのありそうな方に声をおかけください。




貧しさは道徳的な悪か?

2004年10月27日 01時58分50秒 | 開発・貧困
貧しいから悪いのか? 難しい問題だ。

一口に貧しさといってもいろいろある。
自分の意思によって選んだ貧しであれば、あまり苦痛ではないし、周りの軽蔑も少ない。そうでなければ耐えがたい。
また、時代や地域によって、貧しさへの見方は星の数ほどある。
それが罪悪視されるようになったのは、勤勉道徳が一般的になる近代以降だろう。

貧しさが一律に罪悪視され、断罪され、侮辱される文化環境はマトモなのか?

インドの行者への尊敬、四国88箇所のお遍路さんへの地元の歓待を見るに、それはたいへん精神的に貧困な、物質崇拝の激しい世界ではないだろうか?

もちろん、餓死すれすれとか、水もなくて「干からびる(神保)」状態では、こんなことは言えない。それでも、節度のある生活を送り、カネやモノ中心ではない心や関係というものを愛する世界は、貧しさを忌み嫌い、遠ざけ、隔離さえする世界に比べて豊かではないだろうか? 中産階級中心の文化と距離をとれるかどうか。それが、たとえばホームレス排除やアメリカの要塞都市といった殺伐とした行為に賛成するかどうかのメルクマールである。

Shiro さんは信仰により「貧しきものは幸い」と主張している。
それが悲惨さの隠蔽に当たらないかぎりは、わたしはこの主張に賛成する。
人類は、これまで貧しい中を生きてきた。時に食料に欠きながら、歌い・踊り・家を作り、暮らしてきた。それを、現在の大量消費・大量生産文明の先進国の中産階級の基準を持って侮辱してはならないと思う。の伝えた歌舞伎を、その他の文化をあなどってはならない。

岡倉天心が「東洋の理想」で紹介しているのだが、唐の太宗皇帝は、民が餓えているのを知って食を断った。高倉天皇(一説には安徳天皇)は、民が寒さに餓えているのを知って着物をお脱ぎになられた。昔ヴィデオで見たのだが、アフリカの採集狩猟民ピグミー(ムブティ)は、食料が手に入らないときに、みなで平等に餓えに対峙する。それゆえのストレスで暴れる人がいても、大目に見ていた。
こうした弱者へのいたわり、餓えるときにはともに餓えようという強い絆、それらを失って世界の富を独り占めするのが果たして道徳的に正しいと言えるのか? 貧しい他者をあわれんだり見下したりする資格があるのか? 答えはNOだ。

フリーターや引きこもりやNEETを罪悪視し、清潔な社会のなかの「ケガレ」扱いする憎しみに満ちた論説は、まともではない。労働者階級や中世以前や第三世界や各先住民の文化に学びながら、もう一度、貧しさは絶対にいけないのかどうかを、検討することは重要な論点である。




「自分たちは持っているんじゃないか」

2004年10月07日 02時44分09秒 | 開発・貧困
 ブックマークにも入れてあるvideonews.comに、丸劇トーク・オン・デマンドという番組がある。
その最新回を見たら、Mekong Watch(これは今回ブックマークに入れました) の松本悟さんが出演していた。

 インドシナ半島を流れるメコン川流域の開発と援助を行うなかで気づいたこと・考えたことを、神保さんの司会に沿って話していった。
 とりわけ印象的だったのは、ダム開発のために立ち退きを迫られた村人たちが「自分たちは貧しくない」と主張すると松本さんが紹介したところ。
 彼によると、村人は「自分たちは貧しくない。外から援助の人が入ってきてはじめて貧しいと意識しはじめた」そしてノルタルジーではなく「自分たちはもっているんじゃないか」と言う。
 この議論じたいはマジット・ラーネマたちが指摘していた(1)。
 
 話をvideonewsの松本さんの語りに戻そう。欧米近代文明、それを基盤とした学校教育の中のエリートが世界銀行に就職する。そして経済的・教育的に「貧しい」「遅れた」人々を「善導」すると語りながら、実は収奪し、かつてあった社会の中の幸福を破壊している。
 欧米近代文明のおごり・高ぶり。単一のものさしで人の生活をはかり、スコア向上のために数字になりにくい豊かさを切り取ってゆく。
 
 これは、不登校やひきこもりへのバッシングと擁護とも重なる構図がある。みなと同じではないとみなされることは学校世界では絶対悪である。それが明らかにされるや否や、果てしない矯正が始まる。拒否権はない。「自分たちは豊かだ」と言えば、「ルサンチマン」と精神科医と頭が医療化された素人が傲慢な説教をしてくる。
 そして、学校教育でスコアにあがらないものーー競争よりも協力または個の独立は罪悪視され、スポイルされてゆく。英語・数学といった特定の「重要科目」への没頭のなさは、世界で最もダメなこととされる。
 「こころの教育」導入後は、それらがただひとつの「正しいこころ」の合致とみなされる恐れもある。
 
 こうした進歩の暴走、開発(能力や内面の開発も含む)への信仰はなんとかならないものだろうか? トリクル・ダウン神話によって貧困対策を放置したり、鉱山・ダム・水の開発によってそこにもとある豊かさを壊滅させてきた。「森はお金のいらないスーパーマーケット」だという。食べられる草がどこに生えているか、薬草はどれかを見分ける知恵があるのだ。それも静養近代文明は壊しつつある。

 松本さんによれば、80年代の構造改革プロジェクト批判から学んで、世銀もプランに改良を加えたという。しかし援助は止まらない。ということは、いつまでたっても貧困は緩和されないということだ。長年巨額の資金を投入しながら、これといった効果はあがっていない。それどころか、神保さんによれば、スーザン・ジョージが「なぜ世界の1/2は飢えるのか」と問うたころとは違って、今では世界の1/5が飢えるどころか「干からび」ている。 

 先進国で都市化・郊外化された生活を送る人々の身近なところから、この動きに歯止めをかけられないだろうか?
 貧しい人を道徳的に誤ったった存在だとみなして責めないこと。コンビニとかファミレスの利用は控えること。これ以上の学校教育を求めないこと。少々高くても有機野菜を買うこと。風力発電など自然エネルギーを推進すること。狩猟・採集の技術を学校の外で学ぶ機会を設けること。ブランド崇拝をやめること。新しいもの崇拝もやめて伝統文化を大切にすること。ホームレスに喜捨をすること。(2)
 そう、ラオスの村人のいうとおり、「わたしたちはもっている」のだから。周りが「貧しい」と言おうが気にせず、わが道を行こうではないか。経済的に、文化的に、知的に貧しいと誰が言おうと忌ちゃいけない。学校・家庭・地域でしこまれたピア・プレッシャーへの奴隷根性を断ち切って、反省された伝統に戻ろうではないか(この段落は脱学校仲間への呼びかけ)。

 社会の全体のなかでの伝統と近代の配合比率の問題はまだまだ先のことである。今は、これ以上の開発に、計画に、援助に、市場化圧力に抵抗する必要がある。開発によって貧しくされることには充分に懐疑的であるべきだ。

(2004/10/18 趣旨を変えない程度に手を入れました。誤字脱字の訂正と文章の乱れの修正です。大意に変わりはありません。)


(1)ウォルフガング・ザックス編 イヴァン・イリッチ他著 三浦清隆他訳『脱「開発」の時代ーー現代社会を解読するキーワード辞典ーー』晶文社1996(原著は1992)マジット・ラーネマ 貧困 PP221-242 
(2)四国88箇所の「お遍路さん」を歩く人は、この点よくご存知なのではないだろうか?