杉田俊介ならびにでみあんという二人のストーカーのとんでもない汚い悪口からこのサイトを知られた方へ。
あの二人はたくみに話をでっちあげて、このサイトとは関係のない論争に人を巻き込み、傷つけ、疲弊させました。
そのおかげで数年、このブログを更新することもできなくなりました。
そのときの、「また、いつかあいつらにどんな形で精神的ダメージを与えられたり名誉を傷つけられたりプライバシー情報を漏洩されるかわからない。そのことによって、誤解をとくため・自己弁護の便宜上、やむなく別の個人情報も差し出すはめにさせられたら耐えられない」という根源的不安・恐怖にかられました。
某巨大掲示板での杉田の受動的攻撃性とも呼ぶべき批判ではない悪口は、わたしとの利害対立を考えると、杉田俊介やそのとりまきがわざわざわたしを装う形で書いた可能性もあるかもしれないとわたしはにらんでいます。
なお、杉田俊介ならびにでみあんとわたしとの間に、週刊誌のゴシップとなるような関係は一切ありません。
でみあんとは一面識もありませんし、杉田とは「フリーターズ・フリー」という雑誌の説明・打ち合わせのために一度顔をあわせたにすぎません。
また、二人とも、mixiのなかでの「マイミク」ではありません。
したがって、二人はわたしのマイミクにだけ公開する日記等の情報は見ていません。
にもかかわらず非常になれなれしく、彼らの手下かモノ
であるかのようにわたしを扱います。
この二人から独立した自分の人格を無視した非常につまらない、そして勝手な交渉・論争をやられて、迷惑しています。
それはわたしを傷つけ落ち込ませる効果はあっても、元気づける要素は皆無です。
体調、それにもともとの考えや性格のこともあり、わたしは片っ端からめちゃくちゃなことを書く杉田のようなものと争うことはしたくないと考えています。
心の師・イリイチが、ラテンアメリカの立場に立ってアメリカの進歩のための同盟に反対したとき、バチカンからの異端審問を受けたときにバチカンと闘わなかったこと。
それにわたしは学びたいと思っています。
しかしその思いが定まる前に勝手にでみあんは、頼んでも望んでもいないのにわたしの代弁者として杉田との交渉に入りました。
体調がいい・悪いといったまさにプライベートに属することは、わたし自身にそれを出すか・出さないかを決める権利があり、憲法保障されています。それがプライバシーの権利です。
それをでみあんは、杉田とともにふみにじったのです。また、体調を論争にもちこんでも、非論理的と言わざるを得ません。
そこで論じられている複数のテーマから離れたことを話題にもちこむのは、単なるノイズです。
しかし、わたしが論争をもしやるならやるべきではないし、やらないほうがいいと思っていることをなぜかわざわざでみあんはやってくれたわけです。小さな親切、大きなお世話とはこのことです。
この二人のやったことは許せないと思います。
しかし、いろんな事情も作戦もあり、わたしは今すぐに争う資金も社会的地位もないのです。
ならば、立ち去るほかありません。
つまり、このブログ、それに杉田にリンクされてしまった別のブログもいったんしめて、もう一度別のサイトを立て直してやるほかありません。
それが熟考したうえでのわたし自身の決定です。
でみあんは、突然のストーカー杉田の罠にかけられ狼狽し、めまい、動悸、耳鳴り、汗をいつも以上にかく、吐き気、不整脈等のストレスゆえのショック症状にみまわれたわたしを無視して独りよがりな正義の味方を気取ったにすぎません。
しかしそれは、時には作戦としてなにもしないことが最上であるということをまったく理解しないふざけたやり口です。
でみあんは、ノーベル賞もノーベル経済学賞も区別なく崇拝しているようです。
そのような批判精神のない人に自分の弁護士役をやってほしいとわたしはちっとも思わない。
杉田は、ここは週刊誌的な月旦評を書くところではないため、わたしの一度だけ観察した彼の人物について書きたくありません。
しかし、あまりよい感触はえなかった、むしろ土屋トカチ監督の「フツーの仕事をしたい」に出てくる工藤という企業舎弟風の男とおなじような感じでわたしに因縁をふっかけてきた、それは大変恐ろしかったということだけは言っておきましょう。
彼はなぜかわたしに攻撃性や憎悪を見出し、それがなければ作り上げる人物です。
しかし、それは彼のほうにより顕著に見出せたというほかありません。
まあ、憎悪も攻撃もどんな生物または人間にも見出せるもので、それがあるからといって大騒ぎするのは間違っているのかもしれません。
わたしたちは、いつ人を殺すかもしれない存在です。
イタリアの精神病院廃止運動では、医者が患者が殺人をするか否かは見通せないこと、逆に言えばわたしたちはみないつどこで殺人をするかわからない存在であるということがその根拠になっています。
動物行動学でも、すべての動物には攻撃性があるという前提を立てています。
問題は、その攻撃性が、特定の有徴化されたグループ(たとえばフリーターとか不登校とか外国人とか)だけに見出せる、だからといってその人をこよなくたたくことです。
なお、憎しみや攻撃は小出しにしているかぎりは大したことがないので、あまり抑圧せず、絶対悪視しないほうがいいというのがわたしがフリースクールやテント村から学んだことです。
憎しみや攻撃を野蛮だというのは、文明の傲慢というものです。
わたしは憎しみがなくなることなど望みません。ないものねだりはしないということです。
ただ、憎しみをやみくもに抑圧する教育やしつけならいりません。それは偽善そのものです。
(18:04 2010-8-13 文意を損なわない程度に微調整をほどこしました。)
あの二人はたくみに話をでっちあげて、このサイトとは関係のない論争に人を巻き込み、傷つけ、疲弊させました。
そのおかげで数年、このブログを更新することもできなくなりました。
そのときの、「また、いつかあいつらにどんな形で精神的ダメージを与えられたり名誉を傷つけられたりプライバシー情報を漏洩されるかわからない。そのことによって、誤解をとくため・自己弁護の便宜上、やむなく別の個人情報も差し出すはめにさせられたら耐えられない」という根源的不安・恐怖にかられました。
某巨大掲示板での杉田の受動的攻撃性とも呼ぶべき批判ではない悪口は、わたしとの利害対立を考えると、杉田俊介やそのとりまきがわざわざわたしを装う形で書いた可能性もあるかもしれないとわたしはにらんでいます。
なお、杉田俊介ならびにでみあんとわたしとの間に、週刊誌のゴシップとなるような関係は一切ありません。
でみあんとは一面識もありませんし、杉田とは「フリーターズ・フリー」という雑誌の説明・打ち合わせのために一度顔をあわせたにすぎません。
また、二人とも、mixiのなかでの「マイミク」ではありません。
したがって、二人はわたしのマイミクにだけ公開する日記等の情報は見ていません。
にもかかわらず非常になれなれしく、彼らの手下かモノ
であるかのようにわたしを扱います。
この二人から独立した自分の人格を無視した非常につまらない、そして勝手な交渉・論争をやられて、迷惑しています。
それはわたしを傷つけ落ち込ませる効果はあっても、元気づける要素は皆無です。
体調、それにもともとの考えや性格のこともあり、わたしは片っ端からめちゃくちゃなことを書く杉田のようなものと争うことはしたくないと考えています。
心の師・イリイチが、ラテンアメリカの立場に立ってアメリカの進歩のための同盟に反対したとき、バチカンからの異端審問を受けたときにバチカンと闘わなかったこと。
それにわたしは学びたいと思っています。
しかしその思いが定まる前に勝手にでみあんは、頼んでも望んでもいないのにわたしの代弁者として杉田との交渉に入りました。
体調がいい・悪いといったまさにプライベートに属することは、わたし自身にそれを出すか・出さないかを決める権利があり、憲法保障されています。それがプライバシーの権利です。
それをでみあんは、杉田とともにふみにじったのです。また、体調を論争にもちこんでも、非論理的と言わざるを得ません。
そこで論じられている複数のテーマから離れたことを話題にもちこむのは、単なるノイズです。
しかし、わたしが論争をもしやるならやるべきではないし、やらないほうがいいと思っていることをなぜかわざわざでみあんはやってくれたわけです。小さな親切、大きなお世話とはこのことです。
この二人のやったことは許せないと思います。
しかし、いろんな事情も作戦もあり、わたしは今すぐに争う資金も社会的地位もないのです。
ならば、立ち去るほかありません。
つまり、このブログ、それに杉田にリンクされてしまった別のブログもいったんしめて、もう一度別のサイトを立て直してやるほかありません。
それが熟考したうえでのわたし自身の決定です。
でみあんは、突然のストーカー杉田の罠にかけられ狼狽し、めまい、動悸、耳鳴り、汗をいつも以上にかく、吐き気、不整脈等のストレスゆえのショック症状にみまわれたわたしを無視して独りよがりな正義の味方を気取ったにすぎません。
しかしそれは、時には作戦としてなにもしないことが最上であるということをまったく理解しないふざけたやり口です。
でみあんは、ノーベル賞もノーベル経済学賞も区別なく崇拝しているようです。
そのような批判精神のない人に自分の弁護士役をやってほしいとわたしはちっとも思わない。
杉田は、ここは週刊誌的な月旦評を書くところではないため、わたしの一度だけ観察した彼の人物について書きたくありません。
しかし、あまりよい感触はえなかった、むしろ土屋トカチ監督の「フツーの仕事をしたい」に出てくる工藤という企業舎弟風の男とおなじような感じでわたしに因縁をふっかけてきた、それは大変恐ろしかったということだけは言っておきましょう。
彼はなぜかわたしに攻撃性や憎悪を見出し、それがなければ作り上げる人物です。
しかし、それは彼のほうにより顕著に見出せたというほかありません。
まあ、憎悪も攻撃もどんな生物または人間にも見出せるもので、それがあるからといって大騒ぎするのは間違っているのかもしれません。
わたしたちは、いつ人を殺すかもしれない存在です。
イタリアの精神病院廃止運動では、医者が患者が殺人をするか否かは見通せないこと、逆に言えばわたしたちはみないつどこで殺人をするかわからない存在であるということがその根拠になっています。
動物行動学でも、すべての動物には攻撃性があるという前提を立てています。
問題は、その攻撃性が、特定の有徴化されたグループ(たとえばフリーターとか不登校とか外国人とか)だけに見出せる、だからといってその人をこよなくたたくことです。
なお、憎しみや攻撃は小出しにしているかぎりは大したことがないので、あまり抑圧せず、絶対悪視しないほうがいいというのがわたしがフリースクールやテント村から学んだことです。
憎しみや攻撃を野蛮だというのは、文明の傲慢というものです。
わたしは憎しみがなくなることなど望みません。ないものねだりはしないということです。
ただ、憎しみをやみくもに抑圧する教育やしつけならいりません。それは偽善そのものです。
(18:04 2010-8-13 文意を損なわない程度に微調整をほどこしました。)