学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

南アジアの地震と津波

2004年12月31日 13時41分14秒 | 開発・貧困
 スマトラ沖の地震について、みなさんもニュースなどで目にしていらっしゃるでしょう。
 犠牲者はまだまだ出るでしょう。

 むなぐるまさんのブログで知ったのですが、アメリカのAmazonのほか、日本赤十字も寄付を募っています。
 経済状況の厳しい時期ですが、よろしければ寄付を願います。もしご自分が寄付できないのなら、ほかのゆとりのありそうな方に声をおかけください。




市民団体の課題

2004年12月29日 11時33分44秒 | weblog
 ガ島通信で、平和をはじめとする市民団体への苦言が載っていた。

 すべてを理解したり賛成したりするわけではない。しかし、面白いし、当たっていると思うことが大半だった。

 実は、わたしは以前ある平和市民団体にいた。しかし、その中でのプチ・ファショともいうべき共同体主義に苦しめられたので、そこを辞めた。
 その団体のなかでも、おかしなことはあった。
 小汚い格好というのは、実際にホームレスや失業者・半失業者、低所得者の人たちもデモにやってくる以上、仕方がないところもある。軽い慢性的なウツ状態の人に、思いやりもなく「もっとおしゃれにしろ」というのはムリなリクエストだ。そういう言説が大きくなると、年収300万以下の人はデモにこれない、といった事態になりかねない。その点には注意をしながら、せめてゆとりのある参加者はもう少しきれいめの格好を心がける程度でいいと思う。
 そういった団体のキーパーソンが、華やかでカラフルなものを生理的に嫌う。そのため、時に人をだましてでも明るくオシャレなデモやプラカードを作らせまいとすることも問題だ。わたしの関わったグループでは、デモで風船をリリースしようという案が出された。そのとき、世話人グループのうち数名は、「風船が海に届き、ウミガメがそれを飲み込んで死亡する」ことを根拠に反対し、勢いのよさで提案をボツにしてしまった。
 1匹や2匹が死亡しても、生態系全体には大した影響ではない。また、京都市内でリリースした風船が、大量に日本海や瀬戸内海に到着するとは限らない。不審に思ったので後日ネットで調べたところ、風船は天然ゴムでできているので自然分解し、環境に悪影響はないという内容のHPもあった。要するに、カラフルなもの、華やかなものがキライなので、リーダーのひとりがダダをこね、周囲のを抱きこみ、支配欲を満足させていただけだったのだ。

 また、その団体の中で、自分たちがいわゆる「共産党」とか「サヨク・プロ市民・過激派」とみなされる危険性についてあまりに認識がなっていないことにも驚かされた。その人たちは、都市ではなく田舎や郡部で、大学(町)ではなく地域やオフィスや工場で、「サヨク」がどのようなイメージで見られているのか、まったく知らない。
 わがまま、非常識、幼稚、失礼、勉強不足、自意識過剰、自信過剰、プライドが高すぎる、コミュニケーション能力ゼロ、友達や恋人がいない、暴力的、ヤクザみたい、キチガイめいている、世間知らず、極端に観念的、勘違いしまくり、知性も感性もない、人をバカにしている、お金持ちのお坊ちゃんの道楽、偽善的、欺瞞的、ルサンチマン、カッコ悪い、恥ずかしい、イケてない……。
 実際に半年間、デモやらミーティングやら飲み会にもつきあって、そうだと感じる。別に全員gではない。けれど、一部にでもそういう人がいれば、目立つものだ。たとえ統計的には誤差の範囲内であっても。世の中いろんな人がいるのだし、何百・何千と人が集まれば、わけのわからない人が一定の割合で存在するので仕方がないのだけれど……(^^;)。そんな人にも何か事情があるのかもしれず、基本的に寛容でありたいと思う。
 けれど、次のような場合は別だ。
 Ⅰ.人命に関わること。世話人のうち一人は、十数名をひきつれて、デモ中に意図的・組織的にバスの運行を妨害していた。通常の市民生活のジャマになったり、運動のイメージ・ダウンになるだけではない。もしその反戦アピールとは関連のない相手を選ばぬ敵対行為が人身事故につながったら、どうするつもりだったのだろう。自分たちがバスの下敷きになるかもしれないし、通行人や周囲の車を巻き込むリスクもあるのだ。
 Ⅱ.それに絡んで、機能集団の共同体化。ちなみにその世話人は、昔の学生運動にあこがれている20前後の学生。いつも絶叫調で怒鳴ったり叫んだりすごんだりしてばかりいる。そのため、周囲は怖がって誰も彼女に強いことを言えない。京都のある大学に在籍中なのだが、その大学はもと全共闘の教員が多数在籍している。元中核派や元赤軍派で責任者だった人間さえいるのだ。当然、そこの学閥は、反戦グループの中で主流の勢力となっている。そのバックの怖さ手伝って誰も彼女に注意できない。中間団体レベルでのファシズムの誕生である。
 主流のグループ以外の人間は、事実上意見を言う権利を奪われている。そこで、共同体のメンバーではないのに強く意見を言ったり、命令されていないのに気を利かせて会議のたたき台を作ったりした人間は、中傷・でっちあげ・無視・その他陰湿ないやがらせによって、スポイルされるか追い出される。なお、そのいやがらせのやり口は、企業のリストラと酷似している。「この共同体のなかでなら、何をやっても許される」といった今・ここでの専横がはびこる。一部のリーダー層以外は、それこそリーダーたちの気まぐれで殺されても仕方がない雰囲気だ。一部の人間の特権はあっても、誰にでもある人権は抑圧される。実際、あるサブリーダーは、燃え尽きた状態になり、3ヶ月ほどボランティアのできない状態になった。リーダーによる専制政治の犠牲者なのだ。

 それから、団体関係者は、リベラルなまたはサヨク系の家・学校・職場・地域の出身者が多い。大学関係者を中心に、かなり浮世離れしている。保守的なコミュニティにおいては、職場や地域でなるべく目立たないこと、特定の宗教や信条を持たないことなどは大変大きな価値である。
 怒鳴る、叫ぶ、殴りかかる身振りをする、といったことは、性格異常か文化不適応とみなされる。朝日新聞は捏造新聞であり、赤旗はまともな新聞だと思われていない。田舎の保守地域になれば、自民党以外は政党じゃない、自民党の政治家以外は政治家ではない、といった扱いはありふれている。ビラをまいたとか、デモに参加したといったことは、それが正しいかどうかは別として、村八分やリストラの理由づけには最適である。そういったことも分からないのは、世間知らずであり、幼稚である。頭が悪く、勉強不足、要領が悪いということになる。
 
 ところが、リベラルまたはサヨク系のコミュニティのなかでは、価値は逆転する。社会的な不正に憤りを覚え、デモのときには我先にマイクを握り、怒鳴ったり叫んだりすごんだりすることがリスペクトされる。赤旗や朝日新聞は、世界でもっとも良心的なクオリティ・ペーパーであり、世界を代表するかのように思われている。ニューヨーク・タイムスよりもガーディアンよりも、朝日新聞の方が高級なのだ! 
 なぜだか「怒る」ことが至上の価値となっている。しょうっちゅう何かに怒ること、あるいは相手を怒らせることが推奨される。「そんなに怒ると心臓に悪い」「怒るばかりでなく、具体的な政策は?」などというのは、野暮の骨頂である。正義の心が足りないのはダメだと顔に描いてある状態で、白い目を作って冷静な人をにらんでいる。
 保守に対して語りかける姿勢は平和団体には乏しい。サヨクやリベラルの仲間内で盛り上がっていればいいじゃない、という判断が強い。ただし、これではいつも同じメンバーで盛り上がることになる。当然、マンネリが生じる。マンネリを解決するために、何をするか。
 わたしの関わった団体では、ムリなスケジュールを押し付けて忙しくさせることと、学級崩壊状態のミーティング、それに社会的弱者へのいじめだった。一月に何度も講演や会議や集会を開く。本来自分でそのつど判断して行く・行かないを決めるはずになっているのに、リーダーは「行けるか?」とみなの前で何人かに聞く。
 おかしい。デモに行くことはいつから義務になったのか? 行けるかどうか人の能力を疑って、しかもみなの前でさらし者にしていいのか? 相手を信頼せず、個人の自律性を軽視した、強制動員にも似た行為だ。リーダーの冷酷さと征服欲の激しさは、せっかくの人のやる気をなえさせる。あたかも矯正収容収容所のような虚脱感と窮屈さが支配しているのだ。まるでナチス、まるでソ連。
 そもそも、リーダーのロリコン趣味とマザコン人格にあわせて、反戦映画の上映会は「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」といったラインナップじゃあ、来る人も来ないって! 
 え、「戦場のピアニスト」はキライ? そうでしょーねー。母子家庭手当ても奨学金も環境税も、福祉はみな国による財産権の侵害であり、廃止しろ。貧乏人や傷病者はそういう「連中」だけ集まってムラでも作って相互扶助して暮らせ。もし自分の家族や友人が交通事故にあってもそういうった生産性の低い人間を捨てる村に送り込む、という冷酷非道のリーダー弟、それに異を唱えられないヘタレのフォロアーであれば、そんなものでしょーねー。自分たちのファシストぶりがバレるとさすがに恥ずかしいのでしょー。そんな論理で喫茶店中に鳴り響く大声で責められたものだから、昔奨学金を使っていたある人は、いたたまれなくなってデモに来られなくなったのだけれど、そんなことは平和団体側にとってはどうでもいいいのでしょーねー。だから、次のような推測をされるですよ。
 小さな目で見る大きな世界をご覧あれ。

 立川でビラをまいただけで逮捕というのは、まったく不当で異常な事態であり、勝訴は当然だ。
しかし一方で、市民団体は、自らの偏狭さ、不適切さ、残酷さを反省すべきだとも思う。
 草の根レベルの理解と協力と応援が、市民団体の味方だ。だったら、一般庶民の嫌がることを意図的にくりかえすのは、やめるべきなのだ。他の組織では通じない特殊なルールやマナーは見直したほうがよい。グループ内ファシズム状態も解除すべきだ。軍隊よりも軍隊チックな暴力愛好カルチャーもやめるべきだ。
 特に人の首を切り落とす過激派と混同されたくないならば、そのことは大切なポイントだ。「とにかく、「自分たちはいいことをやっているんだから、他にどんなバカをやっても許される」的な勘違いだけはやめてもらいたい。



 
  
 
 
 
  

  

  


 
 

 
 
 
 

謙遜を取り戻せ!

2004年12月28日 16時53分53秒 | weblog
いまどきの横柄 

 shiroさんは、今の日本人は「へりくだりの精神」を忘れており、「横柄型システム」によって社会はまわっている、これを反省しろと批判する。(この記事はCHU CHO--!!!へのトラックバックです。ちょっと長くなりますが、どうして日本人が傲慢になったのか、それもアメリカ型の傲慢ではなく、もっと情けない無自覚・無責任タイプの傲慢となったのかについての試論です。)

 本当にもっともだ。
 特にここ10年ほどの変化として、アメリカ型の能力をアピールする習慣が広まった。それも、自分の実際の能力よりも数割くらいは過大評価して自己申告しなければならない。会社での習慣と価値観は、やがて日常世界をも侵食した。
 また、やはりここ十年、「自己責任」または「リスクをとれ」という言葉が、マスコミ等を通じて喧伝され、人口に膾炙した。あたかも人の口が会社になったかのようだった。
 それは、個人を過大評価する価値観の押し売りだったのではないだろうか? これらの言葉は、必要な相互扶助を否定し、互いが複雑に係わり合いつながっている世界の現実を単純化してみせる。ネイティブ・アメリカの格言・「ミタケ・オアシン(すべてはつながっている)」といった発想は、「何でも人のせいにするなよ!」という勇ましいセリフとともにかき消された。
 (なお、これらの言葉は、ネオリベを推進する勢力が、意図的に集中的に流した可能性も考えられる。)
 長期にわたる抵抗は苦手だと言われる日本人のこと、ほとんど反抗しないまま、内申書の点数を稼ぐ感覚で「責任をとれ!」と、失敗の理由を語る個人に攻撃をしかける。半分は点数稼ぎ、あと半分は嗜虐的な快楽によって、すさまじい表情や口調や目つきで精神的な攻撃が加えられる。
 犠牲になるのは、社会的な弱者だ。母子家庭出身者、障害者、フリーターやNEET、はては奨学金利用者にいたるまで、攻撃がしかけられる。

近代の傲慢?

 西洋近代文明は、個人の自我の確立をうながす。それは時に自信過剰・自意識過剰・傲慢といった害悪を生む。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。自我を持つのは大切なことだ。だが、やりすぎには気をつけよう。自我過剰は自我がないのと同じかそれ以上に始末が悪い。
 本来、このことは、自我を形成する十代半ばごろに、自我の大切さとともに伝えられなければならない人類の文化遺産だ。
 だが、たいていの中学校や高等学校では、こういったことを教えない。塾でも家でもそうだ。
 たまたま私の場合は登校拒否をした。親の縛りがきつかったため、行動の自由はなかったが、思考の自由はあった。本を読むことは比較的自由にやらせてもらった。
 図書館で、イリイチの脱学校論やフーコーの監獄批判、それにアリエスの子どもや死の歴史といった近代批判を入り口に、ニーチェやドストエフスキーを読むこともできた。(といっても全部日本語だったから、大したことはないのだけれど。とりあえず目を通したということで。)
 だが、「学校と家と塾のトライアングル(中森明夫)」に囲い込まれた(1)登校受容の人たちにはーーつまり大多数の日本人、なおかつ日本人らしい日本人ーーには、こういった示唆はない。
 建前では「自我の確立」が大切で、行き過ぎには注意しないと大変なことになるぞ、という警告を聞いたことがないのだ。それは何も偉そうに説教をするということではない。「こんな風に傲慢なことでは困る」「自分にとっても他人にとってもマイナスだ」といった会話や議論をすること自体がむつかしい。また、内なる声とでもいうのか、自分自身で気づく・悟る・勘づく機会もない。

わたしはどうしてできるのか
 アジアは西洋に対する東洋として他者に規定されることによって自己を形成してきた。なので当然、西洋の個人的自我主義とは距離を置いている。
 ヨーロッパは、Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に象徴される自我主義の発祥の地だ。しかし、だからこそ、自我主義の行き過ぎへの気づきのうながしがある。また、自我主義に対する解毒剤を用意してきた。ひとつは厚い歴史と伝統によって。もうひとつは近代が徹底するがために、近代批判を許容できるふところの深さによって。
 アメリカは悲惨だ。アジアの決して近代ヨーロッパに包摂されない独自性はなく、ヨーロッパのもつ反省や歴史の厚みがない。あるのはカネ。軍事力。MTVに代表される味気なさと安っぽさ、ハリウッド映画に見る単純さと善悪二元論。民主主義の堕落した形態としての反理性主義。どこにも自意識過剰を悲しんだり裁いたりできる余地はない。
 そして、アメリカの衛星国のような今の日本はさらに悲惨だ。以前はーー記憶をたどると80年代全般まではーー北東アジア文化圏としての美徳があった。今に比べれば、謙遜とか遠慮とか奥ゆかしさといった美徳があった。相手の遠慮や謙虚さが分からないと「人の気持ちが分からない(なんてダメだね。)」「そういうニュアンスで言っているのじゃないやろ。」と注意する人もいた。それが分からないのは「マヌケ」だったり「鈍感」だったりした。
 ところが、今は違う。特にいい学校や会社に在籍している「勝ち組」の人たちには、そういった謙遜の美徳は通用しない。そういった言葉や身振りを真に受けて「ヤル気も能力もないのか」「あなたは、今の状況が分かっていない! 努力する気もないんですか!」とハイになって絶叫する(実際、ある会社とNPOで、謙遜をしていた人への侮辱のセリフとして聞いた)。
 アメリカ以上にアメリカ的になってしまった悲しい日本人。しかも、アメリカ型の試行錯誤をうながす教育と文化のシステムの中で育っていない。なので、真の自我の確立さえも怪しい。
 小さいころから、目先の点数稼ぎだけではなく、人と交わったり、直接世界と触れたりすることは、収容所閉じ込め型の日本の教育・文化環境においては難しい。いろんな人種や国籍や階級の人間との、出会いと別れを経験しながら育つ。そんな当たり前のことさえ、日本では「受験に役に立たない」のである。奇妙にもそれは通常「勉強」とも「教育」とも呼ばれない。奇妙なことに、幼いころより一貫のよい幼稚園か小学校から始まってずっとよいコースの教育を受けたとか、遅れても中高一貫、または高大一貫といった環境にいたもの、あるいは引越し・転校を経験しないもの、一人暮らしの経験がないもの……要するに、純粋培養度が高くなればなるほど、自我とか人格といったものができていない傾向がある。
 そのかわり、宮台真司も言うように、プライドが肥大している。具体的な根拠もなく「自分(たち)は生まれつき優秀だ」「自分(たち)ほど優れた個人(グループ)はこの世にいない」と思い込んでいる。
 少しでもその観念が揺るがされるシチュエーションにおかれるとパニック状態になってしまう。怒鳴る、叫ぶ、被害者意識でいっぱいになっておおげさに騒ぎ立てる、人を中傷しワナにかけ、周囲を抱き込んで孤立させて、相手がつぶれるか、その集団への参加を一切断念するまで執拗に攻撃する、などなど。とりわけ、自意識過剰を指摘されたときのすさまじいキレ方は筆舌に尽くしがたい。
 わたし自身は体験をしたことがないのだが、その中ではプライドの万能をあおる人格改造セミナーのような環境にあるのだろうか? (このへんの事情をご存知の方は、ぜひTB・コメントしていただきたい。)
 
日本における「文化的にレベルが高いこと」

 おかしなことに、その名門幼稚園~小学校の文化、あるいは中高一貫または高大一貫の文化が、日本においては大きく価値付けられている。そして、その他のタイプの学校の人間も、知らず知らずのうちに影響を受ける。あるいは、文化レベルをあげることによって上流・上層に食い込もうとする者は、積極的に模倣する。そのハビトゥス(ブルデュー)を嫌えば不利になる。批判すればルサンチマンだと揶揄される。そのような環境のなかでは、当然の流れだ。
 その結果、アメリカよりも薄っぺらな傲慢がまかり通るようになったのが、現在の日本社会ではないだろうか。アメリカは、よくも悪くも個人を肯定する。コギト・エルゴ・スムをベタでやっている。
 一方、日本ではどうだろうか。ちゃんと個人の自我を育てられない。掛け声とはうらはらに、個性や自我を罪悪視してつぶしたりゆがめたりしてばかりいる。つぶされれば一人前、歪められたら
大人っぽい、と条件付で「承認」される世界だ。
 そこで、近年の流行だからとアメリカ流を演じる。ハリウッド映画などを見て表面だけを芝居する。これでは、自由な自我にともなう責任感は育まれない。互いのエゴの調整方法も洗練されない。エゴの暴走を防ぐための諸装置ーー謙遜の美徳、自意識過剰批判、自分たちで適当な規則や作法をつくることーーなども機能しない。
 
日本のなかのアメリカ流傲慢主義

 共同体主義が実際の共同体よりも共同体らしく振舞おうとするためにわけのわからない暴走をするように、アメリカ流個人自我主義者は、実際のアメリカ人よりも傲慢に振舞う。それがshiroさんのいう「横柄型システム」を生み出す。
 そこでは、ホームレスへの喜捨さえも、人を甘やかしてスポイルする悪徳となる。
 さらにやっかいなことに、アメリカ流の個人自我主義者は、共同体主義者でもある。だから、自分たちへの異論や反論に耳を貸さない。「みなと違って自立できないフリーターなんて、オレが村のメンバーじゃない。だったら、どんなにひどいことをしても許される」という共同体的慣習に走る。だから、正社員がフリーターを責めるときには、情け容赦ない。「お互い大変なんだから」「この人が半失業していてくれるおかげで今日の自分の地位があるのかもしれない」「相手は自分の予想以上の苦労をしているのだろう」といった「武士の情け」はどこにもない。
 「あなたは自分を磨く努力をしていない」「ロクに働いていないくせに」「フリーターの人って勉強する気も仕事やる気もないんでしょう」「お前ら、会社に遊びに来ているんだろう」「(半ば嫉妬するかのように)何でフリーターなんてやっているんだ! いろいろな会社を見てみたいってか!(軽蔑感いっぱいにはき捨てるように)」
 上記はすべて、職場で正社員から言われた侮蔑のセリフである。

脱米入欧・脱米入亜 


 この醜く困難な状態を脱却するには、
Ⅰ.きちんと自我を作る 
Ⅱ.そのうえで、自意識過剰に気をつける
この2プロセスが必要だ。
 まず、好きなことを精一杯やって自我とか自意識を育てること。個性・オリジナリティ・ユニークであることをそれ自体悪徳視したり、嫉妬で足を引っ張ってつぶしたりしないこと。
 それから、自意識過剰の危なさを認識し、注意すること。もしすでに自意識過剰になっていた場合、それを収めること。

 繰り返しになるが、日本の場合はⅠもできていない人たち、一度Ⅰが形成されても十代半ば以降メチャクチャに崩されてしまった人たちが大多数を占めている。そうでない人は統計的に誤差の範囲でしか存在できないようだ(今の日本の消費税率みたいなもの)。
 そういう人たちにⅡを説いてた場合、ますます無責任になったり腑抜けになったりするリスクもあるので注意が必要だ。
 しかし、ⅠとⅡをクリアできれば、というよりも、クリアすることを妨げない環境ができれば、ahiroさんの言う「横柄型システム」に歯止めがかかるのではないだろうか?
 実際、ヨーロッパではアメリカー日本型の横柄型システムに歯止めをかけようとしている。国際政治・経済・軍事の力関係という面も関連してくるのだが、やはり当地の文化的な洗練がその基礎を提供しているのではないだろうか。

 日本は、単純化され中途半端化されたヨーロッパの亜種としてのアメリカ文化の亜流をやめるべきだ。安っぽい薄っぺらい傲慢をやめたほうがいい。そのためには、何でもアメリカ流に流されない自我構築と、自我過剰への警戒の両面が必要だ。したがって、先にあげたⅠとⅡを保障する教育と文化の環境が必要なのである。そうすれば、単に惰性や奴隷根性ではない、より上質の謙遜の美徳が手に入るだろう。その文化は、近隣アジア諸国との連携を深める際、触媒となるだろう。


(1)登校拒否が子ども時代における国家総動員への拒否だとすれば、学校に行く子どもやその状態は、国家総動員への受容、つまり登校受容である。
なお、登校拒否という語を否定的にのみとらえる立場もある。わたしは、それを肯定的な意味に読み直す立場を支持している。古くは黒人公民権運動の「ブラック・イズ・ビューティフル」、ウーマンリブの「女は強い」に見出せる発想である。
なお、ブラック・ワールド今日の出来事において、reservationistとrevisionistとの区別が紹介されている。ニガーという語は、必ずしも侮蔑語ではなく、ヒップ・ポップにおいてはブラック・コミュニテイの連帯を示しているとの指摘である。

>ある文化史家は、わけてもニガーということばの使用に関し、その使用を止めることで差別を是正>しようとする行為をreservationistと呼び、意味を変えて使うことで侮蔑的意味合いを内から穿と>うとする行為をrevisionistと呼ぶ。

この区別に従えば、わたしは登校拒否という語の否定的意味合いを内側から変えていこうとするrevisionistということになる。




 
    
 
  

 

 
 
 
 
 
  
 
 
 
 

精神的自由に関するシンポジウム

2004年12月27日 18時08分36秒 | 反ファシズム
 みなさん、クリスマスより家のPCは復活しました。
 一度直ったPCがすぐさま調子が悪くなったので、もう一度リカバリしたり大変でした。少し機能が縮小したのが気がかりですが、家でブログを書けるのはいいことです。

 さて、心理学・精神分析ならびに精神医学が跋扈するなか、資本・国家にとって都合のよい心づくりと、間違った心(の持ち主)への攻撃と排除が強まっています。

 そのような状況に抵抗する勢力をお知らせします。AML(Alternative Mailing Lists)より転載。
来年、日弁連が、精神的自由についてのシンポジウムを開くそうです。

 忙しい時期とは存じますが、関東方面にお住まいの方行かれてはどうですか?
 多分わたしは行かれないので、こちらの記事にトラックバックかコメントしてくださると嬉しいのですが。

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日弁連が下記のようなシンポジウムをするそうです。

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精神的自由を考えるシンポジウムについて(ご案内)
 日頃より当連合会の諸活動にご理解とご協力をいただき
、誠にありがとうございます。
 さて、この度当連合会では、昨今の精神的自由をめぐる様
々な問題や、教育基本法及び憲法「改正」問題の議論が盛ん
に行われる状況を検証し、憲法が保障する精神的自由の意
義を再確認する必要から、下記のとおり精神的自由(思想、
良心の自由、表現の自由他)に関するシンポジウムを企画い
たしました。
 つきましては、別添のとおり、案内チラシをお送りいたします
ので、是非ご参加を賜りますようご案内申し上げます。


1 日時:2005年2月15日(火)午後6時30分~9時00分
                   (6時開場)
2 場所:弁護士会館2階講堂クレオ
     東京都千代田区霞ヶ関1-1-3
     最寄り駅:地下鉄「霞ヶ関」駅B1-b出口
     (参加費無料・事前申込不要)
3 シンポジウムの内容
  総合司会:田中早苗弁護士
(1) 問題提起(樋口陽一早稲田大学法学部教授)(予定)
(2) 「茶色の朝」の朗読(俳優葛西和雄さん)
(3) パネルディスカッション
・ 吉岡 忍氏(作家)
・ 魚住 昭氏(作家)
・ 高橋哲哉氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)
・ コーディネーター 小池振一郎弁護士
(4)まとめ(佐々木健次人権擁護委員会委員長)
4 本件に関する連絡先
  日本弁護士連合会事務局 人権第一課
  (担当 紺谷(こんたに))
  〒100-0013 東京都千代田区霞ヶ関1-1-3
  TEL 03-3580-9505 FAX 03-3580-2866
E-mail kontaniy@nichibenren.or.jp
5 [主催]日本弁護士連合会
      関東弁護士会連合会
      東京弁護士会
      第一東京弁護士会
      第二東京弁護士会




クリスマスに

2004年12月25日 00時27分20秒 | 伝統文化
 みなさん、クリスマスをいかがお過ごしですか?

 何でも新しくなければならない、が教義のネオリベに対抗するかのように(?)、クリスマスを祝いましょう。わたしの友人たちも貧乏であったり、職があれば殺人的に忙しいために、クリスマスのために集まれません。それでも、自律性を保つためにできることをすればよいのです。
 
 ソレーム修道院による「クリスマスのためのグレゴリアン・チャント」というCDを聴きました。ソレーム修道院とは、フランスにあるグレゴリオ聖歌の本拠地です。
 声だけで音楽を作ってゆく点は、日本の仏教寺院を中心に受け継がれる「声明(しょうみょう)」と似ています。他の音楽の源になった点も共通しています。
 また、ひとつの母音を長くのばして複数の高低の音を出す歌い方は日本の伝統音楽にも通じるものがあります。
 
 「古いヨーロッパ」と揶揄されようと、歴史や伝統のいい部分には尊敬の念を持っていたいと考えています。
 


コミュニティなき日本社会

2004年12月24日 01時59分37秒 | weblog
(この記事はCHU CHO--!!!へのトラックバックです。)

shiroさん、お久しぶりです。とてもいい問題提起をされていますね。

 日本にはコミュニティ(帰る家)がないのは、ご指摘のとおりです。共同体でもないのに共同体のフリをする、似非共同体はごまんと見られますがね。
 ニセモノの共同体では、ホンモノの共同体のもつバランスやある種の寛容さはありません。相互扶助が相互監視→ファシズムに、村おさの配慮は専制政治になっています。
 学校や会社や地域で日々起こっている「人間関係の疲れ」「陰湿ないやがらせ」「浮いたことをすれば何をされても仕方のないムード」なんてのは、共同体ではないのに共同体ぶろうとして、共同体の悪質なパロディを演じているんですよね。
 また、そういった状態を、支配・管理に利用しようとする勢力が、至る所で力を握っているのも確かだと思います。早い話が、従順でピア・プレッシャーにビクビクしている「ヘタレ」を、求めているんですよね(一方では見下すというオマケつきで)。
 
 また、すべてを「自然」または「天然」と思い込むために、新しい共同体ができにくい。あるいは、今ある共同体のルールや方針を変えることもできない。すべて(実は巧妙に作られた場合もある)「空気」や漠然としたイメージ・印象だけで動いており、「誰がこの規則を作ったのか」、「どうすればこの方針を変えられるか」といった議論をやりにくくする「礼儀」がありますからね。
 また、意見を言えばそれだけで人間失格・悪徳のきわみみたいに受け止められ、リーダーの道徳的説教や、フォロアーからの白い目攻撃・仲間はずし(ほとんど面白いゲーム感覚で行われる)もありますよね。
 実は、あるNPOでリーダーの各種の暴走・勘違いを指摘したら、いろいろと嫌がらせを受けたあげく、暴力による脅迫までやってきたので、あわててやめた経験もあります。(ちなみにそのNPOにおいて、リーダーの暴走を注意したサブリーダーのひとりが3ヶ月も寝込むといった問題も生じています。)
 いわゆる「誰も責任をとらないシステム」。
責任をとらない一部の上流・上層のグループが、わがまま・デタラメのし放題になる。一方、大多数をしめる「下」のグループには、ほとんど何の権利もないシステム。人権と特権の区別のつかない混乱した思考。国全体から中間団体にいたるまで、この構図が変わらない。
 それを再生産する学校教育や会社の研修も、わずかの修正があるだけで、抜本的な改革には至らない。
 話を戻します。伝統から切れたアメリカでは、「こんな方針・カラーのコミュニティを作ってみよう!」という参加者が十数名だか数十名も集まれば、現代型の新しいコミュニティを作っちゃうのですね。
 ある知り合いは、十代の半ば、アメリカのヒッピーたちの作った自給自足のエコロジー型のコミュニティに滞在したそうです。自分たちで田んぼや畑を作ったり、豆乳も作ったり、家も建てるなど、自分たちでできることは自分たちでやってしまうところだそうです。
 彼女の滞在する最後の方には、好きでない相手とのセックスをノルマとしてリーダーがフォロアーに強要するなどの問題も出たため、彼女はそこを去ることになりました。
 その後、日本での彼女は悲惨です。なぜならば、日本ではコミュニティがない。居場所がないと言ってもいいでしょうか。
 結局、同棲相手とも話があわず、むしろ彼女の哲学的追求をバカにされるなどして、苦労しています。その同棲の相手というのが、「会社で働いて忙しくなれば『私って何?』といった『自分探し』に悩むことはない」「お前はまだ若い。だからそんなことを言っているんだ。あと数年もすれば観念的でなくなる。」などと、陳腐なことばかり言っているんですよね。まさに日本のエセ共同体「会社」のメンバーの発言です。周りにあわせるばかりで思考停止。人の自律性には嫉妬するかまったくの無理解。
 先日、彼女に電話をしたら、かなり大変そうでした。ものすごく不幸そうな声で話しており、ささいなことにも怒りっぽくなっていました。周りへの不信感、自己嫌悪、そして孤立にさいなまれているのが見て取れました。
 彼女はわたしのことも日本のえせ共同体の人間だと判断しているので、わたしにも辛く当たります。自分にはどうすることもできません。
 多分、彼女からすれば、日本人の大半は、優しさや理解をよそおいながら、実は何も分かっておらず、本当はとても冷たい人間なのでしょう。「人情」や「善意」や「誠意」を押し売りし、人の感情をゆさぶって人をコントロールする陰湿で残酷な人物だと思われているわけです。わたしなりのーーそれは日本流のーー思いやり、気配りは、彼女にとっては身を切り裂く刃であり、神経に盛る毒のようなものなのです。政治的には、表面はリベラルぶったヒューマニストだが、裏面は質の悪い保守主義者で、今アメリカに住んでいれば熱烈なブッシュ支持者としてイメージされているのです。

 上手に設計され維持されている日本庭園のように、人工的なのに自然らしいものがあります。
自然よりも自然らしい風情がある人工物が。日本では人工的な制度も天然のものだと錯覚されています。そのため、本来なら人工的に維持の努力をしなければならない制度を自然なコミュニティだと取り違えているのです。
 中世や江戸時代のムラ社会とも、高度成長期~バブル期の会社共同体とも違う、現代型のコミュニテイを新しく作る必要があります。
 各自の必要に応じて、いろいろなルールや方針の共同体の形成を、試行錯誤するしかないのでしょう。ゆとり教育に肯定的な可能性を探れば、学校→いい会社・役所といった高度成長期的ムラ社会以外の世界とのつながりを作ることだと思います。(1)
 また、交通面での車社会化の解除、ハイパー・モバイル化の規制も必要ですね。田舎のほうでは、地域商店街はご存知のとおり壊滅状態。5軒または10軒に1軒が開店している地域もあるほどです。
 そのかわり、郊外のショッピングセンターは「一人勝ち」しています。
 車を全廃することはできませんが、その比重を減らすことはできるはず。車や飛行機の利用はどうしても必要なときに限定して、路面電車や自転車の通りやすい道路をつくったほうがいい。アメリカの保守と革新の二極化は、車と飛行機中心の移動手段によって起きたとの説もあるそうなので。
 また、小さな自営のお店が身近にたくさんある状態は、監視カメラよりも犯罪抑止効果があるかもしれません。うちの近所も、車社会の進展とともに、ふとん屋、雑貨屋、薬屋などが次々とみせじまいしています。つぶれた店の建物をとりこわして車を通すための新しい道路ができています。 すると、以前はの環境は壊されてしまいました。町のストリートで老人が椅子を持ち出して雑談したり、小さな子どもたちが縄跳びをした、その横をネコや犬もとりまいている。近所の人がだいたいどんな職業や趣味や背景をもっているか、全部知らなくても多少は見通せる。そういったタイプの風とおしのよさも消えました。小さな子どもや女性は、特に夜一人で歩くことを極度に警戒しています。
 こんなことでは「ここはわが町」という安心感や愛着などできません。そこではびこるのはマクドナルドやドトール、セブンイレブンにデニーズです。
 他には何もない、荒涼とした郊外の風景が広がっています。町を歩くだけで雰囲気がギスギスしているんです。
 shiroさんの体験されたベトネムの血縁にせよ、日本の地縁にせよ、「帰る家」があるのは大切なことだと考えるものです。
 政治・軍事・経済・文化・日常世界……。すべてをグローバルな市場原理にのっとられないために、あえて昔ながらの絆を見直すことも一方では必要でしょう。特定郵便局長はいったいどれほど悪いことをしてきたのでしょう? 地域ボスには社会主義的再配分機能もインストールされていた。いざというときのセーフティネットとして、また「心のふるさと」としての血縁・地縁、学閥や閨閥も、グローバル資本の悪と比べた場合、それほどの悪だったのか、見直す作業も必要かと存じます(むろん、腐敗を招いたり不公平を助長したりするなどの問題点もあるのですが)。
 長くなりました。帰る家なき日本社会への問題解決案は、

Ⅰ.新しい共同体・共同性を作る
Ⅱ.古くからの共同体・共同性を見直し、リサイクル・リフォームする
Ⅲ.(自律性のある)共同体を破壊する学校化・車社会化に歯止めをかける

の3本立てでよいのではないでしょうか?

 もちろん、共同体と共同体を個人が自由に行き来できることは必要です。また、共同体の中での寛容も必要です。なお、共同体と市民社会を自由に選べることも必要です。
 具体的には学校に行く・行かないを選べること、車を使うかどうか選べる(環境を作る)ことが必要なのです。

(1)何でも一律のハイアラーキーで決め付ける頭の固い「左」の階層論者の言うことは、単純すぎます。あの人たちときたら、四国八十八箇所をまわるお遍路さんをつかまえて「階層分化が激しくなる。だからお遍路さん制度を廃止しろ。国や自治体葉、お遍路さんを規制する法律を作るべきだ。そんな風に自由に歩いていると交通事故も起こりやすい云々」と吹き上がりかねない勢いです。要するに、あの人たちは一種の学校教育原理主義者なんですよ。だから、ゆとり教育からフリースクールやホームスクールまで攻撃しまくりです(苦笑)。


 
 
 
 
 
 
  
 
 
 

台風で森林伐採中止@フィリピン

2004年12月06日 16時41分57秒 | 自然保護・修復
 フィリピンにまたまた台風がやってきた。多くの人たちが避難生活を送っている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041206-00000008-nna-int

 アロヨ大統領は、地すべりの原因が森林の過剰伐採にあるとの環境団体の指摘をうけ、伐採を禁止するとか。

 しかし、実際には、闇で伐採されるのではないだろうか?
 自立した経済圏を壊し、世界経済のなかで貨幣収入によって生活をしようとする。そうすると、
意図とは裏腹に貧困化する。

 これまでも森林伐採によって生息地を狭められている野生生物もある。たとえば、WWFのサイトでは、フィリピンワシが、森林伐採による生息地破壊によって絶滅の危機に瀕していると言っている。http://www.wwf.or.jp/wildlife/redlistanimals/bird/bird012.htm

 台風の被害を待たずして、伐採を禁止し、元の生態系に近い種を選んで植林をしなければ、動物も植物も人も生きられない地球になってしまう。
 木材の輸入国であり、自らの地元でもクマなど他の動物の生息地をおびやかしている日本も他人事ではなく考えるべき、そして行動すべき問題だ。

 では何ができるだろう? どなたかいいアイデアがあれば、教えてください。