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学校のない社会 大学のない世界

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左翼はなぜ疑われるのか

2006年10月06日 01時15分00秒 | 労働・失業
↓はvideonews.comに送る予定のメールです。



宮台さんの左翼批判について

自分は、諸事情により、十代のころから、それと知らずに左翼の人たちとつきあいを持たざるをえなかったものです。

なぜ左翼が今衰退しているのか。それについて自分なりに気がついたことを書きたいと思います。

1.そもそも右・左という分類が意味をもたない。それよりも「第三の道」とか「第三の波」「緑」といった問題設定になら関心のある人は多いのではないか。
2.自分たちのコミュニティに閉じてしまい、外の世界にうとくなっている。そのへんのオタク以上に閉鎖的。自己完結的。
3.宮台さんもご指摘のとおり、セクト・カルトの関与を疑われる。
4.意味やニュアンスを分からずに左翼ジャーゴンを用いている。
5.そのなかでの陰湿ないじめ・いやがらせ・セクハラなどが外部よりも盛ん。
6.そもそも極端に常識や社交性のない人たちがやっている。
7.自分たちのやっていることを外にどう説明するか。PR戦略がない。
8.アトピーの副作用など、一部のおおげさな例をフツーであるかのように報道する。その統計的な妥当性のなさ・バランスの悪さに一般人はひいてしまう。
9.論理や実証を軽んじすぎる。
10.いつも集団行動を強制しようとする。個人の独立性を尊重しない。中には未だにネットを軽視している運動のリーダーもいる。
11.自分たちのコミュニティ以外の人間関係・学習・労働等を認めない。偏狭で排他的。
12.そこにかかわる人間の奴隷根性。ヴィランテイアの使い捨て労働力化によるもの。
13.セクト・カルトによる(通常のNPO)組織のっとり。企業で言えばM&A(吸収と合併)にあたることを、時代錯誤のマルクス・レーニン主義の洗脳込みで行う。
14.宮台さんもおっしゃるように、利権の問題。特に近年ではニート・ひきこもり関連利権。関西のあるニート・ひきこもり支援団体は、ある元全共闘がはじめたもの。そこが所有するカフェは、行政の援助を受けて、ドトール・コーヒーショップのはすむかいに建てられている。その団体は、以前、とあるインカレッジ・サークル(多大学間サークル)をのっとろうとして崩壊させた、セクト系とおぼしき個人・団体と密接なつながりがある。しかも、そのNPOの代表は、交通調査などを行う会社の社長でもある。その会社は、学生・フリーターらの間では、関西でもっとも人を粗末に扱う会社として有名。仕事を通じて会社に損害を与えた場合、従業員に賠償してもらうと説明会で説明している。これには労働基準法違反の疑いがある。

こういった理由・事情によって、今ではわたしは左翼系の団体や個人とは、なるべくつきあわないようにしています。
労働組合の取材を通して、泣き寝入りしている人たちを知っているし、自分自身もセクハラと若者差別によって神経をいためつけられ、胃腸薬が手放せなくなった時期もありました。
あの人たちのマッチョで集団主義的で巧妙ないやがらせにはまったくうんざりです。NGOや文系サークルののっとりに至っては、大して儲かる商売でもないのにそんなことをする理由が気持ち悪い。要するに、組織を通じて人を支配しおいつめ、これまでセクトと縁もゆかりもないメンバーが作り上げた信頼や基盤(事務所・大学や行政からのわずかの予算など)を巻き上げるのが気持ちいいのでやっている。人をリアリティのないイデオロギーに染め上げ、文化不適応にさせる。その操作を喜んでいる。
それだけだと思います。












ものづくりが若者を救う?

2005年07月02日 00時50分19秒 | 労働・失業
(この記事は、姉妹ブログ「フリーターが語る渡り奉公人事情」からの転載です。)

「学校に行くのがイヤなの? あちこちの企業をわたっているの? それじゃあ、ものづくりの仕事なんてどう? 職人になって誇りを持てば、ストレスから救われるよ。」という言論と実践がある。ものづくり大学までできでいるそうだ(職業訓練校や工学部とどう違うのだろう?)。
 しかしこれはノスタルジ-である。また、おおかたの未熟錬工の不安定な立場をおおいかくしている。親方・熟練工や職長にだけ注目すれば、社会的地位も高く、誇りもあったろう。だが、工場のなかでの未熟錬工の地位は低い。熟練工となって高度な技能を身につけ、安定した給与と身分保障を手にできるのは一部のエリ-トだけなのだ。また、そうしなけば雇用者はやっていられない。なにせアジア諸国との競争に常にさらされているのだから。人件費は削りたいはずだ。
 また、そういう人たちは、機械に支配される前の職人とその仕事を前提に話をしている。職人が総合的に仕事をデザインし、あらゆる工程を器用にこなし、高度に熟練するまで育てる仕組みのあったころことである。それはまた、時間や規律にあまりしばられずに仕事をした時代の職人を想定している(アメリカならば19Cころまで)。同時にそれは、小さな機械を取り入れながらも、大工場の職務管理が導入される前の、家内工業の仕事を想定しての話だろう。つまり、人間が機械に使われるのではなく、人間が機械を使っていた時代の話である。
 
 「古きよき時代」の、職工というよりも職人であったころの仕事のスタイルが、今なぜ語られるのか?
 ノスタルジ-だけではない。自分でコントロ-ルできる範囲の大きな、自律的な仕事だからでもない。職人仕事には、若い世代の退廃を取り締まる道徳教育としての役割も期待されているのではないか? 

「環境変化の中で、多くの職人は工場が欲求する熟練労働者として身を処し、また子供にも工場に役立つ技能を身につけさせようとした。しかし時勢に順応するだけでなく、職人社会の伝統的な手工訓練を子供にほどこそうとする職人がいなくなったわけでない。またそれを支援しようとする教育者や社会改良家も少なくなかった。職人が持つ万能工的な手法、あるいはみずから構想し実行する技能こそが真の熟練なのであり、生活に役立つだけでなく労働の尊厳と創造への意欲を喚起する源なのだという主張が、世紀末の社会にかなりの説得力をもって受け入れられたのだった。大企業経営者たちでさえ、若者の無気力、放縦、労働倫理の喪失という憂慮すべき風潮に対する対策として、その動きを歓迎した。こうして、いわば道徳教育の理念と結びついた手工業教育(マニュアル・トレ-ニング)」が、公立学校のカリキュラムにも一部導入された。だが、その手工訓練で教えられる種類の技能が就職に役に立つという確信は、育っていかなかった。(1)」

 以上の引用は、19世紀末、大工場の職務管理や職業訓練校制度などが整備されてゆくなかで、徒弟修業制度が崩壊の危機にさらされた。じょじょに手工業から機械優先の仕事へ、自分たちが労働を管理するやり方から会社による労務管理へ、全般的な技能から専門分化した技能へと職人の役割が変わっていったころのできごとである。 
 昔、小学校というところに通っていたときに、「いまどきの子どもは脆弱で不器用でケシカラン!」という議論があった。そのため、わたしたちは鉛筆削り器を使うのではなく小刀やカッタ-ナイフで鉛筆を削らされた。あるいはお箸の使い方がなっていないのは情けないし失礼だという心配性の大人たちの精神をなだめるために、おはしで大豆や小豆をつまむ練習を学校でも家でもやらされた。けれど、そんなことをしなくても生きてゆけないわけではなく、まったく無駄な訓練だった。それと同じようなことが、19世紀末アメリカで行われていたのである。

 ひるがえって今の日本を見てみよう。大阪府東大阪市の一大工場地帯は、どんどん貧窮化している。バスで町を走ってみれば、仕事にあぶれたがまだ解雇されていない人たちが、工場の前で新聞を広げたりタバコをすったりしながら、イライラしたような悲しそうな顔をしている。手持ち無沙汰でガラクタをいじっている人もいる。大方の人はやせこけている。
 そこで教師、社会改良家、保守系政治家、経営者……らが、それぞれの思惑から「ものづくり」「職人気質物語」を語る。工場がアジアに出ていってしまい、身近にはほとんど残っていないときに、だ。派遣や業務請負を通じてつかの間の雇用によってアルバイトがこき使われるswet shop(人をこき使う工場)の不安定な仕事しかある種の若い世代には職がない時代に。
 そして、ものづくり大学には、いまどきの若者が興味をもちそうな映画やアニメ、ゲ-ムや音楽を作るためのコ-スはない。荒れ果てた里山の自然を守る職につくためのコ-スもない。あくまでも高度成長期の、日本の技術を支えた職人の誇りをほめたたえる。そのメンタリティの一部はNHKの高視聴率番組「プロジェクトX」にも通じるところがある。
 しかし劇的に、あるいは美化されて伝えられる職人の生活はそれほどよいものだろうか? 実は親類とのつきあいで、大阪府東大阪市の布施という町にしばらく住んだことがある。確かに、一個一個の小さな工場が独立して、職人が技術を持っている。それはすばらしい。けれど、科学技術の時代に、職場にすべての知識と技能がある職人文化は廃れつつあった。また、職住隣接のデメリットで、近所の小さな工場から出るシンナ-の匂いで体を壊してずっと寝込んでいる人もいた。実はわたしも喘息が悪化したため、どこか空気のよいところに引越しを迫られた。
 また、サ-ヴィス・ソフト産業が主要な産業になっている産業構造の変化もある。何もものづくりが一切不要とか、いけないとか言っているのではない。おおかたの若い世代を古きよきものづくりの中で道徳的に統治し、失業や半失業問題を解決しようとしてもムリがあるのではないか、と問題提起しているのだ。
 私事で恐縮だが、亡き父は科学技術者だった。その影響のもと育ったわたしには、どこか科学技術信仰の気がある。小さいころほどひどくはないが、やはり科学技術やそれを仕事にする人を尊敬しているし、なんとなく「博士号を持っていないのはよくないことなのかなあ」と物思いにふけったりもする。
 そんな自分にとって、科学技術とはほど遠いところにある職人文化は、異文化だ。親が職人をしている人、「よい」学校を出たあとで職人になり、その後ホワイトカラ-に転職した人、書物やHPを通じて学習する対象であっても、親しみを持つには少し遠い距離にある。
 また、ものが余ってデフレになっているこの時期に、いまさらのようにモノをつくれと絶滅寸前の職人賞賛をするのは、問題解決策として賢明とはいえないのではないだろうか? 少なくとも、万人にすすめられる方法ではないことだけは確かである。
 またそれを唱える人々は、決して職人階級の仲間入りをしたがらなさそうな商人やホワイトカラ-であることも確認しておこう。彼(女)らはまず、自分は職人にはならない。他人になってほしいのだ。
 ここで科学史をおさらいしよう。19世紀半ばごろ、デモクラシ-の進展と同時並行して、それまでキッチリと分かれていた科学と技術の融合がおこった。それまでは、科学は貴族的・純理論的・知的な営みだった。それに対する技術のほうは、より下層階級的で実用指向が強く、経験的なものだった。それは頭脳と手のつながりの強調だった。
 さまざまな階級の服装が、知識が、職業が融合するときに、科学と技術も融合して科学技術になったということだ。人文教養の城のようなヨ-ロッパの諸大学にも、科学技術は徐々に理系のカリキュラムとして居場所を確保していった。その伝統として、いまだにMITは大学とは名乗っていない。(このへんは大学史の初歩の初歩。)

 職人文化を盛り上げるとは、もう一度、科学技術を科学と技術に分かつことを意味する。これは、反デモクラシ-と連動した動きであることを警戒したほうがいい。とりわけ、上流階層や保守層によってそれが推進されるときには注意が必要だ。
 
 

 ノスタルジ-、道徳的締めつけ、多分誰でもがイヤがる作業や弱い立場--農耕共同体の外の立場--の他人へのおしつけ。情報やソフト生産への無視または軽視。
 そうしたバイアスが、職人礼賛論には多分にかかっている。

 それから、職人は伝統的に男性中心の世界。女性が入ってゆくにあたっては、障壁もある。
(2)
 だいいち、聖職者でもないのに「救う」という発想じたいがおこがましいのだ。職人絶賛教に帰依しないかぎり、迫害してやるぞと言わんばかりだ。南米のインディオへのキリスト教布教は、軍事的征服が失敗した場合の「魂の征服」だった。今の日本では、職人礼賛教による若者への「心の征服」が進行中だ。
 この手の上の世代の傲慢につきあってあげる義理や義務はない。そこまで上の世代に優しくなくてもかまわない。
 とにかく、ものづくりと職人のススメが若者の失業問題を解決することも、精神的な問題を解決することもない、ということでこの記事のファイナル・アンサ-としたい。
 で、読者はどう考えますか?



(1)「アメリカ職人の仕事史--マス・プロダクションへの軌跡」森 たかし(たかしは日の下に木の一文字の漢字。)中公新書1996:241
(2)「若き女職人たち」 集英社新書阿部 純子 (著), 伊藤 なたね(写真) 2002
(3)たとえば「科学革命と大学」エリック・アシュビ- 島田雄郎訳 中公文庫 昭和52年のなかの Ⅱ.科学は海峡を超える Ⅲ.技術が取り入れられる


再教育

2005年05月03日 17時52分25秒 | 労働・失業
まずは記事をごらんください。↓ 東京新聞 懲りぬJR西日本 運転手を追い込む? 再教育

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050427/mng_____tokuho__000.shtml

もう、この星に住みたくない、学校と会社のない世界に行きたい、などとシュ-ルなことを考えたくなるのは、わたし一人でしょうか? 
効率、正確さ、スピ-ド主義のために犠牲になる人々。それを再生産する労働と教育。

これ以上の同じ路線の教育にも労働にも希望は持てません。

平等と多様性を保障する教育と労働、そして教育からの自由、労働からの自由が今ほど重要な時期はないのかもしれません。
Alternative from education, alternative from work の生き方がもっとたくさん模索され、定着する必要があります。
それはわたしたちが毎日いかに生きるかにかかっています。
人間を破壊してゆく教育と労働に、多様な形で抵抗する連合を組もうではありませんか。






日本政府のフリーター対策について

2004年09月11日 20時59分23秒 | 労働・失業
 日本政府がフリーター対策に乗り出すと、TBSラジオ荒川強啓のデイ・キャッチ(金曜日・ゲストは宮台真司)で伝えていた。なお政府は、学校にも会社にも行かないNEETも同時に「対策」すると言う。
 それに対して強啓と宮台は、「働かなくても勉強しなくてもまあいいんじゃあないかということで若い世代はやっている。それはそれでいい。」といった旨の発言をしていた。つづいて、「夢とか希望をもつことに意味がないと感じられる社会が問題ではないか」とも言っていた。

 それはそれで一理ある。だが、もうひとつの観点をここで出してみたい。
 わたしはそれでいいとも悪いともいえない。
 ただ、独立したくてもできない人のことを考えると、もう少し最低賃金を上げたり雇用流動性を下げたりする必要はあるだろう。

 政府が対策をするというが、どういうつもりなのか? 個人が勤続年数によらずに使用可能な教育ヴァウチャー制度をやっと整えるというのか? それとも、家事労働や介護労働、町に活気とうるおいを与えるストリート・ミュージシャンに賃金か奨学金か町の活性化功労賞でも贈るというのか?
 頭の固い老人と老人に媚びる中年の男性が集まる閉鎖的な審議会で、茶番としての談義をしたあと、矯正労働収容所をつくる、といったファッショ的な政策が決まることだけはご免こうむりたい。
 
 

 
 
 
 
 

ゲームの中の下請け 会社の中の下請け

2004年08月29日 15時28分19秒 | 労働・失業
 近頃、ゲームの世界でも下請け労働者がいるらしい。

 自分は十代おわりのころ、親の圧力で行くことになった大検予備校に行くときにゲームと泣く泣くおさらばさせられた。その後、絶望と自己嫌悪が強くてほとんどゲームに触っていない。それはさておき、十数年の間にゲームもオンライン化・グローバル化がすすんだ。その流れのなかで、富めるゲーマーが貧しいゲーマーに面倒な作業を請け負ってもらっているとは!
 

http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040826203.html

 下請けといえば、わたしは20代のほとんどを下請けの企業で働いた。中には子会社の子会社(孫会社)の子会社の子会社(ひ・ひ孫会社)ということもあった。
 たいていの場合、子会社だとまだ待遇はマシだ。まだ90年代の全般くらいまでは、バイトながら交通費が全額出されたり、お昼になると食費補助として500円玉を配ったりしていた。それでも、子会社のアルバイトは、食堂や売店や医務室が使えないというのははよくある事だった。また、一日二日で切り捨てられることも日常茶飯事だった。
 孫会社、ひ孫会社、ひ・ひ孫会社となると、どんどん待遇は悪くなる。下流のほうに来るにつれて、みなが嫌がる汚い作業、過酷な労働、疲れる仕事などが多くなってくる。
 たとえばえんえんとチラシをまとめるだけの作業。目が壊れてしまうCCDカメラの半導体の検査。一日12時間体制で入る目の疲れる半導体の検査をしている同僚は、昼休みには机につっぷして、食堂に移動することもできなかった。ほんの少しも座ってはならないアンケートを採る作業。
監視カメラを通じて働きぶりをチェックされるので辛かった。
 それらの仕事は、孫会社~ひ・ひ孫会社の名前を名乗ってはいけなかった。それで、朝11時からの仕事なのに朝の7時に集合し、えんえんと待たされることもあった。そして、調査に入る無印良品なら無印良品、松下なら松下の社員として働かされる。そのための自覚・誇り・プロ意識を持てと契約書に強引にサインさせられる。あるいはしょっちゅう上司から念を押される。「お前は存在してはならない」と言われていうようなもので、とても辛い。せいぜい、子会社と孫会社の名前を書類に書き込んだり休み時間にしゃべったりすることが許されるくらいで、ひ孫会社やひ・ひ孫会社は存在していると語ること自体が認められていないのだ。生身の人間が、透明人間であることを強いられるのはとてもつらい。
 正社員のつもりで、といっても、研修もなくちゃんと適性を見て雇われたのでもない。ただ会社に登録をして、ある日仕事があると電話が来たので指定の場所に行くと、はじめて仕事場所や内容が分かるのだ。もちろん、そのときに初めて契約書が渡される。
 アルバイトなので2ヶ月以内にたいていの場合クビになる。あまりに悲惨な作業内容と、社内の見下す視線やふるまいに耐えかねて、1日2日で自ら辞退する場合も少なくない。
 誇りを持てといっても、いつも無視されるか過小評価されて、給料も保証も正社員の何分の一という状態で、どうして誇りを持てるというのだろう?
 
 スキルアップも理科系の大学院への進学も見通しのたたないまま、疲れ果ててわたしはバイトを探すのをやめにした。30という年齢もあった。親には迷惑をかけるが仕方がない。
 そうして、なんとか別の道を探そうとしている。
 多所懸命でいいから、専門家でなくていいから生きる道を探ろうとしている。

 話をゲームの中の下請けに戻そう。
 ゲームの中でもリアル世界の力関係が持ち込まれるのは仕方がない、と思う。まったく何からも自由なファンタジー世界などこの世にありえないからだ。

それに下請けであっても仕事がないよりはマシという事情もあるだろう。下請け仕事で生活が安定するのなら、喜んで働くゲーマーもいるにちがいない。もちろん、わが身の不遇を嘆きつつ下請けゲーマーをしている人たちもいるはずだ。
 
 それでももし平等を志すならば、なるだけ分業をしないほうがいいのではないだろうか?
 みなが中産階級以上の暮らしや職業につけるパイは限られている。みなが嫌がる下層階級の仕事を一方的におしつけられる人たちがいるかぎり、「あなたは、あるいはあなたの子は将来いい学校に通って出世する可能性がありますよ」と統計的には正しい事実を語ったとしても、まるでロボットのような悲惨な仕事、世の中から仕事だとは認められない仕事をする人たちは、後をたたない。
 もちろん、そういった人たちの給料や保証をよくすること、プラスのイメージを作るためのマスコミ報道や映画の製作といったことは必要だ。例えば、ケン・ローチ監督の「ローズ&ブレッド」はロサンゼルスのヒスパニック系労働者に焦点を当てたいい映画だった。フリーターは気楽な職ではないと竹信三恵子や斉藤貴男といったジャーナリストは告発してきた。
 ただし、下請けというものを廃止するか否かを考えなおさないかぎり、ある一定の人間が貧乏クジを引く構図に変わりはない。
 今いっせいに下請けを廃止はできない。オンラインにおいてもオフラインにおいても、それは難しい。闇にもぐられると、原発の下請け労働以上に実態把握が困難になるだろう。
 だが、真剣にみなで考える問題だと思うのだが、どうだろうか?