学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

♪応援したいレコード店♪ーープランテーション

2004年08月30日 13時13分52秒 | サブカルチャー
大阪の心斎橋に面白いレコード屋がある。その名はプランテーション

http://www.plantation.to/

 主に第三世界のポピュラー系デイスクを取り扱っている。そのほか、ワールド音楽関連の雑誌や書籍、Tシャツなども置いてある。時々、アメリカのヒスパニック系の人の作った社会批評のこもったポストカードがおいてある。アフガン~イラク戦争の時にもイスラム系音楽をすすめていた。そういえばマフマルバフ監督の映画のチラシもここで取ったんだっけ。

 オルタナテイブ大学では、ヨーロッパ中心の知識のあり方を相対化してゆきたい。そのためにも、この大学に来る人たちには、プランテーションをお勧めしたい。論理だけでなく、感性からも
脱西洋近代ができるかどうか、試してみる価値はあると思う。

わたしが反政府デモに行かない理由

2004年08月30日 02時32分55秒 | ネオリベ・ネオコン
 以前関わっていた平和団体で、時々“反政府”デモがあった。魅力的な講師のやってくるイベントと抱き合わせになっていたこともあったが、行かないことにした。そのほか、いくつかの[反政府]のカンバンをかかげたイベントも辞退した。
 
 理由その1:「反政府」を煽っている仕掛け人たちは、どうやら大学自治体に巣食うK党の亜流のセクト/カルトとつながった人のようだった。それで、組織の指令にしたがって平和運動を反政府運動に変質させようともくろむんでいることは見て取れた。
 
 理由その2:しかしそれでは、平和運動を反政府勢力だと事実誤認させたうえ弾圧しようとする政府側の裏返しになってしまう。政府の見解を何でも裏返しにすればよいというものではない。ポジに対するネガに甘んじる思考停止には、あきれてものが言えない。政府と「共依存」してどうするのか。バカバカしい。情けない。この種の「自由」と「反動」を混同する勘違いにはついてゆけなかったのだ。自立性/自律性を尊ぶ者なら、わたしの判断に同意するだろう。

理由その3:反政府ならば自由・善と信じる単純さ。20代後半から30代前半くらいの世代にしては、全共闘くらいの上の世代と同じ価値観を持っている。アホかと思う。自分たちの世代は、全共闘世代とは違うと自己主張することこそ、全共闘の価値観や行動パターンの踏襲だ。それを、50年代・60年代・70年代の学生運動の縮小コピーを作ってどうするのか。
 どうやら京阪神圏の共産党色の濃い学校で日教組系の教員や、全共闘リバイバルを妄想する文科系大学教員に媚を売ってよい成績や居場所を確保してきた、同世代とつきあうのが苦手な「よい子」タイプが大半のようだ。多分同世代と分かちあえるサブカルチャーをリアルタイムで享受していない。
 それは今の権威を否定できず、すでに終わっている今から数十年前、新しくとも十数年前の権威しか批判できない。エディプス・コンプレックスのよい見本だ。それで、見ていて情けない。
 ずっとパパやママに反発していてどうするの? 先生に教えられたことをうのみにして楽しいの? ホントにリアリティ感じていないんでしょ? 世代もちがうし。よく見て単なるリバイバル映画だよ。歴史とは、暗記よりも時系列思考の訓練じゃなかったっけ? 

 理由その4:今時の反グローバル運動のなかでは、国民国家は「守るべき価値」になっている。
WTOやIMF、それにアングロサクソン系多国籍大企業は政府の機能を停止させ、ひとつひとつの国民国家を機能停止に追いやっている。国が安全な医薬品を選別して輸入することさえ、WTOとIMFらはやめさせることがある。ジャン・ジグレール「私物化される世界」PP211ー230にはニジェールやギニアなどを例にした記述がある。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4484041103/qid=1094001183/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7958788-9819547
 つまり、グローバリゼーションによる流動性の害悪を反政府の連中は分かっていないのだ。今時、「反政府」なんて言っていると、WTO、IMF、多国籍企業よ、改革と称してうちの国の産業を文化をボロボロにしてください、とお願いしているように映るのだ。
 言いかえれば、構造改革で地域商店街をゴースト・タウンにしてください、国内のスーアーチェーンをウォルマート傘下にしてくださいとアメリカのネオリベ官僚に頼んでいるように見えるのだ。その醜悪さがイヤなのだ。

 理由その5:その系統のセクト活動家の危ない自意識過剰。自信過剰。いつも自分たちが一番進んでいると純粋に(皮肉)進歩主義的に考えている。ところが、一般庶民のほうがネオコン派から反ネオコン派にいたるまで、事情をよく知っている。仕事をしながら一週間に一度の割合でブログを更新したり、実際に働いたり生活をしたりする中から、どれほど景気が悪いか、労務管理が崩れているか、何でもアメリカ流によって大事な世界が壊されているか、経験則としてよく知っているのは、彼(女)らが啓蒙しようと試みる一般の人々なのだ。
 事実を無視して自分たちを過大評価、他人を無視または過小評価する反政府の活動家たち。本当にうっとおしい。彼(女)らの行動を見ていると。そのうち、ラスコーリニコフみたいに近所のおばあさんを殺しに行きそうな勢いだ。あるいは、ドストエフスキーの「悪霊」にあるように、仲間内でリンチ殺人でもしそうだ。
 おまけに彼(女)らおすすめの本だの講演会だのに行くと、初歩の初歩しか語っていない。あくまでも入り口の入り口だ。なのに、そんな学習会にたった数度参加したくらいで「よくわかって面白かった」などと大満足してしまい、偉そうにおおげさな身振りと共に人にお説教をはじめるのだ。

理由その6:別の意見を言ったり、疑問点をツッコムと何も答えられなくなったり、被害者意識と憎しみでいっぱいになってヒステリックに騒いだりする。そのついでに人を中傷・侮辱することもある。極端に単純な善悪二元論が強い。潔癖主義や個人を個人として認めない共同体主義も強すぎる。なので、まともに向き合って話ができない。
 もし即答できないなら、後で疑問点を調べなおしたり、考えを整理したりして伝えることもできるはずだ。しかし、裏で数名がかりで取り組んでも、たった一人に反論することもできない。情報の見せ方を試行錯誤する熱意も粘り強さもない。そのくせ、個人主義的に生きている幸せそうな人をつぶそうとして足を引っ張ってくる。端的に言って、人格の敵、人生のジャマ。

 ざっとこんなわけでわたしは反政府デモには行かない。そもそも反政府と反戦をセットにする必要はない。国をWTOに売り渡すような反政府運動は今時の保守・反動だ。本人たちは時代の最先端のつもりでいて、実は最後端にいる。自由のつもりでいて、ただの反動にすぎない。

 これら6つの理由は、おおかたサヨクが嫌われる理由ともオーヴァーラップしている。本人たちは革新のつもりが、かえって古い・保守的→イケてない・流行らないという印象を与えているのだ。わたしはウヨクでもサヨクでもないが、ネオコンに抵抗する一部としてのサヨクにエールを送るとすれば、もう少しよく考えて、レベルの高い情報にも触れ、地道に勉強や仕事をしながら運動を組み立てなさいよ、といったところだろうか。

こちらのパレーシア大学においては、西洋中心の進歩主義を疑うのは当然の前提になっているので、関係ないかもしれない。だが、パレーシア大学の外への情報発信として、より有効な社会運動へのエールとして投稿しておく。お客さんの社会運動に関わる際の参考になれば幸いだ。


 



美浜原発の事故ーー責任だけでなく原因追及も

2004年08月29日 22時24分22秒 | 科学・技術・社会
 これは関電問題ではない。原発問題だ。とヴィデオ・ニュースで神保さんと宮台さんが槌田敦さんをゲストにむかえて語っていた。
 
 AMLや阿修羅などの情報を見るに、大阪の反原発団体は、「関電許すまじ」の姿勢を前面に打ち出している。もちろん亡くなられた方がた、もう少しの差で亡くなったかもしれない人たちもいらっしゃるのだから、親会社として関電の責任は追求しなければならない。長年原発に反対するために署名を集めサイトをつくりデモをしてきた人たちが腹が立つのも分かる。
 
 けれども、つらくても責任追及で悪者を作ることによって、原因究明をおろそかにしてはならない。
 なぜこのような事故が起こったのか? そのメカニズムを丹念に調べ、公表するように国と関電に求めねばならない。
 責任追及の人々の声が、原因究明を隠蔽・検閲することに加担することになりはしないか? ちょっと心配だ。もちろん、原発に反対してきた人たちはその両方を求めているのだろう。だが、政「責任」を強調するだけでは、問題は解決しない。

 ビデオニュースではゲストの槌田さんがこうも言っていた。経済性の面から見ても、原発は縮小の方向に向かうだろう。関電は日本で一番先に脱原発路線を歩むかもしれない。

 危険すぎる・検査に時間とカネがかかりすぎる発電方法は、経済的な意味でのニーズや世の流れに反している。犠牲者の冥福を祈るとともに、一刻も早い廃炉と他の発電手段への切り替えを求めたい。


http://www.videonews.com/

↑ ヴィデオニュース・ドット・コムのURL。月500円でこれほど充実したニュースが見れるのはお買い得。コンビニ週刊誌を買うカネがあれば、こちらを買ったほうが賢い情報消費というものだ。

ゲームの中の下請け 会社の中の下請け

2004年08月29日 15時28分19秒 | 労働・失業
 近頃、ゲームの世界でも下請け労働者がいるらしい。

 自分は十代おわりのころ、親の圧力で行くことになった大検予備校に行くときにゲームと泣く泣くおさらばさせられた。その後、絶望と自己嫌悪が強くてほとんどゲームに触っていない。それはさておき、十数年の間にゲームもオンライン化・グローバル化がすすんだ。その流れのなかで、富めるゲーマーが貧しいゲーマーに面倒な作業を請け負ってもらっているとは!
 

http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040826203.html

 下請けといえば、わたしは20代のほとんどを下請けの企業で働いた。中には子会社の子会社(孫会社)の子会社の子会社(ひ・ひ孫会社)ということもあった。
 たいていの場合、子会社だとまだ待遇はマシだ。まだ90年代の全般くらいまでは、バイトながら交通費が全額出されたり、お昼になると食費補助として500円玉を配ったりしていた。それでも、子会社のアルバイトは、食堂や売店や医務室が使えないというのははよくある事だった。また、一日二日で切り捨てられることも日常茶飯事だった。
 孫会社、ひ孫会社、ひ・ひ孫会社となると、どんどん待遇は悪くなる。下流のほうに来るにつれて、みなが嫌がる汚い作業、過酷な労働、疲れる仕事などが多くなってくる。
 たとえばえんえんとチラシをまとめるだけの作業。目が壊れてしまうCCDカメラの半導体の検査。一日12時間体制で入る目の疲れる半導体の検査をしている同僚は、昼休みには机につっぷして、食堂に移動することもできなかった。ほんの少しも座ってはならないアンケートを採る作業。
監視カメラを通じて働きぶりをチェックされるので辛かった。
 それらの仕事は、孫会社~ひ・ひ孫会社の名前を名乗ってはいけなかった。それで、朝11時からの仕事なのに朝の7時に集合し、えんえんと待たされることもあった。そして、調査に入る無印良品なら無印良品、松下なら松下の社員として働かされる。そのための自覚・誇り・プロ意識を持てと契約書に強引にサインさせられる。あるいはしょっちゅう上司から念を押される。「お前は存在してはならない」と言われていうようなもので、とても辛い。せいぜい、子会社と孫会社の名前を書類に書き込んだり休み時間にしゃべったりすることが許されるくらいで、ひ孫会社やひ・ひ孫会社は存在していると語ること自体が認められていないのだ。生身の人間が、透明人間であることを強いられるのはとてもつらい。
 正社員のつもりで、といっても、研修もなくちゃんと適性を見て雇われたのでもない。ただ会社に登録をして、ある日仕事があると電話が来たので指定の場所に行くと、はじめて仕事場所や内容が分かるのだ。もちろん、そのときに初めて契約書が渡される。
 アルバイトなので2ヶ月以内にたいていの場合クビになる。あまりに悲惨な作業内容と、社内の見下す視線やふるまいに耐えかねて、1日2日で自ら辞退する場合も少なくない。
 誇りを持てといっても、いつも無視されるか過小評価されて、給料も保証も正社員の何分の一という状態で、どうして誇りを持てるというのだろう?
 
 スキルアップも理科系の大学院への進学も見通しのたたないまま、疲れ果ててわたしはバイトを探すのをやめにした。30という年齢もあった。親には迷惑をかけるが仕方がない。
 そうして、なんとか別の道を探そうとしている。
 多所懸命でいいから、専門家でなくていいから生きる道を探ろうとしている。

 話をゲームの中の下請けに戻そう。
 ゲームの中でもリアル世界の力関係が持ち込まれるのは仕方がない、と思う。まったく何からも自由なファンタジー世界などこの世にありえないからだ。

それに下請けであっても仕事がないよりはマシという事情もあるだろう。下請け仕事で生活が安定するのなら、喜んで働くゲーマーもいるにちがいない。もちろん、わが身の不遇を嘆きつつ下請けゲーマーをしている人たちもいるはずだ。
 
 それでももし平等を志すならば、なるだけ分業をしないほうがいいのではないだろうか?
 みなが中産階級以上の暮らしや職業につけるパイは限られている。みなが嫌がる下層階級の仕事を一方的におしつけられる人たちがいるかぎり、「あなたは、あるいはあなたの子は将来いい学校に通って出世する可能性がありますよ」と統計的には正しい事実を語ったとしても、まるでロボットのような悲惨な仕事、世の中から仕事だとは認められない仕事をする人たちは、後をたたない。
 もちろん、そういった人たちの給料や保証をよくすること、プラスのイメージを作るためのマスコミ報道や映画の製作といったことは必要だ。例えば、ケン・ローチ監督の「ローズ&ブレッド」はロサンゼルスのヒスパニック系労働者に焦点を当てたいい映画だった。フリーターは気楽な職ではないと竹信三恵子や斉藤貴男といったジャーナリストは告発してきた。
 ただし、下請けというものを廃止するか否かを考えなおさないかぎり、ある一定の人間が貧乏クジを引く構図に変わりはない。
 今いっせいに下請けを廃止はできない。オンラインにおいてもオフラインにおいても、それは難しい。闇にもぐられると、原発の下請け労働以上に実態把握が困難になるだろう。
 だが、真剣にみなで考える問題だと思うのだが、どうだろうか?
 
 


 
 
 
 
 
 

ある平和団体の中のファシズム1

2004年08月29日 03時53分54秒 | 反ファシズム
 以前、とある平和デモ団体と関わっていた。そこでは、MLにおいて投票が禁じられた件と、
 投票の権利を規則化するためのたたき台を、ミーティングに提出する権利について、そのグループのリーダーから暴力をほのめかして脅された事件が起こった。

 その団体と関わって、以前から「ちょっとおかしい」と思っていた。なみなみならぬウソ・騙しがあるようだ。肝心なことになると平気で逃げる。幹部たちの異様なエリート意識の強さが鼻につく……。
 
 疑問に思ったことをランダムに挙げてゆこう。
 どうして「自分はステージが高い」と根拠もなく信じるのか? 人を侮蔑できるのか? なんだか人を侮辱したほうがエライといわんばかりだ。 
 会話しているようでいて、できない。半会話とでもいうのだろうか。何について話しているのか、話題が分かっていない。特殊な用語を相手にキチンと説明できないーーつまり、プレゼンテーションがヘタ。
 おまけに、明らかに、わざと分かりにくい発音や音量で話をすすめる。それで、質問をしたり確認をとったりすると、なぜか被害者意識にかられて怒りを爆発させている。自分のマネジメントの至らなさを反省するよりも前に、人に向かって怒鳴る。時に殴りかかる身振りとともに罵る。
 謙遜の美徳が分からない。「奥ゆかしさ」とか「遠慮」とかを、単に無能でヤル気がない、と解釈する。社交辞令も「自分は偉くて相手はダメ」式に考えているようだった。ユーモアのセンスも分からず、ちょっとしたことで「失礼やろ~!」と神経質に騒ぎ出す。(「ネタ」という言葉を使っただけで「失礼だ!」と大声で怒鳴られたときにはさすがに気が滅入った。)

 カテゴリー「中間団体ファシズム」の中で何度も論じたが、その団体はMLでの投票をリーダーの独断によって徹底拒否した。そのときのリーダーの言動が異様だった。仮にも平和団体のリーダーが、暴力をほのめかして人を脅すとは思わなかった……。
 それも、夜中でも人が歩いている京都の五条通りのファミリーレストランで食事をした後、各自支払いをすませて駐車場を横切るという時にそのことを伝えたのだった。「自由に意見をすると驚いたり傷ついたりする人がいる」「自分はリーダーとしてみなのことを考えて注意をしている」と偉ぶりながらの話だった。彼は真剣さを装っていた。だからこそいっそう、甘えや馴れ合いやふざけた気分が浮き彫りになるのも気づいていないのだろう。 
 どうやら、人の身の安全を脅しても、周囲のメンバーの世論に差し支えない、と判断したようだった。むしろ、みなの前でわたしに恥をかかせて、「自分に逆らうものはどうなるか分からないぞ」と見せしめをしているようだった。
 また、そのときに、わたしが警察に通報することも、暴力のさなか携帯電話のカメラに証拠を収めることもない、と高をくくっている様にも驚かされた。もちろん、周りの人間が止めに入ったり、警察を呼ぶことも、腹が立って「保守」系マスコミに情報を売ることも想定に入れていないようだった。誰かがネットで告発することも視野に入っていないようだった。
 女だから、フリーターだから、貧乏だから、リーダーに対するフォロアーだから、体が小柄だから、人当たりが柔らかい方だから……等といって、よくここまでナメられたものだ。
 
 この奇妙な言動には、彼独特の共同体主義が一枚かんでいる。
自分の納める領地のごとき中間団体の中でなら、何をしても許される。法律も常識も、科学も道徳も関係ない。それが彼の立場なのだ。
 彼は初対面のときから、「自分はアナキスト」と自己紹介していた。それはアメリカのリバータニアリズムに近い主張だった。
 国があると戦争が起こる。だから国を廃止しろ。かわりに、地方自治体とか仲間内で政治をやれば問題ない。また、国があると所得税を取って財の再分配が行われてしまう。それは財産権の侵害だ。国の最も悪い点だ。だから、国を廃止すべきだ。
 福祉なんていうのは、それをやりたい貧乏人や傷病者が集まって特殊な共同体を作ってその中だけでやってもらえばいい。おおげさな身振りと自己陶酔した口ぶりで彼が初対面のわたしに語ったのはそういった政策だった。アフガンからイラクへと問題の焦点が移ろうとしていたときだった。アフガンをはじめ紛争地帯では、まさに国が機能せず、他の国や宗教・民族・地縁・血縁といった
中間団体による殺しあい・騙しあい・混乱が続いており、彼の主張の妥当性の欠如は初見で明らかだった。
 それと関連して、彼は京都市の北山地区にある自宅を事務所にしている。そうすると、公私混同が起こる。個人的に相性のよくない相手、信頼関係や仲間意識の持てない相手であっても、会議やチラシ発想作業などのたびに家に招くことになる。そうすると緊張や気まずいムードが漂う。
 そもそも、そこは京都駅前や四条河原町・三条といった交通便利な町の中心部にあるわけではない。そのような移動しにくい場所をグループの共同作業所として指定するのはおかしいのだが、彼はたびたびそう発案していた。もっとも別のメンバーの「もっと移動しやすい場所にしてほしい」
との声によっていつも成功したわけではないが。それでも、自宅を事務所にしていることによる無用の緊張や公私混同はまぬがれなかった。
 わたしは彼とは相性が悪く、彼の自宅兼事務所に行くのは正直イヤだった。それでもどうしても行くことになったときには心が重かった。そのリーダーもイヤでかなわないが事務的な面で仕方がないといった感じだった。
 
 こういう欠陥があるのに、なぜわざわざ共同体主義を信奉するのか? 彼は何でもいいから自分が支配でき乱用できる場が欲しいのだ。だから、メンバーはーー得にリーダーやサブリーダ-に対するフォロアーは、自分の私的な領有物という感覚は抜けない。その領有感覚を投票や自由な意見の交換やフォロアーによるミーティングへのたたき台提出は壊してしまう。
 したがって、やれ「意見するのは場違い。役割錯誤」「このMLでは投票などしません」「(理論の話をしているときに)思想には意味がないんよ~」といった一連のふざけたセリフになるわけだ。
 それはグループの中の公民権否定にあたる。60年代のサブカルチャーに興味をもち、全共闘世代の左派の強い大学を出た彼も、その点を知らないはずはない。わたしが中学中退なのでナメているのかもしれない。
 かつて黒人・女性・貧乏人には、投票権がないか、あっても形骸化されていた。それを婦人参政権運動、財産や教養がなくても投票権を求める運動、公民権運動等によって、権利を勝ち取ってきた。その権利を彼は自分のグループにおいて壊そうとしている。民主主義ーーとりわけ草の根民主主義の伝統を彼は全部否定し破壊しているのだ。
 
 このことから、彼のパレーシアへの限りない憎しみと攻撃も理解できる。パレーシアとは「権力の前で真実を語ること」という意味の古代ギリシャ語だ。自分と同等かそれ以上のものの前で、嫌われたり追放されたり処刑にされるリスクを犯しても真実を語る権利だ。それはギリシャの民主政において、「権利の平等」とともに最も重要な民主主義の柱だった。
 そこのリーダーはグループの中でのパレーシアの権利も「個人的であって社会的ではない」との理由によって廃止しようともくろんだ。あたかも婦人参政権に反対する論者が「婦人参政権は政治的ではなく個人的な問題」だとして長年権利の確立を邪魔立てしたように。片方の選挙権については、まるで選挙に行った黒人を脅迫したりリンチしたりした差別主義の白人のように、「絶対に許せないと思っている。」「もう少しでやみくもにあなたに暴力をふるいそうだ」と脅す。
 ネオコンも真っ青の反民主的な行いだ。

 北朝鮮でもやっている投票への否定・侮辱。(それも実際の選挙の一週間ほど前というタイミング。)みなの前で意見を発表する権利の廃止。なぜこのような横暴な主張が平和運動のリーダーの口から語られるのか? それも平然とした調子で。周りのメンバーはその点に関して無頓着だ。
 
 リーダーとその片腕たちの万能感・優越感・ナルシシズム。「思想を飲むのではなく、思想に飲まれた(ドストエフスキーの「悪霊」より)」醜態。確固たる価値感や方法論のない中での混乱。
過剰な流動化・個人化への反動。孤独への弱さから来る共同体主義。日々権利が削られてゆく状況への生物的な適応。
 
 それらが生んだものは、暴力的でグロテスクなファシズムだった。


 
 
  


 
 
 



  





大阪の中の沖縄

2004年08月22日 22時54分04秒 | サブカルチャー
大阪の阪急東通商店街で、沖縄三線を弾いているミュ-ジシャンをみかけた。彼女の名は双葉。

沖縄本島から大阪の梅田にやってきた。いつもは歩道橋の上で楽器を弾いているという。
何でも3年ギターを、半年三線をしているそうだ。なるほど、どこか三線の弾きかたがギターのリフっぽいわけだ。
まだまだ荒っぽい演奏だが、少々の古典とたくさんのオリジナルをこなしていく。オリジナルは沖縄のリズムが生きており、ウチナーグチで書いた歌詞は沖縄の風景が見えてくるようだった。もちろん、ドミファソシドに代表される沖縄の音階ーーインドネシアのペロッグ音階と酷似ーーもきちんと生かされている。
カチャーシーやとぅばらーまをリクエストすると、「どうして知ってるんですか??」と不思議な顔をされてしまった。CDやTVやFMでやっているよ、と伝えた。
 そうすると彼女は、うれしいような、不愉快なようなフクザツな表情をした。きっと自分たちのものが知られていたうれしさと、自分たちだけのものが勝手に盗み見されたような不快感とが交錯したのだろう。
双葉の足元にはギターも見える。二つの楽器をかかえての旅は大変なはずだ。それでも彼女は疲れも見せない。勢いよくギターを弾きだす。的確なコード進行とフォークの影響の感じられる柔らかな音。そのなかにやはり沖縄のリズムが生きている。あと打ちというのであろうか、ンタンタンタタタの繰り返す、あの独特のスゥイングが素晴らしい。
 歌うときのうちなーぐち独特のなまりも、曲の持つ味わいを深めている。特に三線にはよくマッチしている。
 彼女の演奏に人々は足を止め、聞き入り、拍手をしていた。
わたしも拍手した。手持ちの小銭を彼女のギターケースに入れた。






抵抗勢力になっちゃおう

2004年08月12日 01時24分20秒 | ネオリベ・ネオコン
 今は亡き社会学者・ブルデューは、こう言った。
 「1、2年前までは当然だった権利が、今日は削られている」

 日々の生活実感として本当にその通りだと思う。労働組合関係者と話しても同じ感想が返ってくる。読者は?

 例えば、街を行き交う人々の服装は、だんだんとみずほらしくなってゆく。安いセルフサーヴィスの店を利用している。スーパーのお惣菜を見たら、弁当のご飯の量が以前の半分になっていた。正社員かバイトかを問わず、給与も手当ても減らされてゆく。気がついたら奨学金が縮小されている。累進課税が形骸化されつつある。
 そこそこ賑わっているように見えた商店がいつの間にか姿を消し、ゴーストタウンになっていた。近所の工場が閉鎖された。友人がリストラされた。中小企業の社長の息子が過労死した。リストラをまぬがれた銀行員は年収1000万から380万になり、ローンの支払いと労働密度の強化を前に、途方にくれている。貯金も保険も頼りにならない。今年はおせち料理を一品も食べられなかった……。

 要するに、一部の富裕層を除く大方の人々が第三世界化し、労働者階級化しているようだ。
 就業者の場合は残業、失業者の場合は仕事探しや資格取りが労働となって、生活のゆとりは加速度的に奪われつつある。

 この事態にどうすればよいのか? これまでの「既得権益」を守る「抵抗勢力」が今こそ求められている。
 何でも新しければよいと思考停止している「ネオ・コン(フランス語で「新しいバカ」)」に忠誠を誓う義理も義務もない。

 4名の死亡者を出した福井の原発事故も、効率化のために安全性を犠牲にしてきた結果との指摘もある。

 経済効率・経済成長と人の命や生活と、いったいどちらが大切なのか? 
 
 福井県の日本海沿いにある小浜というやはり原発近くの港町に行ったことがある。日本海側にある町なので、古来より朝鮮との交流も盛んだ。京都文化の影響も濃く、数奇屋づくりの町並みがある。
 海岸には海藻が生えている。白い砂浜はあたり一面カルシウムが豊富であることを物語っていた。
 昔、遊郭だった三丁町で、日本舞踊のお稽古を見学させてもらった。そのとき、京都からお師匠さんが来て教えていた。昔遊女が使っていたという4弦の胡弓(中国のニ胡ではなく日本式の胡弓)を見せてもらった。

 自然や伝統文化と科学の進歩や「豊かな生活」のどちらが優先課題なのだろうか? 高度成長期の“ボタンのかけまちがい”は、次の世代に過酷な暴力を突きつける。プロジェクトXを見てノスタルジーにひたっている場合ではない。

 廃墟のような豊かさの中で生活するわたしたち。かりそめの豊かさは、決して多くの人々の幸福に寄与しない。

 経済成長よりも、自由や民主主義のほうが大事だという選択があってこそ、アメリカ依存の外交も、イラクへの日本軍の派兵も
辞められるのだろう。スペインは民主主義を優先した。それでは日本はどうなのか? どうするのか?

 それは、わたしたちがどう行動するかによってくる。
 意気喪失を乗り越え、希望を捨てずに、自分たちの権利を欲求していこう。もちろん、異なる他者への圧制とならないように注意を払いながら。自分たちの中での民主主義も個人も大切にしながら。
 無理にがんばらなくてもいい。がんばらなくてもできることからやっていけばいい。
 失業や減給で自分の価値が下がったかのように思い込まされているかもしれない。けれど、ギリギリの所であきらめてはダメだ。絶望と奴隷根性に襲われたとき、自由から逃走せずに、自分の権利のためになることをすること。どれほど小さくてもいいから、やってみること。

 そこから人権も民主主義も始まる。ネオコンへの抵抗も。
 
 さあ、はじめよう。削られた権利をひとつでも取り戻そう。
 自分のためにも、世界のためにもなることだから。
 面従腹背もOK、パレーシアもOK。

 わたしは今日も明日も反対モード。あなたは?

(画像は大阪第4ビルでうずくまる人。携帯電話について雑談をすると撮影を許してくれた。)

 
 
 
 
 
 

 
 
 

アンファニスト宣言

2004年08月09日 23時45分08秒 | アンファニズム
アンファニスト--子ども解放主義(者)。
アンファニズム--子ども解放(主義)学。

 子どもは大人に比べて損だ。差別されている。抑圧はすさまじい。

 従って、子どもの解放がぜひとも必要だ。黒人や女性や障害者の解放と同じように、子どももまた解放される必要がある。

 それは「子どもの権利条約」のような法律・政策的な側面をも併せ持っている。しかし、それだけではない。「子どもとはこのようなもの」という通念、子どもを劣位に置き貶める思考の枠組み、日常生活の無意識の実践などを根底から問い直す実験的な試みなのだ。

 たとえば、子どもから親への主張はなぜ権利の主張として理解されず、「甘え」「依存」と見下されるのか? この手の定型思考はあまりに大人中心主義、親優位主義に基づいているのではないか?
大人中心のバイアスによって組み立てられる常識、科学的知識を信用してもよいのか? それへの代案は?


 初期の子どもの解放は、大人によって主張されるかもしれない。しかし、やがて子どもたちによってなされるだろう。

↓ とある掲示板に書いた文章
 We have an impression that children is student,but in fact, place of children is not school
but home.In addition, children began to go to school only about 300 years ago. If you think
of the fact that the origin of learn goes back to the Stone Age, you will find that children
began to go to school only recently,which seems as if it were yesterday. Therefore,“Back to the
School”is irrevant word. If we choice correctly, “Back to the Home”.

 わたくしどもは、子どもを学校に封じ込めることに反対する。学校への自由と学校からの自由の両方を擁護する。

 大人であっても子ども差別をしない・したくない人々は存在する。小さいころに大人から受けた屈辱ゆえに子どもを憎むのではなく、屈辱を受けたからこそ子どもの子どもらしさを肯定し、権利を擁護するのだ。

 わたくしどもの名はアンファニスト。子ども解放主義者。

 パレーシア大学では、子ども差別に反対する成人を求める。




(Now Building)






フリ-タ-が語る当世渡り奉公人事情

2004年08月09日 22時33分43秒 | 自然保護・修復
フリ-タ-とはどのような職か?

フリ-タ-をしていると、自分が人なのかロボットなのか分からなくなる。
まるでロボットのような作業ばかりだ。
壊れれば機械のように捨てられる。

権利擁護の情報はなく、悪意さえ感じられる中傷の情報が日常会話にもメディアにもあふれている。

不安を隠すためのごまかし、当面の心理的安定のための思考停止と感覚マヒが蔓延している。

女性のフリ-タ-は結婚にあるえない幻想を抱く。奴隷根性と敗北主義(ボ-ヴォワ-ル)に染まっているのだ。

(NOW BUILDING)




反パキシル情報

2004年08月08日 01時51分02秒 | weblog
ちょっと古い情報になりますが、パキシルの副作用を確認しましたか?
以前いくつかのMLに投稿したものが掲示板・阿修羅に転載されていました。
家のPCが壊れたときにネットカフェで時間を気にしつつ書いたので論理の構成が荒いのですが、パレーシア大学にふさわしい情報なので、採録します。

製薬会社が抗うつ剤の副作用を隠蔽 -- ネオコン下での医療の害毒 [○○○○氏]
http://www.asyura2.com/0401/health8/msg/547.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 6 月 07 日 08:39:38:dfhdU2/i2Qkk2

製薬会社が、抗うつ剤「パキシル」の副作用を隠していたと
の報道がありました。
 イリイチが「脱病院化社会」で医療業界の隠蔽・検閲体質を
批判し「医療マフィア」が人々の健康を収奪すると警告して、
30年以上が経ちました。
 それでもなお、情報を検閲し、患者の健康とひきかえに利潤
をあげようとする製薬会社。リストラへの不安と、残ったのは
いいとしても、大幅賃下げと労働時間の増加。そこにつけこむ
ように健康を破壊する製薬会社、という構図が透けて見えます

それでも「成長」しなければならない奇妙な社会にわたした
ちは生きています。(おわりなき成長神話にすがりよる斉藤環
というネオコン系精神科医は、「ひきこもりは病気ではないが
治療の必要がある」との迷言を吐いて、失笑を買いました。)
 この壮大な組織的健康破壊をしているのがアングロサクソン
系の多国籍大企業だった、というのも示唆的です。
 (グロ-バリゼ-ションなどやめて、製薬会社はすべて公営
にすればいい! って日本の場合国は省庁益でしか動かず英米
追随だからNPOに作ってもらうのがいいか? いやどこが作っ
ても隠蔽はダメだ。)
 それを告発したのがやはりアングロサクソン系のニュ-ヨ-
ク司法当局だったのも示唆的です。アングロサクソン圏内でな
ら、人権や健康を考慮するのでしょう。これが第三世界に輸出
する薬であれば、告発しなかったのではないでしょうか? 
 それでも、限定つきの守備範囲であっても、医療の害毒への
抵抗は歓迎するところです。それが次なる医療の害毒への抵抗
をいたるところで生むでしょうから。
 イギリスでの新自由主義政策とパラレルに増加し世界に拡が
った抗欝剤。憂鬱のもとを断つのは安定した仕事や生活です。
あるいは「自由のための文化行動(フレイレ)」です。
自分たちの権利と生命のために抵抗してこそ、クスリに頼らず
にすむのでしょう。
 クスリはあくまでも最後の手段です。アングロサクソン系多
国籍企業に屠られてはなりません。いくら失業や連日の残業が
辛くても、安直に抗鬱剤に手を出さないほうがよいでしょう。
 健康を希少なものとみなし、病気をケガレのごとく忌み嫌う
潔癖主義はファシズムと親和性が高い。近年は健康増進法さえ
成立させた健康崇拝をやめ、医療の害毒を減らさねばなりませ
ん。
 それも「医療マフィア」の利権にがんじがらめの専門家では
なく、市民の側から訴えていく必要があるでしょう。

                      千田 容子
報道のリンク先を3つあげておきます。
http://www.guardian.co.uk/medicine/story/0,11381,1230239,00.html
http://www.asahi.com/international/update/0603/005.htmlhttp://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040603i207.htm

http://groups.yahoo.co.jp/group/nomorewar/message/13548



鳴いてばかりいる子ネコちゃん

2004年08月05日 13時45分57秒 | 反ファシズム
 先日、平和団体にいたころの知り合いと電話で話した。
 団体を辞めてから約1ヶ月。わたしは辞めてよかったこと、また、前にも話を書いたMLの管理人で運動のリーダーBさんへの不満をまくしたてた。
 彼特有の、訳の分からないグロテスクな言動について、腹が立つこと、思い出すだけで改めてイライラさせられることを勢いあまって語った。
 そこにいるときには目の前の作業に夢中だったり、忙しさや緊迫感に包まれて考えられなかった。そのことが、今、距離を置いて冷静に見えてきたのだった。
 いくらなんでもあの言葉・行動は非常識・悪趣味・トンチンカン……。一体何よ?

 それに対して話し相手は、「あんまり気にしないで」とか「もうあの団体のことはいいじゃない」とか言ってくれた。
 確かにもう辞めているのだからどうでもいい。だが、わたしは彼がなぜあそこまで信じられない暴走をできるのか、よく分からない。いっしょに話した人は「彼も若いから~」と言う。でも、前後数歳の広い意味での同じ世代・同じライフ・ステージの人たちからも、彼は「困ったチャン」扱いされている。
 
 平和団体とは無関係の別の友人と電話でそのことについて話した。「平和団体のリーダーが、デモの協力者にお礼を言わない。それで周りの世話人からも責められている。それでも何を言われているか理解できず、『え、そんなことしなくちゃいけないの?』的な反応だったの。どうも全て自分だけでやっていると思い込んでいるらしい……。」そうすると「一人でできるわけじゃない。いろんな人の協力でやっているのにね。」との答え。

 話を元に戻そう。昔同じ団体にいたAさんと話しているうちに、思想の話になった。
 日ごろの疑問を解きたくて、思い切ってたずねてみた。どうしてあのリーダーのBさんは、『思想・思想』と思想にこだわっているのか? 今の20代終わり~30代初頭くらいの世代であれほど思想を怖がる人も珍しい。だいいち、あの時わたしは思想というよりも理論の話をしていた。彼の言い分では、新しいMLを作るのはテクノロジーの問題、規則づくりや投票や情報とは別の意見情報を出すのは思想的で意味のない行動、ということだ。だがそもそも、テクノロジーの基本にも「すみわけ」という哲学的・思想的基盤がある。そのへんのところ、どう考えているのだろう? 全く二重にも三重にも人をバカにしてやしないか?

 Aさんのコメントは次のとおりだった。「どうもあのB君は、よく分かっていない人だね。」
 ピンと来た。「そうだと思う。大事なポイントをことごとく外している。」
 彼のアメリカのリバータニアンにも似たアナキズムの主張に話は移った。
 Aさんいわく、「彼はヨーロッパのアナキズムも、日本のアナキズムも、ちゃんと読んでいないと思いますよ。」
 わたしも同意する。「そうですね。あんまり勉強していないみたいね。」
 Aさんがこう言ったのは印象に残った。「彼は思想のことをよく分かっていなくて、ふりまわされているんじゃないかな。」
 自分はこう答えた。「ドストエフスキーの小説に『悪霊』がありますね。あのなかで、ある登場人物の口を通じて『君は思想を飲んだのではなく、思想に飲まれたのだ』と批判させている部分がある。要するに、彼もその罠にはまった、ってことなのかな?」
「うーん、そうですね。」

 なるほど。腑に落ちる。これで管理人Bさんの不思議な行動と態度のおおもとが明らかになった。
 要するに彼は、高い所に木登りをして、怖くて降りられなくなった子ネコなのだ。それで戸惑っているので、顔があちらにこちらに向いたり、人をいつも以上に警戒したりしているのだ。
 あの幼児的な表情や言葉や身振りは、お母さんネコかやさしい飼い主を求めてミィミィとかわいそうな声を振り絞って鳴いているのだ。言い換えれば軽いパニック状態なのだ。
 
 それでも、知らないもんね。わたしは管理人さんのお母さんじゃないんだし。自分がいつのまにか予想以上の高いところに登ったのが、自分でも信じられなくて困っているんだろう。どうすれば無事降りられるのか不安になっているんだろう。一度降りたら二度と登るチャンスはないと杞憂しているのかもしれない。
 
 試しに一度降りてみればいい。一歩一歩、そろそろと。
 別に大怪我する高さじゃないよ。母ネコや飼い主の助けはいらないよ。一度降りてもまた登れるさ。
 そうすれば高い地位・高いプライドだけがいものじゃないと気づくはずさ。
 勇気と決断力をもって、自分自身で降りてごらんよ。誰も笑ったりしないから。嘲笑するヤツとはつきあいを切ってもいいだろ?
 もういいかげんに、正しいことを間違っていると強弁し、自信たっぷりすぎる表情と身振りでわけもなく他人を侮辱するなよ。
「発起人」や「デモ申請者」といった肩書きを利用するのではなく利用される形で、非常識を常識だと言い張り、悪趣味をよい趣味だとゴリ押しする。理解者や協力者に儀礼的な感謝ひとつ表せず、小さな独裁者として他人の外面ではなく内面を図ってランキングづけるのはよしてほしい。それで傷ついたり不愉快になったりしている人だっているのだから。
 ヘンに大物ぶって、「個人的な意見は話さないでください」と唱えなくていいよ。もう一度集団が個人から成り立つという原点に戻ればいいだけさ。
 別にルサンチマンで言っているんじゃないよ。ただあなたの横暴にいたたまれなくなってデモやミーティングに来なくなった人もいるんだよ。そのことだけは分かるべきじゃないかい?
 別に勘違いしてもいいよ。ただし、あとで反省して次に生かせるのなら。
 リーダーは責任も作業量も人よりも多くなる。だったら、なぜ「助けてください」「一緒にやりましょう」と言わないんだい?協力団体のうち、どこが下請けかなんてどうでもいいことでしょ? 
 そりゃ、お宅はあまり偏差値の高い学校を出ていなくて、プライドを持つことを認められない。ゆえに、かえってプライドに憧れ、プライドを持つ権利を模索したのだろう。
 しかしこのへんが限界だ。高すぎるプライドは、堕落の元だとそろそろ気づいてもいいんじゃないの? 奴隷根性はよくない。ところが一方で、貴族根性というのも困ったものなんだよ。
 プライドに振り回されて、自分で自分を貶め、視野を狭くして、いつも人を無視したり見下したり誤解したりして面白い? 
 やっぱり、甘えたって知らないからね。こっちはこっちでやることがあるし。
 脈絡もなく威張って、暴力を暗示して人を脅す。北朝鮮でさえやっている投票制度を拒絶する。当然の常識を否定するあまり、冷酷に「仲間」を攻撃し、人を混乱させる。外の世界のルールを守らないかわりに、外では通じないことを身内のルールにしてしまう。
 そんな子ネコを誰が助けたいと思うか。学歴どころか心で人をランクづける横柄で傲慢そのもののキャラクターに誰が親しみなり信頼をおけるものか。
 幼児ぶって甘えてくるのも、マザコンらしくて不気味だし。ホント、おかしいよ。それを克服しようとして行過ぎるのか、いきなり人を幼児扱い、自分は保護者ぶるのもウンザリだね。一体何を考えているのか、MLには18歳以上の人が加入しているし、お宅の親どころか祖父母の世代も参加しているというのに……。
 とにかく、高いところから降りるべく一歩踏み出しなはれ。お母さんネコ、兄弟姉妹ネコ、飼い主や近所の人も待っているから。
 それとも、暴れて暴れて、犬のおまわりさんにお世話になってみたい? 代用監獄は監獄よりも大変だそうですよ。ま、一度自分が看守ではなく囚人役をしてみるのもいいかもしれませんね。
そうすれば監視され幼児扱いされ意見や行動ではなく心や人格全部を否定されるキツさが分かるでしょうから。それでも人一倍復讐欲の大きいお宅のこと、さらにひどい暴君となってシャバに戻ってくるかもしれませんがね。
 もうわたしには関係のないことですから。

 あ、そうそう。そこで共同体主義だの人間関係主義だのを唱えてもムダですよ。共同体を選ぶことができると言っちゃえば終わり。人は関係の中で生きているからこそ、気持ちの悪い関係は切ることが必要だ、人間関係はお宅との関係だけじゃないと言い切ればオシマイ。
 分かっている? 勘違いはやめてね。


 
   

 
 

 
 
 

嵐山の公司さん

2004年08月02日 12時15分18秒 | 伝統文化
 最近、京都の嵐山に行った。お寺を見るためではない。このBlogに使うための写真を撮るためにである。

 いい風景を求めて大堤川から上流へ徒歩でさかのぼるうちに、目につく店があった。このへんはジュースや流しそうめんのお店が多い。そのなかで一風変わったお店があった。なんと、Tシャツを売ってるのだ。
 種類は、今流行の和柄Tシャツ。水墨画風の龍、蒔絵風の金魚、近くにある保津川で魚を捕っているような白鷺などなど。値段は3000円くらい~。洗練された絵で、観光地プライスにしてはお買い得と言ってよい。

 公司さんは人懐っこい笑顔でわたしに話しかけた。なんだか不思議と親しみが持てる。
 彼は、自分がここで手書きで和風模様のTシャツを売っていると自己紹介した。軒下のハンガーにかかっている金魚模様のシャツを裏返して、「ホラ、これは裏にもちゃんと模様が描いてあるの」と教えてくれる。なんだか、以前嵐山の友禅工房で見た着物の模様とつき方が似ている。前身ごろから後ろ見ごろへと流れるように金魚の群れが泳いでいる。一つの絵がTシャツに写し取られたようだ。
「うわあ、キレイ。着物の絵っぽい?」と感想を漏らすと、
「そう。僕は着物の絵柄を15歳のころから日本画の世界に入って、ずっと着物の絵の型を作っていたの。最近ここでTシャツに絵をつけてやるようになった。」
と語る。語り口は、目の前の川の流れるようになめらかだ。
 ちょうど知り合いに日本画の勉強をしている人がいるので、彼の話題で盛り上がった。彼は今、アルバイトで苦労しながら日本画をやっている、と話すと「ああ、それが一番ですよ。やりがいもあるし」と答えた。苦労も含めた実感ただようシンプルな答えに驚くものがあった。
 普通は「そうは言っても~」などと続くものだが、彼はそういわなかった。自分の本当に好きなことを一生懸命やっている人独特の勇気と率直さがそこにあった。

 「あなたは何をしておられる人?」と伝統を継ぐ人独特の奥ゆかしさをもって彼は尋ねた。その時、わたしはかなりいい加減な
格好で、安物のリュックサックをかかえていた。「どうせ土まみれになって写真をとるんだから」というのがその理由といえば理由だが、実際には面倒くさがっていただけだ。
 そのことを恥じつつ、実は関西にオルタナティブ大学を作ろうとしていることを話した。そうすると、「へーー、そうですか。バイタリティがあるんですね」と面白がってくれた。
 
 学校に行かなくても人は魅力的になれる、優れた文化を身につけて独立してやっていけると彼は静かに物語っていた。

 パレーシア大学では、ぜひ公司さんのような人を教授にむかえたい。ずっと大学にいて博士号をとった人もスゴイものを持っている。しかし、学校や大学の外にも素晴らしい人がいるのも事実なのだから。




 

 
 
 
 

パレーシア大学の共同運営者募集!

2004年08月02日 01時49分00秒 | weblog
 こちらのBlogをご覧のみなさん! 実はパレーシア大学はまだリアル世界にありません!

 わたくしPacheは、関西にオルタナティブ大学をつくる使命を実行にうつすつもりです。けれど、ひとりの力ではオルタナティブ大学は作れません。知恵やお金や労働力を提供してくださる方がどうしても必要です。
 「わたしは会計」とか「チラシに携帯番号載せてもいいです」とかおっしゃる方、どうぞご参加ください。
 今のところ交通費ひとつ出せませんが、いずれ多少の黒字が出るころから、せめて交通費と弁当代くらいは出せるようにしようと思っています。週に5日程度入ってくれる専従スタッフには、給料や保証もつけられるようにしたい……。

 心あるみなさん、今の大学に飽き足りないみなさん、お願いです。どうか、パレーシア大学がこの世に産まれるために、あなたの力を貸してください。どんなささいなことでも構いません。
 ときどき事務所にお福わけするのもよいでしょう。「こんなことではいけない!」と厳しく批判してくださるのでも結構です。
 妊娠中で生活困難なPacheを助けるつもりで、よろしくお願いします。
 この子が産まれ、育てば、関西の宝・国の宝・地球の宝になるでしょう。産まれなければ、新しい伝統は、まだ胎児のまま捨てられてしまいます。
 堂々と批判的にものを言える大胆な人間は、今の関西・日本ではなかなか育ちません。むしろつぶされてしまう。そういうタイプの人をつぶさないのがパレーシア大学です。人に同情して、どこかに導こうとしない教える側の謙虚さがあるのがパレーシア大学です。
 パレーシアが生まれ育つのを助けてやってください。
 
 連絡先メールアドレスは
egrettagarzetta@goo.mail.co.jp
 
 どうかよろしくお願いします。