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学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

この「大学」とは何か

2005年03月17日 14時52分11秒 | オルタナティブ大学
 このブログをやっていて、通常の大学の関係者から連絡を受け取ることがあります。そこで、大学というものに関するイメ-ジが互いにあまりにもかけ離れているために、誤解をされることもありました。ですので、この「大学」をどのようなものにする予定かを記しておきます。

 こちらのパレ-シア大学は、学生の組合です。
パレ-シア大学では、学生は政治的に意見を言う権利と投票権を持ちます。つまり、学生に公民権が認められているのです。学生は誰でも、会議を招集することができます また、教師ではなくチュ-タ-を雇うときには、チュ-タ-の組合だけではなく、学生の組合の面接もあります。学生側がダメだと言ったら雇われません。。(これで体罰やセクハラをするチュ-タ-は減るでしょう。)

 学生は自分たちのカリキュラムを決める権利があります。(この点は、通常の大学の自治会とは異なります。)

 大雑把にまとめますと、この「大学」は、「大学『からの』オルタナティブ」です。決して「大学の『ため』のオルタナティブ」ではないし、「大学『への』オルタナテイブ」でもありません。今の日本の通常の大学からは程遠いとイメ-ジしてください。
大きくて立派な建物はないし、便利なプ-ルやテニスコ-トや金をかけた実験室もありません。すべてこれから自分たちの手で作ってゆくのです。

 いいかえれば、大学のルネッサンスとも言えるでしょうか。はじめヨ-ロッパに大学ができるころ、誰も大学がどんなものか知らないまま学生と教師の組合が作られました。娼館と同じ建物に大学があることもあれば、サ-ベルを使った学生の騒ぎが教師側によって中止されていたこともあったのです。

 学生だから、まだ博士号をとっていないからといって自己否定的になったり卑屈になったり教員の奴隷の立場に立たずにすむ。通常の大学とはそこが決定的に違う点です。
大学を出ていないものを教養がない、文字の読み書きもできないとバカにすることもありません。そもそも、大学とは何かを考えつつやっていくので。
博士号をとっていないと(知的に)半人前だとか自立していないとかいって、人を責めさいなむこともありません。そのようなおかしなことは、通常の大学世界でやってください。わたくしどもには関係ありません。大学に行った人間しか見ないほど、わたしたちの視点は学校化されていないのです。

 通常の大学関係者に、以上の点に関する誤解が多いので、確認までに記事にしました。



 



思いを言葉にする

2005年03月16日 18時19分16秒 | オルタナティブ大学
 実は、ここ4日間、こちらのブログをやめるかどうか、ずっと悩んでいました。
 調査がらみのごたごたを通じて、「もう自分にはブログなんかやる資格はないんじゃないのか?!」
と思っていました。
 けれど、あるフリ-スク-ルの主唱者と電話で話しをしたことで、答えが見えました。
 
 彼とわたしは、ひさしぶりにゆっくりと近況報告しあいました。それで、調査の人に対してデタラメをやってしまったこと、そのときには恐怖で混乱してしまったが、後になってから後悔したことも伝えました。
 それに、自分の思想はリベラル寄りなのに、体質がやたらと保守になっていることも。二人目の調査の方は、わたしがとりわけ十代半ばに諦めさせられたものを、職業人になってもなお保っており、社会的立場の違いを超えて驚かされたことも。
 その方は確か進歩主義的な学校改良運動、わたしは近代産業文明批判を軸とした脱学校--具体的にはホ-ムスク-ルとかフリ-スク-ルやコミュニティの運動--に行ったという違いはあります。
 それに、自分の場合は登校拒否と女性という二つのハンデイキャップがあって、もがいていたというマイナスもあります。
 フリ-スク-ルといっても、寮のあるところにたった一週間とか二週間とか行かせてもらえるだけではなかなか自由と責任は身につかず、そのへんの中途半端さは自認するところです。また、抑圧的な家や地域にボロボロにされているところがまだ残っていて修復中なのも事実なんです。2箇所目以降は自分で選べなかったし、親の好みをムリヤリ飲まされて、不本意なことばかりやってきたことも話しました。それでも、なんとか昔そのフリ-スク-ルで手に入れた自由と責任の発想でやっていきたい、一度は保守の方面に捻じ曲がった自分の体質を、徐々にリベラル寄りにしてゆきたいとも。
 十代のころ、いっしょにアメリカのフリ-スク-ルを50箇所もめぐるツア-に行きたかったこと、そのフリ-スク-ルでやっていたホ-ムヴィデオ編集もぜひやりたかったこと、図書館に閉じ込められるように本を読んでいて気が違いそうになったこと、ムリヤリ逝かされた予備校が最悪だったこと……などなど。
 以前は彼もわたしが半分失業しているのを激しく責め、自立がどうのと怒鳴っていてこちらの話など聞く耳もたなかったのですが、最近のHNKの放映でも見たのか、わたしのもうひとつのブログでも見たのか、今回はお説教はナシ。
 それで、自分はじかに世界と触れていないし、オルタナティブ大学を作りたいけれど、日本やアメリカのいろんなフリ-スク-ルの知り合いと連絡をとってやっていくこともできない、すごく損をしている。自分には未来などなく、家や図書館や予備校などに閉じ込められた過去を取り戻すことしかない、とも。
 最後に彼は、「う-ん、なんとも言えんわ-。ただ、そうやって自分が感じたことを言葉にしてみるのはとても大事だと思うわ」
とおっしゃったんです。
 ああ、これだな-って思いながら聞いていました。
 そう、ほかにいろいろ問題があったとしても、このフリ-スク-ルにはそれがあるんです。アメリカ流なのか、フリ-スク-ル流なのかは分からないけれど、「服芸」などやらず、ものを語り合う直接民主主義の文化が。
 もちろん、パレ-シア大学もその系譜をひいています。言ってみれば、日本の新しい伝統を継承しているわけです。
 言い方が難しかったり、別の意見を述べただけで「別の意見の人の存在を認めていない」「ファシスト」と非難されたりすることもあります。ちょっと変わった意見を述べると「極右」「過激派」「党派」などとあらぬレッテルを貼られることもあります。
  それでも、何でも黙っていればいいというものではないし、何かしゃべる機会とか、場所が必要なのだとも思う。特に、自分のようにアルバイトなんてやっていると、何か会議によばれたり意見を求められることなど滅多にない。産業用ロボットでも、日本語がいまいち分からない外国人でもできるような、いわゆる単純作業・指先労働が主流です。朝から晩までそこで働いていると、日本語なんて忘れそうになってくる。
 それが、大阪府の不登校「半減」政策なんてものがあった場合にちゃんと意見が言えるかといったら、難しい。やはり普段から慣れておくことも大事。
 コメントやTBをくださる読者のためにも、--特にリアルの日常生活で発言を封じられている人たちのためにも--このブログをやっていこう。
 確かに自分は完全ではない。それは神ではなく人である以上、当然のこと。そんなことでメランコリアになっても仕方がない。

 間違った人生の中で気に食わない不本意な自分を是正して、以前なりたかった自分に近づきたい。困難を服して、気がついたら昔忌み嫌っていたものになっていた自分を組み替えたい。飼いならされない、マイナスの意味で「去勢」されない自分を取り戻したい。たとえ人工子宮をとりつけてもいいから。つまり、「不自然だ!」と非難されてもよいので。徐放剤のように、あとになってだんだん効いてくるタイプのクスリしか使えないだろうけれど。じっくり時間をかけてと取り組みたい。
 多分、そのためには、リアル世界にオルタナテイブ大学の事務所を作る必要もあるのだろう。それまでは、せめてWEB上でやっていこうと思う。やっているうちに新しくネットワ-クもできる。現に、昔の友人とも再会できている。
 学校の外で、会社の外で、別のWORKを--勉強と仕事を--やりやすい場所や集団を作るために、このブログはある。
 そう原点確認をしたところで、Kさんは、静かに語った。
「そうね、きっとそのうちまた、人とつながれると思うわ。やりよったらいいと思うわ。」
彼自身も自らのフリ-スク-ルをつぶしてしまった後の言葉だけに、謙虚で重みのある語り口だっでした。すっかり疲れて眠たくなってきたところで電話を切りました。

 情報グルメと揶揄されても、デンパだと罵られても、「3流」・「党派」・「極右」のレッテルを貼られようと(実際、そういった内容のコメント・TB・メ-ルもあるんですよ)、マイペ-スでやっていく予定です。

 警察につかまるかも、なんて心配したら人生やっていけません。人はいつか死ぬのだし、いつも自由の状態であれるとも限らないのだから。さらに、いつから生命がはじまり、いつに終わるのかもよく分からないままやってゆくしかないのだから。いつ死ぬか、いつ捕まるか分からない、それでも危険の中を泳いでゆく。それが人生であり、仕事であり、学習なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

知識よりも感情

2005年02月16日 02時06分23秒 | オルタナティブ大学
 このパレ-シア大学は、ネット上の私的なコミュニテイです。それでも知識にかかわり、知識を生み出す使命に変わりはありません。
 なぜわたしたちは知識を求めるのでしょう? たとえば、自身・津波が予知できれば多くの人たちの生命と財産を守ることができます。コンド-ムの適切な使用法を知っていればエイズを予防できます。鳥インフルエンザの防疫ができれば、あの養鶏家夫妻は自殺をせずにすんだかもしれません。
 
 だからといって、知識だけで人生がうまくゆくわけではないのも事実です。フリ-スク-ルの草分け・サマーヒルの創設者A・S・ニ-ルは「知識よりも感情が子どもたちには大切だ」と言いました。
 狭い意味でも学術的な知識を覚えるだけでは決して人は幸福にはなれないからです。自らのやりたいことを見出す、みぅからの安全な方向を感知する、どうなるかわからない心細い状況に耐える。そういったことは知識の吸収によっては生み出されない。
 激しい怒りを納めること、極端な落ちこみを回避すること、それは知識ではありません。感情を知ることが必要なのです。怒りに身をまかせて相手をやっつけるのは実に不毛な行動です。

 ではなぜ知識も必要なのでしょうか? わたしはニ-ル式の学校で文化的に大きく影響され、高校にも行ったことがありません。だから、通常の学校での知識にはたいへんな「欠如」があります。
 だからといって、自分に価値がないわけではない。そう思えるのが感情です。この場合、自信を持つということです。
 いくら勉強をしても自信がなければ効果は半減でしょう。かといって過信も困る。ほどほどのここちよい緊張感を保った自信が必要です。
 
 いくら知識を豊富に持っても、すべてが分かるわけではない、という冷静な判断も必要です。そう、ヘーゲルの「理性的は現実的、現実的は理性的」というやつです。それで、自分が無知であることを認めるのは時に恥とされる--とりわけ学校教育では最悪の罪とされている--ため、認めるのは勇気がいります。勇気は知識ではない感情です。

 それについては、わたしはとある琴・三味線教室に通ったことで多くを得ました。師匠はわたしのような不肖の弟子にも的確にレッスンをします。彼女はいつも落ち着いています。芸から来る自信のためです。
 ダメなポイントはきちんと修正します。うまく弾けたときにはみなの前でほめます。これも感情をこめないと効果がありません。ロボットが「ウマイ」「ヘタ」と判断を下すのではいけないのです。
 通常の学校教育を受けている方は、概してそういった感情を無視しがちです。いえ、普段感情を用いているのに、まるで気づかないわけです。あたかもそこには感情がないかのように振舞っている。それで知識のない人をえんえんと責めている。いまどき珍しくなったと思いますが、「本を読め!」とかなんとかいう話ですね。
 
 知識を生み出す際にも感情は必要です。もちろん学術的な知識は必要ですが、それよりももっと必要なのは何よりも感情ではないでしょうか。自殺する養鶏家を出したくない、津波の被害をなくすか小さくしたい、環境汚染を減らしたい、身近な戦争ともいえるいじめ・いやがらせをなくしたい……といったことです。

 いくら知識があっても、感情ーーちょっと前に流行った言葉では〝動機〟ーーがなければ何も進展しないのです。
 加えて、知識ばかりで感情を大切にしない人間が、感情を大切にする人間を妨害・かく乱することも問題です。例えば優秀な同僚に嫉妬していやがらせが止まらない。わたしたちが誰であれ、これはマイナスです。嫉妬をおさえることが必要なのです。
 
 研究動機の形成、嫉妬の克服、憂鬱への対処法、怒りの制御、同僚との接し方……それらの点にかげりがあれば、人生を幸福に生きることはできません。

 かつてA・S・ニールは、子どもに授業出席を強要しない実験的な自由学校を開きました。今日につながるサマーヒルです。
 サマーヒルは幸福とは何かを知る学校です。だからこそ、強制がないのです。
 このパレーシア大学もまた、フリースクールの伝統にのっとり、成人教育においても「知識よりも感情」を尊ぼうと思います。感情のしっかりとしていない人は、いくら勉強をしても結局は効果半減、いやそれどころかマイナスになってしまうからです。
 

 思えば大学とは、キリスト教の付属学校を起源にもっています。そこには貴族の師弟とともに捨て子も学んでいました。
 人を救うこと。人を幸福にすること。
 この根本的な感情を抜きにしては知識も立ちゆかないのです。パレーシア大学の場合は、まだまだ何もない状態ですから、一から新しいものを設立するパイオニア精神も不可欠です。

 もし知識を学ぶもの・産み出すものの感情が確かでなければ、どうでしょう? 毒物の研究のかたわら気に食わない人を殺す。同類を殺した罪悪感なんて主観的なものはどうでもいい、知識さえあれば、という帰結がこれです。動物の研究をするといいつつ、絶滅寸前の稀少動物を環境から隔離してオリの中に閉じ込め、絶滅させてしまう(かつてのトキ、現在のニホンバラタナゴなど)。あるいは研究と結びついた行政が間違っていると知りながら、反対できない。勇気がないからです。そして、その勇気を肯定し承認せずに、恐れたり嫉妬したりしてばかりいるのです。
 では逆に知識を学び者・産み出す者の感情が確かであればどうなるか。社会調査を行うときに魚を殺してしまうことはないでしょう。トウモロコシを用いてパソコンのボディを作るでしょう。人権侵害を当然の前提とするのではなく、それを消滅させるための知識・技術を探求するでしょう。
 
 どちらがまっとうであるかは一目瞭然ではないでしょうか? 

 当パレーシア大学では、知識よりも感情を大切にする方に学生やチューターとして来てもらいたい。
 感情よりも知識が大切だとおっしゃる方は、ご遠慮ください。

 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 


 
 
 
 

 
 
 

Alternoーー別荘のお知らせ

2005年02月01日 22時43分23秒 | オルタナティブ大学
 
 みなさん、オルタナティブ大学の別荘ができました! 本筋からそれる話はこちらで。みかんのテンプレです。

↓Alterno(ラテン語で「もうひとつの」の意味)
http://blog.goo.ne.jp/ardeacinerea1234/

 
 ブックマーク(リンク)追加中。ダメでもともと、リクエストがあれば今のうちに言ってください。こちらのgooのブログでは、いちブログあたり30までブックマークが入れらるのです。以前本宅で泣くなく削除したサイトも復活中。

 

用語解説:学助(がくじょ)

2004年11月01日 02時12分59秒 | オルタナティブ大学
読者からいただいた情報の中に「教授」という言葉があった。
こちらのパレーシア大学では、教授をおかない。
チューター(学習助言者)がいるだけだ。
略して学助。
権威主義的な上から下へと「教え授ける」関係はここにはない。
ただ、本人が自主的に学ぶのを助ける役割があるだけだ。
「教える」とは「おしつける」ことでもある。
それに対して、「学ぶlの場合はより主体性が前面に出ている。
まったく強制のないというのも厳密には成り立たない。それでも、大雑把な方向性としては、
自主的な学びを支援してゆきたい。
それゆえに、当ぱれーしあ大学では、教授ではなく学助をおくものとする。