最近、「古い・新しい」を軸にした思考と表現がはやっている。すべてを善悪に塗り分ける単純思考ではないだろうか?
ちゃんちゃらおかしい。「古いから悪い」ってホンキ? でもネオコンによる「象徴的点滴注射(ブルデュー)」はすさまじい勢いで進んでいる。新しさの乱用は見苦しく、新しさの独裁は多様性を奪いつつある。
エマニュエル・トッド「帝国以降」によれば、アングロサクソンは核家族が強く、世代交代が強調される文化だという。それに比して、ラテン系やロシア系、日本と韓国も、核家族よりも大きい家族の結合が強く、世代間で文化が継承される傾向にあるとも。
わたしは、母と祖母が伝統芸能を生業にしている影響からか、古いものへの愛着が強い。よく人から「流行おくれ」「古い」「時代錯誤」とバカにされたり迷惑がられたりする。
それでも、古くてもいいものはいいと思う。茶髪が流行したときにも黒い髪のままだった。アレルギー体質でかぶれやすいこともあるが、パーマは好きではない。
今では一般的な人工的な染料で染めた衣服よりも、エスニック雑貨の店でよく売っているアジアの草木染の服のほうが好きだ。
なぜならば、人工的な染料で染めた服は、新品のときが一番キレイだ。そのあとは少しずつ色があせて、ボロボロになってゆく。
一方、草木染は洗えば洗うほどいい色合いになる。着ればきるほど味わいを増す。色が薄くなっても別の色合いが楽しめる。洗うたびに別の色になっている。草木染の服は、ひとつの布の中で多様性、いや多彩性を展開したあと、朽ちてゆく。
自称「新しい」文化のいかがわしさは、歴史や伝統に関心と敬意のあるものにとっては笑うに笑えない。
70年代にエレキギターをヴァイオリンの弓で弾いたイギリスの有名ロックバンドがいた。あるサブカルチャー誌はそのことを「新しい文化」として賞賛していた。
そもそも楽器の起源をたどれば、発弦楽器よりも弓奏楽器のほうが先に発明されているのだ。要するに“先祖がえり”ではないか。また、発弦楽器に弓を通すための「くびれ」があったり、
逆に弓奏楽器に弓を通す「くびれ」がなかったりすることもある。(前者の例は、アフガン・ラバーブ。後者の例はウイグルのサタール。)それは、そもそも弓奏楽器→発弦楽器、発弦楽器→弓奏楽器という流用があったことを示唆していないか?
もちろん、そのバンドの曲のよさ、演奏の確かさは尊敬できる。だが、それを「新しい」と言いきってしまうのは、商売用のコピーとしても違和感が残るのだ。日本人として、または東アジア人として「謙遜の美徳」がないと、味気なく感じてしまう。「奥ゆかしさ」がないのは美しくないとも思う。
ネオコン・ネオリベに関する新しいー古い論と言えば、ブルデューはこう語っている。
「ネオ・リベラリズムとは、最も古臭い経営者のもっとも古臭い考えがシックでモダンなメッセージという衣装をまとって復活したものです。」
「保守革命は今日、新たな形をとっています。かつてのように、太古の農業神話の古臭いテーマである大地と血を歌い上げて、理想化された過去を規範として担ぎ回るようなことはしません。そうではなくて、新しいタイプの保守革命は進歩、理性、科学を(つまり経済学を)根拠に復古を正当化し、進歩的な思想と行動を時代遅れのものと思い込ませようとするのです。それ固有の論理、いわゆる市場法則、つまり強者の論理に支配された経済世界の現実的基準をあらゆる人間活動の規範、つまり理想的ルールとしようとしているのです。」
わたしは単純な進歩主義者ではない。なので、ブルデューと同じ表現をするわけにはいかない。
それでも彼の言うことは説得力がある。時系列に沿って見れば、歴史のなかで勝ち取られてきた権利がある。例えば労働者の福祉や国民が国家から守られる権利などだ。それらすべてをネオリベは形骸化し、変形させ、崩壊させている。それをさも「新しい」「よい」ことであるかのように宣伝・広告しまくる。「流通革命」「構造改革」などと、さも左派の改革派気取りで、人々の職を不安定化させ、お金の流れを滞らせてきた。結果として、寡占は進み、創業者も消費者も利益を守られない不公平な社会ができあがっている。
わたし流に言いなおせば、ネ「オリベはリベラルなものを非リベラルに見せかける」といったところか。あるいは、「ネオリベは反リベラルなものをリベラルだと僭称する」と言い換えてもいいだろう。
気にかかるのは、かつて「新しい文化」を求めて試行錯誤した全共闘世代とかベトナム反戦世代といわれる人たちが、この手のネオリベ・ネオコンをまさに支持している点だ。
ヌエバ・カンシオン、ヌーベル・バーグ、アメリカン・ニューシネマを生み育てた世代は、今や超保守となった。
階層低下に苦しむフリーターに「物質的価値よりも精神的価値が大切だ」と侮辱的な大声をあげて説教する。それも、人の話は聞かないで。給料や保証の話をすると「保障ナシで生きたいんだろ?」とそれ以外は絶対に認めないといった乱暴な口ぶりで恫喝するように同意を求め、同意しなければ人の存在すべてを否定するような暴言を重ねる。
「親に依存するな」と子どもの権利や解放を真剣に考える元子どもに向かって言い放つ。そのことによって親の権威を守り、子どもの権利や福祉を無視しているだけなのに。
伝統文化に興味のある若い世代をつかまえて「もっと新しくしろ」と怒鳴る。フランス革命もロシア革命も相対化した世代に対して「革命だ! そのためにオレの言いなりになれ。革命に協力するために何でもしろ」と直接ではなく案に言い張る。そのことによって、人を奴隷化しようとする。
別のところでブルデューは、ネオコンの御用作家ソレルスについて評している。
「二度、半回転をすることによって、二度、半革命をすることによって、出発点ーーモーリヤックとアラゴンの両御所から序文を寄せてもらった田舎出身のブルジョワ青年沸々と逸る野望ーーに立ちかえるのだ。」
このソレルス評は、「新しい」ことへの強迫観念が抜けないがために、たやすくネオリベに絡めとられ抑圧的な政策を礼賛する全共闘世代にも当てはまる。ブルデューはフランス人だ。フランス俗語でconは「ばか、まぬけ」の意味なので、ネオコンとくれば「新しいバカ」くらい考えているのだろう。それにしても、「新しい」「もっと新しくなければならない」という論理は、日本ならさしずめ電通あたりの流行をしかける戦略ではないのか?
ということはやはり、資本の論理・強者の論理に沿った発想だといわざるを得ない。
「温故知新」「古くて新しい」という感受性は、「新しい」ことに取り憑かれた人たちにはどうやら通用しないらしい。いつの間に、複雑に曲がりくねって行ったり来たりしながら展開してゆく歴史という認識を失ったのだろう? 客観的に時系列に沿ってものを考えることと、主観的な新旧の感覚のズレを楽しむセンスを壊してしまったのだろう?
ブルデューによれば、それはネオコン勢力の長年の宣伝・広告のたまものにすぎない。したがって、十分に修正可能なものだという。
わたしもそう思う。日本の伝統は、新しいものができたから古いものを全部廃することなく、古いものも新しいものと平行して受け継いできた。近世に歌舞伎ができたからといって中世からの能が廃れることはなかった。16世紀に堺に三味線が渡来したからといって、雅楽がなくなったわけではない。
その日本という位置から、「何でも新しければいいとは限らない」「主観的な新しさと客観的な新しさは別だ」「伝統を現代的にアレンジして生かす道もある」と世界に発信してゆけないだろうか? 京都には古い町屋風の建物を中だけ改造して事務所やバーに使っているところもある。伝統と革新の融合による伝統の延命と革新への深い味わいの添加。
何をもって新しいとみなし、古いとするかは大変デリケートな問題であり、単純に二元論に収まる課題ではないということ。結局は恣意的な正当性(正統性)に従うということ。
GMO(遺伝子組み換え食品)に象徴される「新しい」ものに懐疑の目を失いたくない。パレーシア大学(今のところ仮称)では、やみくもに「新しい」ことを追求せず、「古い」とさげずまれる事をも大切にしてゆきたいと考えている。
(1)↓ トッド「帝国以降」藤原書店のリンク
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894343320/qid=1095384288/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8280491-6625028#product-details
(2)若林忠宏「民族楽器大博物館」京都書院 平成11年 p.p.104-105
9/17注を追加しました!
ちゃんちゃらおかしい。「古いから悪い」ってホンキ? でもネオコンによる「象徴的点滴注射(ブルデュー)」はすさまじい勢いで進んでいる。新しさの乱用は見苦しく、新しさの独裁は多様性を奪いつつある。
エマニュエル・トッド「帝国以降」によれば、アングロサクソンは核家族が強く、世代交代が強調される文化だという。それに比して、ラテン系やロシア系、日本と韓国も、核家族よりも大きい家族の結合が強く、世代間で文化が継承される傾向にあるとも。
わたしは、母と祖母が伝統芸能を生業にしている影響からか、古いものへの愛着が強い。よく人から「流行おくれ」「古い」「時代錯誤」とバカにされたり迷惑がられたりする。
それでも、古くてもいいものはいいと思う。茶髪が流行したときにも黒い髪のままだった。アレルギー体質でかぶれやすいこともあるが、パーマは好きではない。
今では一般的な人工的な染料で染めた衣服よりも、エスニック雑貨の店でよく売っているアジアの草木染の服のほうが好きだ。
なぜならば、人工的な染料で染めた服は、新品のときが一番キレイだ。そのあとは少しずつ色があせて、ボロボロになってゆく。
一方、草木染は洗えば洗うほどいい色合いになる。着ればきるほど味わいを増す。色が薄くなっても別の色合いが楽しめる。洗うたびに別の色になっている。草木染の服は、ひとつの布の中で多様性、いや多彩性を展開したあと、朽ちてゆく。
自称「新しい」文化のいかがわしさは、歴史や伝統に関心と敬意のあるものにとっては笑うに笑えない。
70年代にエレキギターをヴァイオリンの弓で弾いたイギリスの有名ロックバンドがいた。あるサブカルチャー誌はそのことを「新しい文化」として賞賛していた。
そもそも楽器の起源をたどれば、発弦楽器よりも弓奏楽器のほうが先に発明されているのだ。要するに“先祖がえり”ではないか。また、発弦楽器に弓を通すための「くびれ」があったり、
逆に弓奏楽器に弓を通す「くびれ」がなかったりすることもある。(前者の例は、アフガン・ラバーブ。後者の例はウイグルのサタール。)それは、そもそも弓奏楽器→発弦楽器、発弦楽器→弓奏楽器という流用があったことを示唆していないか?
もちろん、そのバンドの曲のよさ、演奏の確かさは尊敬できる。だが、それを「新しい」と言いきってしまうのは、商売用のコピーとしても違和感が残るのだ。日本人として、または東アジア人として「謙遜の美徳」がないと、味気なく感じてしまう。「奥ゆかしさ」がないのは美しくないとも思う。
ネオコン・ネオリベに関する新しいー古い論と言えば、ブルデューはこう語っている。
「ネオ・リベラリズムとは、最も古臭い経営者のもっとも古臭い考えがシックでモダンなメッセージという衣装をまとって復活したものです。」
「保守革命は今日、新たな形をとっています。かつてのように、太古の農業神話の古臭いテーマである大地と血を歌い上げて、理想化された過去を規範として担ぎ回るようなことはしません。そうではなくて、新しいタイプの保守革命は進歩、理性、科学を(つまり経済学を)根拠に復古を正当化し、進歩的な思想と行動を時代遅れのものと思い込ませようとするのです。それ固有の論理、いわゆる市場法則、つまり強者の論理に支配された経済世界の現実的基準をあらゆる人間活動の規範、つまり理想的ルールとしようとしているのです。」
わたしは単純な進歩主義者ではない。なので、ブルデューと同じ表現をするわけにはいかない。
それでも彼の言うことは説得力がある。時系列に沿って見れば、歴史のなかで勝ち取られてきた権利がある。例えば労働者の福祉や国民が国家から守られる権利などだ。それらすべてをネオリベは形骸化し、変形させ、崩壊させている。それをさも「新しい」「よい」ことであるかのように宣伝・広告しまくる。「流通革命」「構造改革」などと、さも左派の改革派気取りで、人々の職を不安定化させ、お金の流れを滞らせてきた。結果として、寡占は進み、創業者も消費者も利益を守られない不公平な社会ができあがっている。
わたし流に言いなおせば、ネ「オリベはリベラルなものを非リベラルに見せかける」といったところか。あるいは、「ネオリベは反リベラルなものをリベラルだと僭称する」と言い換えてもいいだろう。
気にかかるのは、かつて「新しい文化」を求めて試行錯誤した全共闘世代とかベトナム反戦世代といわれる人たちが、この手のネオリベ・ネオコンをまさに支持している点だ。
ヌエバ・カンシオン、ヌーベル・バーグ、アメリカン・ニューシネマを生み育てた世代は、今や超保守となった。
階層低下に苦しむフリーターに「物質的価値よりも精神的価値が大切だ」と侮辱的な大声をあげて説教する。それも、人の話は聞かないで。給料や保証の話をすると「保障ナシで生きたいんだろ?」とそれ以外は絶対に認めないといった乱暴な口ぶりで恫喝するように同意を求め、同意しなければ人の存在すべてを否定するような暴言を重ねる。
「親に依存するな」と子どもの権利や解放を真剣に考える元子どもに向かって言い放つ。そのことによって親の権威を守り、子どもの権利や福祉を無視しているだけなのに。
伝統文化に興味のある若い世代をつかまえて「もっと新しくしろ」と怒鳴る。フランス革命もロシア革命も相対化した世代に対して「革命だ! そのためにオレの言いなりになれ。革命に協力するために何でもしろ」と直接ではなく案に言い張る。そのことによって、人を奴隷化しようとする。
別のところでブルデューは、ネオコンの御用作家ソレルスについて評している。
「二度、半回転をすることによって、二度、半革命をすることによって、出発点ーーモーリヤックとアラゴンの両御所から序文を寄せてもらった田舎出身のブルジョワ青年沸々と逸る野望ーーに立ちかえるのだ。」
このソレルス評は、「新しい」ことへの強迫観念が抜けないがために、たやすくネオリベに絡めとられ抑圧的な政策を礼賛する全共闘世代にも当てはまる。ブルデューはフランス人だ。フランス俗語でconは「ばか、まぬけ」の意味なので、ネオコンとくれば「新しいバカ」くらい考えているのだろう。それにしても、「新しい」「もっと新しくなければならない」という論理は、日本ならさしずめ電通あたりの流行をしかける戦略ではないのか?
ということはやはり、資本の論理・強者の論理に沿った発想だといわざるを得ない。
「温故知新」「古くて新しい」という感受性は、「新しい」ことに取り憑かれた人たちにはどうやら通用しないらしい。いつの間に、複雑に曲がりくねって行ったり来たりしながら展開してゆく歴史という認識を失ったのだろう? 客観的に時系列に沿ってものを考えることと、主観的な新旧の感覚のズレを楽しむセンスを壊してしまったのだろう?
ブルデューによれば、それはネオコン勢力の長年の宣伝・広告のたまものにすぎない。したがって、十分に修正可能なものだという。
わたしもそう思う。日本の伝統は、新しいものができたから古いものを全部廃することなく、古いものも新しいものと平行して受け継いできた。近世に歌舞伎ができたからといって中世からの能が廃れることはなかった。16世紀に堺に三味線が渡来したからといって、雅楽がなくなったわけではない。
その日本という位置から、「何でも新しければいいとは限らない」「主観的な新しさと客観的な新しさは別だ」「伝統を現代的にアレンジして生かす道もある」と世界に発信してゆけないだろうか? 京都には古い町屋風の建物を中だけ改造して事務所やバーに使っているところもある。伝統と革新の融合による伝統の延命と革新への深い味わいの添加。
何をもって新しいとみなし、古いとするかは大変デリケートな問題であり、単純に二元論に収まる課題ではないということ。結局は恣意的な正当性(正統性)に従うということ。
GMO(遺伝子組み換え食品)に象徴される「新しい」ものに懐疑の目を失いたくない。パレーシア大学(今のところ仮称)では、やみくもに「新しい」ことを追求せず、「古い」とさげずまれる事をも大切にしてゆきたいと考えている。
(1)↓ トッド「帝国以降」藤原書店のリンク
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(2)若林忠宏「民族楽器大博物館」京都書院 平成11年 p.p.104-105
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