これはKimura Masaji
http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/203056bf397545d928159fe5a03eb26eさんへのトラックバックです。
当方、中学校の2学期以降、正規の学校教育に通っていません。その少ない経験から言うと、学校の先生方は何をやっているのかよくわからないです。
受験科目であっても、その他の技能であっても、環境やセンスのよい子の場合は、プライベートの教室に通うとか、独学とかしたほうがいいと思う。そのほうが、効率がよかったり、いい方法で練習・勉強ができておかしなクセが身につかないですむって気がするんです。たとえば、親が画家だったら、美術の授業は不要でしょう。
自分の観察したかぎりでは、学校の教師は知識・技能を伝えることはあまり上手ではない。健全な競争や情報開示がないためか、勉強熱心じゃない人も目立ちます。
いっぽう、情熱をこめてやることといえば、囚人の拘禁反応まがいの細部拘泥主義と被害者意識。わけのわからない校則・体罰、先生主導のいじめ、成績が100点で当然とみなし98点なら無視・蔑視するような完ぺき主義。自分よりも勉強その他のできる生徒や親への陰湿な足引っ張り。生徒指導や教育熱心に名を借りた勉学と生活への妨害行為。わずかの情報公開にもヒステリックに憎悪を示す排他性(例:内申書を生徒が見てはダメ。自殺事件等があれば緘口令。学校に批判的な市民団体やジャーナリストへの誹謗中傷など)。
そうして、都道府県で1番か2番目の本格的進学校(東大や早稲田をめざせる所)とか、体育・芸術の権威ある大会で優勝・上位入賞をねらえる学校以外は、成績は2の次、またはどうでもよい。そういうところは、人権はなくても特権がある。エリートまたは準エリートなので、少々バカやってもいい。ただしやりすぎるとキ○○○イ扱いされるけれど。
大多数のフツーの学校は、ひたすら態度・行状における優等生ぶりを査定する。教員や児童・生徒集団(衆団?)の各種の圧力にひれ伏す子どもを求め、「浮いた」ものを徹底して嫌悪し、たたきのめす。
そのことに抵抗する教員・親・地域住民・子どもを、あらゆる手段を使ってつぶす。(木村さんのキーワードを使えば、恣意・無責任・共同体ですね。)
気持ち悪くて妙なことをするところにずーっと通っても、ほとんど愚民教育受けているようなものだと今ふりかえって思います。勉学面で優秀な子、あるいは音楽でも作文でもセンスのよい子、リーダーシップのある子、手先の器用な子らを、教員たちとその意をくんだ児童・生徒たちが、強い共同体意識をもってつぶしてしまう。
折り紙が上手でも、音楽センスが優れていても、数学がよくできても、料理に詳しくても、編み物が上手でも、水泳の競技会で上位入賞しても、学校のなかではすべて「マイナス」、もしくは「ゼロ」でした。
小学校のときのある理科の教員は、わたしが読んでいる「アニマ」「ニュートン」などの一般向け科学雑誌に目を通していなかったので、授業のペースメーカーとしてはよくても話相手としては退屈だったことを覚えています。
結局、自分は学校にはあわないな、と思ってやめました。学校では自分はゼロかマイナスでしかない、ここに自分はいてもいいんだとは思えない状態でした。
ところが、30代初頭になって確認しておどろいたことがありました。中学校のときのわたしのテストの成績は、低くとも上から7%以内には入っていたのです。あまりに教員たちに否定的にコメントされ、生徒たちにも日常的に侮辱または同情されてばかりだったので、てっきり逆(つまり、テストもできない)だとばかり思い込まされていたわけです。
地元の公立の無選抜の学校だったので、上のほうから数えたほうが早いといっても何も大したことはありません。ただし、客観的認識と自己肯定の許されない歪んだ環境にいたんだなー、ってことだけは分かりました。
学校の教員のかたで、一番印象に残っている方は小学校のときの保険の先生です。彼女は、登校拒否をしている子らはわがままじゃないし、仮病でもないという立場でした。そういう子たちが強制的に転校させられそうになったとき、たった一人で抵抗をして、結局左遷されてしまいました。彼女は成績とか親の職業とかにはとらわれずに、わけへだてなく子どもたちとつきあっていました。わたしは彼女のことは信頼していたし、今でも尊敬しています。ほかにいい思い出ってありません。思い出したくもないことばっかり。
木村さんの提案に応じて、もしこれまで直接知った教員に偏差値をつけるとすれば、保険の先生は偏差値73。子どもの権利の味方だったから。
次に、偏差値57にしたい教員もいます。わたしがまったく学校に顔を出さなかったにもかかわらず、「もし通っていたら多分このくらいの成績は取っていただろう」という推定のもと、わたしの通信簿に5とか4とかをつけてくれていた教員のかた。現役の義務教育のときには、ただウザかったけれど、30代初頭の今ふりかえれば、学校組織のなかではけっこう勇気のいる行動だったと思うから。
そのほかの教員は偏差値32くらい。
おまけとして、毎日人を殴る・誹謗する・罵倒する・威嚇する・ウソをつく・だますとかしていた教員。理科系のできる子に理系の勉学を禁じて文系科目ばかり強要する本末転倒の迷惑教員。大検を受けたいと言う子を放課後何時間も拘束したあげく、大検は東大入試なみにむつかしい、ウチの学校で受かった子はいない、などとデタラメの宣伝を吹き込む教員。親の職業を言わせて差別暴言をする教員。権威と権力を乱用して、片っ端から生徒(と親やリベラル派市民)が傷つくこと・嫌がること・混乱すること・恥ずかしがることを実行するハラスメント系教員。このへんはもう例外・論外。偏差値ナシです。
以上はわたしの恣意による偏差値ランキングです。
偏差値は絶対じゃないと思います。それは、たくさんあるなかのひとつの指標として使うのなら、いいのではないでしょうか。
ただし、自分としては、人を動員し閉じ込める学校システム自体に反対です。
http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/203056bf397545d928159fe5a03eb26eさんへのトラックバックです。
当方、中学校の2学期以降、正規の学校教育に通っていません。その少ない経験から言うと、学校の先生方は何をやっているのかよくわからないです。
受験科目であっても、その他の技能であっても、環境やセンスのよい子の場合は、プライベートの教室に通うとか、独学とかしたほうがいいと思う。そのほうが、効率がよかったり、いい方法で練習・勉強ができておかしなクセが身につかないですむって気がするんです。たとえば、親が画家だったら、美術の授業は不要でしょう。
自分の観察したかぎりでは、学校の教師は知識・技能を伝えることはあまり上手ではない。健全な競争や情報開示がないためか、勉強熱心じゃない人も目立ちます。
いっぽう、情熱をこめてやることといえば、囚人の拘禁反応まがいの細部拘泥主義と被害者意識。わけのわからない校則・体罰、先生主導のいじめ、成績が100点で当然とみなし98点なら無視・蔑視するような完ぺき主義。自分よりも勉強その他のできる生徒や親への陰湿な足引っ張り。生徒指導や教育熱心に名を借りた勉学と生活への妨害行為。わずかの情報公開にもヒステリックに憎悪を示す排他性(例:内申書を生徒が見てはダメ。自殺事件等があれば緘口令。学校に批判的な市民団体やジャーナリストへの誹謗中傷など)。
そうして、都道府県で1番か2番目の本格的進学校(東大や早稲田をめざせる所)とか、体育・芸術の権威ある大会で優勝・上位入賞をねらえる学校以外は、成績は2の次、またはどうでもよい。そういうところは、人権はなくても特権がある。エリートまたは準エリートなので、少々バカやってもいい。ただしやりすぎるとキ○○○イ扱いされるけれど。
大多数のフツーの学校は、ひたすら態度・行状における優等生ぶりを査定する。教員や児童・生徒集団(衆団?)の各種の圧力にひれ伏す子どもを求め、「浮いた」ものを徹底して嫌悪し、たたきのめす。
そのことに抵抗する教員・親・地域住民・子どもを、あらゆる手段を使ってつぶす。(木村さんのキーワードを使えば、恣意・無責任・共同体ですね。)
気持ち悪くて妙なことをするところにずーっと通っても、ほとんど愚民教育受けているようなものだと今ふりかえって思います。勉学面で優秀な子、あるいは音楽でも作文でもセンスのよい子、リーダーシップのある子、手先の器用な子らを、教員たちとその意をくんだ児童・生徒たちが、強い共同体意識をもってつぶしてしまう。
折り紙が上手でも、音楽センスが優れていても、数学がよくできても、料理に詳しくても、編み物が上手でも、水泳の競技会で上位入賞しても、学校のなかではすべて「マイナス」、もしくは「ゼロ」でした。
小学校のときのある理科の教員は、わたしが読んでいる「アニマ」「ニュートン」などの一般向け科学雑誌に目を通していなかったので、授業のペースメーカーとしてはよくても話相手としては退屈だったことを覚えています。
結局、自分は学校にはあわないな、と思ってやめました。学校では自分はゼロかマイナスでしかない、ここに自分はいてもいいんだとは思えない状態でした。
ところが、30代初頭になって確認しておどろいたことがありました。中学校のときのわたしのテストの成績は、低くとも上から7%以内には入っていたのです。あまりに教員たちに否定的にコメントされ、生徒たちにも日常的に侮辱または同情されてばかりだったので、てっきり逆(つまり、テストもできない)だとばかり思い込まされていたわけです。
地元の公立の無選抜の学校だったので、上のほうから数えたほうが早いといっても何も大したことはありません。ただし、客観的認識と自己肯定の許されない歪んだ環境にいたんだなー、ってことだけは分かりました。
学校の教員のかたで、一番印象に残っている方は小学校のときの保険の先生です。彼女は、登校拒否をしている子らはわがままじゃないし、仮病でもないという立場でした。そういう子たちが強制的に転校させられそうになったとき、たった一人で抵抗をして、結局左遷されてしまいました。彼女は成績とか親の職業とかにはとらわれずに、わけへだてなく子どもたちとつきあっていました。わたしは彼女のことは信頼していたし、今でも尊敬しています。ほかにいい思い出ってありません。思い出したくもないことばっかり。
木村さんの提案に応じて、もしこれまで直接知った教員に偏差値をつけるとすれば、保険の先生は偏差値73。子どもの権利の味方だったから。
次に、偏差値57にしたい教員もいます。わたしがまったく学校に顔を出さなかったにもかかわらず、「もし通っていたら多分このくらいの成績は取っていただろう」という推定のもと、わたしの通信簿に5とか4とかをつけてくれていた教員のかた。現役の義務教育のときには、ただウザかったけれど、30代初頭の今ふりかえれば、学校組織のなかではけっこう勇気のいる行動だったと思うから。
そのほかの教員は偏差値32くらい。
おまけとして、毎日人を殴る・誹謗する・罵倒する・威嚇する・ウソをつく・だますとかしていた教員。理科系のできる子に理系の勉学を禁じて文系科目ばかり強要する本末転倒の迷惑教員。大検を受けたいと言う子を放課後何時間も拘束したあげく、大検は東大入試なみにむつかしい、ウチの学校で受かった子はいない、などとデタラメの宣伝を吹き込む教員。親の職業を言わせて差別暴言をする教員。権威と権力を乱用して、片っ端から生徒(と親やリベラル派市民)が傷つくこと・嫌がること・混乱すること・恥ずかしがることを実行するハラスメント系教員。このへんはもう例外・論外。偏差値ナシです。
以上はわたしの恣意による偏差値ランキングです。
偏差値は絶対じゃないと思います。それは、たくさんあるなかのひとつの指標として使うのなら、いいのではないでしょうか。
ただし、自分としては、人を動員し閉じ込める学校システム自体に反対です。
同じgooですからTBを貼るのは同じなはずなので、
ご自分のブログの
【ブログの作成・編集】→で左端の【編集メニュー】から【記事一覧】→相手のBlogに貼り付けたい自分の記事の【タイトル】→すると【トラックバックURL】の欄があるので、そこに、相手のTrackback Ping-URL ・私のものではこの記事の一番下の「http://blog.goo.ne.jp/tbinterface.php/203056bf397545d928159fe5a03eb26e/12」 を記入し→【投稿】ボタンをクリック
でやってみてください。
トラックバックのアドレスと、当該のインターネットのアドレスは微妙に異なります。気をつけてください。あくまで相手のTrackback Ping-URL というやつを自分のブログにいれるのであって、相手のコメント欄にくれぐれ入れないようにしてください。
もしできましたら、私のブログにさっそくTBを貼っていただけるとうれしいのですが(笑)
お貼りいただいたTB記事については、また、コメントさせていただきます。ありがとうございました。
なお、ためしに私のおひきいただいたものをTBしましたが、削除しておいてください。
ところが、↑で木村さんが書かれたとおりにあやったのにTB貼れなかったのです。
なお、ためしのTBは削除しておきました。
「知識よりも感情」でかなーりムリに偏差値つけちゃったんですが、どうでしょうか?
この直前のアドレスをクリックして、そこでの私のコメントをご覧になっていただければ、TB貼れるとおもうのですが。多分、お間違いになられているのは、自分のblogの相手に貼り付けたい自分の記事のトラックバック欄に相手のTrackback Ping-URL を貼るってことだとおもうのですが。ホント、余計なことですが。
ぱれいしあさんにトラックバックを貼っていただけたことを光栄に思います。なお、私はぱれいしあさんのブログをもう少しきちんとお読みしてから総括的なコメントをさせていただきたいと思っています。
現在の直感的な理解では、ぱれいしあさんは明らかに学校世界の内部に所属されていなかったのだとおもいます。学校の外部の人間です。学校は外部を極端に恐れますが、外部者が内部にいるかぎり、それを異端として徹底して排除します。だいたい、いじめというのは、教育の成果というのが私の認識で、教員がしていることを、生徒は学習したといっていいのではないか、と思います。大体制服違反というのが、いっけん、生徒の意志でおこなわれているようにみえますが、生徒の中で、「制服違反という制服」をこしらえ、お互いが服装検査をしているようなものだ、とわたしはみてます。
保健室はそういう意味では、学校の中立地点なのです。そこにはいる限りは、学校の内部の関係者は立ち入ってはいけない、そういう保健室がいい保健室です。
私は「学校の呪術」という連載で、学校の内部化を徹底して書きたかったのです。そして、その向うとは、外部へ出る、外部へと出すということです。それを、タテの支配からヨコへの移動というようにも読みたいと思っています。
ええ、わたしは学校の外部の人です。
小学校のころ、清水小学校の子だと、まわりの子どもや教員に責められたことがあります。そこで、ひとり敢然と「え、ちがう。自分はS家の子だ」と異論を唱えたところ、メチャクチャに叩かれたことがあります。
それから、学校の授業がイヤでかなわなくて、
学校から脱走して、近くの里山でヤマバトなど鳥類を観察していたこともありました。しかられても、強引にPTAの捜索隊に連れ戻されても、何度も繰り返しました。
>いじめというのは、教育の成果というのが私
>の認識
そうですね。教育には人を統制・支配する目的がやはり含まれていますから。そういえば、精神科医の中井久雄さんも、みすず書房から出ているエッセイ集のなかで、同じようなことを指摘されていますね。
>保健室はそういう意味では、学校の中立地点
>なのです
うまい表現だと思います。そう、保健室って学校のなかであって学校じゃない、別のところって感じだった。不思議な空間でしたね。
>「学校の呪術」という連載
いいネーミングだと思います。学校教育って呪術の要素高いと思います。入試のときにも神社におまいりするし、小学校の入学式なんてモノクロ・ファッションでキメる「洋風の七五三」かもしれない。文化社会学のブルデューの「再生産」のとびらのページにも、学校という神聖なところで授かった知識は、外のそれとは明確に区別される、それは呪術的なものではないか、との問題提起が書いてあったっけ。
中内敏夫の岩波新書「学力とは何か」(1983)にも、帝国大学卒の強引な男が、部下とモメたときにドイツ語だかラテン語だかわからない言葉をあやつったところ、部下がいっせいに言いなりになった。それは「原始的」な文化の酋長が、紙に文字のようなものを書いて、白人と交信するといいはることで村人を統治するというレヴィ・ストロースの南米先住民についての報告を彷彿とさせると言及しています。
私の場合は、私学進学校出身ですが、テストの点数と通知簿(各科目100点満点)については包み隠さず生徒に公表され、尚且つ各科目の得点分布まで公表されているから、自分の大まかな順位くらい普通に把握していました。
これはワタリさんに対する恣意的なイジメなのでしょうか?いずれにしても常識では考えられないことです。