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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

ヒエロニムス・ボス 「干草車」

2014-07-12 23:46:26 | 番組(美の巨人たち)


2014年7月12日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ヒエロニムス・ボス 「干草車」

Methought I sate beside a public way

 Thick strewn with summer dust, and a great stream
Of people there was hurrying to and fro
 Numerous as gnats upon the evening gleam,

All hastening onward, yet none seemed to know
 Whither he went, or whence he came, or why
He made one of the multitude, yet so

 Was borne amid the crowd as through the sky
One of the million leaves of summer's bier.

---Shelley, 'The Triumph of Life' 43-51

ヤン・ファン・エイクやブリューゲルもそうだが、とかく北方の画家は描写が細かい。
顕微鏡のなかを覗いているかのようなミクロな光景がよく目につく。

それでいて、一歩引いた大局的でマクロな視点も同時に備えている。
ミクロとマクロの調和こそ、ボスを含むこうした初期フランドルの画家の特質といって過言ではないように思われる。

今回の作品《干草車》もそうだ。
ぱっとひいて眺めてみれば、三連画の左から、楽園、現世、地獄。
中央のパネルの上部には最後の審判のポーズをとったキリストの姿が描かれている。

そして細部をじっくりみていくと、ちょうどアルチンボルドの特異な絵画のように、最初はみえなかった異形の者たちがくまなく全体を構成していることに気づき、その奇怪さに恐怖を覚える。

またこうした異形の者たちは、ただ奇怪であるばかりではなく、ひとつひとつにきわめて寓意的(アレゴリカル)な意味も付与されている。
この事実が、鑑賞者の作品解釈に奥行きを与えている。

ボスは、この絵画を制作するにあたり、テンペラと油絵の具の二つを用いて描いたという。
初期ルネサンスの画家たちが好んで用いたテンペラ絵の具は、非常につやがあり、明るい色調を出すのに適している。
一方でフランドル派が創始したといわれる油絵の具は、より落ち着いた、深みのある色をもたらす。

こうした絵の具の使用法自体が、ミクロとマクロの調和した世界観を象徴しているかのようでもある。

この三連画を閉じると、そこには別の光景が描かれている。


Wikipediaではタイトルが'Pedlar'(行商人)となっているが、番組では《人生の道》と紹介されていた。

これとよく似た絵を、ボスはもう一枚のこしている。


こちらのタイトルは'The Wayfarer'(旅人)。
もっとも、当時は画家自身が作品にタイトルをつける習慣がなかったので、これはあくまで後世の人間がつけたものと思われるが。

ともかく、自らの来し方を振り返る旅人(あるいは画家自身)の目に映るものは、喜ばしいものばかりではない。
原罪意識を拭いきれない旅人が背負っているものは、たんなる行商の荷物ではなく、ワーズワースがいうところの「神秘の重荷」(the burthen of the mystery)なのかもしれない。

はかなき富を象徴したものともいわれる「干し草」。
それに群がる群衆。

冒頭に引用したシェリーの詩は未完の断章である。
その最終部では、「それでは、生とは何なのか」("Then, what is Life?" 544)という問いに対する十全な答えが出される前に断片的な結末を迎えている。

ボスの描いた旅人は、果たしてその答えをみつけたのだろうか。

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