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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

マーカス・デュ・ソートイ 『素数の音楽』

2014-03-06 13:03:07 | 書籍(その他)

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マーカス・デュ・ソートイ
素数の音楽
[原題:The Music of the Primes
冨永星(訳)
新潮社
2013

Heard melodies are sweet, but those unheard
  Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;
Not to the sensual ear, but, more endear'd,
  Pipe to the spirit ditties of no tone:

            (John Keats 'Ode on a Grecian Urn', ll.11-14)

聞こえる調べは甘美だが、聞こえぬ調べは
なお甘美である。故に優しき笛の音よ、その調べを奏でるのだ。
願わくは感覚としての耳にではなく、精神のうちに、
いとしい旋律なき調べを届けたまわんことを。

かつて「NHK人間講座」という番組があった。

各界で活躍をみせておられる方々が順番に講師を務めるという趣旨で、美術関連でいえば森村泰昌氏(2002年2月-3月 「超・美術鑑賞術」)や千住博氏(2003年10月-11月 「美は時を越える」)らも担当されたことがある。

いまではもう削除されてしまったようだが、以前YouTubeでみていたお気に入りの動画が、同じく同番組で講師を務められていた数学者・藤原正彦氏の講義シリーズであった。
毎回、ガロアラマヌジャンワイルズといった古今東西の偉大な数学者をひとりずつ取り上げ、その業績と生き様を振り返るという内容。

純粋に数学の〈美〉を求める彼らの生き方は、藤原氏独特のユーモアあふれる語り口が添えられたことで、より一層魅力を増して映った。

同シリーズの放送回の原稿に加筆したものが、現在文春文庫の『天才の栄光と挫折―数学者列伝』に収められている。
藤原氏の著書では『遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス』と並んで、個人的にお気に入りの一冊といえるかもしれない。

これら藤原氏の〈講義〉でもたびたび言及される偉大な数学者たちも次々に登場するのが、今回紹介する一冊、マーカス・デュ・ソートイ著『素数の音楽』である。
オックスフォード大学の数学教授が一般の読者向けに書いたこのノン・フィクションでは、〈素数〉をめぐる歴史が語られる。

ちょうど一口に〈文学〉といってもいろいろなジャンルがあるように、〈数学〉の扱う領域もまた、当然ひとつではない。
そのなかで、数学の歴史において、〈素数〉をめぐる研究史は常にメインストリームであったといってもいいだろう。
さながら、西洋文学の王道が長らく〈詩〉であったように。

そして素数という〈一級河川〉は、未だ証明されていないリーマン予想に象徴されるように、なお絶えることなく流れ続けている。
この〈急流〉に飲み込まれた才能ある数学者は数知れず。
しかしそれでいて、セイレーンが岩礁から船人を誘惑するかのごとく、素数の謎は多くの人々を魅了し続けている。

一見、〈無秩序〉に並ぶ素数。
本書で取り扱われているのは、こうした素数の背後に「あるはず」と数学者が信じて探し求め続けた、素数の〈秩序〉をめぐる歴史である。

リーマン予想成立までの歴史を簡潔にまとめている箇所を引用しよう。

エウクレイデスは、素数はどこまでいってもつきることがないという事実を証明した。
ガウスは、素数が、ちょうどコインの投げ上げで決まるようにでたらめに現れるだろうと予測した。

リーマンがワームホールをくぐって入った虚の世界
[注:虚数のこと]では、素数は音楽になった。
そこでは、ひとつひとつのゼロ点が音を奏でていた。
こうして素数探究の旅は、リーマンの宝の地図を解釈し、ゼロ点の位置を確定する作業へと変わった。

リーマンは秘密の公式を駆使して、素数がでたらめに現れるらしいのに対して、地図上のゼロ点が実に秩序だっていることをつきとめた。
ゼロ点は、でたらめに点在するどころか、一直線上に並んでいた。
あまり遠くまで見通すことができず、常に直線状に並んでいるとは断言できなかったが、リーマンは、並んでいると信じた。

こうしてリーマン予想が生まれた。
   (604頁)

『素数の音楽』というタイトルからも窺われるように、本書では素数の奏でる〈聞こえぬ調べ〉に耳を澄ませた数学者たちの歴史が語られる。
そして、冒頭に引用したキーツの詩ではないが、こうした〈聞こえぬ調べ〉ほど〈甘美〉なるものはない。

当然、数学の歴史を数式なしで語るのは至難なことである。
実際に本書では、数学の発展に大きく寄与した定理や証明が文中でいくつか扱われている。
しかし数式の示すものが具体的にわからずとも、本書の魅力は決して減じない。

〈聞こえる調べ〉は聞く人を選ぶとしても、〈聞こえぬ調べ〉は聞く人を選ばないのである。

433頁に、英国の数学者ハーディーの次の言葉が載っている。

「本当の」数学者による「本当の」数学、フェルマーやオイラーやガウスやアーベルやリーマンの数学は、ほとんどすべてが「役に立たない」(「純粋」数学だけでなく「応用」数学についてもそういえる)。
いかに天才的な数学の専門家であっても、その業績が「有用」だといって己の生涯を正当化することはできないのだ。

現代ではクレジットカードのセキュリティー問題をはじめとして、数学が〈有用〉な方面と結びつけられることが多くなってきている。
しかしやはり、とりわけ過去によくみられたような、〈役に立たない〉数学研究の追及ほど、ロマンに満ちたものはない。

〈役に立つ〉ものはいずれ〈不要〉になる。
しかしもとより〈役に立たない〉ものは、決して価値が薄れない。

498頁では『失われた時を求めて』より、プルーストの次の言葉が引用されている。

真の発見の旅は、新たな風景を捜すことではなく、新たな視点を獲得することにある。

リーマン予想が証明されたときに開かれる新たな地平が楽しみである。

さて、本ブログは一応美術関連のものなので、美術の話もしておこう。
とはいえ、何について書くか。

『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン)がオックスフォード大学の数学講師であったことは有名である。
実際、彼の名は『素数の音楽』でも何度か言及されている。

〈画家と数学(者)〉との関わりということで、挿絵画家テニエルの話をしはじめると、また長くなりそうだ。

それでは、岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 (下)』におさめられている、ルネサンスの〈万能人〉(Homo universalis参考]) レオナルドの〈数学〉論(24-25頁)から二つを引用して締めたい。

・数学者でないものには、私の原理は読めない。

・比例は単に数および量のなかに見出されるのみでなく、さらに音、重量、時間および位置その他あらゆる可能性(ポテンシア)の中にもあるはずだ。

ここでいう〈原理〉のひとつのあらわれが、有名な《ウィトルウィウス的人体図》であろう。[下図参照]


また数学と芸術との関連については、こちらのWikipediaページも参照されたい。

『素数の音楽』。
名著といってよいだろう。

〈聞こえぬ調べ〉に耳を傾けたいという方には、ぜひ一読をお勧めする。

河田美恵子 『TOLEDO―その歴史と芸術』

2014-03-05 17:13:08 | 書籍(その他)

河田美恵子
TOLEDO―その歴史と芸術
サビール出版
1991

マドリードのやや南、イベリア半島のほぼ中心に位置するスペインの古都トレド
美しい街並みが今も残り、1986年には旧市街全体がユネスコの世界文化遺産に登録された。

今回紹介する一冊は、旅行でスペインに行った方からお土産として頂いた同市のガイドブックである。

120頁にわたる本ガイドブックでは、多くのカラー図版(絵画、彫刻、建築、地図 etc.)とともに、トレドの各観光名所にまつわる歴史とその地でみられる主な芸術作品が紹介されている。

スペインを訪れたことのない私にとって、〈トレド〉と聞いて思い浮かぶものはただひとつ。

そう、エル・グレコである。

ギリシアに生まれ、イタリアでティツィアーノらヴェネツィア派の画家たちに師事したグレコ。
30歳を過ぎたころにスペインへやってきた画家は、トレドを中心に活躍をみせ、いまではベラスケスゴヤと並びスペイン三大画家のひとりに数えられる。

本書では多くの画家の作品が取り上げられているが、なかでも質・量ともに群を抜いているのがグレコの絵画である。
掲載されている作品のうちから、画題としてトレドと関わりのあるものをいくつか抜き出してみよう。

● 《トレド全景》 (p.32, pp.34-35)

二点現存しているグレコの描いたトレドの風景画のうちのひとつ。
もうひとつはこちら
どちらかといえば後者の方が有名なように思われる。

エル・グレコの絵は、スペインへ来た頃のイタリア的な肉体礼賛から一変し、人体描写はあたかも重力を失ったかのように、細長く引き伸ばされていく。
彼が描こうとしたのは、肉体を超えた精神の世界だったのだろうか?
 (32頁)


● 《オルガス伯の埋葬》 (p.90-92)

「静的な地上の埋葬場面と、動的な審判の行われる天上界を、ドラマティックに統一させ」た一作である(90頁)。
埋葬されているのはトレドに生まれた敬虔なオルガス伯ドン・ゴンサロ・ルイス。

大塚国際美術館(徳島)には本作の原寸大のレプリカが展示されている。
同美術館の〈エル・グレコの部屋〉も見どころである。

生命の炎を象徴するかのように異様に引き伸ばされた人体、しなやかで、表現力のある指先、いずれをとっても、画家の非凡な力量がうかがえると同時に、ほとんど狂気とも思われる彼の自由奔放な幻想の集大成ともいえる作品である。 (92頁)


● 《無原罪の御宿り》 (pp.98-100)

この主題はマリアがイエスを身ごもったいわゆる〈受胎告知〉とときに混同されるが、区別が必要である。
無原罪の御宿り〉とは、原罪を免れた状態で、マリアが母アンナの胎内に宿ったというカトリックの教義を指す。

[注:98頁右下のキャプションでは100頁に掲載されている本作品のタイトルが《聖母の被昇天》となっているが、おそらく誤りであろう。]


画面左下には、先ほど触れたトレドの風景画(参考)と同様の景観が描かれている。[下図参照]


――――――――――――

本書全体を通して―


例えば上で言及したように作品名が誤っていたり(98頁右下)、また画家名が違っていたり(104頁右下)など、現地で(おそらく)長年売られているガイドブックにしては誤植が多いようにも思われる。
しかし本ガイドブックはいわゆる美術書ではなく、著者ご自身も美術の専門家ではないため、これ以上深入りすることもなかろう。

スペイン。
ぜひ行ってみたい。

トレドもそうだが、プラド美術館(マドリード)は外せない。

ボス・・・《快楽の園

ベラスケス・・・《ラス・メニーナス》《織女たち

ゴヤ・・・《裸のマハ》《着衣のマハ》《我が子を喰らうサトゥルヌス》《マドリード、1808年5月3日

トレドと「あのギリシア人」エル・グレコ。

マニエリスムを代表する画家につきまとう謎には、魅力が尽きない。

村松真理子 『謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」』

2014-02-27 12:34:35 | 書籍(その他)

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村松真理子
謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」
角川書店
2013

先日ダン・ブラウンの最新作『インフェルノ』を読んだ。
感想は2月21日のブログ記事に綴っている。

ダン・ブラウンの同小説は、ダンテの大作『神曲』に着想を得て書かれた。
中世イタリア文学の傑作にして、世界文学の最高峰。

今回このブログで扱うのは、ダンテの『神曲』を扱った入門書である。
この新書は『インフェルノ』(の日本語訳)発売に合わせ、昨年の暮れに出版された。

著者は村松真理子氏。
同書の〈おわりに〉によると、氏はダン・ブラウン作品の翻訳を長らく手掛けておられる越前敏弥氏と大学の同級生であるという。

さて、内容について。

ざっと読んだ感想をいわせてもらうと、イントロダクションとしては申し分ないように思う。
適宜ドレやブレイクらの挿絵も交えつつ、親切な解説書になっている。

しかし反面それはいってみれば諸刃の剣で、読者に〈もやもや〉とした読後感を残すだけにもなりうる。
〈導入〉レベルとしてはともかく、そこから一歩踏み込んだ書き方にはなっていないため、歯ごたえがないといえばないのである。

とはいえ、本書を読んで、これまで抱いていたダンテについてのイメージが膨らんだことは事実である。
以前までのダンテのイメージというのは、『新生』や『神曲』を書いた〈中世の偉大なる詩人〉であり、かつ〈政治にも深く関与した〉といった程度であった。

しかし54-55頁で解説されているダンテの〈文学論(テクスト分析論)〉や、236頁以降で言及されている〈言語学者〉としての彼の側面の紹介は興味深く、これまでは比較的〈平面的〉だったダンテのイメージがより〈立体的〉なものとなった。
前者の〈文学論〉は主に『饗宴』において展開されているものであり、後者の〈言語分析〉に関しては『俗語論』にみられる記述を基に解説がなされていた。

本全体の感想はこれくらいにして、美術の話に移ろう。

ダンテの『神曲』とそれを表象した美術作品については、前掲のブログ記事でも触れた。
今回は、前回取り扱わなかった作品を中心にみてゆきたい。

そもそも、ダンテ以降の時代、彼岸を描く画像表現に関して、イタリアの中世末以降の宗教画においても『神曲』の影響を無視することはできない」(71頁)と述べたうえで、筆者は様々な美術作品を挙げてゆく。

・ミケランジェロ 《最後の審判

・アングル 《パオロとフランチェスカを発見するジャンチョット

・ボッティチェリ 《ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語》 【連作:左上(I)、右上(II)、左下(III)、右下(IV)】


最初のミケランジェロの有名な祭壇画に関しては言わずもがな。
右下に描かれている渡し守カロンについては、ダン・ブラウンの小説のなかでも触れられていたかと思う。

アングルの絵画に関しては、以前のブログでも触れた『神曲』「地獄篇」(第五歌)で詠まれているパオロとフランチェスカの悲哀の物語を描いたものである。

二人の幸福感とその背後に迫る緊張感。
舞台上のような印象を抱かせる一作である。

最後のボッティチェリの連作については少し説明が必要だろう。
この四作は、ダンテと同じ中世イタリアを代表する文学者ボッカチオの大作『デカメロン』(第五日第八話)の記述を基にして描かれた。

『神曲』(Divina Commedia)という題名は、もともとはComedìaというシンプルなものであった。
その頭に"Divina"をつけ、今に至るタイトルを定着させたのが、他ならぬボッカチオであった。

ダンテを敬愛していたボッカチオ。
『デカメロン』の〈ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語〉(第五日第八話)には「地獄篇」(第十三歌)をはじめとする「ダンテ的地獄の情景」(74頁)が巧みに散りばめられている。

全百話からなるこの「枠物語」のなかでも、とりわけ印象深い物語(〈ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語〉)を絵画化したのが、ボッティチェリなのである。

ダン・ブラウンの小説も含め、これほどまでに数多くの(美術)作品を生んだ『神曲』。
文学や美術のみならず、オペラや戯曲など様々なジャンルにおいて、ダンテの息吹が受け継がれれている。

時代を超えた影響関係こそ、〈古典〉の証に他ならない。

繰り返しになるが、今回紹介した新書は、あくまで〈イントロダクション〉としてはいい。
しかし中世イタリア文学の巨人が書き上げた「中世ゴシックの大伽藍に喩えられる壮大なことばの構築物」(52頁)の頂上からの眺めは、最終的には自らで確認する必要がある。

さながら「ダンテがウェルギリウスに誘われて旅をし、最後には一人でベアトリーチェのもとに導かれたように」(249頁)。

ダン・ブラウン 『インフェルノ』(上・下)

2014-02-21 18:34:22 | 書籍(その他)

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ダン・ブラウン
インフェルノ』(上・下)
越前敏弥訳
角川書店
2013

中世イタリア文学史に燦然とその名を刻む詩人ダンテ。
言わずと知れた彼の代表作『神曲』(Divine Comedy [もともとのタイトルはComedìa]) は、「地獄篇」('Inferno')、「煉獄篇」('Purgatorio')、「天国篇」('Paradiso')の三部から構成されている。

『インフェルノ』(ダン・ブラウン)下巻の〈訳者あとがき〉でも書かれているように、なかでも「圧倒的な人気を博し、数えきれないほどの著作や絵画や音楽や映画に影響を与えてきたのは、第一部の〈地獄篇(インフェルノ)〉」であった(324頁)。

Amazonで検索をかけてみると、PlayStation 3のゲームまであるらしい。(→参考

視覚芸術でいえば、ドレの有名な版画は言うまでもなく、ブレイクやロセッティ(《ダンテの夢》や《ベアタ・ベアトリクス》)、ダリの遺した作品も印象深い。(→参考

ドラクロワの描いた《ダンテの小舟》もまた、一度見たら忘れられない作品である。
フランスにおけるロマン主義絵画の幕開けを告げる本作は、ルーブル美術館に所蔵されている。(下図参照)


上野の国立西洋美術館前には、「近代彫刻の父」ロダンの大作《地獄の門》が置かれている。
本作は、『神曲』の「地獄篇」(第三歌や第五歌、第三十三歌など)の記述を基にして制作されたものである。(→Wikipedia ["The Gates of Hell"])

そして、《地獄の門》の彫刻の一部が抜き出され、結果的に独立した作品となったものが、かの有名な《考える人》である。(下図参照)
「考える人」とは、今でこそ〈哲学〉あるいは〈思索〉の象徴とみなされることが多い。

しかしその由来は、ダンテその人に他ならない。
ちなみにこの彫刻も、西洋美術館前にある。(→参考


[左:《地獄の門》/右:《考える人》]

また英国ロマン派の詩人キーツも、ダンテの「地獄篇」を読んで多大なる影響を受けたひとりである。
ちなみに、『インフェルノ』(上)の229頁では、ダンテのデスマスクとの関連で、キーツにも言及されている。

「地獄篇」(第五歌)におけるパオロとフランチェスカの悲哀の物語 [参考:"Francesca da Rimini" (Wikipedia)] に心を打たれた詩人は、一作のソネットを書き遺している。

'As Hermes Once Took to his Feathers Light'

As Hermes once took to his feathers light,
  When lulled Argus, baffled, swoon'd and slept,
So on a Delphic reed, my idle spright
  So play'd, so charm'd, so conquer'd, so bereft
The dragon-world of all its hundred eyes;          5
  And, seeing it asleep, so fled away―
Not to pure Ida with its snow-cold skies,
  Nor unto Tempe, where Jove griev'd a day;
But to that second circle of sad hell,
  Where in the gust, the whirlwind, and the flaw    10
Of rain and hail-stones, lovers need not tell
  Their sorrows. Pale were the sweet lips I saw,
Pale were the lips I kiss'd
, and fair the form
I floated with, about that melancholy storm.

記録上、この詩が最初に書かれたのは、1819年4月16日の書簡のなかでのことである。
もともとの草稿のタイトルでは、'A dream, after reading Dante's Episode of Paolo and Francesca'となっていたということだ。

ラファエル前派兄弟団の中心人物ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティもキーツのこの絶唱を激賞している。
父親がダンテ研究者である彼はこう書き遺している。

チャップマン訳のホメロスを読んで」を除けば、これほど素晴らしいソネットはない
"By far the finest of [Keats's] sonnets... besides that on Chapman's Homer"
     (1880年2月11日の書簡) [参考:Miriam Allott (ed.), The Poems of John Keats, p.498]

さて、ダン・ブラウンの最新刊『インフェルノ』について。

書店で売られている本の帯には、「これまでのダン・ブラウンの小説で一番面白い!」という荒俣宏氏の絶賛のコメントが踊り、著作の公式HPにも「賞賛の声」が並んでいる。

しかし、Wikipediaの該当ページを読む限り、本作の評価は必ずしも好意的なものばかりではない。
Amazonのレヴューをみても、賛否両論あるようだ(これまでのダン・ブラウン作品と比べて〈浅い〉という指摘も散見される)。

個人的な感想としては、結末の〈締り〉のなさに、やや後味の悪さを覚えた。
しかし、まさに"gripping"な、〈読ませる〉作品であったことは間違いない。

おそらく映画を意識した筆の運びになっているのだろう。
前作『ロスト・シンボル』に先駆け、来年にも映画化が予定されているようだ。

あと、本筋とは直接的に関わりはないのだが、物語のなかである人物が、主人公のラングドン教授に「シメワザ」なる柔術をかけて教授の動きを封じ込めるという一幕があった(下巻、146頁)。
シャーロック・ホームズの「最後の事件」における有名な「バリツ」もそうだが、どうしてこうも日本の〈ジュウジュツ〉というものは、何か特殊な力を発揮すると思われがちなのであろうか。

ともかく、一応「美術関連」のブログなので、美術の話もしておこう。

『インフェルノ』において、物語の重要なカギを握るのが、以下の二作品である。

・ボッティチェリ 《地獄の見取り図


ドメニコ・ディ・ミケリーノダンテの神曲


物語では、犯人が《地獄の見取り図》のなかに暗号を隠し、ラングドン教授が脳漿を絞って解読する。
後者の絵画に関しては、「煉獄篇」(第九歌)の記述にある〈七つのP〉が、解読の鍵となる。

ダンテの『神曲』を扱った美術作品に関しては、河出文庫から出版されている『神曲 煉獄篇』(平川祐弘訳)に、「ダンテと美術」と題された、訳者のあとがきが掲載されている。
興味のある方は、参照されたい。

では、最後に...。

『インフェルノ』(上)の292頁で、登場人物のひとりが次のように言っている。

「わたしが信奉するのは真実よ」(...)「たとえそれがひどく受け入れがたいものであっても」

原文は確認していないが、この言葉を読む限り、シャーロック・ホームズのあの有名なセリフが思い起こされる。

"How often have I said to you that when you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth?"
                           (The Sign of the Four)
「すべての条件のうちから、不可能なものだけ切りすててゆけば、あとに残ったものが、たとえどんなに信じがたくても、事実でなくちゃならないと、あれほどたびたびいってあるじゃないか」
                        (『四つの署名』(延原謙訳、新潮文庫、p.64))

ホームズが「あれほどたびたび」というように、同趣旨の発言は原作中に何度かみられる。(→参考

『インフェルノ』の記述がドイルの探偵小説のそれを意識したものであるかどうかについては、〈ラングドン教授のみぞ知る〉といったところである。
しかし、ダン・ブラウンの最新作が、ホームズの〈冒険〉のごとき〈興奮〉と〈ミステリー〉に満ちていることは確かであると言っておこう。

原田マハ「ヴィーナスの誕生 La Nascita di Venere」 (『エール! 3』)

2014-01-04 17:33:52 | 書籍(その他)

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『エール! 3』
大矢博子編
原田マハ(「ヴィーナスの誕生 La Nascita di Venere」)、日明恩、森谷明子、山本幸久、吉永南央、伊坂幸太郎
実業之日本社
2013

楽園のカンヴァス』、『ジヴェルニーの食卓』、『ユニコーン―ジョルジュ・サンドの遺言』。
少なくとも現在(2014年1月)までに書籍の形で刊行されている、アートを主題とした原田マハ氏の短編・長編はすべて読んできた。

と思っていた。
しかし、違った。

たまたま手に取った文庫の表紙には「原田マハ」とあった。
目次に目を移すと、巻頭の作品は「ヴィーナスの誕生 La Nascita di Venere」と題された原田氏の短編だった。

氏の公式サイトの"Works"のページには、『エール! 3』は載っていない。
しかし"News"のページには2013年9月29日付で書籍が紹介されており、著者のWikipediaの該当ページでも言及されている。

ともかくも、興味をそそられ、読んでみた。

物語は、「穐山(あきやま)かれん」と「富坂亜弥」の二人を中心として展開される。
二人はイタリア・ルネサンス期の美術を専攻する大学院のゼミで同期だった。

卒業後、ともにアートの世界で働くことになる両者であったが、職種は大きく異なる。
狭き門を潜り抜け、都内の美術館の学芸員となった富坂と、美術品輸送会社という美術展の下請けを担当する会社に勤めることになった穐山。

学生時代、ともにイタリアへ短期留学し、共同生活をしつつ、二人は現地の美術館で多くの作品に触れた。
優秀な二人は、互いを認め合い、そして高めあった。

その二人が、卒業以来久々に顔を合わせるきっかけとなったのは、ある展覧会だった。
それは、富坂が長らく実現を願っていたものだった。

ウフィツィ美術館の傑作を集めた展覧会。
なんといっても目玉は、ボッティチェリ作《ヴィーナスの誕生》であった。

様々な感情が交差するなか、黙々と仕事に徹する二人。
裸体のヴィーナスが衣を纏うごとく、温かい空気が二人を包む。

この「温かさ」は、『ジヴェルニーの食卓』の読後感を思い起こさせる。
物語をやさしく、美しく包み込む原田氏の技術には、脱帽である。

物語のところどころには、著者の実体験に基づく内容が顔を出す。
アートの世界の裏側を知る著者ならではの知識と理解に裏打ちされた物語が展開されている。

例えば「クーリエ」(courier)や「クレート」(crate)といった語。
前者は「随員」の意であり、絵に付き添ってやってくる専門家を指す専門用語である。
(cf.『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事』 p.157)

後者の「クレート」(「木枠」の意。作品中では「貨物」と訳されている)に関しては、こちらのページを参照されたい。

多くの賞を獲得した『楽園のカンヴァス』以来、原田氏のアート小説は短編や中編が続いている。
次回作はぜひとも長編に期待したい。

気軽に読める、それでいて味わいのある作品であった。