leonardo24

西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

「Mr. ビーン カンヌで大迷惑?!」 (2007)

2014-04-13 11:12:33 | 映画

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Mr. ビーン カンヌで大迷惑?!
[原題:Mr. Bean's Holiday
監督 スティーヴ・ベンデラック
出演 ローワン・アトキンソン、エマ・ドゥ・コーヌ
2007
(IMDb)

1997年の映画化第一弾(「ビーン」)から10年、第二弾の映画の舞台はフランスのカンヌ。

前作ではホイッスラーの名画をめぐる美術館学芸員ビーンの一大騒動が扱われたが、今回はひょんなことからフランスに向かうこととなった旅人ビーンのドタバタ劇である。


ホイッスラー 《灰色と黒のアレンジメント(母の肖像)》 (1871、オルセー)

ちなみに、今年の12月から横浜美術館では「ホイッスラー展」が開かれる予定である。


それはさておき、話を映画に戻すと、個人的には前作の第一弾の方が好きか。
おそらく映画としての完成度は前作の方が高いように思う。
今回の第二弾は、観ようによってはやや〈コラージュ(寄せ集め)感〉がある。

ところでコラージュといえば、絵画史的にはキュビスムに結びつくのだが、その代表格ピカソは今回の映画の舞台カンヌを題材とした作品を何枚か描いている。


《カンヌの浜辺 1958》 (1958、ピカソ美術館[パリ])


《カンヌ、フランス 1966》 (1966、V&A)

実はピカソ美術館というのはいくつもあって(参考)、そのうちのひとつはカンヌにほど近いフランス南部のアンティーブという保養地に建てられている。

Mr. ビーン。
愛すべき変人の、騒がしき休息。

「舟を編む」 (2013)

2014-03-14 20:08:01 | 映画

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舟を編む
[英題:The Great Passage
監督 石井裕也
出演 松田龍平宮崎あおいオダギリジョー
2013
(IMDb)

"On the contrary, Aunt Augusta, I've now realised for the first time in my life the vital Importance of Being Earnest"
                 (Oscar Wilde, The Importance of Being Earnest)
「とんでもない、オーガスタ伯母さん、いまこそ生れてはじめて、はっきりわかったんですよ、なによりも『まじめが肝心』だってことが」
                 (『まじめが肝心』 [新潮文庫に収録、西村孝次訳])

去る3月7日、日本アカデミー賞(第37回)の授賞式が行われた。
選考の対象となるのは主に2013年に公開された映画(厳密には2012年末に公開された作品も含む)。

今回最優秀作品賞の栄誉に輝いたのは、三浦しをん氏の同名小説を原作とした「舟を編む」。
優秀作品賞には他に五作品が選ばれた(「凶悪」、「少年H」、「そして父になる」、「東京家族」、「利休にたずねよ」)。

日本アカデミー賞は、国内の映画賞として非常に大きな影響力をもつ一方で、いくつかの〈限界〉があることも確かだ。
Wikipediaページにも書かれているように、その〈限界〉のひとつは、受賞作品のほとんどが、「認知度の高い」作品に限られてしまうことである。

ともかくも、同賞の結果を受けて、「舟を編む」を観てみた。
私自身、邦画はあまり観ない(上に挙げた六作品のなかで観たことのある映画は「そして父になる」だけである)のだが、この作品にはどこか惹かれるものがあったのだ。

感想―
ひとことで言うならば、私が近年観た邦画のなかでは、間違いなくナンバーワンの作品である。

日本アカデミー賞にせよ、本家であるアメリカのアカデミー賞にせよ、こうした大規模な映画賞というものは、えてしてどこか〈権威的〉で、〈商業主義的〉で、やや〈反発〉したくなる気持ちも多少うまれるものだ。

しかしそれを差し引いても、「舟を編む」は、まさに「最優秀作品賞」にふさわしい、文句なしの良作である。
主演の松田龍平の演技も見事である。

物語の主人公は、馬締(まじめ)という名字の青年。
出版社の営業部で働く彼が異動を言い渡されたことから、ドラマが始まる。

馬締に課せられた新たな仕事は、辞書作り。
気の遠くなるような作業だ。

営業の仕事では〈クビ〉同然の仕事ぶりだった馬締。
しかし辞書作りに取り掛かった彼は、水を得た魚の如く(エサを与えられた馬の如く?)、どんどん仕事にのめりこんでゆく。

これから先はネタバレになるので深入りしないでおこう。

「舟を編む」。
徹底的な〈マジメさ〉ゆえに生じる滑稽さ(⇒喜劇的要素)と、その一方で漂うペーソス(⇒悲劇的要素)との色調の混ざり具合が絶妙である。

さて、美術の話をしよう。
今回は映画「舟を編む」にちなんで、絵画における〈船〉について。

18世紀イギリスを代表する文学者サミュエル・ジョンソンは、1755年に『英語辞典』(A Dictionary of the English Language)を独力で完成させた。
「舟を編む」の主人公・馬締が、多くの人々と協力しながら辞書を作り上げていくのとは対照的だ。

英語史上のみならず、英文学史上の意義も大きいジョンソン博士の『英語辞典』。
これはなにも英国史上初の辞書という訳ではない。
詳しくは上に貼り付けたWikipediaページにも書いてあるが、それ以前にも「英語辞書」なるものは英国に存在した。

しかしそれらの辞書は、(少なくとも現代の辞書と比べると)概して粗雑で、決して完成度の高いものとは言えなかった。
それに比べ、ジョンソン博士の『英語辞典』は、きわめて包括的で、内容的に充実している。

加えて彼の『英語辞典』には英国的なユーモアに富んだ項目も多く、そうした意味で、辞書として〈ユニーク〉である。
そしてこうした〈ユニークさ〉もまた、この『英語辞典』を英語史的・英文学史的に価値あるものにしているのである。

ジョンソン博士の『英語辞典』刊行から20年後の1775年。
この年に生まれたのが、英国ロマン主義を代表する画家ターナーである。

「英国絵画の父」ホガース以来といってよい英国の国民画家であるターナー。
彼の絵画でしばしば取り上げられる主題が、畏敬の念をも覚えさせるほどに〈崇高(サブライム)〉な自然の有り様である。
こうした自然の力を前にすると禁じ得ない、人間存在そのものの卑小さについての思いもまた、彼の絵画を特徴づける一要素だ。

こうしたターナーの自然観が凝縮された彼の代表作が、《戦艦テメレール》ではないだろうか。[下図参照]


いま貼り付けたWikipediaページにもあるが、2005年に英国で行われた投票によると、ナショナルギャラリー(ロンドン)に所蔵されている本作が、イギリス国民が最も愛する絵画ということになるらしい。

ターナー自身は他にも〈船〉を主題とした作品を多く遺しており、またフランスにおけるロマン主義絵画の先駆者ジェリコーや、彼に影響を受けたドラクロワも〈船〉を扱った印象深い絵画を描き上げている。[下図参照]


[左:ジェリコー《メデューズ号の筏》 / 右:ドラクロワ《ダンテの小舟》]

こうしたターナー、ジェリコー、ドラクロワの作品をみるにつけ、(海上の)〈船〉というものが、きわめてロマン派的なテーマなのだろうなということをつくづく思う。

〈船〉ということでさらに言えば、ヒエロニムス・ボスの《愚者の船》も思い起される。[下図参照]


絵画における〈船〉については、また時間のあるときに調べてみたい。

最後に―――

このページのトップにも引用を載せたが、オスカー・ワイルドは『まじめが肝心』(The Importance of Being Earnest)という喜劇を書いている。
邦訳は新潮文庫の『サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇』(西村孝次訳)にも収録されている。
またコリン・ファースの主演で映画にもなり、こちらの邦題は「アーネスト式プロポーズ」となっている。

映画の邦題の苦心ぶりにも窺われるように、原題にある"Earnest"という言葉はひとつの〈掛け言葉〉となっており、直訳では原題のニュアンスを汲みきれない。
ワイルド独特のユーモアの効いたこの喜劇と同様に、今回の映画「舟を編む」のエッセンスもまた〈マジメが肝心〉なのである。

最後にひとこと言うならば、The Importance of "Watching" Earnest といったところだろうか。

〈マジメって、面白い〉。


「アルバート氏の人生」 (2011)

2014-03-11 17:01:44 | 映画

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アルバート氏の人生
(原題:Albert Nobbs)
監督 ロドリゴ・ガルシア
出演 グレン・クローズミア・ワシコウスカアーロン・ジョンソン
2011
(IMDb)

ジェイン・エア』、『嵐が丘』、『アグネス・グレイ』・・・。
数々の傑作で19世紀の英文学史にその名を刻んだブロンテ三姉妹シャーロットエミリーアン)は、作品を上梓するにあたり、それぞれ男性の筆名を用いた。

シャーロットは「カラー・ベル」、エミリーは「エリス・ベル」、アンは「アクトン・ベル」。
上に挙げた有名な作品はもちろん、それらに先がけて彼女らが1846年に上梓した詩集のタイトル(Poems by Currer, Ellis, and Acton Bell)にも同筆名が用いられている。

このように女性作家が男性の筆名を用いるという行為は、かつて文壇における女性の地位が現代ほど高くなかったころには、比較的よくみられるものであった。(参考
19世紀でいえば、ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)しかり、ジョルジュ・サンド(本名:アマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン)しかり。

また絵画の世界においても、画壇の多勢は長らく男性が占め、女性の画家が日の目を見ることは決して多くなかった。
19世紀以前の時代に限れば、ぱっと思いつく女流画家は、マリー・アントワネットの肖像画を手掛けたヴィジェ=ルブランや印象派のベルト・モリゾメアリー・カサットくらいである。


[左:ルブラン(自画像)、中央:モリゾ(マネによる肖像画)、右:カサット(自画像)]

西洋の女流画家については、こちらのWikipediaページでも解説されているので、興味のある方は参照されたい。

さて、今回取り上げるのは2011年のアイルランド映画「アルバート氏の人生」である。
本作の監督を務めたのは、『百年の孤独』で知られる作家ガルシア=マルケスの息子であるロドリゴ・ガルシア

アイルランドの作家ジョージ・ムーアの小説を原作としたこの映画では、ブロンテ三姉妹と同様に、〈男〉として社会的にふるまわないことには働き口が見当たらず、生きてゆけない、ひとりの〈女性〉に焦点があてられる。

〈性〉の秘密を隠しつつも、ホテルのウェイターとして、日々仕事をこなす主人公アルバート・ノッブス。
生きるために必死で働く彼女の〈強さ〉の裏には、孤独のなかで心のよりどころを求めようとする〈繊細さ〉も同時に存在する。

映画の前半に、ホテル内での〈仮面舞踏会〉のシーンがある。
ジェンダー的視点から言って、映画の主題を象徴する場面である。

それと同時に、以前に「レンブラントの夜警」のレヴューを書いたときにも触れたが、やはり「アルバート氏の人生」における本シーンでもシェイクスピアの有名な一節を思い起こさせる。
もう一度引用しよう。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
            (As You Like It, Act II Scene VII)

この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
            (小田島雄志訳 『お気に召すまま』)

〈男女を問わず〉という箇所は、とりわけこの映画の内容に照らし合わせて考えると、より重みを増して迫ってくるのではないだろうか。

本映画全体を通して―――

主人公の生き様が〈美化〉されているわけでもなければ、物語になにかしらの〈救い〉があるわけでもない。
しかしながら、それでいて、観終わったあとの胸のうちには、深く、そして澄んだ〈美しさ〉が広がる。

この感動を言語化できるだけの人生経験は、私にはまだない。


「レンブラントの夜警」 (2007)

2014-02-16 10:51:22 | 映画

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レンブラントの夜警
(原題:"Nightwatching")
監督 ピーター・グリーナウェイ
出演 マーティン・フリーマン、エヴァ・バーシッスル
2007
(IMDb)

Two households, both alike in dignity,
In fair Verona, where we lay our scene
           (Romeo and Juliet, Prologue)

「いずれ劣らぬ二つの名家/花の都ヴェローナに」
         (松岡和子訳『ロミオとジュリエット』)

ではじまるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。
こうした「前口上」(prologue)が〈導入〉の役割を果たし、観客は舞台に引き込まれてゆく。

「前口上」の役割はもうひとつある。
それは、物語の〈虚構性〉を強調することである。

戯曲は、目には見えない〈額縁〉によって観客と舞台とが隔てられている。
ちょうど、絵画が〈額縁〉によって切り取られ、作品として成立しているように。

「これからお見せします物語は...」という言葉は、その象徴だ。

ただ、〈虚構性〉といっても、意図的に〈嘘〉を語るというのではない。
むしろ逆だ。

〈虚構性〉を示唆することで、逆説的に〈真実〉が照らし出される。

『お気に召すまま』の有名な一説を引用してみよう。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
            (As You Like It, Act II Scene VII)

この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
            (小田島雄志訳『お気に召すまま』)

シェイクスピアは、〈現実〉に人間が生きている世界を〈舞台〉と呼ぶ。
つまり、〈人間世界〉=〈舞台〉(=〈虚構〉)という等式が成り立つ。

この等式を踏まえるならば、実際に〈舞台〉で演じられていることは〈人間世界〉そのものということになる。

シェイクスピアの巧みな前口上により、観客は〈現実〉と〈虚構〉の狭間を泳ぐ。

こうした〈現実〉と〈虚構〉の意図的逆転は、何もシェイクスピアばかりが提示しているわけではない。
シュルレアリスムの旗手マグリットの《これはパイプではない》も、その延長線上にあるものだろう。

枕が長くなったが、昨日観たピーター・グリーナウェイ監督の映画「レンブラントの夜警」の鍵となる概念も、〈演劇〉であった。

映画全体が、「独白」(monologue)の部分も含め、舞台仕立てになっていた。

映画のなかで「演劇のような絵画」と評されたレンブラントの《夜警》。
〈真実〉を描くべきか葛藤する画家と〈真実〉を暴かれることを怯える市警団。

レンブラントを苦しめることになったのは、画家が「演劇」のような〈虚構〉の世界を描いたからではない。
「演劇」のような〈現実〉を描いてしまったからである。

シェイクスピアはまたこう書いている。

I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage, where every man must play a part,
And mine a sad one.
          (The Merchant of Venice, Act I Scene I)

世間は世間、それだけのものだろう、グラシアーノー、
つまり舞台だ、人はだれでも一役演じなければならぬ、
そしておれの役はふさぎの虫ってわけだ。
            (小田島雄志訳『ヴェニスの商人』)

画家レンブラントの〈役〉もまた"sad one"だったのかもしれない。

映画自体の感想としては、実験的というべきか意欲作というべきか、いわゆる「万人受け」するたぐいの映画ではなかったように思う。
とはいえ、観るところがないかというとまったくそんなことはない。

今回レンブラントを演じたのは、BBCのドラマ「シャーロック」におけるジョン・ワトスン役で有名なマーティン・フリーマン。
熱っぽさと空虚さの入り混じった彼の演技は、目を見張るものがある。

この映画は、学生時代から美術を勉強してこられた監督による、いってみればレンブラントの「名誉回復」。
単純に画家の人生を追ったものではなく、ひとつの「解釈」が提示された形になる。

レンブラント・ライティング」という言葉もあるが、画家の〈不遇〉な晩年に、まさに一条の〈光〉を差し込む、そんな映画だったように思う。

「宮廷画家ゴヤは見た」 (2006)

2014-01-03 19:23:49 | 映画

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「宮廷画家ゴヤは見た」
(原題:"Goya's Ghosts")
監督 ミロス・フォアマン
出演 ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン
2006
(IMDb)

エル・グレコ、ベラスケスとともに「スペイン三大画家」に数えられるゴヤ。
わが子を喰らうサトゥルヌス」や二枚の「マハ」(「裸のマハ」と「着衣のマハ」)などで知られるこの画家は、まさに巨匠と呼ばれるにふさわしい。

40台半ばに聴力を失った画家は、以降、より研ぎ澄まされた目で時代を捉えてゆく。
大げさにいえば「ジャーナリズム」的ともいえるまでに、画家は「真実」から目を背けることなく、世界を描き出す。

時代の真実を見つめる姿勢は、ゴヤの画家人生における重要な要素であると同時に、本作「宮廷画家ゴヤは見た」を貫く主題のひとつでもある。

その意味で、(例外的といってよいのか)この映画に関しては、英語による原題よりも、邦題の方が的を射た表現になっているように思う。
(最後まで"Ghosts"の要素に関してはよくわからなかった)

スペインとアメリカの合作によるこの映画は、終盤の「粗さ」こそ若干気になるものの、全体としては非常に完成度の高い作品であるように感じた。
単純に画家の人生を追ったものではなく、極めて多面的な見方を許容する作品となっている。

ゴヤに視点を合わせてみれば、「芸術」とは何か、何を表現すべきなのかといった問いが生じ、時代情勢に目を移せば、「正義」とは何なのかといったことを考えさせられる。

ナポレオンの侵攻や、異端審問の是非など、政治的・宗教的な視点でみることもできる。

この映画における画家の立ち位置は、「中心」というよりは、むしろそこから一歩引いたところにいる。
いうならば「オブザーバー」的な視点から時代を見つめるゴヤのこうした立ち位置は、DVDのパッケージにも表れている。

この記事のトップに貼り付けたものにせよ、英語版のWikipediaに掲載されているものにせよ、三人のなかでゴヤは一番小さく映っている。

「見る」ということが、この画家を語る上で不可欠な要素なのだ。

余談になるが、この映画の8分30秒あたりから、ゴヤが「手」を描くことについて語るシーンがある。

以前、「手」の描き方に画家の力量があらわれると聞いたことがあった。
映画のなかで、ゴヤも同様のことを言っていた。

だから、モデルの神父に対し、画家は、手を描くかどうか事前に尋ねている。
手を描くのは難しいため、「追加料金」が発生するとの由。

閑話休題。

絵画に興味のある人、ゴヤについて知りたい人、歴史や宗教に関心がある人。

正義とは何なのか。
芸術とは何なのか。

「宮廷画家ゴヤは見た」はこうした根源的な問いを少なからず生じさせるのみならず、ひとつの映画としても、多くの人にとって、十分楽しめる作品となっている。

おすすめの一本である。