Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 山水文 香合

2021年08月21日 11時55分32秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 山水文 香合」の紹介です。

 特に、珍品とか名品というようなものではなく、ごくありふれたものなのですが、このような、小さな可愛らしいものを目にしますと、ついつい買って連れ帰りたくなってしまうんです(~_~;)

 なお、この手のものを、過去にも何点か紹介していますが、その製作年代につきましてはバラバラで、或る物については江戸中期として紹介してみたり、また、或る物については江戸後期として紹介しております(><)

 現実には、この手のものの製作年代を厳密に特定することは難しいと思います。それで、この「染付 山水文 香合」の製作年代につきましては、「江戸時代中期~後期」として紹介したいと思います。

 

 

立面

 

 

上から見たところ

 

 

蓋を開けたところ

本体の口縁部に、かなり酷い傷があります。

 

 

蓋を開け、本体と蓋をそれぞれ裏返ししたところ

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期~後期

サ イ ズ : 口径;5.4cm  高さ(蓋共);2.7cm  底径;4.8cm


色絵 牡丹菊文 輪花形小皿

2021年08月20日 13時35分20秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」の紹介です。

 

 

表面

 

 

外周部の一部の拡大画像

花の中心に当たる部分は当初から花芯とすべく丸く盛り上げて形成され、そこを

当初の予定どおりに黄色く塗って花芯として完成させています。

 

 

裏面

高台内銘 :「誉」

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 口径;15.3cm 底径;8.8cm

 

 

 なお、この「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介している「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」ところですので、次に、その時の紹介文を再度掲載し、この「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー83  古九谷様式色絵牡丹菊文輪花形小皿   (平成17年2月1日登載) 

 

 

 これは、銘が、いわゆる「誉」である。誉銘は1650年代後半に出てくるとのこと(柴田コレクションⅡ資料編P.74参照)。

 裏面を見れば、生掛けで、折松葉が描かれ、いかにも古九谷の世界である。表面も、外周は陽彫になっており、色絵がなければ、正に藍九谷の世界であろう。

 ところが、色絵を施された表面は、全体として見れば、様式的には「古伊万里様式」の世界といえるのではないだろうか。

 そのギャップをどう説明するのか。それで、これを売った業者は、藍九谷に後絵付けしたものかもしれないと説明したのである(ただし、後絵付けしたにしても、それは最近行ったものではなく、江戸時代に行ったのではないかとのこと)。恐らく、業者間を転々とするうちに、そのような見解が高まってきたのであろう。

 しかし、外周の黄色く塗られた花芯の部分は丸く盛り上がっており、当初から色絵を予想していた生地作りである。また、赤の色も古格のある色であり、全体として、最初から色絵が施されていたとしても図柄に破綻は見られない。

 このようなことから、私は、この小皿は、後絵ものではないのではないかと思っているが、確信を得られないでいる。

 でも、この小皿が作られた1650年代の後半は、大量輸出時代を直近に迎えていた頃であるから、この小皿は、後日の「古伊万里様式」の萌芽を示すものなのであろうとコジツケてみたり、古九谷様式はいろんな展開をしていったのであるから、藍九谷に色絵を施すと「古伊万里様式」となることもあり得るのであって、この小皿は、商業ベース伊万里の原型ともいえるのではなかろうかともコジツケてみたりして自分自身に言い聞かせている。

 ここで、ちょっと、後絵かどうかの客観的・物理的な判断基準を説明したい。それは、使用による擦れ傷に関係するものである。使用による擦れ傷が色絵の下にあれば、明確に後絵であることがわかるであろう。なぜなら、染付のままで長年使用されていて傷付いたものの上に、後日、色絵を施せば、傷はおのずと色絵の下になるから、、、。

 幸いなことに、この小皿には使用による擦れ傷が多少あり、その傷が色絵の上を走っている。そのことも、私がこの小皿を後絵ものではないと思っている根拠の一つではある。

 

江戸時代前期    口径:15.3cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌24  古伊万里との対話(後絵(?)の小皿)(平成17年1月1日登載)(平成17年1月筆)  

登場人物
 主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
 アト江 (古九谷様式色絵牡丹菊文輪花形小皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、前回、「後絵ではないだろうか?」と思っているものをアップしたので、今回もどさくさに紛れて後絵くさいものをアップしようかと決意したようである。
 主人の所にはろくなものはない! 名品、貴品というような物はないが、迷品、奇品ならあるようだ。
 そこで、さっそく、後絵くさい迷品を引っ張り出してきた。

 

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主人:今日はな、絶対、人様には見せまいと思っていたお前に出てもらった。先月、富士男に出てもらってから気が変わったのさ。

アト江:ちょっと意味がわかりません。どうしてですか?

主人:それはね、お前が後絵ものなのかどうか迷っているからだよ。私は、これまで、人様には、自分で自信のない物を見せてはいけないと思っていたんだ。でもね、先月、富士男に出てもらってから心境の変化があった。疑問は疑問として、疑問のままの姿を示してもいいんじゃないかとね。ヨーロッパに輸出されている古伊万里にだって、かの地で後絵付けされているものがあるんだし、後絵ものがすべて悪者とはいえないんじゃないかと思うようになったからさ。

アト江:そうなんですか。私は後絵ものなんですか。

主人:いや、私はそうは思っていないんだが、そういうことを言う人もいるんで、自信がないんだ。
 でもね、仮に後絵ものだったとしても、それを全面的に否定するんじゃなくて、何時、何の目的で後絵付けしたのかというようなことを解明して、それなりに評価すべきなんじゃないかなと思うようになったんだよ。

アト江:誰が私のことを後絵ものだと言ってるんですか。

主人:お前を売っていた業者さ。
 お前は、さる大きな骨董市で売られていたんだ。私はお前に一目惚れだった。「あぁ、素晴らしい!」とね。お値段の方もそれなりのものだったが、「これだけの物だもの、しょうがないな。」と思った。それで、さっそく買うことにしたわけさ。
 ところがね、お金を払っての帰り際、「お客さん、これは後絵ものかもしれません。でも、後絵付けだったとしても、最近行ったものではなく、かなり前に行ったもので、江戸時代に行ったんだろうと思います」と言ったんだよ。
 その業者は、正直といえば正直、良心的といえば良心的なんだが、そんなことは最初に言ってほしかったね。お金を払っちゃってから言われてもね~。私は、当然、大変に動揺したよ!

アト江:返品しようとは思わなかったんですか。

主人:そう。そうも思ったけど、惚れちゃってるからね。手離すのは忍びなかったんだ。

アト江:でも、当然、減額の交渉はしたんでしょう・・・・・。「後絵ものだったら買わなかったはずですから、負けてくれませんか!」とか・・・・・。
 法律にだってあるでしょう。「錯誤」だったんですから契約は無効じゃないですかと。でも、負けてくれるなら買いますけど、どうですかって・・・・・。

主人:オヤッ、アト江は法律に詳しいんだな~~。
 だけどね~、そうは思わなかったな~~。骨董の場合は、法律のようにスッキリと割り切れないものがあるな~~~。
 先方は後絵かもしれないと言ってるけど、「本当かな~」と思うわけよ。こちらだって、一応、即座に頭の中で後絵かどうかの検討はして、「後絵ではないだろう!」との結論に達したから買うことに決めたわけだからね。それを否定されると、「なんだ!俺の鑑識眼をナメテんのか!!」となるわけよ。妙~にプライドを傷付けられた気分になるわけだ。それで、「意地でも負けてくれなんて言うもんか!」となってしまったんだ。コレクターには、そんな変なプライドがあるものなのよ。トホホだね。

アト江:その後、調べられたんでしょうけど、その結果はどうだったんですか?

主人:「やっぱり後絵かな・・・・・。いや違う!」、「やっぱり後絵なんだろうな・・・・・。いや違うってば!」の繰り返しさ。はっきりとした結論が出ていないね。
 やはりね、専門業者が言った「一言」は大きくひっかかるわけよ。だんだんと自分の判断に自信がなくなるわけさ。
 美術館にだって、後絵ものが飾ってあるとも言われているし、以前は後絵ものだと言われていたものが、その後の研究でそうではなくなったケースもあるしね。

アト江:後絵かどうかの判断は難しいんですね。

主人:そうだな。一番難しいかもしれないな。それだけに、後絵ものを簡単に全面的に否定するのは問題だね。意味のある後絵かもしれないし、後絵ではないかもしれないしね。意外と、今までには認められてなかった新様式の発見だったりするかもしれないじゃないの・・・・・。

 

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白磁碍子

2021年08月19日 13時16分54秒 | 古伊万里

 今回は、「白磁碍子」の紹介です。

 これは、平成14年に(今から19年前に)、骨董市で買ったものです。

 これを見たとき、「これは何なのだろうな~。多分、碍子なのだろうな~。珍しい形をしているな~」と思って眺めていましたら、店主が、「これは、碍子です。珍しい形でしょう」と言ってきました。

 これは、決して古い物ではありませんから、「古伊万里」などとはとてもとても言えませんけれども、「伊万里ではいろんな物を作っているんだな~。それにしても珍しい物だな~。でも、そのうち、このような物は手に入らなくなるんだろうな~。今のうちに買っておくか」ということで買ってしまったものです(~_~;)

 このブログでは、「古伊万里」をメインとした「伊万里焼」を中心に紹介しているところです。この「白磁碍子」は「古伊万里」に関連した「伊万里焼」としてご覧ください。

 

 

碍子

上の碍子を天井に据え付け、上の碍子の滑車と下の碍子の滑車を紐で繋げ、

下の碍子を上げ下げ出来るように作られています。

 

 

上の碍子

これを天井に据え付け、それを下側から見上げたところを想像してください。

なお、中心に見える滑車の心棒は失われています。

その心棒は、下の碍子の滑車に使用されている心棒(一番下の写真参照)

のようなものであったと思われます。

 

 

上の碍子の裏面

左右の穴は、天井に据え付けるためのネジ穴で、中心の右脇の穴は、

この穴にコードを差し込み、そのコードを下側に垂らすための穴です。

 

 

下の碍子

上の碍子の滑車とこの下の碍子の滑車とを紐で繋げ、

この下の碍子を上げ下げ出来るように作られているわけです。

上の碍子の穴を通って垂らされてきたコードは、この下の碍子の右側に開けられた

穴(次の写真の右側の穴です)を通され、照明器具に接続されるわけです。

 

 

下の碍子を上から見たところ

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 昭和初期

サ イ ズ : 上の碍子・・・最大口径;9.2cm 高さ(滑車共);5.1cm

        下の碍子・・・最大口径;7.3cm 高さ;11.4cm

 

 

 

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追記 (令和3年8月19日)

 この「白磁碍子」を紹介しましたところ、遅生さんから、この碍子の場合は、電気コードが長さの調節と吊り紐の役割を兼ねているため、実際に使用するとなると安全上に問題が生ずるというコメントが寄せられました。

 また、この手のものは、まだ見つかるとのことで、探せば色絵のものも見つかる可能性があるというコメントも寄せられました。


瑠璃釉 蓋付小壺

2021年08月18日 16時00分47秒 | 古伊万里

 今回は、「瑠璃釉 蓋付小壺」の紹介です。

 

立面

 

 

蓋を外したところ

 

 

壺の内側

内側にも薄瑠璃が塗られています。

 

 

壺の底面と蓋の裏面

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 口径;5.4cm 最大胴径;10.7cm 底径;6.5cm 高さ(蓋共);13.0cm

             蓋口径;5.9cm

 

 

 この小壺には、たっぷりと瑠璃釉が掛けられています。外側に厚くたっぷりと濃い瑠璃釉が掛けられているだけでなく、壺の内側には薄瑠璃釉が塗られています。正に瑠璃釉づくしで、「ザ・瑠璃釉」といったところでしょうか!

 どうしてこんなにふんだんに瑠璃釉を使ったのでしょう。瑠璃釉は、当時は、中国から輸入した染付の原料の呉須をたっぷりと使わなければ出来なかったはずで、国内産の山呉須を使ったのでは、多分、出来なかったと思います。

 また、この小壷は、まるで青磁を作るかのような手法で作られています。

 素地は鉄分を含んだ赤味で、そこに厚く瑠璃釉が掛けられているわけで、ちょうど青磁を作るのと同じ感じです。青磁は、ボデーにタップリと上釉を掛け、ボデーの鉄分と上釉の鉄分との微妙な化学変化を利用して作るらしいので、今でこそ青磁は青磁釉というような化学薬品を使って簡単に作れますが、昔は、作るのが大変難しかったようです。

 それに反して、瑠璃釉の場合は、それほど技術的困難性はなかったようですが、原料代が高くついたはずですね!

 それを考えますと、この小壷は、原価を度外視しして作られた、破格の作行きであると言えるかもしれません(^_^)

 

 


鍋島白磁 蓋付碗

2021年08月17日 14時39分20秒 | 古伊万里

 今回は、「鍋島白磁 蓋付碗」の紹介です。

 

立面

 

 

蓋を外し、本体部を伏せたところ

 

 

蓋を外し、蓋を裏返したところ

 

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 本体部口径;12.6cm 高台径;5.7cm 高さ;5.7cm 高さ(蓋共);8.7cm 蓋口径;13.2cm

 

 

 これは、2002年に(平成14年に)(今から19年前に)、東京の古美術店から買ってきたものです。

 その時、この白磁蓋付碗には1冊の本が添えられていました。それは、「小さな蕾 2000年7月号」です。

 その「小さな蕾」には、小木一良先生がこの類品をとりあげ、それを「鍋島白磁蓋付碗」とする文章が載せられていたのです。

 小木先生は、これの類品を「鍋島白磁」としているわけですね。

 私は、それを信じ、連れ帰ったというわけです(^_^)

 そこで、次に、その「小さな蕾 2000年7月号」の中の小木先生が書かれた文章を転載し、この「鍋島白磁 蓋付碗」の紹介に代えさせていただきます。

 

 

 

      鍋島白磁蓋付碗

                           小 木  一 良

                           (戸栗美術館常任評議員)

 

 

 

(1)出土陶片と一致する伝世品

 写真1イ・ロ・ハの白磁蓋付碗(以下本品と記す)を鍋島作品だと言ったら肯定する人が何人いるだろうか。

 しかし、本品は明確に鍋島作品と特定しうるものと言える。理由は全く一致する陶片が鍋島藩窯跡から出土しているからである。

 写真2イ・ロ・ハの白磁陶片は伊万里市教育委員会蔵の鍋島藩窯跡出土品である。これを本品と対比すると大きさ、器形、釉調などいずれの面からみても同一とみられる。

 私は再三この陶片を観察し、本品と並べてみたりしたが、両者は全く一致するとみざるを得ず、本品は鍋島作品と特定しうるものと結論するに至った。

 

(2)製作年代

 本品の製作年代は大体元禄後期頃と考えられよう。それは「元禄十二年柿銘小鉢」(写真3)との対比からみてである。両者を比べてみると器形が極めて類似ている。この元禄十二年柿銘小鉢も最初はおそらく本品と同様に蓋がついていたものと思われる。このような器形品は当時上手の作品によく用いられていたものであろう。

 両者で少し異なる点は元禄柿銘作品は体部に廻らされている陽刻紐状線が二重であるが、鍋島出土陶片と本品は一重であることと、器体下部の曲線が僅かながら異なっている。しかし、おおよその器形、全体的作ぶりからみて、両者の制作時代にそれほどの年代差があるとは考えにくく、本品は大体元禄十二年頃の作品とみて良いのではないかと思われる。

 次に本品を柿右衛門白磁と対比してみると、柿右衛門作品より、やや釉調に青味があり両者間の釉調は僅かながら異なっている。

 これは柿右衛門白磁との鑑別上の一つにポイントになることかもしれない。しかし、中白川窯出土の上手白磁陶片をみると、こちらはやや青味を帯びており、なかなか区別はしにくい。白磁について肉眼的に釉調のみで制作窯の判断をすることはよほど熟達した人でも無理のように思われる。

 製作窯の特定には釉調のほか、器形が出土陶片と全く一致していることが絶対的必要条件とされよう。

 興味深いことに、本品と同一器形で小形の伝世品が存在しているので、いろいろの大きさのものが作られたのだろうと思われる。鍋島といえば木杯形皿が典型的な形として頭にうかび、それ以外の器形のものは考えにくいのが一般的であろう。

 しかし、鍋島藩窯跡出土陶片類をみると、さまざまの形態、器形品がみられる。特に白磁、青磁で染付文様の無い陶片類の中にはその完器伝世品をみたとき、鍋島とは認定されにくいだろうと思われるものも少なくない。

 本稿にあげた白磁蓋付碗もその一つだが、次回は青磁作品のこうした例品をあげてみたい。

 出土陶片が明示されなければ鍋島作品とは判断のつけ難いものがいろいろ存在している点を考えると、公的機関の保有陶片と共に個人的所有陶片も含めて木杯形以外の器形陶片類ができるだけ多数公表されてほしいものである。

 

 鍋島藩窯出土白磁陶片(写真2イ・ロ・ハ)は伊万里市教育委員会蔵品を撮影、掲載させていただきました。