今回は、「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」の紹介です。
表面
外周部の一部の拡大画像
花の中心に当たる部分は当初から花芯とすべく丸く盛り上げて形成され、そこを
当初の予定どおりに黄色く塗って花芯として完成させています。
裏面
高台内銘 :「誉」
生 産 地: 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期
サ イ ズ : 口径;15.3cm 底径;8.8cm
なお、この「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介している「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」ところですので、次に、その時の紹介文を再度掲載し、この「色絵 牡丹菊文 輪花形小皿」の紹介とさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー83 古九谷様式色絵牡丹菊文輪花形小皿 (平成17年2月1日登載)
これは、銘が、いわゆる「誉」である。誉銘は1650年代後半に出てくるとのこと(柴田コレクションⅡ資料編P.74参照)。
裏面を見れば、生掛けで、折松葉が描かれ、いかにも古九谷の世界である。表面も、外周は陽彫になっており、色絵がなければ、正に藍九谷の世界であろう。
ところが、色絵を施された表面は、全体として見れば、様式的には「古伊万里様式」の世界といえるのではないだろうか。
そのギャップをどう説明するのか。それで、これを売った業者は、藍九谷に後絵付けしたものかもしれないと説明したのである(ただし、後絵付けしたにしても、それは最近行ったものではなく、江戸時代に行ったのではないかとのこと)。恐らく、業者間を転々とするうちに、そのような見解が高まってきたのであろう。
しかし、外周の黄色く塗られた花芯の部分は丸く盛り上がっており、当初から色絵を予想していた生地作りである。また、赤の色も古格のある色であり、全体として、最初から色絵が施されていたとしても図柄に破綻は見られない。
このようなことから、私は、この小皿は、後絵ものではないのではないかと思っているが、確信を得られないでいる。
でも、この小皿が作られた1650年代の後半は、大量輸出時代を直近に迎えていた頃であるから、この小皿は、後日の「古伊万里様式」の萌芽を示すものなのであろうとコジツケてみたり、古九谷様式はいろんな展開をしていったのであるから、藍九谷に色絵を施すと「古伊万里様式」となることもあり得るのであって、この小皿は、商業ベース伊万里の原型ともいえるのではなかろうかともコジツケてみたりして自分自身に言い聞かせている。
ここで、ちょっと、後絵かどうかの客観的・物理的な判断基準を説明したい。それは、使用による擦れ傷に関係するものである。使用による擦れ傷が色絵の下にあれば、明確に後絵であることがわかるであろう。なぜなら、染付のままで長年使用されていて傷付いたものの上に、後日、色絵を施せば、傷はおのずと色絵の下になるから、、、。
幸いなことに、この小皿には使用による擦れ傷が多少あり、その傷が色絵の上を走っている。そのことも、私がこの小皿を後絵ものではないと思っている根拠の一つではある。
江戸時代前期 口径:15.3cm
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*古伊万里バカ日誌24 古伊万里との対話(後絵(?)の小皿)(平成17年1月1日登載)(平成17年1月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
アト江 (古九谷様式色絵牡丹菊文輪花形小皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、前回、「後絵ではないだろうか?」と思っているものをアップしたので、今回もどさくさに紛れて後絵くさいものをアップしようかと決意したようである。
主人の所にはろくなものはない! 名品、貴品というような物はないが、迷品、奇品ならあるようだ。
そこで、さっそく、後絵くさい迷品を引っ張り出してきた。
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主人:今日はな、絶対、人様には見せまいと思っていたお前に出てもらった。先月、富士男に出てもらってから気が変わったのさ。
アト江:ちょっと意味がわかりません。どうしてですか?
主人:それはね、お前が後絵ものなのかどうか迷っているからだよ。私は、これまで、人様には、自分で自信のない物を見せてはいけないと思っていたんだ。でもね、先月、富士男に出てもらってから心境の変化があった。疑問は疑問として、疑問のままの姿を示してもいいんじゃないかとね。ヨーロッパに輸出されている古伊万里にだって、かの地で後絵付けされているものがあるんだし、後絵ものがすべて悪者とはいえないんじゃないかと思うようになったからさ。
アト江:そうなんですか。私は後絵ものなんですか。
主人:いや、私はそうは思っていないんだが、そういうことを言う人もいるんで、自信がないんだ。
でもね、仮に後絵ものだったとしても、それを全面的に否定するんじゃなくて、何時、何の目的で後絵付けしたのかというようなことを解明して、それなりに評価すべきなんじゃないかなと思うようになったんだよ。
アト江:誰が私のことを後絵ものだと言ってるんですか。
主人:お前を売っていた業者さ。
お前は、さる大きな骨董市で売られていたんだ。私はお前に一目惚れだった。「あぁ、素晴らしい!」とね。お値段の方もそれなりのものだったが、「これだけの物だもの、しょうがないな。」と思った。それで、さっそく買うことにしたわけさ。
ところがね、お金を払っての帰り際、「お客さん、これは後絵ものかもしれません。でも、後絵付けだったとしても、最近行ったものではなく、かなり前に行ったもので、江戸時代に行ったんだろうと思います」と言ったんだよ。
その業者は、正直といえば正直、良心的といえば良心的なんだが、そんなことは最初に言ってほしかったね。お金を払っちゃってから言われてもね~。私は、当然、大変に動揺したよ!
アト江:返品しようとは思わなかったんですか。
主人:そう。そうも思ったけど、惚れちゃってるからね。手離すのは忍びなかったんだ。
アト江:でも、当然、減額の交渉はしたんでしょう・・・・・。「後絵ものだったら買わなかったはずですから、負けてくれませんか!」とか・・・・・。
法律にだってあるでしょう。「錯誤」だったんですから契約は無効じゃないですかと。でも、負けてくれるなら買いますけど、どうですかって・・・・・。
主人:オヤッ、アト江は法律に詳しいんだな~~。
だけどね~、そうは思わなかったな~~。骨董の場合は、法律のようにスッキリと割り切れないものがあるな~~~。
先方は後絵かもしれないと言ってるけど、「本当かな~」と思うわけよ。こちらだって、一応、即座に頭の中で後絵かどうかの検討はして、「後絵ではないだろう!」との結論に達したから買うことに決めたわけだからね。それを否定されると、「なんだ!俺の鑑識眼をナメテんのか!!」となるわけよ。妙~にプライドを傷付けられた気分になるわけだ。それで、「意地でも負けてくれなんて言うもんか!」となってしまったんだ。コレクターには、そんな変なプライドがあるものなのよ。トホホだね。
アト江:その後、調べられたんでしょうけど、その結果はどうだったんですか?
主人:「やっぱり後絵かな・・・・・。いや違う!」、「やっぱり後絵なんだろうな・・・・・。いや違うってば!」の繰り返しさ。はっきりとした結論が出ていないね。
やはりね、専門業者が言った「一言」は大きくひっかかるわけよ。だんだんと自分の判断に自信がなくなるわけさ。
美術館にだって、後絵ものが飾ってあるとも言われているし、以前は後絵ものだと言われていたものが、その後の研究でそうではなくなったケースもあるしね。
アト江:後絵かどうかの判断は難しいんですね。
主人:そうだな。一番難しいかもしれないな。それだけに、後絵ものを簡単に全面的に否定するのは問題だね。意味のある後絵かもしれないし、後絵ではないかもしれないしね。意外と、今までには認められてなかった新様式の発見だったりするかもしれないじゃないの・・・・・。
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極端に言えば、知る方法無し。もし、高精度時代分析機器が開発されれば可能ですが(^^;
ただ、今回の品は、表面の傷が、地と赤絵とを貫いているので、同時絵(新語(^^;)ですね。また、花芯の盛り上がりも有力証拠。もし、見込みの紫菊の花芯が盛り上がっているなら、完璧ですね。
今後のブログで、アト江さんに続いて、富士男さんなどが登場するのでしょうか?
幸い、この小皿には、使用擦れ傷があったり、花芯の盛り上がりなどがありますから、多少は有力証拠がありますので、いくらかは安心しますが、、、(^_^)
残念ながら、見込みの紫菊の花芯は盛り上がっていないようです(><)
この後、これまでのブログに、富士男は登場させていなかったと思いますので(最近、どれが登場済みなのか分からなくなってきました(><))、いずれ登場するかと思います(~_~;)
「誉銘」、薄く切り立った高台、見事です。
後絵かどうかという問題ですが、ドクターに判らないものがワタシに判るはずもありませんが
確かに色絵部分が全体の雰囲気と違う感じはします
ただ、染付の品として見た場合、「誉銘」にしては見込みの絵付けが凡庸で
そういった点では、色絵の加飾によって上手作品として完成しているように思えます。
独自の雰囲気と魅力持った古九谷、そんな感じがします。
これを買ったのは平成14年(今から19年前)のことです。
今思いますと、当時は、まだ、古九谷有田説は十分に骨董界に浸透していませんでしたから、古伊万里は有田で作られたもの、藍九谷は九谷で作られたものという概念が定着していましたので、このような古伊万里と藍九谷の合いの子のような物の存在は受け入れられなかったわけですね。
そこで、この色絵は後絵なのだろうとして、辻褄をあわせようとしたのだろうと思います。
今なら、このような古伊万里と藍九谷の合いの子のようなものは、最初から存在してもおかしくないということになるかと思うんです。わざと、後絵だなどということを持ち出さなくとも、、、。
そのように考えれますと、酒田の人さんの言われますように、故意に見込の染付の絵付を凡庸にし、染付を際立たせないようにして、色絵の加飾によって新たな上手品を作り出そうとした意欲的な作品だったのではないかと考えられるわけですね(^-^*)
以上は、この小皿擁護のための勝手な見解ですが、、、(笑)。