Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

花に雉文小皿

2024年10月22日 14時31分26秒 | 古伊万里

 今回は、「花に雉文小皿」の紹介です。

 この「花に雉文小皿」は、3日前にネットショップで見つけて注文し、昨日到着したものです。

 そもそも、この「花に雉文小皿」をなぜネットショップで買ったかといいますと、これと同手のものを既に所持していて、その「花に雉文小皿」は当ブログでも既に紹介しているわけですが、それが、今回ネットショップで売られていたこの「花に雉文小皿」の値段が、当時の値段の1/10の値段だったからです。もちろん、当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」は疵物ですので、無疵の物に比べれば安かったですから、当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」の値段の1/10の値段ではありませんけれども、当時の無疵の「花に雉文小皿」の値段の1/10の値段だったわけだからです。

 当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」を買ったのは昭和61年のことですので、今から38年も前のことになりますが、今では、当時と比べて、古伊万里やいわゆる古九谷の値段が安くなったとはいえ、随分と安くなり過ぎたな~、これでは、古伊万里やいわゆる古九谷が可哀想過ぎるな~と思ったからです(~_~;) 古伊万里やいわゆる古九谷の人気が無くなってきたとはいえ、これでは、あまりにも酷すぎるな~と感じたからです(~_~;)

 また、当時は、古九谷産地論争がまだ盛んで、この手の「花に雉文小皿」は、当時は、れっきとした「古九谷」とされていました(図録などでは、初期「古九谷」として紹介されていました)から、伊万里などとは比較にならない物、格が違う物とされていましたので、現在に比べれば、破格の値段ではありました。

 その後、当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」を買った4年後、「初期伊万里から古九谷様式 ー伊万里前期の変遷を見るー」(小木一良著 創樹社美術出版 平成2年11月24日発行)が発刊され、この手の「花に雉文小皿」は、熱中性子放射化分析の対象とされ、科学分析の結果からも「伊万里」に分類されることが証明されたと紹介されましたので(同書の図191・・・分析資料11)、その後は、この手の「花に雉文小皿」は、「古九谷」の座を転落し、「古伊万里」に分類されるようにはなりましたけれども、値段的には、それほど酷い下落にはならなかったように記憶しています(~_~;)

 もっとも、当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」につきましては、売主も、買い主の私も、それを「伊万里」と認識して買っていますから、私としては、それほど高くは買っていませんけれども、それにしても、やはり、お互い、「古九谷」の値段を視野に入れての売買でしたので、「伊万里」の相場よりは、かなり高かったように記憶しています。

 そんなことから、この「花に雉文小皿」の値段があまりにも安くなっていて、可哀想になってきましたので、買ってやろうかなと思ったのが一つの理由です。

 それと、この「花に雉文小皿」を買おうと思った、もう一つの理由は、この「花に雉文小皿」を買えば、当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」と合わせれば「一対」になるな~と思ったからです(^_^)  えてして、コレクターなるものは、1点よりは2点(一対)、2点よりは5点(五客組)にしたがるんですよね。欲張りなんですね(~_~;)

 前置きが長くなりましたが、それでは、次に、この「花に雉文小皿」を紹介いたします。

 

 

花に雉文小皿(無疵)

 

表面

 

 

 

側面

 

 

裏面

 

 

 なお、この「花に雉文小皿」を売っていたネットショップの店主の、この小皿についてのセールストークが面白く、また、この小皿の特徴を実に良く捉えていますので、その文面に若干の加筆修正を加え、それを次に転載したいと思います。

 

見よ!この目力を!!
 目の先に何があるんだろう?! いろんなシーンを想像してしまいます。
駆り立てられる古九谷です!! 相撲が始まりそうな構え、迫力満点の目力。
一生懸命生きている!? 一日の始まりに見たい古九谷です(^_^) 

 初期伊万里の様に厚みのある手。表面には、
黒•赤で縁取り、花鳥をザクっと描き、そこに青•緑を加彩。立ち上がり部には染付の二重圏線を施す。

 側面には、染付圏線の間に赤で連続文様を施す。

 高台内に赤文字の裏銘。


 たっぷりかかった釉薬、
初期伊万里の様な釉溜や指跡が優しく、いい感じです。
ざっくりとした気迫!?


 面白い古九谷です。
古九谷のこの器形、このサイズ、
ありそうであまり見かけない様な気がします。



 古九谷・厚みのある手・花鳥図五寸盤皿: 江戸前期、1640-1660年代
 D14.2㎝ H2.2㎝ BD7.5㎝ W240g  無疵完品 

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期(1640~1660年代)

サ イ ズ : 口径14.2cm 高さ2.2cm 底径7.5cm

 

 

 追って、この「花に雉文小皿」と当ブログで既に紹介した「花に雉文小皿」とを合わせますと「一対」となりましたので、次に、記念のツーショット写真を載せておきます(^_^)

 

表面

       左:この「花に雉文小皿」      右:既に紹介した「花に雉文小皿」

                           口縁に疵があります。

 

 なお、良く見ますと、両者の文様は若干異なります。

 両者では、雉の羽根の文様の描き方がちょっと違っています。既に紹介した「花に雉文小皿」には、左斜め上部に雁が描かれていたり、左斜め下のほうの小さな岩が大きな岩から離れて描かれています。ちょっと大きめに描かれた草花のてっぺん部には、葉が付いていたり、付いていなかったりと、割と大雑把な描き方です(^_^)                    

 

 

裏面

      左:この「花に雉文小皿」       右:既に紹介した「花に雉文小皿」

                           高台畳付き部に疵があります。


干し柿作り

2024年10月21日 11時01分40秒 | その他の日記

 家庭菜園の隅のほうに、渋柿が植えてあります。

 そろそろ、干し柿作りの時期になりましたので、採ってきて、皮を剥ぎ、焼酎にちょっと潜らせ、干してみました。

 昨年は沢山生ったのですが、今年は少ししか生らず、31個だけでした(~_~;)

 干し柿の美味しさを改めて知った昨今ですので、今年は、後日、渋柿を買ってきてまた作ろうかな~などと思っております。

 

軒下に干した31個の渋柿


骨董市と古美術品交換会

2024年10月20日 19時27分54秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、月に一度の、骨董市と古美術品交換会の日でした。

 一年半前までは、毎月、骨董市と古美術品交換会の日が同一の日でしたが、それ以後は、毎月、別々の日になりました。

 骨董市と古美術品交換会の日が同一の日だった頃は、まず骨董市会場に向かい、その後古美術品交換会会場へと向かっていたのですが、骨董市と古美術品交換会の日が別々の日になってからは、それぞれ、朝、ゆっくりのスタートとなっていました。そして、その方が体に楽なものですから、すっかりそれに慣れ、それぞれに、朝、ゆっくりスタートして出向くようになってしまいました(~_~;)

 そんなことで、今日も、朝早くスタートをするのが億劫になり、今回は、以前とは逆コースで、先ずは古美術品交換会場へと向かい、古美術品交換会が終わったら骨董市会場へと向かうことにしました。

 ということで、先ずは古美術品交換会会場へ!

 今日の古美術品交換会は、出席者も多く、競りにかけられる品物も多いため、定刻よりも早く始められました。会場の雰囲気としては活況を呈していたのですが、いかんせん、品物のレベルが低かったようです。ガラクタが多く、私の目当ての古伊万里などほとんど登場しませんでした(~_~;)

 それで、最後まで居ても収穫が期待出来ませんでしたので、早めに切り上げ、次なる骨董市会場へと急ぎました。

 ところが、骨董市会場へは午後1時半頃に到着したのに、ほとんどの出店業者さんは片付けを終了し、車に商品を積み込んでいる最中ではないですか! ここの骨董市は、午後1時頃までしか開いていないのですね。

 そんな状況では、どうしようもありませんので、さっさと、自宅に戻ってきました。

 ということで、今日も、何の収穫もありませんでした(><)

 ところが、普通は、ここでガッカリするところですが、今回は、ちょっと事情が違うのです(^_^)

 といいますのは、実は、昨日、ネットショップを見ていて、いわゆる「古九谷」の端皿1枚を見つけ、さっそく注文し、明日にも、それが到着する予定になったいるからです(^_^)

 明日は代金引換宅配に軍資金の大部分を当てなくてはなりませんから、本当は、今日は何も買えないほうがいいな~と、内心は思っていたからです(^-^*) もしも、今日、何か収穫があったとしたら、軍資金が零になるか、悪くすればマイナスになりかねませんでしたから、、、。

 明日、ネットショップから届きましたら、それは、改めてご紹介致します(^_^)


十三夜

2024年10月15日 19時13分29秒 | その他の日記

 今宵は、十三夜とのこと、、。

 先月の9月17日は、中秋の名月(十五夜)でしたが、今宵は十三夜とのことです。

 十五夜と十三夜のうちの片方の月見しかしないと、「片月見(片見月とも)」と言って縁起が悪いとの言い伝えがあるようです。

 それで、先月の9月17日の中秋の名月(十五夜)の月見をしていますので、今宵の十三夜の月見もすることにしました(^-^*)

 そんなことで、昼間、近所のスーパーで月見団子を買い、また、散歩の途中でススキを採り、山栗を拾ってきて準備をしました(^_^)

 

 

スーパーから買ってきた月見団子、散歩の際に採ってきた山栗、

台所にあったリンゴ、サツマイモ、大根を供えました。


「継ぐ者」

2024年10月08日 18時17分12秒 | 読書

 「継ぐ者」(上田秀人著 角川書店 2022年12月16日 初版発行)を読みました。

 

 

 

 その内容は、徳川家康とその嫡男徳川信康についての物語でした。

 徳川家康が今川家に人質となった頃から、その嫡男徳川信康が家康の命で自害させられるに至った時までを扱ったものでした。

 一般には、信康が自害させられるに至った理由としては、信康の生母の瀬名(築山殿)(今川義元の養女、今川義元の姪)と信康が武田側に通じていたことが織田信長の耳にまで達したため、信長の命で家康が信康を自害させたということになっていると思います。

 ところが、この本では、ちょと違っていました。

 信康は、生母瀬名(築山殿)の画策もあって、側室を迎えますが、信康は、だんだんとその側室を愛するようになります。ところが、その側室は一向宗の門徒でしたので、信康も次第に一向宗の影響を受けるようになっていきました。

 それを知った信康の正室の五徳姫(織田信長の娘)は、信康の側室に対する嫉妬も手伝い、それを一向宗嫌いの信長に通報します。

 それを知った信長は、信康の処分を「よきにはからえ」と、家康に委ねます。信長の真意を「信康に自害させろ」という意味であろうととった家康は、信康に自害するように命じたということでした。

 なお、信康の生母瀬名(築山殿)は、岡崎城から追放され、自害することを求められましたが、それを拒否したため、斬首となったとのことです。

 ところで、この処分に関し、筆者は、次のように記しています。

 

「以降、家康は織田信長に従って武田家を滅ぼし、その褒美として駿河一国を与えられた。

 織田家の家臣として生きていく決意をした家康だったが、信長が天正十年(1582)六月二日、明智光秀によって害されたことで大きく状況は変化した。

 織田信長というくびきをなくしたことで、家康はふたたび独立の機を得、やがて天下人へと駆けのぼっていく。

 嫡男信康を犠牲にするという判断が正しかったのか、まちがいだったのか、それをわかるのは一人家康だけであった。

 ただ徳川家の天下は二百六十年余り続き、その子孫は今も名家として続いている。  (p.402~403) 」