Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 唐花文 小皿

2021年08月25日 11時18分53秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 唐花文 小皿」の紹介です。

 

 

表面

 

 

裏面

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 口径;11.4cm 底径;6.0cm

 

 

 これは、以前、或る女性の古伊万里コレクターの方からいただいたものです。

 特に変わったところはないのですが、薄作のうえ、表・裏に同じ文様が描かれ、全体的に可愛らしいという印象を受けますね。やはり、女性コレクターの感性で選ばれたものなので、私のような男性が選んだものとはちょっと違うな~という印象を受けます。

 古伊万里のコレクションも、集める人の感性の違いによって、また異なるコレクションとなるようですね(^_^)


染付 菊花流水文 小皿

2021年08月24日 16時24分12秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 菊花流水文 小皿」の紹介です。

 

 

表面

時計の針の2時の方角から8時の方角にかけて、真っ二つに割れています。

 

 

裏面

 

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期

サ イ ズ : 口径;14.2cm 高さ;3.2cm 底径;8.5cm

 

 

 現在のところ、「古伊万里」を様式区分する方が多いようです。「柿右衛門様式」の古伊万里とか、「古九谷様式」の古伊万里とか、「柿右衛門様式」の古伊万里や「古九谷様式」の古伊万里のどちらにも属さない「古伊万里様式」の古伊万里というように、、。

 特に、染付の場合は、それらを簡略化して、染付の柿右衛門様式のものを「藍柿右衛門」と、染付の古九谷様式のものを「藍九谷」と、そして、藍柿右衛門や藍九谷に属さないものを「染付古伊万里」と呼んでいます。

 そもそも、以前は、「古伊万里」は「古伊万里」であり、「柿右衛門」は「柿右衛門」であり、「古九谷」は「古九谷」であり、それぞれは全く別な焼物として取り扱われてきました。

 しかし、その後、伊万里焼の研究が進み、「柿右衛門」も伊万里焼の一様式にすぎないことが分かってきましたし、「古九谷」も伊万里焼の一様式にすぎないことも分かってきて、それぞれが、「柿右衛門様式」の古伊万里とか、「古九谷様式」の古伊万里と言われるようになってきたわけです。

 ところで、そうした、様式区分を前提としてこの小皿を見たとき、この小皿は、どの様な様式に区分されるべきでしょうか、、?

 特に、「柿右衛門様式(藍柿右衛門)」に区分すべきなのか、或いは、「古九谷様式(藍九谷)」に区分すべきなのか、なかなか迷うところです(~_~;)

 そのように、現実の様式区には困難さが付きまといますし、様式区分には限界も感じられるわけです。

 それで、最近では、「もう、柿右衛門も古九谷も古伊万里の一様式になったのだし、全てが「古伊万里」なのだから、昔の「柿右衛門」とか「古九谷」という呼称を引きずる必要はないのではないだろうか。もう、いっそ、様式区分を止めてはどうか」という意見が多くなってきたのではないかと思われます。

 そんなこともあり、私も、最近では、極力、様式区分を止めているところです。


術後1年半検診

2021年08月24日 13時17分33秒 | 病院

 今日は、術後1年半の検診に行ってきました。

 昨年の2月下旬に胃癌の手術をしたわけですが、それから1年半が経過したわけですね。

 この前は、術後1年の検診を受けましたが、それから半年が経過し、今日が、術後1年半の検診となったわけです。これからは、当分の間、半年毎に検診を受けることになるようです。

 今日は、まず、血液検査を実施し、その結果に基づいた診察がありました。

 血液検査の結果では、胃癌の再発は見られませんでしたし、その他にも特に異常は認められませんでした(^_^)

 それで、来年の2月下旬が術後2年の次回の検診となりますので、その予約をして帰宅してきました。


金襴手 欄干に花蝶文 豆皿(5客組)

2021年08月23日 13時12分27秒 | 古伊万里

 今回は、「金襴手 欄干に花蝶文 豆皿(5客組)」の紹介です。

 

 

表面

 

 

裏面

 

 

代表の1枚の表面

 

 

代表の1枚の裏面

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期

サ イ  ズ: 口径;8.6~8.8cm 底径;4.8~5.1cm

 

 

 なお、この豆皿につきましても、既に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しておりますので、ここで、その時の紹介文を次に再度掲載し、この豆皿の紹介に代えさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー169  伊万里金襴手欄干に花蝶文豆皿        (平成24年4月1日登載)

 

 

 このお皿を、「小皿」と区分するのか、「手塩皿」と区分するのか、或いは「豆皿」と区分するのかは微妙なところで、人それぞれであろうが、ここでは、一応、「豆皿」に区分した。

 この豆皿は、小さいながら、華やかであり、気品もあり、なによりも春爛漫を感じさせるところがいい。

 この豆皿は、作られた当座、本当に塩を盛られてお膳に添えられたのであろうか?

 確かに、食器として作られたのだから、塩を盛られたり、醤油を入れられたり、香の物を入れられたには違いなかろう。

 でも、今では、その役目も終り、次なる活躍の場が与えられているように思える。

 この豆皿を見ていると、春を感じるからである。今では、鑑賞陶器として、人に春を感じさせるという立派な役目を果たしているように思えるのである。

 

江戸時代中期     口径: 8.6cm~8.8cm  高台径: 4.8cm~5.1cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌100  古伊万里との対話(春爛漫の豆皿)(平成24年4月1日登載)(平成24年3月筆)

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  豆 子 (伊万里金襴手欄干に花蝶文豆皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 例年になく寒くて長い冬もようやく去り、春爛漫を迎える時分となってきた。
 そうした中、主人は、春爛漫を感じさせるような古伊万里との対話がしたくなったようで、押入れの中をひっかきまわし、小さいながらもなんとかそれらしいものを見つけ出したらしく、さっそく引っ張り出してきて対話をはじめた。

 


 

主人: 今年の冬は長く厳しかったな~。春が待ち遠しかった。

豆子: そうでしたね。やっと春らしくなりましたね。

主人: 春らしくなってきたところで、周囲に春爛漫をふりまいているような古伊万里と対話をしたくなったのでお前に出てもらった。

豆子: でも、私は小さいので、迫力不足ですね。大皿ぐらいの大きさがありますと、ドーンと迫力もあり、いかにも「春爛漫」という感じになるんですけど・・・・・。

主人: まあね。確かに、1枚だけだったらちょっと寂しい感じで、早春ぐらいにしか感じさせないかもしれないが、幸いお前は5枚揃っているので、5枚を一度に並べれば、まぁまぁ、春爛漫を感じさせると思うよ。

豆子: ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。
 ところで、私のような小皿は、「豆皿」とか「手塩皿」とか言われるんですが、それについては、何か、いわれと言いいますか、定義みたいなものがあるんですか。

主人: そうね。「豆皿」については、「豆電球」とか「豆本」とかと言うように、「豆」は、形の小さいものを指し示す時に使われるから、「豆皿」は文字どおり、「小さい皿」ということだね。そして、「手塩皿」との関係だが、「手塩皿」のうちでも特に小さいものを「豆皿」と言っているようだね。
 じゃ、何故、お前のようなものを「手塩皿」と言うのかだね・・・・・。
 「手塩皿」については、昔、膳部を浄(きよ)めるために、小皿に塩を盛ってお膳につけたのがその起こりだとか、昔は、食べる人が自由に取れるように膳に塩を盛った小皿を添えて出したのがそのいわれだとか、或いは、民俗学的には、掌を皿がわりにしてそこに塩を置き、食べ物にその塩をつけて食べたことからくるとか言われているね。
 私は、「手塩皿」には、「手」・「塩」・「皿」が全部直接関連してくる民俗学的な説明が一番説得力があると思っているがね。
 「手塩皿」の命名のいわれはそんなところだが、今では、食卓で醤油や香の物、佃煮といったようなものを入れる小さくて浅い皿のことを「手塩皿」と言っているね。「おてしょ」とも言われているかな。

豆子: そうですか。ありがとうございます。
 ついでにお伺いしますが、「小皿」とか「手塩皿」とか「豆皿」とかと言われているんですが、それらの大きさには相互にどんな関係があるんですか。何か定義みたいなものがあるんですか。

主人: どのくらいの大きさのものを「小皿」と言い、どのくらいの大きさのものを「手塩皿」と言うのか、或いは、どのくらいの大きさのものを「豆皿」と言うのかは難しい問題だね。大きさの感覚は人それぞれだからね。
 まっ、それでも、人によっては、「直径四寸以下の皿」を手塩皿と定義したり、また、表現は異なるが、「手の平全体を覆うくらいの皿」を手塩皿と言うことにしている人もいるね。その場合、その人達は、手の平の半分程度より小さな大きさのものを「豆皿」と呼んだりしているようだね。
 古美術の世界では、口径が尺以上あるような皿を大皿と、口径7寸前後の皿を中皿と、5寸前後の皿を小皿と言っているかな。
 「鍋島」なんかでは、将軍の食膳具だったから、大きさも厳格に決められて献上されていたようだね。尺皿、7寸皿、5寸皿、3寸皿というような具合にね。これを、現代風に表現すると、尺皿=大皿、7寸皿=中皿、5寸皿=小皿、3寸皿=手塩皿ということになるのだろうか。しかし、「鍋島」が献上されていた江戸時代には、尺皿は大皿とは言わず、「鉢」と言っていたようだね。というのは、「鍋島」の場合は、木盃形に造形されるので、「尺皿」くらいの大きさになると、見込みが深くなって、「皿」というよりは「鉢」のように見えたからだろう。そして、7寸皿を大皿と言い、5寸皿を中皿と言い、3寸皿を小皿と言っていたようだ。
 江戸時代にあっても、「鍋島」だけが、大きさについて、独特の基準で呼称していたのかどうかは知らないが、大皿、中皿、小皿というような大きさの区分は、時代によっても、また、使用される環境によっても違ってくるんじゃないかと思うんだ。厳格な区分は難しいと思う。

豆子: はい、わかりました。
 お話しは変わりますが、私のような、手塩皿とか豆皿は人気があるんですか?

主人: うん。結構、人気があるんだよ。バラエティに富んでいるし、品もあり、洗練された意匠のものもあったりするので人気があるんだ。それに、古美術の世界では、どうしても、大きな物は値も張るが、手塩皿とか豆皿というような小さな物は値段も安くて買い易いからね。そのような小さな物を集めているコレクター向けに、「小皿・豆皿」というようなタイトルを付けた本も何冊か出されているようだね。

豆子: ご主人も、「小皿・豆皿」を多く集めているんですか。

主人: 私の場合は、「小皿・豆皿」を意識して集めているわけではないので、蒐集品の中に「小皿・豆皿」が多いわけではないね。
 ただ、普通言われる5寸前後のいわゆる「小皿」というのが多いかね。市場に一番多く出回っているのは5寸前後の皿が多いので、結果的にそうなったんだね。現代の一般家庭を見てもわかるだろう。各家庭で一番多く存在するのは5寸前後の皿だものね。一番数が多いから、古美術の世界でも一番残存数が多いんだろうね。

 

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銹釉 富士山文 六角形皿

2021年08月22日 11時09分14秒 | 古伊万里

 今回は、「銹釉 富士山文 六角形皿」の紹介です。

 なお、写真では、なかなか本来の色が出せないのですが、実物は、もう少し茶色が濃く、チョコレート色をしています。

 

 

表面

 

 

富士山文部分の拡大

文様部分には銀彩が塗られていたのでしょうか、、?

 

 

側面

かなり厳しい造形で、先端は鋭く、角に触れると「イタッ!」という感じです。

当時の土は違うのでしょうか、、、?

 

 

裏面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 最大口径;16.6cm 高さ;3.5cm 底径;8.7cm

 

 

 ところで、この「銹釉 富士山文 六角形皿」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しておりますので、次に、その時の紹介文を再度掲載し、この「銹釉 富士山文 六角形皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー166  伊万里銹釉富士山文六角形皿      (平成24年1月1日登載)

 

 

 伊万里金銀彩は、明暦の初め頃から作られるようになり、万治、寛文前半期頃にかけて多く作られ、その後は急速に終息に向かったようである。

 銀彩については、

 

 万治2年(1659)12月10日、オランダ商館長ワーヘルナールの本国向報告に「私は自分の創意で祖国向け見本としてバタビアに持参するため瑠璃地に銀彩唐草文の磁器200点をある人に注文した。云々」と云う文書が残されていることは広く知られている。
 この報告をみると、万治2年には銀彩が市場に溢れる状態となったが、その前年万治元年頃は銀彩作品はまだ少なく、商品化企画の価値があるとワーヘルナールは考えたようである。
 これからみると、銀彩が開発されたのは万治元年に近い時期、明暦時代であったと考えられよう。

『〔伊万里〕誕生と展開─創成からその発展の跡をみる─』(小木一良・村上伸之共著 創樹社美術出版 平成10年刊)P.230~231

 

 

とあるので、金銀彩と同じような時期に登場し、同じような時期にすたれていったものと思われる。  

 ただ、金色はいつまでも輝きを失わなかったためにその後にも使用されたが、銀色は酸化して輝きを失ってしまうためか、その後は使用されなかったようである。

 この六角形皿が銀彩なのかどうかは、すっかり輝きを失ってしまっているのではっきりとはしないが、厳しい造形、銹釉の色等から判断し、万治、寛文頃に作られたと思われるので、銀彩であると思っている。

 

    江戸時代前期     最大口径:16.6cm   高台径:8.7cm

 

 

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*古伊万里随想42  瞼の富士山 (平成24年1月1日登載)     (平成23年12月筆)

 

 

 この富士山文の皿を手に入れたのは、はぼ一昔前の平成14年の夏の「古美術品交換会」に於いてであった。

 発句(ホック)が告げられ、次々と槍が入る(買いたい値段が告げられる)。しかし、なんか盛り上がりに欠ける。物は良いのに!

 思うに、見込みの文様がパットしないからだろう。文様が銀彩で描かれているため、その銀が酸化して黒ズンでしまい、一見、何が描いてあるかわからないからだ。華やかさが失われてしまっている。むしろ、銀彩で文様など描かずに鉄釉だけのほうがよかったのかもしれない。伊万里が作られて初期の頃の一時期、金銀彩というものがさかんに作られたようだが、それも短期間で消滅してしまったこともうなずける。

 それはともかく、結局、私が一番の高額を提示したにもかかわらず、私の所には落ちなかった。競り不成立である。売り主が、そんなに安い額では売れないということで引っ込めることにしたからだ。

 私としても、「やっぱりな。華やかさがないものな。皆さんそれ以上に追っかけないよな。」と思い、その場は納得し、あきらめることにした。でも、時間が経つに従い、なんか気になる。「釣り逃した魚は大きい!」の心境。瞼を閉じれば、現物では銀が酸化してハッキリしていなかったその富士山がクッキリと蘇る! かくなるうえは、「あの富士山文の皿は、是非とも連れ帰らなければならないだろう!」と、心境は変転した。

 それで、交換会終了後、くだんの売り主と直接個別に交渉し、かなりの額を積み増すことでやっと結着をみた。従って、この富士山文の皿を手に入れたのは、厳密に言えば、「古美術品交換会」に於いてではなかったことになる。

 以上が、私がこの富士山文の皿を手に入れる際の経緯であるが、人はどうして富士山にこれほどまでにこだわり、あこがれるのだろうか。

 言うまでもなく、富士山は日本最高峰の独立峰で、その優美さは日本国内のみならず国外にまでも広く知れわたっており、芸術作品のさまざまな分野で題材とされ、芸術面に大きな影響を与えてきた。文学においては、万葉集以来取り上げられ、絵画においては、古来より多くの画家達によって描かれてきた。

 また、芸術面で大きな影響を与えてきたばかりではなく、富士山そのものは信仰の対象にもされてきている。その神々しいばかりの美しさは、人々の心をも虜にしてしまうのであろう。信仰心を抱くほどまでには至らないまでも、山頂に登り、そこから御来光を拝みたいと願う者は後を絶たない。かく言う私自身も、富士山に信仰心を抱くほどの者ではないが、一度は山頂から御来光を拝んでみたいと願う者の一人ではある。

 あれこれ考えてくると、どうも、富士山は、日本人の心の「ふるさと」となっているのかもしれない。だから、特に日本人は富士山にこだわり、あこがれるのかもしれない。

 ところで、一度は山頂から御来光を拝んでみたいとは願うものの、どうも、積極的に富士山に登りたいとは思わないので、これまでにそれが実現していないし、これからも実現しそうにもない。どうやら、私は生来のものぐさであり、体を激しく動かしたりするのが嫌いなようで、積極的に山登りなどしてみたいとは思わないからだ。ヘリコプターにでも乗って山頂に至り、そこから御来光を拝めればな~などという極めて不遜な考えの持ち主なのである。

 もっとも、かなり前になるが、富士山には一度だけ登ったことがある。と言っても、バスで五合目まで行ったことがあるという話だから、とてもとても「登った」などと言える代物ではない。その際だって、ここから山頂まで足で登って行くのは大変だろうな~、と思ったほどである。

 また、私が一度は山頂から御来光を拝んでみたいと思っているのは元旦の初日の出のことである。それだって、漠然と考えているからそんなことを思えるのであって、少し真剣に考えてみれば、普通の人が富士山頂まで登れるのは、7月1日の「お山開き」から8月26日の「お山じまい」までの約2ヶ月間の夏場に限られるのであって、真冬の正月になど登れるわけがないから、山頂から初日の出などを拝めるわけがないのである。

 かように考えてくると、私は、富士山にあこがれを抱いてはいるが、富士山そのものの中に身を置いていたいとは思っていないようだ。

 ここで、私は、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」の詩を思い浮かべる。富士山は私にとっても心の「ふるさと」となっているかもしれないが、やはり「遠きにありて思ふ」存在なのかもしれない。遠くから見る神々しくも美しい姿にあこがれを抱き、それが心の「ふるさと」となっているのかもしれない。

 だから、現実には何が描いてあるかもわからないようなこの皿が、瞼を閉じればクッキリと富士山を蘇らせることを感じ、是非入手したいと思ったのかもしれない。

 

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