今回は、「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介です。
これは、平成11年12月(今から22年前に)手に入れたものです。
表面(5客組)
裏面(5客組)
表面(代表の1枚)
側面(代表の1枚)
裏面(代表の1枚)
生 産 地 : 肥前・鍋島藩窯
製作年代: 江戸時代後期
サ イ ズ : 口径;14.9~15.3cm 底径;7.7~8.1cm 高さ;4.3~4.6cm
なお、この「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」につきましては、既に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しているところです。
そこで、その時の紹介文を、再度、次に掲載することをもちましてこの「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介とさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー158 鍋島様式染付菊花文小皿 (平成23年5月1日登載)
「鍋島」には、文様に微妙に違いがあるものがある。
例えば、上の小皿と「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)に登載されている小皿(下の画像参照)と間には微妙な違いがある。
「鍋島──後期の作風を観る」から転載 |
「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿には、最上段の菊の花の左下には葉っぱが、また、下の枝の先端の菊の花の上には蕾が描かれているが、上の小皿にはそれ等が描かれていない。
そもそも、「鍋島」の場合は、特に、例年献上品にあっては、「・・・安永3年には十代将軍家治好みの品十二通りが老中、側用人を通じて注文があり、試し焼きし、よいかどうかの内見を受ける必要があるから側用人まで差し出すようにとの命であった。その結果、合格し以後の鍋島焼例年献上品五品のうち二、三をこの十二通りから含めよとの指示であった。このように例年献上の鍋島は将軍の内見や許可の上で献上が行われたことがわかり、これを止めるのも勝手にはできなかった。・・・」(「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年刊) 83頁)とあるように、将軍の内見や許可がない限り、勝手に文様の変更も出来なかったはずである。
そのように考察してくると、将軍の内見や許可がない限り、異なった文様の器物は存在しないはずだから、文様変更についての将軍の内見や許可があったとの証明がない限りは、上の小皿か「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿かのどちらかが「偽物」ということになるであろう(>_<)
しかし、果たしてそうであったのだろうか?
幕藩体制が強かった時代ならともかく、幕藩体制が弛緩してくると、鍋島藩内には緊張感が薄れ、藩窯体制にも弛みが生じてきたのではないかと考えられる。
その件に関しては、「鍋島──後期の作風を観る」の中に、
「 ・・・・・・・・・・
この文様は安永3年(1774)から19世紀、安政時代(1854~59)まで引きつづき製作されたことが判り驚きであった。
その他の該当すると思われる作品類を検索してみると、いずれも19世紀まで継続製作されていると考えられる。
これ程長期間に亘り、同一文様が無変化のまま製作され続けただろうかとの疑問が生まれる。
この問題の検討方法として、同一文様の伝世品を多数集めて対比してみた。結果は表文様には大きな変化は見られないが、裏側面文様や櫛目文、造形においてはかなり異なっているものがいろいろ見出されてきた。
カニ牡丹文の葉数の違いや、その描法の強弱、精・粗状況、高台造りの力強さなどには相当の差異がみられる。
結論として、安永3年献上の十二種作品類は表文様は殆んど大きな変化はないが、裏面文様や造形には相当の変化を生じながら後年、19世紀まで製作が繰り返されている。
各種作品を整理してみると古作とみられるものほど作ぶりは優れており、一つの作品についての製作の相対年代は明らかとなる。
・・・・・・・・・・ (218~219ページ)」
と記してあるところであり、幕藩体制の強かった時代に作られた盛期鍋島ならともかく、少なくとも、後期鍋島に関しては、「・・・表文様には大きな変化は見られないが・・・」とあるところから考えると、表文様に多少の変化はあったものと思われる。
従って、上の小皿も「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿も、ともに本物の鍋島と思っている。
ただ、どちらの文様の小皿が古いのか、つまり、葉っぱと蕾が描かれていない私所蔵の上の小皿がオリジナルなのか、はたまた葉っぱと蕾を描いた「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿がオリジナルなのかは、今後の課題であろう。
江戸時代後期 口径:14.9~15.3cm 高台径:7.7~8.1cm 高さ:4.3~4.6cm
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*古伊万里バカ日誌90 古伊万里との対話(藍鍋島菊花文の小皿)(平成23年4月1日登載)(平成23年4月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
お 菊 (鍋島様式染付菊花文小皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、「今日はどれと対話をしようかな?」と「押入れ帳」のページをめくっていたが、何やらなつかしい物に目が留ったようで、さっそく押入れから引っ張り出してきて対話を始めた。
主人: 「押入れ帳」のページをめくっていたら、なつかしく感じたので出てもらった。
お菊: ホント、お久しぶりですね。でも、どうしてなつかしく感じたのですか?
主人: うん。お前のことは平成11年の12月に購入したんだが、その頃は「後期鍋島」に燃えていたもんだから、その頃を思い出してなつかしく感じたんだよ。
ところで、私が古伊万里のコレクションを始めた頃は「後期鍋島」なんていう概念はなかったね。
お菊: 当時は何と言ってたんですか?
主人: 何と言うもなにもあったもんじゃなかったね。「鍋島」の「な」の字も付かなかったね。ようするに、そんなものは、全く「鍋島」の範疇外だった。そもそも「鍋島」は鍋島藩窯で天皇家や将軍家への献上用に作られたものあって、下賤の者が使用する古伊万里なんかと一緒にされては穢らわしいという感じだったな。
「鍋島」は、藩窯で作られたもののみを「鍋島」と言うのであって、幕末であろうがなかろうが、やせてもかれても江戸時代中に藩窯で作られたものならば「鍋島」とされた。もっとも、献上用に藩窯で作られたものは厳格な検査を通ったものに限られたはずだから、厳しい条件をクリアーしているものだけが「鍋島」と認められたわけで、今で言う「盛期の鍋島」のようなもののみが「鍋島」とされていたな。そして、今で言う「後期鍋島」のようなものは明治以降に藩窯ではないどこかの窯で作られた「鍋島写」とされ、相手にされなかった。
お菊: そうしますと、「鍋島」というのは非常に数が少ないんじゃないですか。
主人: そうだ。非常に数が少ないものとされていたから、希少価値も手伝って大変に高価なものだった。めったに市場に出てこないし、出てきたとしても高価で手が出なかった。もっとも、今でも、「盛期の鍋島」は数が少なく、高価で、私なんかの手の届くような代物ではないけどね。
お菊: でも、ご主人は、「古伊万里」のコレクションが守備範囲ですから、「鍋島」はご主人のコレクションの守備範囲外だったんじゃないですか。
主人: 嬉しいことを言ってくれるね~。そうだよね。「伊万里焼」と「鍋島焼」は全く別物とされていたから、私も、初めの頃は、買えないヒガミも手伝って、フテクサレて、「鍋島は古伊万里とは関係ないんだから集める必要はないんだ!」と自分自身に言い聞かせていた。
でもね~、「伊万里焼」を勉強していくにつれ、鍋島藩が有田の優秀な職人をスカウトして藩窯に従事させていたことを知るようになった。そうすると、広い意味で、「伊万里焼」の最上級品が「鍋島焼」ということになるよね。それで、「鍋島」も「古伊万里」コレクションの対象になるんだな~と思うようになり、だんだんと「鍋島」が欲しくなるようになったわけさ。しかしね~、買えないしね~~。
そうこうして、悶々とした日々を送っていたが、平成9年1月号の「陶説」に小木一良氏が「伊万里あれこれ(10) 18世紀後半期の鍋島作品」という論文を寄せられていることを発見した。その論文によると、鍋島藩窯では、「盛期鍋島」とまでは言えないような、ちょっと質の下るようなものも作っていたとある。そのようなものならば私の手にも入るかもしれないと考えるようになったね。「盛期鍋島」のような完璧なものではないけれども、それだって、やせてもかれても、鍋島藩窯で作られたものにはまちがいはないのだから、「鍋島」にはちがいないからね(*^_^*)
それで、その後、そのようなものを入手すべく心掛けていたが、遂に、小木一良氏の論文を読んだ約2年半後の平成11年の6月に後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」を入手する幸運に恵まれた。その入手の経緯についても後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」の紹介のところに記したとおりだが、嬉しかったね。やっと、自分で「鍋島」と確信して「鍋島」を手に入れることが出来るようになったんだものね。
その後、それを契機にして後期鍋島を何点か手に入れることができた。また、後期鍋島のみならず、その余勢を駆って盛期鍋島までも入手することが出来たんだ。その意味では、後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」は、私が「鍋島」に開眼するキッカケを与えてくれた記念すべき器物だったね。そうした流れの中で、後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」を入手した半年後の平成11年の12月にお前を入手している。
お菊: 入手に際して、本歌の「鍋島」なのか、「鍋島写」なのかについて、迷いはなかったですか?
主人: もうその時点では迷いなどはなかったね。見た瞬間、自信をもって即刻購入したよ。
なお、その3年後に、小木一良氏が「鍋島──後期の作風を観る」(創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)という本を出されたが、その中にお前と非常に良く似ている小皿が載っているのを発見し(下の画像参照)、更に自信を付けたところだ。
「鍋島──後期の作風を観る」から転載
「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前とを比較してみると、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿には、最上段の菊の花の左下には葉っぱが描かれ、また、下の枝の先端の菊の花の上に蕾が描かれているが、お前にはそれ等が描かれていないな。
「鍋島」の場合は、同一文様が長期間にわたって使用されているようだが、同一文様が全く無変化で長期間使用され続けていたとは思えないんだよね。大きな変化はなかったのだろうが、多少の変化は、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前との差ぐらいの変化はあったのではないかと思っている。
更に、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前とを仔細に比較してみると、お前の方が、染付の呉須の色合いが淡く、清楚で、上品で、菊の花の描き方に至っては、菊の花が大きく、丁寧に描かれていて、全体として古格を感じさせるな。長期間同一文様を使っているうちに、だんだんと菊の花を雑に描くようになり、また菊の花も小さくなってきてしまったので、全体のバランスから、葉っぱをちょこっと追加したり、蕾を追加したりというようなことをするようになったんだろう。その点で、お前の方が「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿よりは古いんではないかと思っている。「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿は鍋島最末期の「慶応」の作ということだから、やっとこ、ぎりぎりの鍋島藩窯の作品ということになるが、お前はもう少し前の、十分に江戸時代の息のかかっている鍋島藩窯の作品ということになるかな。
お菊: 本物の「鍋島」と認めていただき嬉しいです(^_^) ありがとうございます(*^_^*)
主人: もっとも、「鍋島──後期の作風を観る」には、菊の花の描き方がちょっと違うが、同じような構図の小皿で、最上段の菊の花の左下に葉っぱを描き、下の枝の先端の菊の花の上に蕾を描いたものが「慶応」よりは幾分遡る例として紹介されている(同書158頁)(下の画像参照)から、葉っぱと蕾が描かれていないお前の方が古いのか、葉っぱと蕾を描いたものの方が古いのかは断言できないけどね。これは私の独断と偏見かもしれないな。でも、そう考えた方が夢があるだろう!
「鍋島──後期の作風を観る」から転載
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今では、その情熱が薄れてきているようです(~_~;)
確かに、「伊万里の新しいページが開かれる時代に参画」出来ましたことは、私の場合は、ほんの少しのことではありましたが、幸せなことだったのだな~と実感します(^-^*)
このようなことは滅多に体験できませんものね(^_^)
ホームページの文も、力が入っていますね。端々から、気迫が伝わってきます。
伊万里の新しいページが開かれる時代に参画できるとは、コレクター冥利に尽きますね。
こういう体験はきわめて稀少。それを呼び込むのも、日頃の精進と熱情(^.^)