Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 桃櫻文 蓋物

2021年08月10日 12時33分14秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 桃櫻文 蓋物」の紹介です。

 これは、次の写真にありますように、古い箱に収まっていました。

 

 

 

 箱には何やら文字が書いてありますので、何と書いてあるのか見てみます。

 

 

 

 「大河内窯 色鍋島 桃櫻文 蓋物」と書かれているようですね。

 ちなみに、箱の右上隅の部分を拡大してみますと(下の写真参照)、「大河内窯 色鍋島」とはっきり書かれていることが見て取れます。

 ということは、これは、大河内窯で焼かれた、桃櫻文の蓋物であることが分かります。

 

 

 

 

 次に、この「色絵 桃櫻文 蓋物」のあちこちから写真を撮ってみます。

 

 

立面(正面と仮定)

 

 

正面から右に約90度回転させた面

 

 

正面から左に約90度回転させた面

 

 

蓋を開けたところ

 

 

蓋を開け、本体も蓋も伏せたところ(その1)

 

 

蓋を開け、本体も蓋も伏せたところ(その2)

 

 

蓋を開け、本体を伏せたところ(その1)

 

 

蓋を開け、本体を伏せたところ(その2)

 

 

 なお、この「色絵 桃櫻文 蓋物」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介していますので、次に、その時の紹介文を再度掲載いたします。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー55  鍋島様式色絵桃花果実文蓋物      (平成15年1月1日登載)

 

 

 鍋島ではよく見かける図柄である。もっとも、鍋島では、マイセンがそうであるように、同じ図柄をずーっと続けて使っているので、同じ図柄をよく見かけるのである。

 むしろ、変わった図柄を目にすると、まず、「これは鍋島ではないのではないだろうか?」と疑ってかかるようになるのだ。

 その点、これは、よく見かける図柄だけに、図柄だけから見れば合格である。しかし、盛期の鍋島の要件を備えていない。

 鍋島の場合、盛期の鍋島の要件を備えていない物は「大川内窯」と言われることがある。これも、ご多分に漏れず、箱には「大川内窯」と書いてある。

 しかし、これは異なことではある。通説に従えば、鍋島が様式上完成するのは、延宝年間に大川内山に移転してからと言われているからだ。そうであれば、盛期の鍋島だって「大川内窯」には違いはないからである。

 推測するに、典型的なものを「鍋島」と定義し、それからはずれるものは「鍋島」とは認めない、かといって「鍋島」と全く関係ない作品ともしがたい、また、明治以降の作品ともしがたい、ということで、「大川内」で作られたことだけは間違いなかろうということで「大川内窯」というようにしたのであろう。しかし、これは、上述したように、極めて曖昧な分類ではある。

明治時代   口径:11.3cm  高さ(蓋共)7.8cm

 

追記(H16.5.4): 小木一良先生が、「陶説」615号(H16年5月号)に「鍋島作品」の呼称についての論文を書かれている。その概要を「古伊万里日々雑感」の平成16年5月4日のところに記したので参照されたい。
 この論文を読むと、いかに自分が無知であったか、いかに上記の解説が独善的であったか、いかに根拠の無いものであったかがわかり、恥ずかしい!

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 ところで、上の「古伊万里への誘い」の中でこの「色絵 桃櫻文 蓋物」を紹介しましたのは、平成15年1月1日のことです。

 上の紹介文の「追記」にも記しましたように、私は、当時、「鍋島作品」の呼称のことなど全く知らず、無知のままに紹介していたことになり、この上の紹介文を読みますと、改めて恥ずかしい思いになります(><)

 それでは、次に、小木一良先生が、「陶説」615号(H16年5月号)に書かれた論文『「鍋島作品」の呼称』についての概要を紹介いたします。

 

 

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         <古伊万里への誘い>

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*古伊万里日々雑感(平成16年5月4日:火) 「鍋島作品」の呼称

 「陶説」(614号,5月号)が4月末に届いたのですが、雑事に追われて、まだ開いておりませんでした。今日はゆっくりしましたので、さっそく読むことにしました。

 真っ先に、小木先生の論文を読みました。
 先月の6日と21日に先生にお会いしていて、「陶説」に、今月号から何回かにわたって論文を載せる予定であることを聞いて知っていたからです。

 今月号の内容は、「鍋島作品」の呼称についてでした。
 もっとも、この内容につきましても、既に先月の6日と21日に先生から直に聞いていましたので、大変良く理解できました。

 私など、「鍋島」は「鍋島」というに決まってるだろう、、、ぐらいにしか思っていませんでしたから、意外でした。というより、自分の全くの探究心の無さを痛感させられました。
 目を覚まさせるような良いテーマでした。また、鍋島の研究もやっと緒についたばかりなのだな~と思わずにはいられませんでした。

 ここで、今月号の内容の概要を書いてみます。

 鍋島作品の江戸後期における呼称について、共箱に書かれている文字から考察したとのことです。先生は、現在までに3種類、5点を発見しているそうです。

1種類目は、「大河内焼」と箱書されたもので、2点発見しているそうです。「大河内焼」と書かれた明治以降の箱書品は多数見られますが、江戸期のものは意外に少ないとのことです。先生は、この2点のみしか知らないとのことでした。
 我が家にも1点、「大河内焼」と箱書されたものがありますが、やはり、明治の初期のもののようです。 

2種類目は、「留山」或いは「御留山」と箱書されたもので、これも2点発見しているそうです。

3種類目は、「鍋島」と箱書されたもので、1点発見しているようです。

 そこで、次に、所有者による呼称の違いについて書いておられますので、そのことについて書いてみます。

 「大河内焼」と記している二人は鍋島藩内の町人層の人ではないかと推測しておられます。藩窯に対して一種の敬意を込めて、その所在地名で「大河内焼」と表現したのではないかと書いておられます。

 「留山」或いは「御留山」と記している二人は鍋島藩外の町人層の人で、鍋島藩窯について相当の認識を持つ人であって、「殿様の窯」という意味で表現したもので、最も敬意を込めた呼称だったのではないかと推測しておられます。

 「大河内焼」、「(御)留山」がいずれも敬意を込めた表現であるのに対して、「鍋島」の呼称は、権力的に優位にあった者の用語であったのではないかと推測されておられます。幕府権力者や有力譜代大名などの鍋島藩窯作品の献上を受ける側の人々にはこの言い方は早くから有ったのではないだろうかとも推測されておられます。
 江戸後期、鍋島藩窯作品の存在を知る人々は、限られた範囲内の人々ではあったでしょうが、その中でも、それぞれの身分、立場によってその呼称は様々であったのではないかとも書いておられました。

 

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 以上、縷々、紹介してきましたが、この「色絵 桃櫻文 蓋物」は、明治の初期に作られたものであるということになります。

 

生 産 地 : 肥前・大川内(?)

製作年代: 明治初期

サ イ ズ : 口径;11.3cm 高さ(蓋共);7.8cm 底径;4.2cm


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2 コメント

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Dr.kさんへ (遅生)
2021-08-10 14:34:13
鍋島の呼称もいろいろあるのですね。
藩内の町人が大河内焼とよぶのも、何となく頷けます。
藩外の町人層なら御留山。
微妙な違いがあって面白いですね。
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遅生さんへ (Dr.K)
2021-08-10 18:11:45
「鍋島」の呼称など、全く気にしていませんでした(><)
「鍋島」は「鍋島」で間違いないし、他に何と呼ぶの! という感じでした(~_~;)
言われてみれば、「江戸時代の人々の気持ちになってみれば、何と言ったのかな~」と、疑問にはなりますね。
この論文を読んで、「目から鱗」でした(^-^*)
このような、今まで考えてもみなかったようなことが分かるというのも面白いですね(^-^)
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