今回は、「色絵 金彩 山水文 角形香炉」の紹介です。
題名に「金彩」などという見慣れない文言を使いましたが、私の造語です(~_~;)
普通、この手の物を「金銀彩」と言いますが、この香炉には「銀彩」が使われていないものですから、「金彩」としたわけです(~_~;) 意味的には「金銀彩」をイメージしてご覧いただければ幸いです。
富士山が描かれた面(正面と仮定)
富士山を金彩で描き、その下に、薄い水色で、横に帯状に雲のようなものを描いたようですが、剥落していて分かりません(~_~;)
富士山の下に、円の下半分のようなものが金彩で描かれていますが、これも、何が描かれたのかわかりません(~_~;)
光線をかざして見ますと、松の木の根元の右上方から左下方に向かって、何色を使用したのか分かりませんが、薄い色で断崖のようなものが描かれていたように見えますが、殆ど剥落していて、判別出来ません(~_~;)
下部にも、薄い水色で、横に帯状に雲のようなものを描いたようですが、これまた、剥落していて分かりません(~_~;)
海原が描かれた面(正面の右側面)
この面は、左側中央付近に金彩で帆掛け船を2艘描いて海原を表現しているように思われます。
手前は、柳の木と松原が描かれているのでしょう。
月が描かれた面(正面の裏側面)
金彩で月を描き、うまくピンホールを隠しています。古い伊万里では、疵を隠すためによく使う手ですね!
この面は、色の剥落は相変わらず激しいですが、なんとなく、何が描かれたのかは分かります(^_^)
松の枝で窯疵を隠している面(正面の左側面)
松の木の直ぐ上を、薄い水色で、横に帯状に雲のようなものを描いたようですが、剥落していてよく分かりません(~_~;)
その横の帯状の右上に、かすかに金彩が残っていますが、それは富士山を描いたように思えるのですが、判然としません(~_~;)
右下方に見えるのは柳の木と思われます。
ところで、この面では、松の木が窯疵を隠しているところが一番の見所でしょうか(笑)。
上の「月が描かれた面」では、ピンホールの上に金彩で「月」を描いてピンホールを隠していますが、ここでも、松の木で窯疵を隠しているんです。しかも、盛大に!(笑)
このようなことは、古い伊万里ではよく使う手なんですよね。ですから、このような痕があるということは、この器が古い伊万里であるという証拠にもなるわけですね。
松の木で窯疵を隠している部分の拡大
見込み面
底面
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期(万治・寛文期)
サ イ ズ: 口径;7.8×7.8cm 高さ;7.9cm
ところで、この「色絵 金彩 山水文 角形香炉」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも既に紹介していますので、先ず、その紹介文を次に再度掲載し、その後に、現時点でのコメントを追加したいと思います。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー133 古九谷様式色絵山水文香炉 (平成21年5月1日登載)
伊万里にしてはちょっと変わり種である。
金銀彩かなと思ったが、銀が使われていないから、それでもない。
私はこれを平成5年に買っているが、当時は、まだ、古九谷は九谷焼の古いものと考えられていたわけであるけれども、その古九谷とも違う。古九谷に特有な雄渾さがない。
また、伊万里の場合、黒は輪郭線に使われることが多いが、ここでは、黒が付け立て風に使われている。
全体の雰囲気は落ち着きがあり、雅である。そうであれば、京焼かなと思うところであるが、これは磁器であるからそれでもない。
結局、よくわからなかったけれども、伊万里にこんなものがあっても不思議ではないと思って購入したわけである。
ところで、よ~く見てみると、ピンホールの部分に「月」を描いてそれをわからないようにしてあったり、欠けた窯傷の部分に「松の枝」を描き入れてごまかそうとしている(ルーペで覗いてみると、後世になって塗料を塗ったのではなく、上絵付けされていることがわかる。)ようなところがみられる。
当時としては、傷物とみられ、一級品ではなかったのかもしれないが、現在では窯傷とみるから傷物とは見ないし、そんな欠点もまた愛敬である。
色絵はかなり剥げ落ちているので、詳細には何を描いたのかよくわからないが、富士山も描かれているので、雄大な山水文を描いたのであろう。
江戸時代前期~中期 幅:7.8cm 高さ:7.9cm
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*古伊万里バカ日誌68 古伊万里との対話(京風の香炉) (平成21年4月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
京 子 (古九谷様式色絵山水文香炉)
・・・・・プロローグ・・・・・
今回のアップは五月であり、五月といえばアヤメとかショウブの季節である。
伊万里には、アヤメとかショウブを描いたものは多いので、主人は、「我が家にも、アヤメやショウブを描いた伊万里があったはずだが、、、、、」と思い、押入れ内を捜しはじめた。
ところが、それをみつけ出す前に、ちょっと、伊万里にしては風変わりなものに目が留まったようである。
主人は、持ち前の節操のなさ、季節に合わせてアップするというようなことにはこだわらないので、さっそくそれを引っ張り出してきて対話をはじめた。
主人: しばらく! お前は、いつ見ても古伊万里にしては変わっているな。
京子: お久しぶりです。そうですか、私はそんなに変っていますか。
主人: 変わっているとも。もっとも、骨董の立場からいえば、「変わっている」というのは「珍しい」ということだから、「珍品」ということになり、珍重されることになるんだが、それとても、その物が、はっきりとした或る分類に属していることが確定しているということを前提にしている。
京子: あの~、ちょっと意味がわからないんですが、わかり易く言うとどういうことなんですか?
主人: ハハハ、、、、、。悪い悪い。わざわざ、少々、難しい言い回しをしてみた。だいたいにおいて、骨董なんてものは低級なものとしてばかにされる傾向にあるから、たまには高度な言い回しをしてみたわけさ。(「それはどうかな~。やはり、骨董なんてものは低級なものなんじゃないの~。高度な論理なんか必要としないんじゃないの~」との声あり。)
わかり易く言うと、お前が古伊万里に属しているということがはっきりしていれば、古伊万里にしては変わっていて珍しいから、「珍品」に属するということさ。
京子: そういうことですか。物は言いようですが、わかり易いほうがいいですね。
骨董には難しい論理は合いませんね。哲学はあまり必要ありませんね。
主人: そうかもしれないね。
それはそうと、お前を買ったのは平成5年のことなんだが、当時は、お前のことを古伊万里とする者は少なかったね。日本産であろうという点では一致しても、さて、有田産なのか九谷産なのか、はたまたそれ以外の何処の窯で作られたのかが不明だった。有田産の古伊万里にはお前のような作風はないと思われていたし、当時は一般的にはまだ古九谷は九谷産とうように思われていたが、お前は古九谷とも言えないから九谷産ともいえなかった。結局、どこの産か不明ということになるわけだね。結論としては、どこで何時頃作られたのかもわからない、わけのわからない物ということに落ち着くわけだ。
京子: そうでしたか。今でははっきりしているんでしょうか。
主人: 研究も進んで、今でははっきりしているようだね。
知ってのとおり、我が国の江戸時代での焼物では、伊万里焼と美濃焼が規模の大きさで知られている。特に、伊万里焼は、徹底した分業体制をしいて量産をベースに置き、国内はおろか海外にまで販路を広げていた。一方、京都では、野々村仁清をはじめとする多くの名工が出現し、小規模な窯で少量しか生産しないが付加価値の高い京焼を作っていた。
このように、伊万里焼と京焼とでは、生産体制も全く異なるので、両者には何の交流もなく影響関係がないように思われるが、そうでもなかったようだね。両者は互いに影響し合っていたようだ。
京子: 具体的にどのように影響し合っていたのでしょうか。
主人: 互いに影響し合ったというよりは、伊万里焼が京焼の影響を受けたというところかな。もっとも、京焼は、磁器である伊万里焼よりも、同じく肥前の地の焼物である陶器の方に強く影響を与えているようだね。
というのも、京焼は、大名や上洛した幕臣たちの京土産として人気が高かったが、なにせ少量しか生産されなかったので需要に追いつかなかった。そこで肥前で京焼風の陶器を多量に生産して全国に供給し、その需要を満たしたという一面があったようだね。もっとも、それも、元禄年間頃までで、京周辺で京焼の量産化が進行し、産業製品として多量に作られて全国に広く供給されるようになる頃からは肥前における京焼風陶器の生産も消えていったらしい。
このような、京焼の肥前陶器への影響が、同じ肥前の焼物である磁器の伊万里焼にも影響したわけだ。
京子: どういう特徴があるんですか。
主人: 例外もあるから、一言でズバリと言うのは難しいが、大ざっぱに言うと、普通の伊万里焼の場合は、色絵文様を黒の輪郭線を描いて行っているのに対し、京焼の影響を受けた伊万里焼の場合は輪郭線を描かないで行っているという特徴があるだろうかね。
ちょっと脱線するが、輪郭線といえば、鍋島の場合は染付線若しくは赤の輪郭線を描いているのに対し、柿右衛門の場合には黒の輪郭線を描いているという特徴があるね。
鍋島藩では、鍋島焼開発過程で、いろいろと試行錯誤を繰り返したようだ。輪郭線については、染付の輪郭線若しくは赤の輪郭線を引いたものを作ったり、あるいは黒の輪郭線を引いたものを作ったりしている。結局は、鍋島藩としては、藩窯用としては、染付線若しくは赤の輪郭線を採用したので、黒の輪郭線は民窯用となったようだね。
鍋島藩窯では将軍家用の食膳具を作ることを目的としたから、よそで同じような物を作られては困るわけで、民窯で同じような物を作ることを認めなかったわけだ。それで、輪郭線については、染付若しくは赤の線というのが鍋島藩窯の専売特許みたいになったわけなんだ。
京子: 輪郭線のあるなし、輪郭線がある場合でもその色の具合によって随分と雰囲気がちがいますね。
主人: そうなんだ。研究が進んで、どんどんと古伊万里の対象分野が広がってくると、従来の様式分類では律しきれない部分が出てくるね。
お前なんか、従来の様式分類でいうと何処に属するのか困るところだが、一応、一番近いのは「古九谷様式」かなと思ってそこに分類してみた。今後は、こうした分野の研究も進展することを願っているよ。
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以上が、「色絵 金彩 山水文 角形香炉」についての「古伊万里への誘い」での紹介文です。
「古伊万里への誘い」の中でこの「色絵 金彩 山水文 角形香炉」を紹介した平成21年の時点では、それまで「古九谷」と言われていたものは伊万里の「古九谷様式」として「様式分類」されていたことがわかります。
しかし、その後、だんだんと研究が進み、古い伊万里の上手のもののほとんどが「古九谷様式」に分類されるようになってきたのではないかと思うわけです。
そうであれば、「伊万里」を「様式分類」する意味はなくなってきたように思います。
また、そうすれば、「古伊万里の誘い」の中で悩んでいたような、この「色絵 金彩 山水文 角形香炉」が、従来の様式分類でいうと何処に属するのかというような悩みは無くなるわけですね。
また、この「色絵 金彩 山水文 角形香炉」は、銀彩を使用していませんが、古い伊万里ですし、従来言われてきた「金銀彩」の一群として取り扱うことに異を唱える者も少なくなってきているのではないかと思います。
従いまして、この「色絵 金彩 山水文 角形香炉」の製作年代も、金銀彩の多くが万治・寛文前半期に作られていますことから、万治・寛文前半期としていいように思います。
それで、「古伊万里への誘い」の「古伊万里ギャラリー133 古九谷様式色絵山水文香炉」の中では、この「色絵 金彩 山水文 角形香炉」の製作年代を「江戸時代前期~中期」としていますが、それを「江戸時代前期(万治・寛文期)」と訂正したいと思います。