1969年2月、フジオ・プロは、藤子スタジオ、つのだプロ、他のプロダクションと同様に、スタッフが人員増加した関係から、手狭になった市川ビルを離れ、文化服装学院に程近い代々木の村田ビル八階へと移転する。
長谷も『バカ式』をはじめとする様々なパロディー漫画を「COM」を中心に執筆するようになり、古谷もまた、赤塚のスタッフと掛け持ちしながら、少年誌に連載や読み切りを複数発表してゆくことになる。
また、本拠地を村田ビルへと移し換えて暫くした頃、つのだプロより移籍して来た芳谷圭児をリーダーとしたフジオ・プロ劇画部が創設される。
この頃よりフジオ・プロは、所属する個々の漫画家が独立してチーム制を取るようになり、それらのアシスタントを社長である赤塚が纏めて面倒を見るという、他の漫画製作プロダクションとは全く異なるビジネスカラーを打ち立てるようになった。
大所帯となったフジオ・プロで、赤塚は漫画家としてのみならず、プロデューサーとしての手腕も発揮してゆく。
映画に対する憧れを、漫画家になってからもずっと抱き続けていた赤塚は、大河ドラマのようなダイナミズム溢れるストーリー劇画にもチャレンジしてみたいといった願望が、ある時期から猛烈に膨らんでいたという。
しかし、ドラマは作れても、ここまで試行錯誤の末築き上げてきた赤塚タッチを捨て去ることは、ギャグ漫画の第一人者としてのプライドが許さない。
そんなジレンマから、以前「ジュニアコミック」で、シェークスピアの名作を格調高い劇画でコミカライズした、芳谷圭児の『ハムレット』のシナリオライターであった滝沢解に、リライトのベースとなるテーマやプロットを提供し、「原作/滝沢解・画/芳谷圭児」というユニットで、作品をプロデュース出来ないかと思い付いたのは、ある意味必然的と言えるだろう。
当時赤塚は、丈夫で安心して乗れるという理由もあり、220セダンや450SLCクーペといったベンツを愛車にして、乗り回していた関係から、株式会社ヤナセの弘岡隆と親しくなり、弘岡とそのマニア仲間の為に、レーシングチーム「ZENY」を設立し、毎週二〇〇万もの金額を資金援助していた。
コロナ1600GTを六台購入し、カーレースに優勝した賞金を元手に、ゆくゆくはチューンナップ工場を作りたいという目論みもあったそうだが、思うように業績を上げることが出来ず、結局五〇〇〇万もの赤字を出し、チームは僅か一年での解散を余儀なくされる。
そんな自身の失敗とNHKドキュメンタリーの『ある人生』の一編「エンジン父娘」からイメージを膨らまし、レーシングカーに命を懸けた父と息子の熱情をテーマとした長編ストーリー『エンジン魂』を企画する。
この作品は、ステレオタイプの熱血ヒーロー譚ではない、全く新たな位相を明示した劇画として、読者から好評を得ることとなり、その後、滝沢・芳谷のタッグは、幾つかの佳作をコンスタントに執筆した後、青春の蹉跌を描いた『高校さすらい派』をヒットさせ、劇画界に盤石を置くこととなった。
因みに、赤塚がオーナーを務めた「ZENY」には、後に鈴鹿F―2で優勝を遂げる名レーサー・藤田直広が名を連ねていたほか、今でいう半グレ集団としてその界隈で有名だった「新宿紀伊國屋二期星」の残党もメンバーとして参加していた。
この「新宿紀伊國屋二期星」では、後に発生する「三億円強奪事件」の最重要容疑者として今尚語り継がれている、白バイ警官を実父に持つ「S少年」がサブリーダー的な立場を務めており、S少年自身、「ZENY」への参加はなかったものの、赤塚とは顔見知りの間柄であったとも言われている。
『エンジン魂』の成功に気を良くした赤塚は、その後、コンプレックスから生じた被害妄想により、自らを精神的に追い込んでしまった高校生が、衝動的に同級生の友人の首を刃物で切断し、殺害してしまうという、実際に起きた「サレジオ高校生首斬り殺人事件」から材を採った『殺意』を「DELUXE少年サンデー」に、やはり滝沢・芳谷コンビに描かせるなど、非常にタイムリーでありながらも、当時の少年誌としては、依然タブーの領域にあった凄惨なテーマさえも、積極果敢にプロデュースした。
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その後もフジオ・プロ劇画部は、雁屋哲原作による長編大河ストーリー『野望の王国』で健筆を振るうことになる由起賢二(フジオ・プロ劇画部在籍時は、戸川幸夫の『オホーツク老人』を劇画化した『帰らざる海』を執筆)や、80年代、折からのヤンキー漫画ブームの時流に乗って、人気を博した『Let'sダチ公』の作画を受け持つ木村知生、また、一時的ではあるが、かつて『アイアンマッスル』や『あかつき戦闘隊』等を執筆し、劇画界の雄として、後進に甚大な影響を与えた園田光慶を招き入れるなどして、その規模を拡張した。
因みに、1972年頃から、赤塚漫画では、グロテスクな覚醒をコンセプトとしたキャラクターの顔面クローズアップシーンが、半ページ大で幾度となく頻発するようになるが、こうした場面を最初に担当したのが、当時、芳谷のアシスタントを務めていた木村知生である。
この異常なまでに歪で、破天荒なタッチは、『珍遊記』等、後に漫☆画太郎が描く、心持ち悪さを具象化したキャラクターの源流となる新たなギャグへの模索でもあり、非存在の領域から発想を膨らませていったその基本姿勢は、もっと評価されて良い。
スタジオ・ゼロのアニメーター時代より、ちょくちょくフジオ・プロに顔を出し、そのまま赤塚のアシスタントになったとりいかずよしに、無精髭を生やしたその醜悪な面構えを鬱悒く感じたのか、「お前は顔が汚いからウンコ漫画を描け」と薦め、『トイレット博士』を描かせたのも赤塚であった。
スカトロジーギャグという未だかつてない笑いのジャンルを開拓した『トイレット博士』は、その後、吉沢やすみの『ど根性ガエル』と共に、70年代「週刊少年ジャンプ」の躍進を支えるギャグ漫画の二枚看板の一つとして、花を咲かすことになる。
経済発展に伴う父権失墜の時代風潮を過激にエスカレートさせ、戯画化した古谷三敏の出世作『ダメおやじ』も、赤塚のサポートによって生まれたシリーズだ。
当初、古谷が考えていたアイデアは、業界内を我が物顔で振る舞い、虎ならぬ「赤塚の威を借る狐」の蔑称を欲しいままにし、また赤塚らに飲食費から遊興費に至るまで全額をたかり、「お呼ばれおじさん」と仲間内で陰口を叩かれるなど、その人間的狡猾さにおいて、侮蔑と嘲笑の対象であったさるスタッフをモデルとしたギャグ漫画であった。
しかし、それでは、作品のセールスポイントを定めるには弱いと感じた赤塚は、そうした小動物のようなキャラクターに付け加え、徹底的に家族から残酷な扱いを受ける父親を主人公に据えた、ブラック度の強い作品を描いてみたらどうかと、古谷に提案する。
僅か5ページでスタートした『ダメおやじ』であったが、仕事がスローモーであった古谷にとって、それだけでも手一杯であった。
そこで赤塚は、半年以上に渡り、『ダメおやじ』のアイデア、ネーム、下絵を全て取り仕切り、積極的に古谷をバックアップ。『ダメおやじ』が「サンデー」の人気連載として機能すべく土台を築いてゆく。