文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

プロデューサーとしての手腕 フジオ・プロ劇画部の展開

2020-09-11 21:53:02 | 第4章

1969年2月、フジオ・プロは、藤子スタジオ、つのだプロ、他のプロダクションと同様に、スタッフが人員増加した関係から、手狭になった市川ビルを離れ、文化服装学院に程近い代々木の村田ビル八階へと移転する。

長谷も『バカ式』をはじめとする様々なパロディー漫画を「COM」を中心に執筆するようになり、古谷もまた、赤塚のスタッフと掛け持ちしながら、少年誌に連載や読み切りを複数発表してゆくことになる。

また、本拠地を村田ビルへと移し換えて暫くした頃、つのだプロより移籍して来た芳谷圭児をリーダーとしたフジオ・プロ劇画部が創設される。

この頃よりフジオ・プロは、所属する個々の漫画家が独立してチーム制を取るようになり、それらのアシスタントを社長である赤塚が纏めて面倒を見るという、他の漫画製作プロダクションとは全く異なるビジネスカラーを打ち立てるようになった。

大所帯となったフジオ・プロで、赤塚は漫画家としてのみならず、プロデューサーとしての手腕も発揮してゆく。

映画に対する憧れを、漫画家になってからもずっと抱き続けていた赤塚は、大河ドラマのようなダイナミズム溢れるストーリー劇画にもチャレンジしてみたいといった願望が、ある時期から猛烈に膨らんでいたという。

しかし、ドラマは作れても、ここまで試行錯誤の末築き上げてきた赤塚タッチを捨て去ることは、ギャグ漫画の第一人者としてのプライドが許さない。

そんなジレンマから、以前「ジュニアコミック」で、シェークスピアの名作を格調高い劇画でコミカライズした、芳谷圭児の『ハムレット』のシナリオライターであった滝沢解に、リライトのベースとなるテーマやプロットを提供し、「原作/滝沢解・画/芳谷圭児」というユニットで、作品をプロデュース出来ないかと思い付いたのは、ある意味必然的と言えるだろう。

当時赤塚は、丈夫で安心して乗れるという理由もあり、220セダンや450SLCクーペといったベンツを愛車にして、乗り回していた関係から、株式会社ヤナセの弘岡隆と親しくなり、弘岡とそのマニア仲間の為に、レーシングチーム「ZENY」を設立し、毎週二〇〇万もの金額を資金援助していた。

コロナ1600GTを六台購入し、カーレースに優勝した賞金を元手に、ゆくゆくはチューンナップ工場を作りたいという目論みもあったそうだが、思うように業績を上げることが出来ず、結局五〇〇〇万もの赤字を出し、チームは僅か一年での解散を余儀なくされる。

そんな自身の失敗とNHKドキュメンタリーの『ある人生』の一編「エンジン父娘」からイメージを膨らまし、レーシングカーに命を懸けた父と息子の熱情をテーマとした長編ストーリー『エンジン魂』を企画する。

この作品は、ステレオタイプの熱血ヒーロー譚ではない、全く新たな位相を明示した劇画として、読者から好評を得ることとなり、その後、滝沢・芳谷のタッグは、幾つかの佳作をコンスタントに執筆した後、青春の蹉跌を描いた『高校さすらい派』をヒットさせ、劇画界に盤石を置くこととなった。

因みに、赤塚がオーナーを務めた「ZENY」には、後に鈴鹿F―2で優勝を遂げる名レーサー・藤田直広が名を連ねていたほか、今でいう半グレ集団としてその界隈で有名だった「新宿紀伊國屋二期星」の残党もメンバーとして参加していた。

この「新宿紀伊國屋二期星」では、後に発生する「三億円強奪事件」の最重要容疑者として今尚語り継がれている、白バイ警官を実父に持つ「S少年」がサブリーダー的な立場を務めており、S少年自身、「ZENY」への参加はなかったものの、赤塚とは顔見知りの間柄であったとも言われている。

『エンジン魂』の成功に気を良くした赤塚は、その後、コンプレックスから生じた被害妄想により、自らを精神的に追い込んでしまった高校生が、衝動的に同級生の友人の首を刃物で切断し、殺害してしまうという、実際に起きた「サレジオ高校生首斬り殺人事件」から材を採った『殺意』を「DELUXE少年サンデー」に、やはり滝沢・芳谷コンビに描かせるなど、非常にタイムリーでありながらも、当時の少年誌としては、依然タブーの領域にあった凄惨なテーマさえも、積極果敢にプロデュースした。

その後もフジオ・プロ劇画部は、雁屋哲原作による長編大河ストーリー『野望の王国』で健筆を振るうことになる由起賢二(フジオ・プロ劇画部在籍時は、戸川幸夫の『オホーツク老人』を劇画化した『帰らざる海』を執筆)や、80年代、折からのヤンキー漫画ブームの時流に乗って、人気を博した『Let'sダチ公』の作画を受け持つ木村知生、また、一時的ではあるが、かつて『アイアンマッスル』や『あかつき戦闘隊』等を執筆し、劇画界の雄として、後進に甚大な影響を与えた園田光慶を招き入れるなどして、その規模を拡張した。

因みに、1972年頃から、赤塚漫画では、グロテスクな覚醒をコンセプトとしたキャラクターの顔面クローズアップシーンが、半ページ大で幾度となく頻発するようになるが、こうした場面を最初に担当したのが、当時、芳谷のアシスタントを務めていた木村知生である。

この異常なまでに歪で、破天荒なタッチは、『珍遊記』等、後に漫☆画太郎が描く、心持ち悪さを具象化したキャラクターの源流となる新たなギャグへの模索でもあり、非存在の領域から発想を膨らませていったその基本姿勢は、もっと評価されて良い。

スタジオ・ゼロのアニメーター時代より、ちょくちょくフジオ・プロに顔を出し、そのまま赤塚のアシスタントになったとりいかずよしに、無精髭を生やしたその醜悪な面構えを鬱悒く感じたのか、「お前は顔が汚いからウンコ漫画を描け」と薦め、『トイレット博士』を描かせたのも赤塚であった。

スカトロジーギャグという未だかつてない笑いのジャンルを開拓した『トイレット博士』は、その後、吉沢やすみの『ど根性ガエル』と共に、70年代「週刊少年ジャンプ」の躍進を支えるギャグ漫画の二枚看板の一つとして、花を咲かすことになる。

経済発展に伴う父権失墜の時代風潮を過激にエスカレートさせ、戯画化した古谷三敏の出世作『ダメおやじ』も、赤塚のサポートによって生まれたシリーズだ。

当初、古谷が考えていたアイデアは、業界内を我が物顔で振る舞い、虎ならぬ「赤塚の威を借る狐」の蔑称を欲しいままにし、また赤塚らに飲食費から遊興費に至るまで全額をたかり、「お呼ばれおじさん」と仲間内で陰口を叩かれるなど、その人間的狡猾さにおいて、侮蔑と嘲笑の対象であったさるスタッフをモデルとしたギャグ漫画であった。

しかし、それでは、作品のセールスポイントを定めるには弱いと感じた赤塚は、そうした小動物のようなキャラクターに付け加え、徹底的に家族から残酷な扱いを受ける父親を主人公に据えた、ブラック度の強い作品を描いてみたらどうかと、古谷に提案する。

僅か5ページでスタートした『ダメおやじ』であったが、仕事がスローモーであった古谷にとって、それだけでも手一杯であった。

そこで赤塚は、半年以上に渡り、『ダメおやじ』のアイデア、ネーム、下絵を全て取り仕切り、積極的に古谷をバックアップ。『ダメおやじ』が「サンデー」の人気連載として機能すべく土台を築いてゆく。


笑いのルーティンを拡大 『やってきたズル長』『チビ太くん ぬたくり一家』

2020-09-11 18:10:49 | 第4章

創刊間もない「週刊少年ジャンプ」の誌面を盛り上げた「赤塚ギャグ笑待席」シリーズ以外の赤塚作品では、前述の『もてもて一家』、『イライラ一家』といった一家ものシリーズのほか、『やってきたズル長』(69年№8、№10)、『チビ太くん ぬたくり一家』(69年№18)などがある。

『やってきたズル長』もまた、二話掲載作品で、清水の次郎長の子孫かも知れない、用心棒稼業のふてぶてしい無頼派少年が、傍観者的スタンスを取りながら、勢力争いを続ける二つの暴力団組織を足取り軽く壊滅させる、黒澤明の傑作時代劇映画『用心棒』のストーリーラインをそのままトレースし、現代版へと置き換えつつも、その表層を準えて滑稽化したイミテーションではなく、キャラクターからシチュエーションに至るまで、読む者に奇異の念を抱かせて余りある論理的逸脱に貫かれた、爆笑喚起促すシリーズだ。

『チビ太くん ぬたくり一家』は、塗装店に就職したチビ太が巻き込まれるシッチャカメッチャカの爆笑騒ぎを、カラーページならではの表現手法に非因襲的なイリュージョンを意図して混成させた、遊び心と実験性に溢れる意欲的な一作。

因みに、『チビ太くん ぬたくり一家』は、コミックスでは、オールカラー着色ならではの面白さが半減することを懸念されてか、これまで一度も単行本収録されていない。

いつの日か、単行本収録され、雑誌掲載時と同じカラーページで完全再録されることを切に願う。

尚、この作品が発表された同時期に、赤塚は、集英社初の青年コミック誌「ジョーカー」に、同じく主人公であるチビ太が、自らを騙した悪辣なエロ学生を、読者の裏をもかく、エスプリの利いた悪戯センスで意趣返しする『チビ太モミモミ物語』(69年10月10日号)なるショートショートを執筆した以外にも、「少年チャンピオン」創刊号に、指名手配中の凶悪な強盗犯二人組が、押し入った先で遭遇した、むしり癖のある超はずかしがり屋の中年男に奇妙な処遇を受け、翻弄されてゆく様子を強烈な笑いに忍ばせて綴った『テレテレおじさん』(創刊1号~2号)を発表しており、この時期新創刊したありとあらゆる漫画誌に、一定水準を保った相当数の佳品を寄稿し、更なる笑いのルーティンを拡張したことも連記しておきたい。


類型化する漫画の表現形式を覆したトリオものシリーズ

2020-09-11 15:25:57 | 第4章

「赤塚ギャグ笑待席」が連載開始されるに至り、発表された予告ページ(69年№19)には、前述の『白痴小五郎』のイラストが掲載されていたが、この作品が「ジャンプ」誌上で発表されることはなかった。

既述のアニメ化とのタイアップ連載を予定していたが、アニメ化の企画が立ち消えになったことがその理由だと思われる。

『赤塚ギャグ笑待席』のコーナー内で、『おれはゲバ鉄!』以外に発表されたタイトルは、読み切り、二話連続掲載等の短編ばかりだったが、そのどれもが、簡素なドラマ構造を特徴としながらも、論理や思考の段階を感覚的に飛び越え、系統発生的な笑いを引き立ててゆく、軽快なフットワークを身上とした異端的魅力の作品だ。

『ゲバゲバ博士』(69年№24)は、一人のマッドサイテンティストが、外見にコンプレックスを持つ人の為に、ひと吹きで美顔に変身するという、驚異のスプレーを開発したことで巻き起こる狂態を鋭く描破したブラックコメディー。

妄想が暴走してゆく悪夢を笑いへと摩り替え、表層的な美意識を裏返しにさせたところにこそ、美の普遍と本質が映し出されるという、一面の真理を然り気なく看破したところに、この作品の値打ちがある。

『ゲバゲバ兄弟』(69年№20、№22)、『Oh!ゲバゲバ』(69年№26、№28)は、共に二話発表されたトリオものだ。

救い様のない馬鹿学生達による奇行愚行の鍔迫り合いが、威勢良く展開するスラップスティックコメディーであるが、連中が振り撒く、稚拙にして無軌道極まりないギャグの切迫は、自棄的な馬鹿騒ぎで憂さを晴らすしかなかった、当時の安田講堂陥落後以降の全共闘学生らの不毛と倦怠がオーバーラップしているようにも感じ、その後の退廃的時代相を予期させるニヒリスティックな笑いを、ついドラマの奥底に見出だしてしまうのは、筆者だけであろうか……。

かねてから赤塚は、サイレント映画とトーキーの端境期であった1930年代より、奇抜なアクション、小洒落た台詞廻し、ナンセンスな効果音を駆使した笑いで、アメリカ全土を一世風靡していたコメディートリオ『三ばか大将』といった、全く異なる個性が自己主張しながら、トライアングルを形成し、絡み合ってゆくスラップスティックギャグにも傾倒しており、自身の表現形態に、それらの疑似感覚性を取り入れ、オリジナル作品に昇華出来ないものかと、構想を練っていたという。

そこで誕生したのが、前述の『過激派七年生』であり、その発展型とも言うべきマスターピース、「少年」の豪華別冊付録「まんが№1」で発表された『サルばかガードマン』(68年1月号)だ。

性格も価値観もバラバラだが、三人揃って一人前の落ちこぼれガードマンのエースケ、ビースケ、シースケが、突然、日本に亡命して来たサルスベリ王国の王子様のシークレットサービスに任命され、その強烈な悪ガキぶりに手を焼きながらも、王子の身を暗殺部隊から守るべく、七転八倒の奮闘を重ねるというあらましのこの作品は、それぞれのパーソナリティーを引き立てながら、突発して迫り来る、予測不能なトラブルを切り抜け、大団円を迎えてゆく様が三者の視点より多声的に描かれ、胸弾む怒涛のドタバタナンセンスとしての完成を見た。

このように、類型化する漫画の表現形式を覆したと思われたトリオものシリーズであったが、一家ものシリーズのように、その後、バリエーションを増やし、赤塚のルーティンギャグの一群として根付くまでには至らなかった。

その後、時を経た1974年、「高1コース」誌上にて、おバカな高校生三人組の、非生産的で不消化なディスコミュニケーションを笑いの要とした『おいらダメ高』(4月号~6月号)にそのフォーマットは受け継がれるが、この作品は、それまでのトリオ物シリーズとは異なり、過激なスラップスティック表現を極力取り除き、恋愛の悩みを主だったテーマに据えるなど、掲載誌の読者層に適合したオーソドックスなシチュエーションコメディーとして描かれ、これを最後に赤塚のトリオものは完全封印されることになる。

そして、これらのトリオものシリーズは、『過激派七年生』を除いて、1976年、曙出版の曙文庫レーベルより『Oh!サルばか』を表題作にコンピレートされ、ここで漸く、赤塚トリオ物のほぼ全てのタイトルが日の目を見るようになった。


漫画入門書の最高峰『マンガ大学院』

2020-09-11 09:26:56 | 第4章

『おれはゲバ鉄!』以外で、角南記者が担当した赤塚連載では、廃刊間際の「少年ブック」(69年1月号~4月号)の別冊付録として、毎号一冊ずつ、らくがきコース(入門編)、アイデアコース(基礎編)、短編コース(応用編)、長編コース(卒業編)の計四冊に渡って編纂された『マンガ大学院』がある。

別冊付録で、愛読者を対象に漫画の通信添削を企画した角南記者であったが、一体どれだけの実習課題が応募されるのか、全くわからない状況では、当時のハードスケジュールぶりからは、引き受けられないと、赤塚はその依頼を辞退する。

しかし、一度肘鉄を喰らったくらいでめげるわけがないガッツマンの角南記者は、大学の後輩である早稲田大学漫画研究会の面々に、課題の添削指導を一任させるといい、強引にこの企画を押し進めてしまったという。

添削指導こそ、赤塚の直接的な介入はなかったものの、メインとなった漫画入門は、キャラクター作りやプロットの組み立て、ドラマの起承転結の紡ぎ方といった基礎から長編漫画執筆といった応用技術に至るまでを、微に入り細を穿つカリキュラムで編纂。赤塚が新たに描き下ろした漫画やイラスト、再録作品を長谷がテキストとして再構成し、最高峰の漫画入門書として名高い石ノ森章太郎の『マンガ家入門』と双璧を成す、充実のコンテンツを備えた好企画となった。

それを裏付けるかのように、同年ジャンプコミックス・レーベルで上巻(基礎編)、下巻(応用編)に纏め、改めて単行本化された後、1976年には、集英社漫画文庫でも、再度リリースされ、71年に赤塚の監修で刊行された小学館の入門百科『まんが入門』と同様、漫画入門書としては、異例のロングセラーとなり、その後も多くの漫画少年達に愛読された。


『赤塚ギャグ笑待席』『おれはゲバ鉄!』の連載開始と 「週刊少年ジャンプ」

2020-09-11 06:11:59 | 第4章

「週刊少年ジャンプ」誌上にて、新人漫画コンクールの草分け的存在である「手塚賞」から、1974年にギャグ漫画部門を分離させ、その登竜門として赤塚の名を冠した「赤塚賞」が設立されるが、「ジャンプ」で唯一シリーズ連載となった赤塚作品は、意外にも、『おれはゲバ鉄!』(70年2・3合併号~33号)のみである。

多忙な赤塚をサポートするため、古谷、長谷、とりいかずよしといったフジオ・プロ所属の漫画家達と順繰りで作品を発表する『赤塚ギャグ笑待席』(69年№20~70年6号)なる企画コーナーの一環として開始した『おれはゲバ鉄!』であったが、スタート当初のタイトルは、『Oh!ゲバゲバ』というもので、第三話目にして、漸く『おれはゲバ鉄!』と改題されたほか、途中で幾度か、休載を挟み、掲載ペースが不定期になるなど、極めて変則的な形で執筆された短期連載作品であった。

父親と母親に見捨てられ、孤児となった小学生の鉄が、強盗犯でありながらも、心優しい後藤のおじさん、拾った大金を正直に届けたことで、身元を引き受けてくれることになった会社社長の恩恵に支えられながら、唯一友達となった野良犬のバンパクと一人と一匹、悪い大人の陰湿な仕打ちや裏切りといった、世間の激しい荒波に揉まれながらも、正しき心で精一杯生き抜き、一人の人間としても大きく成長してゆく……。

現在に至るまで連綿と続く「友情、努力、勝利」をモットーに踏まえた、「ジャンプ」正統派路線とも言うべきこのドラマの原案を考え、シナリオ風に纏めて赤塚に描かせたのが、後にとりいかずよしの人気漫画『トイレット博士』を担当し、そのメインキャラクター・スナミちゃんのモデルとなる「ジャンプ」の角南攻であった。

元々角南記者は、赤塚漫画の大ファンで、大学時代から足繁くフジオ・プロに遊びに来ていたため、赤塚とは旧知の間柄であった。

角南記者は、名もない一学生とも別け隔てなく対等に接してくれる赤塚の寛大な人柄にも魅了され、赤塚と仕事がしたいがために、わざわざ集英社に入社したという、赤塚曰く「熱血みなぎる好漢」だ。

後発の隔週少年漫画誌というハンディキャップを背負った「ジャンプ」は、ベテランの人気漫画家を敢えて起用せず、新進気鋭の若手漫画家を擁立してゆくことで、先発誌との差別化を企てるべく編集方針を打ち出していたが、それでは思うように売り上げが伸びず、時折、藤子不二雄Ⓐや楳図かずお、望月三起也といったビッグネームに単発の読み切りを依頼しては、誌面強化を図っていた。

「ジャンプ」創刊の際、赤塚は幾つもの締め切りに追われながらも、合間を縫って、父親の敵討ちのため、プリズンを脱獄したギャングの大物・イル・カモネとの一騎討ちを果たそうとする少年保安官・アパッチ君が、タイトル通り大暴れして活躍する『大あばれアパッチ君』(68年8月1日創刊号)なる痛快ウエスタンギャグを大御所枠で執筆し、誌面の盛り上げに協力したが、無理は承知で、このような新連載まで打診されてしまったのも、そうしたセールスアップを目指した苦肉の策が、当然ながら、その背景に根強くあったからだろう。

だが、当時『天才バカボン』、『もーれつア太郎』といった週刊連載のほか、月刊誌、イレギュラーの短編や長編読み切りの仕事をどっさりと抱えていたため、もはやアイデア会議ですら、時間的に応じかねる旨を、マネージメント役の長谷が告げると、角南記者は、ならば自分がアイデアを考えるから、絵を描いて欲しいと、臆することなく、詰め寄ってきたという。

そんな角南記者の熱烈アピールを、無下に断り切れなかった赤塚は、見切り発車のまま、『おれはゲバ鉄!』の連載をスタートさせる。

角南記者との兼ね合いもあり、赤塚も作画、ネームともに質的にばらつきのない、特段と丁寧な作品を提供し続けたが、純然たるギャグ漫画ではない、ある意味、梶原一騎的熱血根性路線を縮小再生産した『おれはゲバ鉄!』は、タッチだけはギャグ漫画という致命的な違和感を纏い、ストーリー劇画独特の烈々とした情念や、ケレン味と様式美が一体化した、怒涛の作劇効果を醸し出すには至らず、期待通りの人気を掴めないまま、連載回数全二〇話をもって敢えなく打ち切りになってしまった。