※東北での震災ボランティアに参加された
ドネーションシップ会員さんのブログ↓を転載させていただきます
http://ameblo.jp/lovesonowithya/page-2.html#main
◆気仙沼 大島でのボランティア 2011年7月31日、8月1.2.3日
東北震災ボランティア
7月31日から、京都災害ボランティア支援センター主催の、
ボランティア活動に参加してきました。
活動場所は、気仙沼市大島という島。
31日早朝から、13時間かけて、宮城県を目指します。
先ずはバスで、気仙沼港に向かいました。
最初の10時間まではのどかな田園地帯が続いてて、
ちょっとした旅行気分だったのですが、
気仙沼港に近づくやいなや、状況は一変・・・
津波の被害の爪痕が、今もむき出し状態だった。
倒壊した建物、傾いてる電柱、電柱や柱が山積み状態になっていたり、
傾いてる建物、電気屋さんだったであろう建物の中が
ぐちゃぐちゃになっていたり・・・
本当に震災から4か月も経ってるの?という印象です。
TVでの報道で、倒壊した家屋などの映像は何回も見てるけど、
実際に目の当たりにすると、津波のエネルギーの強さに圧倒される。
大島へのフェリー乗り場も、乗り場デッキが一部、津波の圧力で
へしゃげていたりして、痛々しかった。
そしてフェリーで20分くらいで大島に到着。
港が瓦礫の収集所になっていた。
そして大きなフェリー(船)2隻が、
海岸に完全に乗り上げていた。
地元の人に伺うと、津波第一波の引き潮で
船が大きく海に引き戻され、
第二波でフェリーが海岸に押し上げられたそうです。
映像で船が地上に押し出されているのも見たことはあると思うけど、
実際に見てみると、
こんなに大きな船が何で地上にあるのか、
意味がわからなくなる。
気仙沼・大島の紹介を少しさせて下さい。
『宮城県北東部の気仙沼湾内に位置し、
航路距離7.5kmの東北最大級の有人離島。
気仙沼港から船に乗れば、30分ほどで到着します。
東日本大震災で大島を襲った津波は、
20メートル近い高さとなって中央部で合流して島を分断、
さらに南部でも合流寸前まで迫った。
島のシンボルであり、多くの住民が避難した亀山は火災に見舞われた。
起伏に富む地形が幸いし、島民はすぐ近くにある山に避難した。
島民約3200人のうち死者は23人、
行方不明者は8人。津波の規模の割には助かった住民が多かった。
だが翌3月12日火災発生。
重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火。
気仙沼湾との境にある大島瀬戸にがれきが流れ着き、
岸辺の木々に燃え移った。
火は島北部の約120ヘクタールを焼いた後、
亀山(235メートル)の北麓を駆け上がり、山頂に達した。
亀山の南麓には島唯一の小中学校などが集まる中心集落がある。
火はそのすぐ近くまで迫ったが、激しい煙でヘリコプターも近づけなかった。
津波の被害を免れた四つの貯水槽の水はすぐに底を突いた。
水道は断水。
コンクリートミキサー車2台で何度も海水を貯水槽に運び、
放水しても、広がる火の手に追いつかなかった。
幸いにも、火は防火帯まで達することなく、
3月17日午前11時3分に鎮火。
火災による家屋の焼損、人的被害はなかった。』
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110528_01.htm
このような凄まじい被害を受けた大島-------
1日目は、美しい海岸沿いにある民宿「小田の浜荘」の瓦礫&清掃作業。
海岸から多分、海抜20mはあろう高台にあった民宿が
津波で、大きく損壊し、取り壊し予定で、
ぐちゃぐちゃになってしまった宿の中身の
瓦礫やモノの撤去作業からスタート。
まず、海岸から多分100m位、
しかもこんな高台に位置する民宿が
壊滅的にやられてしまってるという事実に衝撃を受ける。
建物は奥に長く、海と対面してる母屋はもちろん、
裏手の部屋も完全壊滅したところをみると、
津波が完全に建物を突き抜け・貫いて行ったことが分かる。
一体、どれだけの高さ・強さの津波が来たのか・・・
そして、今、民宿「小田の浜荘」の震災前の写真を、
気仙沼大島観光協会ホームページから観てしまった・・・
もう涙でる・・・
本当に美しくて、ホッコリできるような
アットホームな民宿だったんやなぁと思うと、
あの壊滅的な状況を思い出すと、胸が本当に痛くなる。
ガラスの破片が散乱し、畳が水で浸かり、
布団や生活用品が散乱しているお部屋の
一つ一つを取り出し、撤去していく。
当たり前だけど、
「ここには生活があったんだなぁ」と思う品々が
たくさん出てくるけど、
そのひとつひとつを瓦礫として
撤去しなければならない事実に胸が痛くなった。
人海戦術とはよく言ったもので、
私達ボランティアは39名いたのですが、
皆が本当に積極的に働いたおかげもあって、
2時間程で殆どの瓦礫を撤去できたようでした。
数名では何週間も掛かりそうな作業を、2時間で終えられる。
一人が出来ることは小さいかもしれないけど、
「力を合わす」ことで、これだけのことができるんだということを、
可視化して体験することが出来て、感動的でした。
その晩・・・8月1日 22時44分 & 22時47分 余震に遭う。
体感震度としては、3強くらいかな・・・
やっぱ怖い・・・!!!
いつも「地震速報」でやってるけど、
ホンマに揺れてるんや!って
当たり前のことを実感する。
こんなことが日常茶飯事だとすると・・ 本当に想像できない。
2日目
私達6班は、海岸沿いにある田んぼ(だったところ)の
瓦礫撤去・清掃作業をした。
最初、海岸近くの広い土地に連れて行かれた、
という感じだったんだけど、
そこが一面「田んぼ」だったと聞いて、驚愕する。
だって、海岸の砂だらけで、田んぼの跡形はない。
「野原」という感じ。
でもよく見るとそこらじゅうに流木、看板、送電線、漁で使う網、
布団やお茶碗などが散乱していた。
後で聞いた話だが、布団や茶碗は
田んぼからやや高台にあった民宿から流出したもので、
その民宿も津波で流されて、今は無かった。
田んぼに溜まった海からの砂利と、民宿から流出した小物が、
まだ土の中に多く残っていて、
それをどうやって取り出したらいいのか。。と
田んぼの地主さんが困っておられた。
多分、津波で流れ着いた家が田んぼの真ん中にあったので、
その家の瓦礫撤去作業を中心に、作業をした。
そして帰り。
ボランティアの指揮をして下さった大島のボランティア隊の
「おバカ隊」さんたちが見送りにやってきて下さった。
涙ぐみながら、深々と
「本当にありがとうございました!!!」という姿に、
胸が熱くなりました。
総体的な感想として…
まず、天候に恵まれたことに感謝します。
暑くも寒くもなく、曇り空の中、
絶好のボランティア日和のなかでの作業という事もあり、
覚悟していたよりは、
そんなにキツイ行程・作業ではありませんでした。
そしてこの企画をされた
京都災害ボランティア支援センターの方々の、
緻密で配慮に溢れた行程・計画のおかげで、
非常に充実したものとなりました。
関係者の方々には本当に感謝します。
現地の方が仰った言葉が今も胸に響いています。
『もう4か月経ったと思われるでしょうけど、
私達は、3.11からそんなに時間が経ったとは思えない。
まだ「今・この状況」をどう生きるか、です。
10年後に「あの頃は・・・」と
振り返られる日が来るのかもしれない、でも
今は、まだ「今」なんです』
そして、どんな瓦礫が山積していようが、
そこに人があり、生活がある。
そこには私らと何も変わらない「暮らし」がありました。
たまたま、私は幸いなことに震災に遭わなかった・・・
でも、同じ日本という船に乗っている違う部屋の仲間は、
傷付いて助けを必要としている。
ボランティアを初めて経験して思ったのは、
困った人に寄り添うことは、
当たり前のことで、称えられることでも無い、
もっと気軽なことだと思った。
「出来ることを出来る人が、出来るだけやる」ということ。
出来ないことを憂うのではなく、
今・ここで、出来ることをすれば、
それが大きな力へと繋がるのだと思います。
一番大切なことは、
その「キモチ」を持つこと、持ち続けること。
機会があれば、ぜひもう一度参加したいと思います。
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◆気仙沼 大島でのボランティア 2011年7月31日、8月1.2.3日
東北震災ボランティア
7月31日から、京都災害ボランティア支援センター主催の、
ボランティア活動に参加してきました。
活動場所は、気仙沼市大島という島。
31日早朝から、13時間かけて、宮城県を目指します。
先ずはバスで、気仙沼港に向かいました。
最初の10時間まではのどかな田園地帯が続いてて、
ちょっとした旅行気分だったのですが、
気仙沼港に近づくやいなや、状況は一変・・・
津波の被害の爪痕が、今もむき出し状態だった。
倒壊した建物、傾いてる電柱、電柱や柱が山積み状態になっていたり、
傾いてる建物、電気屋さんだったであろう建物の中が
ぐちゃぐちゃになっていたり・・・
本当に震災から4か月も経ってるの?という印象です。
TVでの報道で、倒壊した家屋などの映像は何回も見てるけど、
実際に目の当たりにすると、津波のエネルギーの強さに圧倒される。
大島へのフェリー乗り場も、乗り場デッキが一部、津波の圧力で
へしゃげていたりして、痛々しかった。
そしてフェリーで20分くらいで大島に到着。
港が瓦礫の収集所になっていた。
そして大きなフェリー(船)2隻が、
海岸に完全に乗り上げていた。
地元の人に伺うと、津波第一波の引き潮で
船が大きく海に引き戻され、
第二波でフェリーが海岸に押し上げられたそうです。
映像で船が地上に押し出されているのも見たことはあると思うけど、
実際に見てみると、
こんなに大きな船が何で地上にあるのか、
意味がわからなくなる。
気仙沼・大島の紹介を少しさせて下さい。
『宮城県北東部の気仙沼湾内に位置し、
航路距離7.5kmの東北最大級の有人離島。
気仙沼港から船に乗れば、30分ほどで到着します。
東日本大震災で大島を襲った津波は、
20メートル近い高さとなって中央部で合流して島を分断、
さらに南部でも合流寸前まで迫った。
島のシンボルであり、多くの住民が避難した亀山は火災に見舞われた。
起伏に富む地形が幸いし、島民はすぐ近くにある山に避難した。
島民約3200人のうち死者は23人、
行方不明者は8人。津波の規模の割には助かった住民が多かった。
だが翌3月12日火災発生。
重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火。
気仙沼湾との境にある大島瀬戸にがれきが流れ着き、
岸辺の木々に燃え移った。
火は島北部の約120ヘクタールを焼いた後、
亀山(235メートル)の北麓を駆け上がり、山頂に達した。
亀山の南麓には島唯一の小中学校などが集まる中心集落がある。
火はそのすぐ近くまで迫ったが、激しい煙でヘリコプターも近づけなかった。
津波の被害を免れた四つの貯水槽の水はすぐに底を突いた。
水道は断水。
コンクリートミキサー車2台で何度も海水を貯水槽に運び、
放水しても、広がる火の手に追いつかなかった。
幸いにも、火は防火帯まで達することなく、
3月17日午前11時3分に鎮火。
火災による家屋の焼損、人的被害はなかった。』
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110528_01.htm
このような凄まじい被害を受けた大島-------
1日目は、美しい海岸沿いにある民宿「小田の浜荘」の瓦礫&清掃作業。
海岸から多分、海抜20mはあろう高台にあった民宿が
津波で、大きく損壊し、取り壊し予定で、
ぐちゃぐちゃになってしまった宿の中身の
瓦礫やモノの撤去作業からスタート。
まず、海岸から多分100m位、
しかもこんな高台に位置する民宿が
壊滅的にやられてしまってるという事実に衝撃を受ける。
建物は奥に長く、海と対面してる母屋はもちろん、
裏手の部屋も完全壊滅したところをみると、
津波が完全に建物を突き抜け・貫いて行ったことが分かる。
一体、どれだけの高さ・強さの津波が来たのか・・・
そして、今、民宿「小田の浜荘」の震災前の写真を、
気仙沼大島観光協会ホームページから観てしまった・・・
もう涙でる・・・
本当に美しくて、ホッコリできるような
アットホームな民宿だったんやなぁと思うと、
あの壊滅的な状況を思い出すと、胸が本当に痛くなる。
ガラスの破片が散乱し、畳が水で浸かり、
布団や生活用品が散乱しているお部屋の
一つ一つを取り出し、撤去していく。
当たり前だけど、
「ここには生活があったんだなぁ」と思う品々が
たくさん出てくるけど、
そのひとつひとつを瓦礫として
撤去しなければならない事実に胸が痛くなった。
人海戦術とはよく言ったもので、
私達ボランティアは39名いたのですが、
皆が本当に積極的に働いたおかげもあって、
2時間程で殆どの瓦礫を撤去できたようでした。
数名では何週間も掛かりそうな作業を、2時間で終えられる。
一人が出来ることは小さいかもしれないけど、
「力を合わす」ことで、これだけのことができるんだということを、
可視化して体験することが出来て、感動的でした。
その晩・・・8月1日 22時44分 & 22時47分 余震に遭う。
体感震度としては、3強くらいかな・・・
やっぱ怖い・・・!!!
いつも「地震速報」でやってるけど、
ホンマに揺れてるんや!って
当たり前のことを実感する。
こんなことが日常茶飯事だとすると・・ 本当に想像できない。
2日目
私達6班は、海岸沿いにある田んぼ(だったところ)の
瓦礫撤去・清掃作業をした。
最初、海岸近くの広い土地に連れて行かれた、
という感じだったんだけど、
そこが一面「田んぼ」だったと聞いて、驚愕する。
だって、海岸の砂だらけで、田んぼの跡形はない。
「野原」という感じ。
でもよく見るとそこらじゅうに流木、看板、送電線、漁で使う網、
布団やお茶碗などが散乱していた。
後で聞いた話だが、布団や茶碗は
田んぼからやや高台にあった民宿から流出したもので、
その民宿も津波で流されて、今は無かった。
田んぼに溜まった海からの砂利と、民宿から流出した小物が、
まだ土の中に多く残っていて、
それをどうやって取り出したらいいのか。。と
田んぼの地主さんが困っておられた。
多分、津波で流れ着いた家が田んぼの真ん中にあったので、
その家の瓦礫撤去作業を中心に、作業をした。
そして帰り。
ボランティアの指揮をして下さった大島のボランティア隊の
「おバカ隊」さんたちが見送りにやってきて下さった。
涙ぐみながら、深々と
「本当にありがとうございました!!!」という姿に、
胸が熱くなりました。
総体的な感想として…
まず、天候に恵まれたことに感謝します。
暑くも寒くもなく、曇り空の中、
絶好のボランティア日和のなかでの作業という事もあり、
覚悟していたよりは、
そんなにキツイ行程・作業ではありませんでした。
そしてこの企画をされた
京都災害ボランティア支援センターの方々の、
緻密で配慮に溢れた行程・計画のおかげで、
非常に充実したものとなりました。
関係者の方々には本当に感謝します。
現地の方が仰った言葉が今も胸に響いています。
『もう4か月経ったと思われるでしょうけど、
私達は、3.11からそんなに時間が経ったとは思えない。
まだ「今・この状況」をどう生きるか、です。
10年後に「あの頃は・・・」と
振り返られる日が来るのかもしれない、でも
今は、まだ「今」なんです』
そして、どんな瓦礫が山積していようが、
そこに人があり、生活がある。
そこには私らと何も変わらない「暮らし」がありました。
たまたま、私は幸いなことに震災に遭わなかった・・・
でも、同じ日本という船に乗っている違う部屋の仲間は、
傷付いて助けを必要としている。
ボランティアを初めて経験して思ったのは、
困った人に寄り添うことは、
当たり前のことで、称えられることでも無い、
もっと気軽なことだと思った。
「出来ることを出来る人が、出来るだけやる」ということ。
出来ないことを憂うのではなく、
今・ここで、出来ることをすれば、
それが大きな力へと繋がるのだと思います。
一番大切なことは、
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お陰様で今月の28日から解体作業が始まり、年内には一つの区切りがつけられ来年を新たな気持ちで迎えられます。本当にありがとうございました。
訪問ありがとうございます。
コメント嬉しいです。
ボランティアに行った会員さんにメッセージを伝えます。
被災地は大変だと思います。
ともに歩んでいきたいです。
ブログ投稿をした、田中と申します。
コメントをありがとうございました。
解体作業も始まり、進んでいく復興を
嬉しく思うと同時に、胸が痛くなる気持ちも
あります。
大島に行って、人は傷を負ってしまっても、
立ち上がる力と、底のない優しさがあるんだと
いうことを学びました。大島に行けて、
大島の人達と出会えて感謝です。
また、いつか大島に行きたいなぁって、
思っています。
でもあの美しい浜に、たくさんの人が訪れる
こと、そして小山様の幸せを心から祈って
います。どうかお元気で居て下さい、
そして、
私は大島や震災のことを忘れず、ずっと気にかけて生きていきたいと思っています。