山形県立博物館。山形市霞城町。
2024年9月8日(日)。
ヤマガタダイカイギュウ化石。
大江町の用地区の最上川河床に露出する砂岩から、昭和53年(1978年)、山形県立博物館が発掘した。頭骨を含むほぼ完全な海牛の骨格化石で、和名を「ヤマガタダイカイギュウ」と呼ぶ。
ヤマガタダイカイギュウ(学名:Dusisiren dewana )は、ジュゴン目ジュゴン科ステラーカイギュウ亜科古カイギュウ属に分類される哺乳類であり、テティス獣類の海生化石である。中新世後期の日本近海に生息していた。種小名は、出羽国に由来する。
アメリカのドムニング博士(ハワード大学)の鑑定から、約800万年前の化石で、ジュゴン科・ヒドロダマリス亜科のドシシーレン属に分類された。体長は3.8mと推定される。
形態上の大きな特徴は、体の割に歯と胸びれを構成する指骨が小さいことである。この系統の最後の末裔は、ベーリング海に18世紀まで生存していたステラーカイギュウで体長が10mにも達するが、歯と指骨は退化して消失している。
体の大型化や歯及び指骨の退化は、海牛のなかでもヒドロダマリス亜科に特有の進化形質であるが、ヤマガタダイカイギュウはこの系統の進化途上の中間的に重要な標本である。
他のダイカイギュウたちと同様に浅瀬の海藻類を食べていたものと考えられる。
新生代にテチス海から各地の海に放散したジュゴン目は、中新世以降の寒冷化により生息域を大幅に縮めたが、一部の種は大型化により寒冷の海への適応を果たしダイカイギュウとなった。しかし、温暖の海の柔らかい藻をむしり取るための歯は、寒冷の海のコンブなどの褐藻には文字通り歯が立たず、適応の過程で歯を失い代わりに藻を噛みちぎるための鋭い口吻を発達させた。また、積雪した陸上の移動に有用性の低い前肢が退化した。
ダイカイギュウの祖先と目されるヨルダンカイギュウが発見されていたが、小型で歯や前肢もそろったヨルダンカイギュウからステラーカイギュウに進化する過程のミッシングリンクが見つかっていなかった。歯は残存しているものの前肢の退化が進んだヤマガタダイカイギュウは、まさにこの間隙を埋める化石で、第四紀部分のミッシングリンクを埋め、ダイカイギュウからステラーカイギュウへの進化の過程を明らかにした。
国宝・縄文の女神(西ノ前遺跡出土土偶)。
縄文の女神は、高さ45cm、肩幅16.8cm、腹部厚8.4cmを測り、安定感のある淡い赤褐色をした立像土偶である。均整のとれた八頭身の美しい容貌から、縄文の女神と呼ばれるようになった。縄文時代の多くの土偶中、最大の高さを誇り、完成された様式美を備えた優品である。
西ノ前遺跡は、舟形町の小国川左岸の河岸段丘上に位置する縄文時代中期の集落跡である。本土偶の出土地点周辺からは縄文中期の大木8a式土器が出土しており、本土偶の製作年代も同時期と見られる。
1986年、尾花沢新庄道路(東北中央自動車道)の建設工事に伴い、山形県教育委員会が行った調査によって西ノ前遺跡が発見され、1992年から最上小国川左岸(西ノ前遺跡内)の発掘調査が行われ、直径約2.5m、地下1 mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足など5つに割れた土偶が次々と出土した。また、この発掘調査で縄文の女神以外にも47点の土偶残欠が出土し、国宝の附(つけたり)として指定されている。
本土偶は女性の身体を極限にまでデフォルメした造形に特色がある。
顔面は扇形に形成され、扁平でわずかに内彎する。顔面には4か所に小孔を穿つほか、目鼻等の表現はない。後頭部は大きく内彎する。左右の乳房はそれぞれ逆三角形を呈し、2条の沈線で縁取る。
胴部は正中に2条の沈線を垂直方向に施し、この沈線の下方には刺突によって臍を表す。
臀部は後方に大きく屈曲している。腰部には沈線で入り組んだ文様を表す。左右の脚はそれぞれ角錐状に形成され、最下部で結合している。
脚の前面と背面は太めの沈線で斜線状の文様を密に表すが、側面は無文である。両脚とも、足裏に穴を空けて内部の土を掻き出しており、その深さは3 cm強である。このように内部の土を掻き出すのは、焼成時に内部が生焼けになるのを防ぐための技術的工夫であると考えられている。
国宝の附として指定を受けた47点の残欠資料は、頭部から脚部までの大小さまざまな破片で、縄文時代中期の特徴をよく表している。
頭部は河童型の影響を受ける顔面表現のないものや逆三角形の輪郭に眼鼻口の表現のあるものまでさまざまである。胸部は逆三角形で下方に垂れ、尻は後ろに張り出した形状をしている。
大形の臀部もあり、大形の土偶がいくつも作られていたと思われる。板状のものもあり、上下に貫通し、中央部の前面に孔が開けられている。
重文・彩漆土器。複製。縄文時代前期後半。高畠町押出遺跡出土。
漆の遺存状態もよく、赤漆と黒漆の使いわけ等、きわめて良好な状態で、当時の漆工技術を観察することができる。復元された彩漆土器は、胴部が球形・扁平に張り出し、高台を持っている。口縁部直下には小孔列がある。
彩漆土器の技法は、まず酸化鉄を発色剤とした赤漆をすべての土器外面全体に塗り、その上に、炭あるいは煤を発色剤としたと思われる黒漆で幾何学的、繊細かつ流麗な細線文を描く。また、口唇部および底部の高台付近には、黒漆の太線を縦縞状に配している。
彩漆土器は本遺跡のほか、福井県鳥浜貝塚および山梨県天神遺跡でもほぼ同時期のものが出土しているが、いずれも断片的な出土であり、押出遺跡のように斉一性のある特異な形態の彩漆土器が、しかもまとまって出土している例はない。
本件は、その優美な器形、流麗な文様モチーフが美しいのみならず、縄文時代の漆工技術の水準を知る上で、きわめて重要な意味を持つものであり、その学術的価値は高い。