阿賀野川。白崎橋。新潟県阿賀町白崎・吉津。
2023年9月28日(木)。
9月27日17時ごろ史跡古津八幡山「弥生の丘展示館」の見学を終え、阿賀町の道の駅「阿賀の里」へ向かうと、途中から激しい雨が降ってきて、28日の朝まで降り続いた。8時ごろ阿賀野川下りの雰囲気を体感できると目を付けていた白崎橋へ向かった。三川地区まで行って折り返し白崎橋西詰の駐車場に駐車して、橋の中ほどから磐越西線の鉄道橋方面を眺めた。
五頭(ごず)温泉郷。村杉温泉薬師湯。新潟県阿賀野市村杉。
9時過ぎに着いた。入浴料300円。単純放射能温泉(ラジウム泉) (弱アルカリ性 低張性 低温泉)。
五頭温泉郷は、五頭山麓にある村杉温泉、今板温泉、出湯温泉の総称で、環境省の国民保養温泉地に指定されている。2018年から2019年にかけての県の「第8回新潟県観光地満足度調査」では総合満足度が県内温泉地の中でトップとなった。
1335年の開湯伝説がある「薬師の湯」のラジウムの含有量は日本一ともいわれ、特に婦人病に効果があることから、「子宝の湯」として知られる。
月岡温泉 共同浴場 美人の泉。新潟県新発田市月岡。
激しい雨のなか、10時頃に着いた。入浴料600円。含硫黄-ナトリウム-塩化物温泉。
新潟県を代表する温泉地で、にっぽんの温泉100選に例年ランクインする。硫黄成分濃度の高さで知られ、その含有量は万座温泉に次ぐ日本で2番目の含有量である。硫黄泉としては珍しい弱アルカリ性であり、肌に優しい硫黄泉として多くの女性から親しまれてきた。
硫黄泉への入浴は、皮膚に効果的に働きかけ、肌がつるつるになる事から「美人になれる温泉」と称されるようになる。入浴剤と間違われるほど美しいエメラルドグリーン色を呈している。
国名勝・清水園(しみずえん)。新発田市大栄町。
新発田市街地から離れた閑静な場所にある。北方文化博物館の分館である。1980年代に新潟市の北方文化博物館を見学したが、そういえば書いてあったなとうすうす思い出してきた。11時ごろ、松の木が点在する駐車場から下りた時には雨はほぼ止んでいた。
清水園は、池泉廻遊式大名庭園で、京風の庭の中心に草書体の「水」の字をえがく大池泉を配し、その周囲に茶室を配している。「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」の名称で、「(江戸幕府)公儀茶道方が度々下向して指導作庭されたことがわかる庭園として貴重であり、越後を代表する大名庭園である」と評価されて国の名勝に指定されている。
隣接して、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋、石黒家武家屋敷がある。
慶長3年(1598)、溝口秀勝が加賀大聖寺から入封し、新潟県阿賀野川以北の地(揚北)に新発田城を築き、蒲原平野の経営に努めた。新発田は江戸時代を通じて溝口氏10万石の城下町で、小藩ながら比較的豊かであった。
新発田藩3代藩主溝口宣直は万治元年(1658)に曹洞宗高徳寺を五十公野の上新保に移し、その跡地を藩の御用地として下屋敷清水谷御殿を建立した。その後4代重雄の時に幕府茶道方縣宗知(あがた そうち)を新発田に度々招き、作庭の指導を受け、元禄年間(1688-1704)に清水谷・五十公野・法華寺などの庭園が完成している。
1891年、大地主の伊藤文吉に買収されたのち、1946年から北方文化博物館の分館となり、「清水園」と名づけられた。廃藩置県以降次第に荒廃が進んでいたため、1937年復興計画が立てられ、戦争を経て1955年復興事業が完了した。指導者は田中泰阿彌(たいあみ)で、回遊路に添った露地や建物などはこの時の意匠である。
清水谷の庭園は、北寄り御殿上段から眺める大池泉を中心とした奥行きのある景を主としつつ、露地をわたりながら回遊する庭園として造られた。
庭園を囲むようにそびえる薩摩杉、庭内の青森ツガは、この地では珍しい樹木であり、当時の流通の様子を伝え、希少な樹によって格式をあげようとしたことがうかがえる。
南最奥部に築山を築き、水面は左右に湾入して水面に広がりを思わせる。中景部は水面を絞って左手は州浜に、右手は岩を組んだ険しい岬の景とし、州浜越しには小島を、岬越しに橋を設ける。御殿寄りには水面が大きく広がり、左に水面にせり出す亭、右手にやや大振りの中島を設けている。
江戸時代から、「水」の字型に池を掘ったと言われているように、中絞りの池型は前後の水面を大きく見せる効果を発揮し、公儀茶道方指南による往時の庭園地割を良好に保存している。
近江八景をとり入れた庭園は、巧みな遠近法を見せてくれる。南西部の岩島や南東の岩島(亀島)、北西部の中島など架かる石橋。南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。東部中央に突き出す洲浜は、荒磯の浜の意匠。西端に岬燈篭。
庭石を多くは使わない江戸初期の特徴をもつ庭園ながら、茶席松月亭前の舟着場の石組、腰掛待合前の舟着場の立石などの構図の妙は見事で、技術的には桂離宮、要素的には苔寺(西方寺)といわれる。
池の周囲には田中泰阿弥が設計した五つの茶室(桐庵、夕佳亭、翠濤庵、同仁斎、松月亭)が点在する。
受付から大門をくぐり書院に入る。女性職員が庭園や書院について説明してくれる。その後は、庭園を茶室・桐庵から反時計回りに歩いて、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋の順に見学していった。
書院(御殿)。上段の間(左)、床の間(右)。
寛文6(1666)年築。寄棟造杮葺平屋建80余坪。
京間座敷(幅2間・奥行4間半)を中心に、奥には2畳敷の上段の間と1間の床、庭に面した南側は縁側で開放され、庭とあいまって心憎いばかりの景観の調和を見せる。この座敷から鍵の手に北へ続く次の間(15畳)に、2間床を設けてあるのは江戸初期の慣例といわれる。床には春慶塗がほどこされ、床下に甕(かめ)を伏せたらしき跡があることから、この部屋は能舞台に用いられたと考えられている。
田中泰阿弥(たいあみ、1898年 - 1978年)は、新潟県柏崎市に生まれた作庭家、庭師である。全国各地の寺院や名園を手掛け、孤高の「庭匠」とよばれた。本名・田中泰治。笠原家に生まれ、農業の傍ら、造園技術を見習う。東京・京都で渡り植木職人として転々とし、小川治兵衛の「植治」に在籍した。1929年、京都慈照寺(銀閣寺)「洗月泉」滝の石組を発見、1938年から、鹿苑寺(金閣寺)出入りの庭師となる。1945年~1949年、東京植木株式会社に在籍。1951年、泰阿弥を名乗る。
清水園は、江戸時代に幕府茶道方の縣宗知の指南の下で築造された庭園であるが、昭和20年代に、荒廃した同園を田中泰阿弥が修復して現在の形になった。現在高い評価を得ている清水園の作庭は、その殆どが田中泰阿弥の復元・再生作業の結果であると言える。また、現在ある5つの茶室はすべて泰阿弥が修復時に建立したものである。
清水園修復には、1940年から関わるが戦争のため工事は延期、1953年に再開し、1956年に茶室工事、全体完成は1957年。新潟市江南区の伊藤邸(現・北方文化博物館本館)庭園は1954年~1958年に手掛けた。
夕佳亭(ゆうかてい)。この場所には、かつて、杉皮屋根の四阿(ちん)「浮御堂」が、池にのり出して建てられていた。同じ場所に2面を腰掛けとする1帖台目向切で、洞庫をそなえた茶席を設けた。壁を半円窓に開け放すなど、裏千家家元に現存する「今日庵」の写しである。
金閣寺の茶室は、夕佳亭(せっかてい)とよぶが、清水園では夕佳亭(ゆうかてい)とよんでいる。
州浜。
水鳥。
州浜、書院。
州浜の灯籠。
滝の源流部。最奥部。