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新潟県 弥彦神社 国上寺 良寛が住んだ五合庵・乙子神社

2024年02月25日 15時05分51秒 | 新潟県

弥彦神社。随神門。新潟県弥彦村弥彦。

昭和15年(1940)建立。門内の左右には紀伊国熊野から伊夜日子大神に随行し、大神の宮居を警護する長気(おさげ・向かって右側)・長邊(おさべ・向かって左側)の兄弟神を奉祀している。

2023年10月1日(日)。

道の駅「新潟ふるさと村」で起床。翌2日は佐渡へ日帰り旅行。1か月以上前にレンタカーを予約しておいた。本日は、新潟市西郊方面の見学である。まず、越後国一宮の弥彦神社へ向かった。80年代後半に訪れているので2度目の参拝である。前回は、弥彦山上から海のように浸水している越後平野の国見をしている。午前中、弥彦山周辺は雨が降っていた。上の駐車場に駐車して、参道へ向かった。参拝後は、弥彦山から西南に続く良寛ゆかりの国上山(くがみやま)へ向かった。

弥彦神社。随神門から参道。

弥彦神社。入母屋造向拝付の拝殿。

現在の本殿以下の諸殿舎は明治末の焼失後、近代神社建築の泰斗・伊東忠太の設計により、大正5年(1915)に再建された。

祭神の天香山命(あめのかごやまのみこと)は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。別称伊夜日子大神。

尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。

国上寺(こくじょうじ)。本堂。新潟県燕市国上。

国上寺は、国上山(くがみやま)の中腹にある真言宗豊山派の寺院である。国上山は、角田山や弥彦山から連なる弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置し、標高は312.8m。江戸時代後期に良寛が住んだことで知られる。山頂から約1キロ弱南の中腹に国上寺があり、その手前に良寛が居住地とした五合庵、乙子神社もある。県道405号国上公園線が中腹まで通じており、車で国上寺、五合庵、乙子神社を見ることができる。

駐車場のあるビジターサービスセンターから、国上寺までは、少し登るだけである。良寛ゆかりの五合庵は境内から下った離れた場所にあり、さらに山中の遊歩道を歩いて、千眼堂吊り橋、朝日山展望台を巡って一周し、駐車場へ帰った。車で下る途中に、乙子神社がある。

国上寺本堂の壁面には、上杉謙信、源義経、武蔵坊弁慶、良寛禅師、酒呑童子の5人の現代アート風イケメン仏画が描かれている。

国上寺は、和銅2年(709年)創建の県内最古の名刹で、境内には本堂のほか、客殿、六角堂、大師堂、一切経堂、鐘楼堂、宝物殿などの重厚な建物が建ち並ぶ。

弥彦神社から神託があり、修験道の僧侶泰澄が創建したものという。修験道の寺院であったが、その後、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派へと変わり、最終的には真言宗豊山派となっている。

平安時代末期、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州に逃れる途中、当寺に一時身を隠していたという伝説がある。戦国時代、上杉謙信が七堂伽藍として整備したが、後に兵火で焼失している。江戸時代中期になり萬元によって中興された。

「国上やま苔の岩みちふみならし幾度われはまいりけらしも」と良寛上人が詠んでいる。

雷井戸。

鏡井戸。酒呑童子(しゅてんどうじ)はこの寺のイケメン稚児であったという伝説。

五合庵。白木造藁葺、間口2間、奥行9尺、面積4.5坪。

五合庵の名は国上寺の客僧萬元が貫主良長の扶養を受け、1日5合の米を寺より支給されていたことによって名づけられた。

良寛が、文化元年47歳頃から文化13年までの最盛期を過ごしたことで有名になった。「焚くほどは 風がもてくる落葉かな」。良寛直筆の落葉の句碑が五合庵のそばに建てられている。

現在の堂宇は良寛在庵時のままではなく、大正3年の再建である。

良寛(1758―1831年)。禅僧、歌人、漢詩人。越後出雲崎町の名主兼神職の橘屋山本泰雄の長子として生まれた。母は佐渡相川山本庄兵衛の女。幼名栄蔵、のち文孝、剃髪して良寛、大愚(たいぐ)と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、隣町尼瀬町曹洞宗光照寺に出家して良寛と称した。1775年(安永4)備中国玉島(岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事する。中国、四国、九州を行脚し、京都から高野山に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。

越後へ帰国後は寺泊などを転々し、さらに国上山山腹の草庵五合庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳のとき国上山麓の乙子(おとご)神社境内に庵をつくって移ったが、老衰のため、三島(さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。そのころ若い尼貞心尼の来訪を受け、没するまで密接な交遊があった。5年目の天保2年正月6日没した。

良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。

彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。

彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。

良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。

良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡に良寛の詩と歌を刻んだ碑、島崎の木村家邸内に遷化跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館がある。

「千眼堂吊り橋」は、越後平野を一望できる朝日山展望台と五合庵を結ぶ長さ124mの赤い吊り橋で1991年に完成した。

越後平野を一望できる朝日山展望台からの風景。

国上山の南側には1922年(大正11年)に竣工した大河津(おおこうづ)分水路が日本海に注いでいる。

大河津分水路は、河口から約55km、新潟県のほぼ中央部で信濃川が日本海に最も近づく地点の大河津から寺泊海岸までの全長約10kmを繋いだ人工水路である。信濃川の洪水を日本海へ流し、日本有数の穀倉地帯である越後平野を水害から守っている。

越後平野はかつて、信濃川の度重なる洪水によって壊滅的な被害を受けてきた。往時の信濃川は一旦増水すると堤防が切れ多くの地域が水に浸かり、一度溜まった水は容易にはけなかった。そこで増水した信濃川の水の一部を越後平野に入る前に、日本海へ流す分水施設が大河津村(現在の燕市五千石)に造られた。そこでは、洪水を日本海へ流し、越後平野に安定した水を供給するために、洗堰・固定堰・可動堰の3つの堰が設けられている。

乙子(おとご)神社。

乙子神社は弥彦神社の末社にあたる。乙子神社の乙子とは「末子」という意味で、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と彌彦神社の祭神・天香山命(あめのかごやまのみこと)の第6子(末子)である建諸隅命(たけもろずみのみこと)を祀っている

文化13年(1816)良寛59歳の時、五合庵の老朽化と朝夕の山坂の登り降りが老身にこたえ、五合庵の下にある乙子神社社務所の草庵に移り住み、文政9年(1826)に木村家の庵室に移るまで、10年間居住した。この草庵における10年間がもっとも良寛の芸術が円熟した時期にあたり、多くの遺墨を残している。

この草庵は昭和62年に再建され今に至っている。

境内にある現存最古の良寛の詩歌碑。

境内には、安政5年(1858)良寛が亡くなって27年後、阿部定緝、小川霞山が中心となって建立された石碑があり、「生涯懶立身 謄々任天真」※ と、その境地に触れられる碑文が刻まれている。現存する良寛の詩歌碑としては最も古いものであるとされている。

「生涯身を立つるに懶(ものう)く、謄々(とうとう)として天真に任す」と読まれる。

 

このあと、北方向へ進み、岩室温泉へ向かった。

新潟市 旧新潟税関庁舎 旧第四銀行住吉町支店 万代そば「バスセンターのカレー」



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