名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」。名古屋市中区栄3丁目。
2024年5月1日(水)。
名古屋刀剣博物館は、栄タワーヒルズ本館の2・3階部分と隣接する「北館」の2階から4階部分から成り、常設展示室が2階、企画展示室が3階の本館・北館をつないだ平面になっており、北館の4階が特別展示室になっている。
日本刀約550振を収蔵する日本最大級の刀剣博物館であり、収蔵品には国宝1件、重要文化財10件、重要美術品46件、特別重要刀剣62件の日本刀が含まれている。
コレクションは、東建コーポレーション創業者で財団代表理事の左右田稔が40年以上にわたり収集してきた日本刀と甲冑を中心に構成され、その他、火縄銃、馬具、陣笠、弓矢、浮世絵等の美術品を収蔵する。
展示室には、国宝や重要文化財、重要美術品をはじめとした最大200振の日本刀と約50領の甲冑、浮世絵150点、火縄銃・古式西洋銃250挺が常設展示されている。
さらに、甲冑・陣羽織・弓矢などを展示する「甲冑展示ゾーン」、甲冑武者・騎馬武者の人形と写真が撮影できる「甲冑武者ゾーン」、インタラクティブ映像を導入した壁3面の「映像シアター」がある。日本刀を月替わりで展示する「和カフェ&レストラン〔有楽〕」では、甘味や軽食、ドリンクを提供。日本刀・歴史についての書籍も自由に読むことができる。
2階 - 常設展示室。「太刀 銘 豊後国行平作」などの日本刀を解説付きで展示。
3階 - 企画展示室。日本刀、浮世絵、戦国武将の書状を展示。
4階 - 特別展示室で「名古屋刀剣ワールド」の目玉部分。国宝「有楽来国光」、重要文化財の日本刀などが展示。
5階 - 資料室。
6階 - 畳敷きの学習室は120インチのスクリーン・プロジェクター・日本刀鑑賞用照明などを完備。日本刀の鑑賞会、イベント、講演に利用できる。茶室としても使える。
7階 - 7階は屋上を活用して、黒を基調とした和風の屋上庭園となっている。
重要文化財(旧国宝)太刀 銘 備州長船住景光 鎌倉時代
「太刀 銘 備州長船住景光」は、鎌倉時代末期に備前国(現在の岡山県東部)で活躍した刀工「長船景光」(おさふねかげみつ)が制作した太刀。
本太刀は、徳川宗家16代当主「徳川家達」(いえさと)が所有していた太刀です。徳川家達は、「徳川御三卿」のひとつ「田安徳川家」に生まれ、13代将軍「徳川家定」や14代将軍「徳川家茂」の血筋と近かったことから、将軍職の最有力候補として期待されていました。しかし、徳川家茂が20歳で没した当時、徳川家達はわずか4歳。幼い徳川家達に代わって15代将軍に任じられたのは「徳川慶喜」でした。徳川家達は、のちに明治政府から徳川宗家を継ぐように命じられ、徳川宗家16代当主になります。
本太刀は戦後、徳川家から離れる際、但し書きに「権現様より伝わる太刀」と記載されました。「権現様」とは、一般に「徳川家康」のことを指すため、本太刀は徳川家康の愛刀であったと推測されます。なお、本太刀には「鶴足革包研出葵紋散 御召鐺鞘 打刀拵」(つるあしかわつつみとぎだしあおいもんちらし おめしこじりさや うちがたなごしらえ)という拵が附属しており、この拵の鞘(さや)や頭(かしら:柄[つか]の先端部を保護する金具)には徳川家の家紋である「三つ葉葵」(みつばあおい)が入れられている点や、徳川家の名刀「武蔵正宗」の拵と、ほとんど同一の意匠である点などから、本太刀が徳川家伝来の刀であることは確かです。
制作者である景光は、古来、刀剣の産地として名高い備前国東部の吉井川流域に居住し、鎌倉時代に栄えた刀工一派「長船派」の名匠です。景光の祖父は、長船派の実質的祖である「光忠」(みつただ)。同じく父は、初代「長光」で、景光は「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)と称し、鎌倉時代末期に活躍しました。長船派のなかで「もっとも地鉄(じがね)が美しい」と評された刀工であり、刀の他に薙刀(なぎなた)などの作が多く現存しています。
景光の作の特徴は、小板目肌がよく詰んでいる点や、刃文(はもん)に景光が創始したと言われる「片落ち互の目」(かたおちぐのめ)が表れる点。本太刀は、鎬造り(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)、腰反りは浅く、身幅(みはば)、長さ共に景光らしい1振です。地鉄は、景光の特色である小板目肌が細かに沸、乱映りが見られます。刃文は、小互の目乱れで、足、葉入る匂出来の作風。鍛えの良さでは先代である父・長光を凌ぐと評された景光の特徴がよく表れた1振です。
刀 無銘 貞宗(尾張徳川家伝来)南北朝時代
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にわたって活躍した名工・貞宗、通称彦四郎は、正宗の直系であり、正宗の養子となって、佐兵衛尉に任じられました。
南北朝の典型的な体配(たいはい)で、鍛えは小板目(こいため)に地景(ちけい)入り、地沸(じにえ)厚く、刃文は湾れ(のたれ)に足(あし)繁く入り、金筋(きんすじ)・砂流し(すながし)しきりに入り、刃中明るく、匂(におい)深く小沸が良く付きます。
師である正宗の作風には、実戦的ななかにも華やかさや美しさが備わっていますが、貞宗の刀には、さらに堂々たる風情が姿に加わります。しかし、刃文は穏やかで、それ程華美というわけではありません。その内実には静かな働きを示し、奥ゆかしさすら感じさせます。
そのなかでも美しく冴える精巧な地鉄は、鍛え方に正宗をしのぐ仕上がりが見られ、その肌合いには、深淵の底を覗き見たときに感じられるような、ある種の迫力さえも漂わせています。また、沸については、うっすらと積もった雪のように、控えめな程に細かい粒子が、刃表に揃って付いています。
本刀は、尾張徳川家に伝来し、重要文化財に指定されています。
重要文化財 刀 無銘 伝国俊 鎌倉時代 中期
本刀は磨上げられているために無銘になっていますが、身幅(みはば)は広く、鋒/切先(きっさき)は猪首(いくび)ごころで豪壮な姿になっています。また、鍛えは小板目がよく詰み、地沸(じにえ)がこまかに付いた地鉄(じがね)には、映りが淡く立っています。刃文(はもん)は、焼幅が広く浅く湾れ(のたれ)て、丁子(ちょうじ)や小乱が交じり、小足・葉がしきりに入るだけでなく、小沸も付いています。
刃文から、「来国行」(らいくにゆき)、あるいは「国俊」の作品と鑑せられたものの、乱れ込んだ帽子により国俊の手による刀と考えられています。
国俊は、来国行の子で、鎌倉時代中期以降に山城国(やましろのくに:現在の京都府)で栄えた「来派」を代表する名工です。直刃(すぐは)を得意とする来一門の中にあって、華やかな丁子乱(ちょうじみだれ)を焼き、豪壮な刀姿を表現したのが特徴。銘には「国俊」とした二字のものと、「来国俊」(らいくにとし)の三字があり、作風に違いが見られるため、同人説と別人説の両方があります。
本刀は二字銘を切った「二字国俊」(にじくにとし)の極めと伝わっており、地刃の出来栄えや健全さにおいて、在銘の二字国俊と比しても特に優れ、右に出るものはほとんどありません。
重要文化財 太刀 銘 備州長船住成家 南北朝時代 中期
「成家」は、南北朝時代に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)で活動した刀工です。「伊達政宗」の愛刀「くろんぼ切」を鍛えた「初代 景秀」(かげひで)の孫と伝えられています。
「成家」を名乗る刀工は室町時代にわたり複数存在しますが、本太刀を手掛けた成家はその初代にあたる刀工です。
南北朝時代、「長船兼光」(おさふねかねみつ)系統以外の刀工を備前国では「小反り派」と呼び、成家は小反り派を代表する刀工のひとりでした。
本太刀は南北朝時代の長船物の中では少ない、逆がかった丁子乱れ(ちょうじみだれ)を焼いています。小板目肌が詰み、乱映りよく立つ鍛えに、刃文は丁子に互の目(ぐのめ)交じり、足・葉(よう)が頻り(しきり)に入り、総体に逆がかり匂口(においぐち)は締まりごころ。中反り(なかぞり)で身幅の広い、堂々たる刀姿が目を惹きます。
成家の作品では、最も出来栄えが優れているとされ、地刃共に健全です。
重要文化財 刀 無銘 吉岡一文字 鎌倉時代
本刀に銘はありませんが、作者は「吉岡一文字派」を代表する刀工「助光」(すけみつ)とされています。
「吉岡一文字」は、吉井川左岸の赤磐郡吉岡(現在の岡山県久米郡)で活動した刀工一派で、開祖は「助吉」(すけよし)。一族は刀工名の頭に「助」の字を用いており、助光は開祖である助吉の孫、または曽孫と伝えられる名工です。
助光の作風としては、匂出来(においでき:匂が刃文全体を 覆うような様)で焼き幅の広い丁子乱(ちょうじみだれ)や大丁子乱の刃文が印象的。地鉄(じがね)は細かい杢目肌(もくめはだ)に、地沸(じにえ)が付き、乱映り(みだれうつり)が立ちます。
本刀で一番に目を惹くのは、鋒/切先(きっさき)の伸びた堂々たる姿。刃文は大丁子乱に互の目乱(ぐのめみだれ)、逆心のある乱れが交じり、刃中の働きも豊かで、乱映りが現われています。
吉岡一文字派の中でも群を抜くという助光の面目躍如たる傑作刀です。
重要刀剣 刀 無銘 伝安綱 平安時代
本刀は、公家の名門「西園寺家」伝来の名刀です。
西園寺本家は、清華家(せいがけ:太政大臣にまで昇格できる公家の家格)のひとつ。「藤原北家閑院流」)に発する「藤原通季」(みちすえ)を祖とし、通季の曾孫・公経(きんつね)が、京都北山に西園寺を営んだことから、これを家名としました。また、西園寺家は琵琶の家としても有名です。
さらに、公経は源頼朝の姪一条全子(まさこ)を妻としていたため、鎌倉幕府と密接な関係を持っていました。
しかし、「後醍醐天皇」による「建武の新政」)によって、鎌倉幕府は倒され、幕府の後ろ盾を失った西園寺一族は、伊予国南西部の宇和郡一帯に逃れます。その後、西園寺家庶流の「西園寺公良」(きんよし)が勢力を持ち、8代にわたって同地を支配しました。
1584年(天正12年)、「長曾我部元親」の侵攻により、「西園寺公広」(きんひろ)は降伏。豊臣家の家臣「戸田勝隆」(かつたか)が宇和領主となり、行き場を失った公広は、1587年(天正15年)に勝隆によって殺害され、伊予西園寺家は滅亡しました。その後、本刀は「豊臣秀吉」に献上され、秀吉からもとの西園寺本家に戻されています。
「安綱」は、在銘日本刀の初期の実在者として、刀剣研究には忘れてはならない重要な存在であり、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)をはじめ、比較的多くの作品を残しているのです。
本刀は、大磨上無銘でありますが、その鍛えは板目に大板目が交じって肌立ち、刃文は小乱れに小丁子(ちょうじ)が交じり、刃縁はほつれ、総体に沸(にえ)は厚く付き、砂流し・金筋がかかり、湯走りが入るなど、古風で優雅さが感じられる地刃に、同工の特色がよく現れています。