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名古屋市 名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」①国宝「短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)」

2024年05月01日 18時18分56秒 | 愛知県

名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」。名古屋市中区栄3丁目。

2024年5月1日(水)。

名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」が本日10時に開館した。開館前に着きたいとは思っていたが、自宅を出るのが遅くなり、地下鉄矢場町駅から10分余り歩いて10時15分ごろに北館入口前に着いたときには50人ほどが並んでいた。

前日HPを見ていたので入館券自販機の列だと気付き、係員に障害者だと申告すると自販機横のカウンターに案内され、すぐ無料の入館券を渡されたので、横のエレベーターに乗り込み、2階の常設展示室で降りようしたが、考え直して4階の特別展示室から先に見ることにした。

特別展「三英傑の名刀 ~徳川家の刀剣~」が、2024年7月28日 (日)まで開催されている。開館を記念し、所蔵する500振以上の刀剣のなかから国宝・重要文化財など95振を一挙公開。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将や、「短刀 銘 備州長船住長義」や「短刀 銘 来国光(名物塩川来国光)」などと言った大名家に伝わってきた貴重な名刀の数々が展示されている。

博物館所有の国宝は「短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)」1点しかない。織田有楽に縁がある私にとっては、見ておかねばならない国宝である。予想どおり、まだ3人ほどしか特別展示室にはいなかったので、時間をとって撮影することができた。その後、時間がたつごとに、来場者が多くなっていった。

国宝 短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)。長さ27.7cm。山城伝(山城国/京都府)。

本短刀は、「織田信長」の末弟で、武将の「織田有楽斎(織田長益)」(うらくさい[ながます])が、「豊臣秀頼」から拝領した「名物 有楽来国光」と呼ばれる国宝の1振です。

長益/有楽斎は、信長と違って、病弱で大人しい性格。戦に出るよりも和解交渉など、参謀(さんぼう:幕僚として、作戦に参与し補佐すること)を得意としました。

信長亡きあとは、「豊臣秀吉」に仕え、御伽衆(おとぎしゅう:話し相手)に抜擢。同年、43歳で剃髪します。信長の弟として生まれ、楽な人生ではなかったからと、当初は「無楽斎」(むらくさい)と名乗ろうとしましたが、秀吉に「あなたの人生は無楽ではないよ、有楽にせよ」と言われて、「有楽斎」にしたと言われています。

参謀のひとつとして、幼少の頃から「茶道」を身に付け、さらに「千利休」(せんのりきゅう)に学んで極め、晩年は独自の流派、武家茶道「有楽流」(うらくりゅう)を興したことでも有名です。なお、諸説ありますが、東京の「有楽町」という地名は、有楽斎の屋敷があったことに由来しています。秀吉亡きあとも、得意の交渉能力を発揮し、「関ヶ原の戦い」では「徳川家康」に付き、「大坂冬の陣」では淀君の叔父として豊臣家に付くなど、激しい乱世を生き抜きました。

本短刀を制作したのは、「来国光」。鎌倉時代末期に、山城国(現在の京都市)で活躍した名工です。

刃文は互の目(ぐのめ)交じりの大丁子乱れで、とても華やか。地鉄(じがね)は流麗精細な小板目肌。身幅が広く、重ねも厚く覇気があり、豪壮な体配ながら、荘厳な高みに到達した凛とした品格を伴っています。差表(さしおもて)に素剣(そけん/すけん:不動明王の化身である剣の図)が彫られているのも特徴です。

1930年(昭和5年)には国宝に指定され、「享保名物帳」には、五千貫(現在の価格で約3.7億円)と記載された逸品。長益/有楽斎所持後は、刀剣鑑定の名家「本阿弥光甫」の取次で「前田利常」が求め、長く加賀百万石の前田家に伝来した、由緒正しい名刀です。

ネットの「刀剣ワールド」は歴史の記事が詳しいので重宝していた。その運営主体である名古屋刀剣博物館は、当初は2020年6月に開館する予定であり、その半年ほど前から告知されていたので、開館したら行くつもりにしていた。しかし、新型コロナの感染拡大に伴い延期され、さらに2023年に開館する予定も展示室が満足できなかったのか増設工事のため延期されていたので、いつ開館するのか分からなくなっていた。しかし、5月1日からの開館が、1週間ほど前から大量のテレビCMにより告知されたので、ようやくと思った。

名古屋刀剣博物館は、東建コーポレーションヘラルドシネプラザの跡地に建設したホテル型高級賃貸マンションの「栄タワーヒルズ」の敷地内に併設した博物館ということで、中学・高校時代にヘラルドシネマで映画を見た記憶がよみがえってきた。

博物館は栄タワーヒルズ本館の2・3階部分と隣接する「北館」の2階から4階部分から成り、常設展示室が2階、企画展示室が3階の本館・北館をつないだ平面になっており、北館の4階が特別展示室になっている。各室は階段により繋がっているが、増築された旅館のようで分かりにくい。

日本刀約550振を収蔵する日本最大級の刀剣博物館であり、2023年11月時点で、収蔵品には国宝1件、重要文化財10件、重要美術品46件、特別重要刀剣62件の日本刀が含まれている。

コレクションは、東建コーポレーション創業者で財団代表理事の左右田稔が40年以上にわたり収集してきた日本刀と甲冑を中心に構成され、その他、火縄銃、馬具、陣笠、弓矢、浮世絵等の美術品を収蔵する。展示室には、国宝や重要文化財、重要美術品をはじめとした最大200振の日本刀と約50領の甲冑、浮世絵150点、火縄銃・古式西洋銃250挺を常設展示する。

甲冑・陣羽織・弓矢などを展示する「甲冑展示ゾーン」、甲冑武者・騎馬武者の人形と写真が撮影できる「甲冑武者ゾーン」、インタラクティブ映像を導入した壁3面の「映像シアター」がある。日本刀を月替わりで展示する「和カフェ&レストラン〔有楽〕」では、甘味や軽食、ドリンクを提供。日本刀・歴史についての書籍も自由に読むことができる。

2階 - 常設展示室。「太刀 銘 豊後国行平作」などの日本刀を解説付きで展示。

3階 - 企画展示室。日本刀、浮世絵、戦国武将の書状を展示。

4階 - 特別展示室で「名古屋刀剣ワールド」の目玉部分。国宝「有楽来国光」、重要文化財の日本刀などを展示。

5階 - 資料室。

6階 - 畳敷きの学習室は120インチのスクリーン・プロジェクター・日本刀鑑賞用照明などを完備。日本刀の鑑賞会、イベント、講演に利用できる。茶室としても使える。

7階 - 7階は屋上を活用して、黒を基調とした和風の屋上庭園となっている。

刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之。

「刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之」を所持していたのは、天下人・「織田信長」の父であり、「尾張の虎」と称された武将「織田信秀」。室町時代末期、尾張国の下級武士だったにもかかわらず、着々と領地を拡大し、織田信長が天下を取る基盤を築きました。織田信秀没後、本刀は織田信長に引き継がれたと考えられます

本刀を作刀した長船景光(おさふねかげみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工です。祖父は長船派の祖である光忠(みつただ)、父は長光(ながみつ)。景光の作風は、父・長光よりも穏やかな刃文(はもん)ですが、品格があり長船派で地鉄(じがね)が一番美しいと称されています。焼き刃にも工夫し、片落互の目(かたおちぐのめ)の刃文を創始しました。また、刀身彫刻(とうしんちょうこく)の名手で、梵字(ぼんじ)などの宗教的な彫物を施した作品が見られます。

姿は、浅く腰反り、中鋒/中切先。地鉄は、小板目肌(こいためはだ)がよく詰んでいて、地沸(じにえ)が細かく付き、乱映り(みだれうつり)鮮明に立ちます。刃文は、直刃調(すぐはちょう)に小丁子(こちょうじ)、小互の目(ぐのめ)を交じえ、逆足(さかあし)、葉(よう)がよく入り、匂口(においぐち)は締り、帽子(ぼうし)は「三作帽子」(さんさくぼうし)。三作帽子は、横手から浅く湾れ込んで先が小丸に返る帽子で、鎌倉時代の中後期の長船派を代表する刀工「長船三作」(おさふねさんさく:長光、景光、真長の3人)に共通した特徴です。彫物は表裏に棒樋(ぼうひ)の搔流しがあります。

茎(なかご)は大磨上げ、栗尻(くりじり)、鑢目(やすりめ)は切り、目釘穴はひとつ。大磨上げにより無銘ですが、景光の特徴が随所に見られる名刀です。差表に刻まれている「織田弾正忠信秀摺上之」の切付銘は、織田信秀の時代ではなくあとに切られたものと見られます。

短刀 銘 来国光(名物塩川来国光)

「享保名物帳」に、「代金百枚 信長公の御時、江州塩川殿所持。後本多美濃守所持」とあり、本短刀は、織田信長が尾州名古屋を統治していた時代、塩川伯耆守国満(しおかわほうきのかみくにみつ)が所持していたことから「塩川来国光」と名付けられています。

のちに本多美濃守忠政(ほんだみののかみただまさ)が入手し、播州姫路藩・本多家に伝来しました。本多忠政は、本多忠勝(ほんだただかつ:徳川四天王のひとり)の長男です。家督を継いで桑名藩2代藩主となり、次いで播磨姫路藩初代藩主になりました。

来国光は、来国俊の嫡子と言うのが通説ですが諸説あり、来派の中で最も作刀していた期間が長いのが特徴。鎌倉時代末期から南北朝時代初期に、京都で活躍した名工です。

短刀 銘 備州長船住長義

「名物」と評される本短刀は、別名「大坂長義」とも呼ばれ、長義を代表する1振です。「大坂長義」の名前の由来については諸説ありますが、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の愛刀であった本短刀を、秀吉の家臣であり古くからの親しい間柄にもあった大名「前田利家」(まえだとしいえ)が、大坂城内にて拝領したからという説があります。

それ以来、本短刀は加賀(かが:現在の石川県南部)前田家の家宝として、同家に長く伝来しました。

長義は、日本刀中興の祖と称され、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した名工「正宗」の10人の高弟、いわゆる「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりに数えられています。

しかし、長義の現存作の中では、本短刀が作られた正平15年(1360年)、すなわち南北朝時代中期の刀が最も古いため、正宗との直接的な関係があったかどうかは、定かにはなっていません。

長義の作風は、覇気に満ちた豪壮な姿に、相州備前の名にふさわしい地刃の沸(にえ)の強さが最大の特徴。本短刀においても、鍛えは板目肌立ちごころに地沸(じにえ)が付き、刃文も大乱れで足・葉が入り、沸がよく付き、砂流し・金筋がかかるなど、長義らしい華やかさが溢れる1振です。



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