山形県立博物館。山形市霞城町。
2024年9月8日(日)。
石器。弥生時代。南陽市蒲生田遺跡。村山市向山遺跡。
土器。弥生時代前期。酒田市生石(おいし)2遺跡。
酒田市の生石2遺跡から出土した鉢27点、高坏4点、甕32点、壺10点、蓋5点の合計78点は県指定文化財に指定されている。これらの土器は、縄文時代晩期終末を経た弥生時代前期を経過する時期で、三つの系統が混在している。一つ目は東北北部の砂沢系土器で、鉢・高坏・甕の器種があり、東北地方の縄文文化の名残を色濃く残している。二つ目は西日本の影響を強く受けた遠賀川系土器で壺に見られる。そして上記二つの特徴が混じり合った折衷系土器で、甕に見られる。これら三つの系統は同一の時期に共存し縄文文化と弥生文化が巡り会い、とまどいながらも一つになろうとしたことがうかがえる。またこれら資料は、東北の弥生時代の開始期に、西日本の弥生文化が直接波及したと考えられる。北九州の遠賀川系土器が日本海側を北上して伝播するための基点となった形跡を示す第一級の資料である。
大之越(だいのこし)古墳出土品。
大之越古墳は、5世紀後半~末の築造と考えられる直径約15mの円墳で、山形盆地の南西部に位置する山形市門伝(もんでん)地区にあり、古墳の西方約500m先には、ピラミッドのような富神(とがみ)山がそそり立っている。富神山は石が豊富で、大之越古墳や東北地方最大級の埴輪をもつ円墳の菅沢2号古墳(大之越古墳より東南東へ約1200m)などに使用されている。
周溝をめぐらせた原墳丘の西半分は損壊し、上・下二つの組合せ箱形石棺が埋置されていた。
上の棺からは単凰式環頭太刀(たんほうしきかんとうのたち)、鹿角製装具の痕跡を残す長大な鉄剣や直刀・鉄鉗(かなはし)・鉄斧(てつふ)・鉄鏃、5世紀代の土師器の坩(かん)が出土した。
単凰式環頭太刀は全長約95cmで、刀部は約73 cm、茎部は約22 cmで柄頭の内環には銀象嵌を施し、金箔の痕跡が認められる。内環の鳳凰は首部が太く、嘴に金箔が残り、冠毛が外環にのびる。国内の単鳳環の中では最古の部に属する。大之越古墳の環頭大刀は、製作技法と装飾の特徴から、朝鮮半島南部の百済もしくは伽耶での製作と考えられる。
鉄剣は全長84cmで東北地方出土のものでは最も長大である。
下の石棺からは剣菱型杏葉(ぎょうよう)などの馬具が出土した。5世紀末の築造と考えられ、大和政権との関連を示している。
大之越古墳に葬られた人物とヤマト政権は、単なる文化の交流を越えた関係であり、ヤマト政権がかなり影響力をもって環頭大刀や刀剣などを賜与したという政治的な結合であったと推測される。
古墳時代において、日本海側の古墳の北限は山形県に当たり、だいたい庄内地方から山形盆地を結ぶラインとされている。これをヤマト政権の強い影響力が及ぶ北限と考えると、大之越古墳に葬られた人物は、東北地方への進出をもくろむヤマト政権と密接に結びつき、最前線に立って重要な役割を担っていた山形盆地の首長と考えらる。
この環頭大刀と並んで、全長約84 cmの鉄剣、全長約82 cmの鉄刀、鉄鏃(やじり)16本なども展示されている。
山形市嶋遺跡。
山形市街の西4km、馬見ヶ崎川の扇端部の低湿地に位置する古墳時代後期6世紀末から7世紀前半の集落跡である。
打込み式による住居跡1棟、東西2間×南北3間の高床式倉庫跡などが発掘されたが、周辺に数棟の建物跡が確認されている。倉庫からは鼠(ねずみ)返しや梯子も発見された。また、その辺りから、多数の炭化した籾も見つかった。
木製の農耕具である鍬(くわ)・鋤(すき)・杵・槌(つち)・大足等の他に、乗馬用の鞍橋の1部、弓や矢、竹製竪櫛(たてくし)等も発見されている。モモ・クリ・アサ・マクワウリ・ヒョウタン・スモモ・トチ・ヒメグルミ等の種子も出土した。古墳時代前期からの土師器が多量に発掘されているが、中には東海地方から搬入された6世紀代の須恵器も少量出土している。