ポピュリズムはどこへ向かう?
2024年10月7日 中日新聞
米国ではトランプ旋風が吹き続け、欧州では極右のポピュリスト政党が存在感を増し続けている。現代の政治は、ポピュリズム抜きでは考えられなくなっている。「選挙の秋」を迎えた今こそ、考えたい。ポピュリズムは、どこに向かうのか。私たちは、どう向き合うべきなのか。
ポピュリズム ポピュリズムをどう定義するかには諸説あるが、オックスフォード英語辞典は「自分たちの関心・懸念がエリート層に無視されていると考える一般市民に訴求しようと努める政治的なアプローチ」と説明している。「腐敗したエリート」ではなく「普通の人々」のための政治を行おうという反エリート主義は、ポピュリズムの特徴とされる。
「唯一の民意」に危うさ 政治学者・古賀光生さん
古賀光生こが・みつお 1978年、東京都出身。中央大法学部教授。専門は比較政治学。西欧の政党政治、特に極右政党やポピュリスト政党を研究。共著に『ポピュリズムという挑戦』(岩波書店)など。
ポピュリズムの定義は難しいですが、「民意こそが唯一にして絶対の正統性の源泉」ということが、そのエッセンスだと考えています。「民意こそ、すべて」であれば、それは民主主義ではないか-と指摘されるかもしれません。
「選挙に勝ちさえすれば、民意を得たのだから、すべてを決定できる」「投票で民意が示されたからには、異論は認めない」。ポピュリストはしばしば、そう口にします。
しかし、民意とは何でしょうか。一人一人の考えは千差万別であって、それを議論や妥協やらで練りに練って、こね上げてようやくできるものが民意であり、常に移り変わりうるものです。
ところが、ポピュリストは一枚岩のような民意があるものと考え、それを「唯一絶対のもの」とする。「民意というものは本来、多様なもの。だから議論し、共通点を見いだしましょう」という考え方とは対極的です。
そもそも民主主義は、個々人の尊厳を最も守りうる政体だからこそ、歴史の流れの中で生き残ってきたはずです。一人一人の個人の自己決定権が尊重され、それが脅かされず、自由な議論が大いに可能であるということは、民主主義の根幹です。
ですから、思想信条、言論の自由をはじめとした個人の自由や権利は、多数決の領域外に置かねばならない。多数決でそうした権利を侵せば、民主主義の前提自体が損なわれてしまうからです。
しかし、ハンガリーではポピュリストの政権が、「選挙で民意は得たから」と司法の違憲立法審査の権限を縮小しました。イスラエルでは失敗に終わったものの、ネタニヤフ首相がそれを試みています。民主主義の根幹を守るための工夫や仕組み自体を、多数決の論理で壊そうとする動きがあちこちで起きています。
日本は、そういう潮流とは無縁かというと、そうだと言い切れる自信はありません。
選挙に大勝した政権が、歴代の内閣が積み重ねた憲法解釈を内閣法制局長官を交代させてまで変更させたり、検事総長の人事に介入したり、内閣の国会召集義務を定めた憲法の規定を無視したり…。このところ、そういうことが続いてきました。ポピュリズムというより立憲主義の否定です。
投票は大事ですが、それだけが民主主義ではない。民主主義の胆(きも)は何かということを見定める必要があるのです。
(聞き手・星浩)
「政治手法」偏重に懸念 社会学者・松谷満さん
松谷満まつたに・みつる 1974年、福島県出身。中京大現代社会学部教授。専門は政治社会学。著書に『ポピュリズムの政治社会学』(東京大学出版会)。共著に『日本は「右傾化」したのか』など。
ポピュリズムが台頭する背景には、代表制民主主義の機能不全があります。では実際にどのような人々が、どのような理由でポピュリスト政党・政治家を支持しているのでしょうか。
欧米の調査研究では、学歴が低く、経済的に不安定な人々らがポピュリスト政党・政治家の支持基盤であるとの分析が示されています。
日本では、ポピュリストとされる政治家らを支持しているのは、「無知で感情的な大衆」「貧しく、現状に不安や不満を持つ人々」であると語られ、「ものが分かっていないから、あんなものを支持するのだ」と見下すような物言いも散見されてきました。
しかし、こうした見方は印象論です。この国のポピュリズムを考えるには、現実に誰がなぜ支持しているかを解明することが不可欠です。
そのために、「郵政選挙」で圧勝した小泉純一郎氏、大阪維新の会を立ち上げ大阪都実現を図った橋下徹氏、そして「庶民革命」を掲げた河村たかし名古屋市長らに注目して、有権者へのアンケートを重ね、分析してきました。
浮かび上がったのは、意外な支持者像です。正確に言えば、欧米と違って明確な「支持者像」を結ばなかったのです。学歴や収入などは、ポピュリストへの支持不支持にほとんど影響せず、特定の社会階層が支持している傾向も確認できませんでした。
支持する理由についても、欧米では排外主義的なナショナリズムが極右のポピュリストと結びつくとされていますが、そうした関係も認められず、ポピュリズム台頭の背景の一つとされる政治不信ですら、消去法的な投票理由に過ぎず、積極的な支持にはつながっていませんでした。
ただ、唯一認められた共通点は、誰がどのように政治を行うべきかということへの考え方です。つまり、「政治はエリートではなく“われわれの真の代表”が行うべきで、必要なのは議論ではなく素早い決定だ」と考える人々がポピュリストを支持している。政治的な右左ではなく、政治手法で選んでいるのです。
理念や政策ではなく政治手法によって支持不支持を決めるような投票行動が、何をもたらすのか。注視していく必要があります。
多様な価値観を基にした議論を軽視し、「民意」を背に異論を封殺するような政治手法が専制政治への橋渡しとなりかねないことは、歴史が繰り返し教えるところです。
(聞き手・星浩)
「コスパ」優先の貧しさ 財政学者・吉弘憲介さん
吉弘憲介 よしひろ・けんすけ 1980年、長野県生まれ。桃山学院大経済学部教授。著書に『検証 大阪維新の会-「財政ポピュリズム」の正体』、『国税・森林環境税-問題だらけの増税』(共著)など。
私が大阪へ10年前に赴任して実感したのは、維新の会の選挙における強さでした。結党まもない政党がなぜ急速に支持を伸ばしたのか。
維新の会は「身を切る改革」を掲げる一方で、近年は「教育費の無償化、所得制限の撤廃」を強調しています。一部の「既得権益層」への予算配分を解体し、できるだけ多くの人に頭割りで振り分ける改革といえます。
このような、それまで財政の恩恵を感じられなかった人々から広く支持を得る政策を私は自著の中で「財政ポピュリズム」と定義しました。これは維新の会の専売特許ではなく、かつて民主党政権が「事業仕分け」をやれば「埋蔵金」が出てくるから今の負担水準のままで大丈夫と言ったのにも似ています。
ただし「無駄を切り捨てれば余剰ができて、みんなに分配できます」という文脈には注意が必要です。例えば公務員の数を減らすと、むしろ自分たちの生活は苦しくなるかもしれない。公務員は安定的な職業で地域の購買力を支えていて、彼らの消費は地域経済を下支えしてくれます。
あるいはハンディのある人を支える分配をリセットして、大多数へ普遍的に配り直す方へ切り替える。例えれば足の遅い人は手前でスタートできるようにしていたのを、みんな同じ線から平等にスタートしましょうと変えると、足の遅い人たちにとってはゴールが遠のいてしまうことになりかねない。格差が広がる結果も懸念されます。
短期的には無駄のようでも中長期的なニーズを満たすためにその基盤を支えているケースもあります。技術や知識の継承、文化財の保護は一度やめてしまえば途絶えてしまう。後になってお金を出しても簡単には戻せません。
硬直化した既存の政治をシャッフルする力がポピュリズムには確かにあるのでしょう。財政に対して負担感だけが強まることも少なくないでしょう。しかし財政とは本来、個人の利益を乗り越え、社会全体で共有される価値を実現する行為です。政治が信用されなくなったから、共同の負担を個人に頭割りで配り直すというのであれば政府の責任放棄のようにも感じます。
個人にとって合理的で「コスパのいい」支出によって支持を集める財政ポピュリズムは、やがて私たち全体を貧しくするでしょう。遠回りに見えても、自己利益の追求を超えた先に、社会全体の豊かさが生み出されるのだと思います。
(聞き手・辻渕智之)