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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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福島県猪苗代町 猪苗代城跡 三浦一族・猪苗代氏累代の城

2024年07月05日 16時10分33秒 | 福島県

県史跡・猪苗代城跡。福島県猪苗代町古城跡。

2024年5月29日(水)。

猪苗代町の道の駅「猪苗代」で起床。磐梯町の慧日寺跡の資料館が9時からなので、道の駅近くにある猪苗代城跡を見学することにしていた。数年前に、南奥州での伊達政宗の事績をネットで見ていた時、猪苗代氏が出てきて調べたことがあって興味を持っていたこともある。亀ヶ城公園から登城できると思っていたので、公園駐車場の奥に駐車した。

雨後の会津の早朝はひどく寒かったので、上着を重ね着して歩き出した。グランドゴルフでもやるような服装で散歩する町民らしい老男女を10人ほど見かけた。登城口が見つからず、丘の西側を北端まで歩ききって、両側に丘を見上げる狭い谷のような歩道(堀切跡)を東へ登っていくと城への登り道があり、登り切ると本丸広場に出た。

本丸・二の郭・野口英世の首像などを見学し終えて、駐車場に戻り、公園から出て城跡の東側を100mほど北へ進むと、大手口多門櫓台石垣下の正式な登城口と駐車場があり、登城口を間違えていたことに気づいた。設置された案内板などを見て、慧日寺跡へ向かった。

猪苗代城大手口多門櫓台石垣。

猪苗代城は、磐梯山南麓猪苗代湖北岸の沖積地へ突出した赤埴火山体(古期-30万年前以降)の火山性泥流堆積物で構成されるの南北に長い馬ノ背状の細長い小丘陵を利用して築かれた平山城で、中世この地を支配した猪苗代氏代々の居城であった。

猪苗代氏は、奥州征伐の論功行賞によって源頼朝から会津四郡を与えられたとされる桓武平氏三浦一族の佐原義連の孫経連を初代とする。

北に鶴峰城跡(標高555m)、南に猪苗代城跡(標高551m)が尾根を東西に分断する掘切を境として、並立している。

築城年代については一般に建久2年(1191)といわれているが、城跡の構造や出土遺物、文書等の猪苗代氏に関する記事から、現時点では南北朝から室町期にかけて築城されたものと考えられている。

戊辰戦争によって城の建物等は焼失してしまったが、今ではお城山公園と呼ばれて町民の憩いの場になっている。頂上に米国アラメダ海軍航空隊基地協会より日米友好の証として寄贈された野口英世の胸像がある。

猪苗代城は、南北250m、東西200m、比高差30mの規模をもつ。現在は、本丸・二ノ郭・帯郭・石垣・土塁・空堀が残り、保存状態が比較的良好である。構造は、丘の最上部の平坦地が本丸で周囲は土塁で囲まれており、その南側の一段下がったところが二ノ郭、さらに南に下ったところに南帯郭、本丸北と西の一段下った箇所に北帯郭と西帯郭がある。

大手口は城の東麓部分で、ここには石垣を利用した巨大な枡形虎口が造られている。なお、この大手口の石垣は穴太積という技法が用いられていることから、蒲生氏によって造営されたと思われる。

隣接する鶴峰城跡は、文献から猪苗代氏代々の隠居城と伝えられているが、当初は亀ヶ城の分郭として機能していたものと考えられ、その後近世初頭に猪苗代城跡が大改修を受けたのに対して手が加えられなかったため、柵列や石積虎口など戦国末期の古い段階の遺構が残されている。

本丸広場。

東門跡。

猪苗代城本丸。

雁木。

二ノ廓。野口英世像。

二ノ郭櫓門東側石垣。

二ノ郭櫓門西側石垣。

二ノ郭櫓門跡。左奥は本丸への石段。

野口英世銅像。

二之郭の野口英世像裏側から本丸方向。

二之郭の野口英世像裏側から南帯郭および猪苗代湖方向。

本丸隅櫓台石垣。

南帯郭。

南帯郭から猪苗代湖方向。

南帯郭から西側へ下る。

西側下の庭園。

公園駐車場近くにある旧山内家住宅。

旧山内家住宅付近から見上げる猪苗代城跡。

猪苗代氏は、佐原盛連の長子で佐原光盛(蘆名氏の祖)の兄・猪苗代経連鎌倉時代中期に陸奥国耶麻郡猪苗代を本貫とし、猪苗代氏を称したのを始まりとする。会津盆地を治めていた本家の蘆名氏からは独立の傾向が強く、蘆名氏の重臣でありながら室町時代から戦国時代にかけて、たびたび合戦をしている。猪苗代経元の代で後継がなく、蘆名氏から養子として盛清を迎えている。

猪苗代盛清の子・猪苗代盛国は、天正13年(1585年)、嫡男・盛胤に家督を譲って隠居したが、後妻の息子・宗国を溺愛し、後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策。盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達氏に寝返って、その軍勢を招き入れ、摺上原(すりあげはら)の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。

摺上原の戦いとは、1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日)に、磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍会津の蘆名義広軍との合戦で、伊達政宗が勝利して南奥州の覇権を確立した戦いである。

旧暦6月1日、今まで態度を明確にしていなかった猪苗代盛国が遂に政宗に恭順した。この時、蘆名軍は佐竹や二階堂ら諸氏の軍が合流して2万近くに増大していた。ところが盛国が離反した事で政宗は直接、黒川城(のちの会津若松城)に迫る事が可能になった。しかも政宗は米沢城から別働隊を米沢街道沿いに南下させて黒川城に迫らせた。こうなると蘆名家は東と北の両方面から敵に迫られる事になる。蘆名軍はやむなく黒川城に撤退した。政宗は6月4日猪苗代に入った。一方、蘆名義広は4日の夕方須賀川から黒川城に戻った。

6月5日、蘆名勢は猪苗代湖の方に東進してきた。伊達勢は先手猪苗代盛国、二番片倉景綱、三番伊達成実、四番白石宗実、五番旗本、六番浜田景隆、左手大内定綱、右手片平親綱という陣立てでこれに対抗した。伊達勢の進撃をみた蘆名勢は、引き返して北方の山麓の摺上原に向かった。

敵勢に崩された先手と二番に代わって三番・四番の円居が真一文字に突進したが、義広の旗本に退けられた。こうして旗本同士の戦いとなったころ、風が西から東に変わって形勢は逆転した。退却した蘆名勢の多くは日橋川で溺死した。猪苗代盛国が橋を落としておいたからである。この合戦で討取った蘆名勢は馬上300騎、野伏をあわせて2千余にのぼった。10日の夜、義広は黒川城をすてて白河に逃走し、のちに実家の佐竹家にもどった。

伊達政宗は6月11日に黒川城に入城した。蘆名家累代の領地である哀津・大沼・河沼・耶摩の四郡などが政宗の支配下に入った。母と夫人も米沢から黒川城に移り、伊達政宗は黒川城(のちの会津若松城)を本拠とした。

伊達政宗が豊臣秀吉により領地替えとなると、猪苗代氏の領地も替えられて、約400年に及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。猪苗代氏は幕末まで仙台藩士として伊達家に仕えた。

近世初期の会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続く。猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布後も例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として置かれた。

寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には引き続き城代が置かれ、また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。

慶応4年の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。

戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままの状態だったが、明治38年に町内の有志が公園として整備した。野口英世は幼少時代に城跡でたびたび友人と遊んだという。

福島県郡山市 足利満直の篠川御所跡 篠川城跡 東舘稲荷神社


福島県郡山市 足利満直の篠川御所跡 篠川城跡 東舘稲荷神社

2024年07月04日 14時24分58秒 | 福島県

篠川城跡・篠川御所跡。東舘稲荷神社。福島県郡山市安積町笹川東舘。

2024年5月28日(火)。

東北最大規模の前方後方墳・大安場1号墳を見学後、南西に向かい、室町時代に鎌倉公方足利満兼から派遣された弟の足利満直の篠川御所跡(篠川城跡)を目指した。篠川御所跡はほとんど残っていないが、東舘稲荷神社がその痕跡だという。県道355線を南進し、神社が東側にある地点に来たが、進入路はないに等しく、駐車スペースもない。

県道355線は旧奥州街道らしく、県道の周囲は笹川宿であったようだ。笹川は、中世の応永年間には篠川とも書き、篠川御所が置かれていた。1604年(慶長9年)、奥州道中(奥州街道)が中世の篠川御所跡を南北に縦貫する道に整備された際に、集落も沿道に移され、1613年(慶長18年)に宿場と定められたという。

東北新幹線高架下に来て、左の高架下脇道に路肩駐車した。

徒歩で、東舘稲荷神社を探して歩き、入口の路地を何とか発見できた。

東舘稲荷神社の参道入口には篠川城跡の碑が立つ。

社殿のある丘まで登ったが、何もあるわけではない。周囲には土塁らしい高まりがあるが土塁かは確認できない。

篠川御所は、室町時代、関東統治のため設置された鎌倉府が奥羽両国を統治するため,陸奥国安積郡篠川に置いた足利一族の呼び名と居館である。1391年(明徳2)暮れから両国併管を認可された鎌倉府は,1399年(応永6)春,第3代関東公方足利満兼のとき,弟の足利満貞,足利満直を岩瀬郡稲村(福島県須賀川市)と篠川に配置し,両国を掌握しようとした。これを稲村御所,篠川御所という。

鎌倉府が南奥にかたより,近接した稲村,篠川の地に兄弟を配置したのは,大崎氏,最上氏ら奥羽の探題家や伊達氏,蘆名氏ら有力国人が反鎌倉府的気運を強めていたためといわれる。

稲村御所と篠川御所との間には支配命令関係や職務権限の相違などはみられず,両御所ともに知行安堵,充行(あておこない),軍勢催促,軍忠感状などの文書を発給しており,相互に協力しながら奥羽支配を展開しようとしたとみられる。しかし、両御所が影響力を持っていたのは南奥が中心であり,その権力基盤は仙道地域の国人一揆であった。

1416年の上杉禅秀の乱以後,両御所は分裂し,稲村御所は足利満兼の子で第4代鎌倉公方の足利持氏方に属し,室町幕府の支援を得た篠川御所と抗争するが,反持氏勢力を結集する篠川方に圧倒され,1424年(応永31)に鎌倉に帰府し,稲村御所は消滅した。鎌倉に帰還した足利満貞は,1439年永享の乱のさい鎌倉公方の足利持氏とともに自害した。この間が篠川公方の全盛期であり,一時は鎌倉公方の地位さえねらったという。

足利満直は1440年(永享12)6月下総結城合戦の最中に,結城方荷担の南奥諸氏に攻められて自殺し篠川公方も滅亡した。

篠川城は、安積町笹川字高瀬、字東舘、字篠川などに跨る東西300m、南北約2kmもの範囲に建てられた群郭式の城郭とみられる。築城の時期ははっきりしないが鎌倉時代に一帯を治めた北条氏一門の北条国時が築いたのが始まりと考えられる。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡時に北条国時の子陸奥六郎が籠城し、石川光隆ら国人に攻められて落城した。1352年(文和元年)、宇津峰へ向かう北朝方の軍と南朝方の合戦が起こり、北朝方が布陣した。1399年(応永6年)篠川公方足利満直がこの地を拠点とし、篠川御所と呼ばれたが、1440年(永享12年)、結城合戦が起こり結城氏方に攻められた足利満直が自害し、篠川公方は滅亡した1580年(天正8年)、阿武隈川対岸の御代田城をめぐって佐竹義重らの連合軍と田村清顕との間で御代田合戦が起こり、佐竹方の須賀川城主・二階堂照行家臣の須田頼隆が布陣した。1589年(天正17年)に伊達政宗に攻められ落城した。

1608年(慶長8年)、江戸幕府の命令により廃城になり、跡地には集落が作られて奥州街道が貫くようになった。

往路を戻ると、明治天皇笹川御小休所碑がある。その南に熊野神社があり、参道を中に入っていくと、篠川御所に関連する記述のある説明版があった。

その南のガソリンスタンドが安かったので、安いガソリンを補給した。会津周遊の途につき、郡山市西端の磐梯熱海温泉・ユラックス熱海温泉に入湯するころには雨が止んだ。猪苗代町の道の駅「猪苗代」で車中泊。

福島県郡山市 大安場(おおやすば)史跡公園ガイダンス施設 古墳時代の郡山


福島県郡山市 大安場(おおやすば)史跡公園ガイダンス施設 古墳時代の郡山

2024年07月03日 13時06分24秒 | 福島県

大安場(おおやすば)史跡公園ガイダンス施設。福島県郡山市田村町大善寺大安場。

2024年5月28日(火)。

郡山の歴史(2014年10月郡山市発行) (柳沼賢治)

東北の主な古墳とその立地 

古墳は、埋葬される豪族の生前の本拠地に築造された。よって古墳のある場所は、相応の政治勢力の拠点であり、交通の要衝でもある。

前期の東北で築造された最も大きい古墳は、宮城県名取市の雷神山(らいじんやま)古墳である(墳長一六八m)。次いで、福島県会津坂下町の亀ヶ森(かめがもり)古墳(墳長一二七m)、会津若松市の会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳(墳長一一四m)、いわき市玉山(たまやま)古墳墳長(一一三m)と続く。

これらの古墳は、東北南部の主な地域に分布しており、当時の連絡や情報の移動ルートと密接に関連している。亀ヶ森古墳は北陸への、会津大塚山古墳は中通りへの出入り口に当たる場所にあり、玉山古墳付近は、海上交通と関連して成長した政治勢力の本拠だった可能性が高い。このような視点で見ていくと、東北南部の多くの地域を結ぶ位置に立地しているのが雷神山古墳である。この古墳は、東北南部を縦断する阿武隈川と、奥羽山脈に源を発する名取川が太平洋に注ぐ付近に築造されている。阿武隈川の中・上流は福島県中通りのほとんどを占め、宮城県の白石川で分岐すると山形県の置賜(おきたま)へとつながる。また、名取川は、水源を越えると山形盆地に連絡する。一方で、太平洋に面しているのは、海上交通においても重要な場所だったからであろう。

名取に有数の政治勢力が形成され、東北最大の古墳が築造された背景には、東北の中で最も多くの情報が海や河川を介して集まる場所だったことが大きな要因と思われる。

正直(しょうじき)古墳群大安場古墳群の南西約2km、郡山市田村町正直にある古墳時代前期から中期に作られた古墳群。43基の古墳が確認され、中でも最大の35号墳は全長約37mの前方後方墳で、大安場古墳群との関係性が推測される。

一方、阿武隈川中・上流域に築造された初期の古墳は、須賀川市の仲ノ平(なかのだいら)三号墳(前方後方墳、墳長一七・五m)、大玉村の傾城壇(けいせいだん)古墳(前方後円墳、墳長四一m)、仲ノ平六号墳(前方後方墳、墳長二三・八m)、郡山市正直(しょうじき)三五号墳(前方後方墳、墳長三七m)大安場(おおやすば)古墳(前方後方墳、墳長約八三m)、須賀川市団子山(だんごやま)古墳(円墳か、直径約五〇m、墳形と規模は流動的)の順に築造されたと考えられる。これらの古墳はいずれも中通り中部に分布しており、北は宮城県角田市や柴田郡村田町まで、南は、栃木県那須まで古墳の空白地帯となっている。前期古墳のこのような分布には、どのような意味があるのだろうか。

各地で古墳が築造され始める前後には、特定の地域で使われていた土器が、地域を越えて大きく移動する現象が見られる。これは、弥生時代の地域の枠を超えた交流が急速に盛んになったからであり、東北南部には、北陸や東海(駿河)で作られた土器が持ち込まれたり、土器の特徴のみが伝わったりしている実例がある。その分布を見ると、北陸の土器は会津を介して中通りに至り、ここで一部南北に分かれるものの、いわきに向って移動しているのに対し、東海(駿河)の土器は、逆に太平洋側を北上し、いわきから阿武隈高地を経て会津まで達している。それぞれの地域の特徴をもった土器が、一方は東へ、もう一方が西へというように方向性をもって移動している事実から、前期の東北南部には、いわきと北陸を結ぶルートが存在し、東西方向に行き来する情報の流れが極めて頻繁だったことがわかる。

以上から、阿武隈川中流域に前期の古墳が集中して築造されたのは、この地域が太平洋と日本海を結ぶ内陸交流の結節点にあたることで、政治勢力の成長が促された結果であったと推定される。

中期の阿武隈川流域 一 中期古墳とその立地

中期になると、前方後方墳はなくなり円墳や前方後円墳など円形原理の古墳だけになる。このことは、地方の豪族達が本格的に大和朝廷の傘下に加わった結果と理解されている。

政権中枢の豪族の墓は、この時期に奈良盆地から大阪平野に場所を移し、古墳時代を通して大きさがピークに達する。地方では、それまで築造されていなかった地域に突如として大型古墳が出現したり、またその逆だったりというように、全国的に古墳の築造状況が変化する。これは、大王の権威が著しく強くなり、地方豪族との間に前期とは異なる関係を持つようになったことの現れとされている。

前期に大型古墳がみられた東北では、中期になると一時的に古墳の築造が低調になるが、後半(五世紀後半)には再び活発に転じる。

前方後円墳の北限が岩手県奥州市まで広がり、角塚(つのづか)古墳(前方後円墳、墳長四五m)が築造されたのもこの時期である。前期に大型古墳が数世代にわたって築造された会津盆地では、中期の古墳が極端に少なくなり、大型古墳がみられなかった白河や福島盆地で築造されるなど、地域勢力が浮き沈みするのは全国的な動向と一致している。また、前期のような墳長が一〇〇m前後の古墳はなく、数十mのものが多い。このような現象は、古墳の規模がピークに達する政権中枢と対象的で、大王の権力が強大になったという理解と符合する。

阿武隈川流域では、中小規模の前方後円墳が流域に沿って相次いで築造された(古墳築造の低調な時期もあった)。それらの古墳に立てられた円筒埴輪には、最も上段の突帯が口縁のすぐ下にあるという共通した特徴が認められる。本宮市の天王壇(てんのうだん)古墳(前方後円墳、墳長四一m)、安達郡大玉村の谷地古墳、伊達郡国見町八幡塚(はちまんづか)古墳(前方後円墳、墳長六六~六八m)、同じく国見町の堰下(せきした)古墳(円墳、直径二一m)、宮城県角田市の間野田(まのた)古墳(円墳、規模不明)、さらに郡山市田村町の大善寺でも採集されており、南北の広い範囲に分布している。遠隔地では、栃木市藤岡町の愛宕塚(あたごづか)古墳などにあり、同じ系統の工人達によって作られたものと考えられている。

中期古墳の分布と埴輪の共通性から、阿武隈川流域の豪族達は政治的に親しい関係をもつと同時に、北関東の豪族を通して埴輪文化を取り入れたものと思われる。

朝鮮半島系の文物

五世紀の倭の王は、国内の政治や軍事の権力を握ろうと、中国に使者を送り高い称号を得ようとしていた。また、人的交流や半島からの難民の移住などもあり、先進的な技術や文物が倭国にもたらされた。

古墳時代の人びとは、縄文時代以来の竪穴住居に住んだが、中期になると住居の一画にカマドが造りつけられた。中には、鉄を叩く台石と炉のある鍛冶工房も見られる。鉄の加工が集落で行われるようになったのである。大槻町清水内遺跡から出土した算盤玉(そろばんだま)形紡錘車田村町南山田一号墳(円墳、一四×一三・八m)から出土した硬質の小型把手付壺、把手が付き底に複数の孔を開けた蒸し器(多孔式の甑)など、朝鮮半島に由来する文物が急速に普及し、五世紀の列島と半島の交流の影響がこの地に及んだことがわかる。

中期になって加わったねずみ色の須恵器は、多くが朝鮮半島から渡来した工人が大阪に開いた官営工房といえる窯場で焼き、北は北海道までの広い範囲に運ばれた。阿武隈川中・上流域、特に南山田遺跡では栃木県宇都宮周辺や宮城県仙台平野と並んで、樽形𤭯(はそう)や二重𤭯(にじゅうはそう)(小型壺の周囲に透かしが覆う土器)、器台など、特別な時に用いる稀少な器種が目立つ。日常使用するもの以外の稀少な器種を手に入れることのできた集落には、須恵器の流通に関わった集団あるいは有力な豪族が住んでいた可能性が考えられる。

このように、古墳時代中期の阿武隈川流域では、古墳と朝鮮半島由来の文物の分布から、南北方向の交流が格段に高まったとみられる。

後期そして終末の古墳 一 新たな古墳の発見

平成二十二年、田村町にある守山城の発掘調査で直径が約二〇mの古墳(守山城三ノ丸一号墳)が発見された。円の三分の一程しか確認できなかったため正確な形はわからないが、六世紀の後半頃に築造されたこと、埋葬施設が横穴式石室であること、阿武隈川右(東)岸にも埴輪を立てた後期古墳があったこと、出土した埴輪は、北関東や阿武隈川上流域や、いわきの特徴をもっていることなどが明らかになった。

これまでに知られていた郡山盆地の後・終末期古墳には、六世紀後半築造の大槻町にある麦塚(ばくづか)古墳(前方後円墳、全長二六・八m)や七世紀前半に築造された安積町渕の上一号墳(円墳か、直径二〇m)などがある。

麦塚古墳は、埴輪を立てた郡山を代表する後期の有力古墳である。渕の上一号墳は、群馬県高崎市の綿貫観音山古墳やいわき市の金冠塚古墳などに類似する冑(かぶと)などが出土していることで有名である。

これまでは、麦塚古墳や渕の上一号墳の存在から、後期に阿武隈川の左(西)岸に政治勢力が集約され、それが奈良時代の政治拠点である郡衙(陸奥国安積郡の役所、清水台遺跡)に受け継がれていくと考えられた。しかし、守山城三ノ丸一号墳の発見で、古墳時代後期の郡山盆地には阿武隈川の両岸に二つの政治勢力があったことが明らかになった。

古墳時代の郡山盆地が、その後どのような経緯を経て一つの郡に集約されていったのかという、歴史の推移を理解する上で新たな課題が提起されたと言える。

群集墳と横穴墓

古墳には大型のものばかりではなく、小規模で群集するものもある。大型古墳の主を支えた階層の墓であるが、それら小規模な古墳の集まりを「群集墳」と呼んでいる。郡山盆地の大規模な群集墳として、阿武隈川の左(西)岸には大槻古墳群があり、右(東)岸には蒲倉(かばのくら)古墳群がある。大槻古墳群は、かつて一〇〇基ほどあったらしいが、現在ではほとんど残っていない。一基の発掘調査が行われていて七世紀中頃の土器が出土している。

蒲倉古墳群は、直径が約一〇m前後の七一基の円墳からなる(数次にわたる発掘調査によって数が増加している)。この古墳群は、横穴式石室の構造や副葬品(鉄鏃など)の年代が七世紀と考えられるものの、墓の周囲で行われた祭祀で使用した土器は奈良時代のものがほとんどである。これを、時代を超えて利用された古墳群と考えるかどうかは、さらなる検討が必要である。

出土品を観察すると、副葬品には戦闘に使用する鉄鏃が多い。また、同じ時期の集落に比べて須恵器の出土量が多いのも特徴である。その中には製品として流通しないような釉薬が垂れた粗悪品が含まれ、窯場の近くあるいは製作する工人が住んだ集落などで出土するものと似ている。

奈良時代の軍団(古代の軍事組織)に所属する兵士が須恵器の生産にも従事していたことは、窯から出土した瓦に軍団の職名が書いてある例から明らかで、田村町の東山田遺跡でも「火長(かちょう)(軍団の一〇人を統率する役職)」と書かれた文字瓦が出土している。

これらを総合すると、すべての古墳かどうかは別として、少なくとも須恵器の生産や軍事に関わりのある人物の墓が古墳群の中に含まれている可能性が考えられる。今後、石室の構造や副葬品の分析を通して性格を明らかにしなければならない古墳群である。

終末期には、小規模な横穴式石室墳のほかに、崖に横から穴を掘った横穴墓と呼ばれる墓も造られた。田村町小川の蝦夷穴横穴墓群は、これまでに二基の発掘調査が行われているが、一二号横穴墓からは柄頭(つかがしら)の形状が円筒状で先が丸い方頭大刀が一振、一三号横穴墓からも三振の大刀が出土している。一三号墓の一振には、装具の一部に銀象嵌されていた。これらの大刀は、中央政府から官人化した地方豪族に与えられた身分を表す品と考えられている。

三 古墳時代から律令時代へ

これまで見てきた後期から終末期の古墳は、現在のところ以下のような順序で築造されたと考えられる。大槻町麦塚古墳→守山城三ノ丸一号墳→安積町渕の上一号墳→蝦夷穴横穴墓群→大槻古墳群→蒲倉古墳群である。

古墳の内容が不明なものがあるものの、後期までに造られた大和政権との連合を示す記念物の前方後円墳はなくなり、古墳の主が影響力を持っていた領域は、七世紀後半以降の律令による中央集権的な行政区画である評(こおり)や郡(こおり)に受け継がれていく。

 

ねこ頭形土製品。縄文時代。町B遺跡出土。愛称「じょもにゃん」。

 

このあと、篠川城跡・篠川御所跡へ向かった。

福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 


福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳

2024年07月02日 11時41分26秒 | 福島県

国史跡・大安場(おおやすば)1号墳。福島県郡山市田村町大善寺大安場。

2024年5月28日(火)。

三春城跡を見学後、復元された前方後方墳・大安場1号墳のある郡山市の大安場史跡公園へ向かい、1号墳下のガイダンス施設横の駐車場に12時過ぎに着いた。ガイダンス施設から見上げる大安場1号墳は圧倒的な威容を誇っていた。朝から強い雨が降り続けていたが、舗装路のため古墳見学には問題はなかった。

大安場古墳群は、古墳時代前期後半頃の築造と推定される前方後方墳1基、円墳4基からなる古墳群で、4世紀後半の築造とされる大安場1号墳は全長約83mの東北地方最大の前方後方墳で、2~5号墳は、5世紀後半に造られた円墳である。周辺は大安場史跡公園として整備され、ガイダンス施設が併設されている。

大安場1号墳は,福島県内阿武隈川沿いの通称中通り地方にあり,阿武隈川東岸の平野に面した標高約250m,平野からの比高差約15mの低丘陵上に立地する。前方部を北に向ける前方後方墳で,全長は約83mと推定できる。

大安場1号墳は,阿武隈川流域の最大級の古墳であり,また前方後方墳としては東北地方全体で最大となる。同じ福島県内でも会津地方では前方後円墳が卓越しているのに対して,中通り地方の大安場古墳は前方後方墳であり,前方後方墳を盛んに築造した下野・那須地方との関係がうかがえる

主体部・副葬品の内容から見ても,東北地方を代表する前期古墳のひとつと言うことができ、東北地方への古墳文化波及に関して重要な意味をもち,東北南部の古墳時代の政治・社会を考える上で欠くことのできない古墳である。

墳丘は一部改変を受けているが,もともと存在した自然丘を削り出した工法によって、後方部3段,前方部前面2段になる。

2号墳付近から大安場1号墳。

大安場1号墳の前方部から登る。

大安場1号墳の前方部から後方部。

大安場1号墳後方部から前方部と2号墳。

後方部墳頂はかなり削平されていたが,表土直下で南北方向の主体部が確認された

長さ10m,幅2mの粘土棺床をもうけ,長さ9mの長大な木棺(割竹形木棺)を安置したものである。

棺内北寄りに朱粒が撒かれ,その南から緑色凝灰岩製腕輪形石製品1点が出土した。

腕輪形石製品は,東北地方における初めての確かな出土例で,宝器として被葬者に添えられていたと考えられる。

腕輪形石製品以外の副葬品は棺内南半部に置かれており,大刀1点,剣1点,槍1点,鎌1点,板状鉄斧1点などがある。大刀は鞘・把の木部が良好に残り,2cm程度の幅の布を巻いて樹脂で固めている様子が観察できる。

後方部の墳丘斜面から,二重口縁壺と棒状浮文壺の2種類の赤彩された底部穿孔壺形土器が50個ほど出土しており,本来墳頂に据え置かれていたと推定される。

ガイダンス施設の屋根の形は腕輪形石製品をモチーフにしている。

2号墳~ 5号墳。

5世紀後半に造られた円墳。近くの南山田遺跡・永作遺跡の集落指導層の豪族の墓と推定される。国史跡・2号墳の埋葬部は、割石を組み合わせた箱型石棺である。

 

福島県三春町 続日本100名城・三春城跡


福島県三春町 続日本100名城・三春城跡

2024年07月01日 17時08分15秒 | 福島県

続日本100名城・三春城跡。福島県三春町大町。

2024年5月28日(火)。

郡山市日和田町の歌枕・安積山を見学後、三春町の三春町歴史民俗資料館三春城跡へ向かった。資料館は三春町役場の裏山にあり、車道の状況が不明なので町役場の駐車場に駐車して登っていったが、車道と駐車場があることが分かった。三春町といえば、「三春の滝桜」が有名で、1980年代後半に開花時期を狙って鉄道とバスを利用して見学した。資料館では、三春人形、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が初めて仕えた松下之綱の孫の三春藩主松下長綱、登山家田部井淳子、河野広中などの展示があるが、写真撮影は禁止だった。雨の中、方角が分からなくなってしまったので、三春城跡への行き方とリーフレットを貰って三春城跡へ向かった。三春城跡は町役場から反対側の山にあり、駐車場には2分ほどで着いた。

貞享三年三春城修理絵図 1686年(三春町歴史民俗資料館蔵)

嘉永六年三春城下絵図 1853年 (三春町歴史民俗資料館蔵)

三春城は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、三春藩の藩庁となった江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、城跡近くには、町役場など公共機関が集まっている。

三春城は、永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕が築城して、守山城(現在の郡山市田村町)から本拠を移したとされるが、14世紀の遺物・遺構が発見されることから南北朝時代には城館が機能していたと推定される。戦国時代の田村地方を治めた田村氏は、それ以前に守山を拠点として田村荘を治めた「田村庄司」と区別するために、「三春田村氏」とも呼ばれている。この二つの系統の田村氏の関係は、よくわかっていない。

義顕は三春に移ると早い段階で隠居したため、その治世について詳しい事蹟は伝わっていないが、田村地方全体を統治する基礎を築いた重要な人物である。

義顕の隠居後は、義顕とその正室である岩城常隆の娘との嫡子である隆顕が家督した。隆顕は、芦名氏や伊達氏といった強大な大名との間で、巧妙な戦略により、田村地方の支配を確実なものにするとともに、安積・岩瀬郡など各地へ積極的に攻め込んだ。

隆顕が隠居すると、正室・伊達植宗の娘との嫡男・清顕が家督した。清顕は、南から新たに現れた佐竹氏を含めて乱立する戦国大名たちの間で、勇猛果敢に戦場を馳せることで、その版図を拡げた。清顕は、正室に相馬顕胤の娘を迎えたが、男子に恵まれなかったため、一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子・政宗に嫁がせた。そして、愛姫と政宗の間に男子が生まれれば、それに田村家を継承させるつもりであった。しかし、武力により領地拡大を図る田村氏は、佐竹を中心に安定した社会を築きつつある周囲の大名から疎まれ、孤立した状態の中で天正14年(1586年)清顕が急死した。

天正16年(1588)8月、伊達政宗が三春に入城した。これは、この年の閏5月に清顕夫人の甥である相馬義胤の三春城入城を拒絶し、その後、佐竹・芦名連合軍との郡山合戦に伊達家と共に勝利したことで、田村家中が伊達家に大きく傾いた結果である。

政宗の三春入城を前に、その片腕として活躍した片倉小十郎が三春に入った。そして、8月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ退出させ、替わって清顕の甥の孫七郎が三春城に入った。翌4日の晩には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣たちが、城下の屋敷を引き払って、梅雪斎の居城である小野城へ撤退した。

5日、政宗は宮森城(二本松市岩代町)から馬で三春に入った。途中まで小十郎が迎えに行き、田村月斎(田村義顕の弟で伊達派の長老)親子や橋本刑部ら田村家重臣たちが、城下の入り口で出迎えた。

そして、政宗が三春城に入ると、田村家の主要な家臣一同に謁見し、その後、東館に出かけた。この東館は、現在の田村大元神社裏の山と考えられ、そこには、小宰相と呼ばれた田村隆顕夫人で、伊達植宗の娘(政宗の大叔母)が暮らしていた。政宗と小宰相は、この時が初対面であったが、田村家中で唯一の近親者で気が合ったのか、政宗は42日間の滞在中に15回も東館を訪れている。

政宗は三春城滞在中に、田村孫七郎に自分の名の一字を与えて宗顕とし、宗顕を三春城主とする傀儡政権を打ち立てた。さらに、相馬派の家臣を一掃し、先の相馬勢との戦いで相馬方が籠った石沢城(田村市船引町)を破却し、三春城の要害の点検なども行っている。

こうした政宗による一連の田村仕置きの結果、田村地方は実質的に伊達領となり、この前後の外交交渉により、県中地域をほぼ勢力下とし、南奥羽制覇の基礎を固めた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、田村宗顕は改易された。伊達政宗は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで、戦争により獲得した会津をはじめとする占領地を失うが、改易された田村家の旧領を一旦は確保することに成功する。

 

奥羽仕置きの翌年、宮城県から岩手県を中心に起こった葛西氏や大崎氏の旧臣や、九戸氏らの反乱を鎮圧した豊臣政権は、再度仕置きを行って東北地方の大名領地を再編成した。その結果、旧田村領は会津に入った蒲生氏郷の領地となり、その領内でも最大級の領域である田村地方を治める三春城は、本城である若松城を支える重要な支城となった。

その後、氏郷が急死したため、嫡男の秀行が家督するが、宇津宮に移され、替わって越後から上杉景勝が会津に入った。この上杉氏の時代は、守山を支城としたため、三春は使われなかった。関ヶ原の戦いを経て徳川氏の時代になると、上杉氏は領地を削られ米沢に移り、徳川家康の婿にあたる蒲生秀行が会津に戻された。田村地方の城代となった蒲生郷成は、最初守山城に入るが、数年後三春へ戻った。終には1627年に蒲生家は会津を離れた

近年の発掘調査などで、三春城本丸周囲の大規模な石垣は、蒲生氏の時代に築かれたことがわかり、この時期の三春は廃れるどころか、活発に城下町の建設が進められていたことがわかってきた。蒲生氏は、伊勢松坂や会津若松をはじめ、たくさんの城下町を建設しており、町づくりを得意とする大名であり、三春も蒲生氏によって、戦国時代の城下町から江戸時代の城下町へとつくり直されたと考えられる。

寛永4年(1627)、蒲生氏郷の孫・忠郷が嫡子のいないまま死去したため、伊予松山に減封され、交代で加藤嘉明が会津藩主になった。

加藤嘉明は、豊臣秀吉に取り立てられた武将であるが、徳川家からの信頼も厚く、奥羽の要とされる会津を任せられた。この時、中通りの旧蒲生領が分割され、白河10万石には丹羽長秀、二本松5万石には加藤嘉明の娘婿の松下重綱、三春3万石には嘉明三男の加藤明利が入った。二本松と三春は、会津に従う与力大名の位置付けであるが、江戸にも屋敷を構える独立した大名となった。

しかし、三春藩主としての明利の治世は、1年余りで終わった。二本松藩主となった松下重綱が、入封間もない10月に死去し、嫡子の長綱が二本松城を預かるには幼稚とされたためで、松下長綱は翌年正月に加藤明利と交代で三春藩主になり、寛永21年(1644)に改易されるまで、三春を治めた。

松下重綱の父之綱は、静岡県の頭陀寺城主で、幼い豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名である。今川氏から徳川氏、後には大成した秀吉に仕え、久野城(静岡県袋井市)を与えられた。之綱の没後、嫡男の重綱が家督して、久野から常陸小張(茨城県つくばみらい市)、下野烏山(栃木県烏山市)の城主となり、加藤嘉明の娘を正室に迎えた縁で、二本松へと移った。

この時代の三春城は、山上の本丸に藩主が暮らし、中腹各所の平場に重臣たちの屋敷が立つ、山城の状態であった。しかし、大名の居城となったため、本丸には瓦葺の櫓をはじめ、大型の建物が建築され、城下には多くの家臣が暮らすための武家屋敷や、その生活を支えるための町人が暮らし、ほぼ現在のような町ができあがった。

松下氏の改易で城主がいなかった三春に、正保2年(1645)秋田俊季が5万5千石で移され、明治維新まで11代続いた

秋田氏は、鎌倉時代に津軽十三湊(青森県五所川原市)を拠点に、アイヌや中国と交易し、日の本将軍とも呼ばれた安東(安藤)氏の後裔である。室町時代になると本家は南部氏に追われて北海道へ逃れ、その後、一族の下国家が北海道から出羽檜山(能代市)に拠点を移した。そして、愛季が安東家を統一し、織田信長とも誼を通じて、侍従に任じられた。秋田と苗字を変えた愛季の子実季は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで出羽5万石と太閤蔵入地となった旧領の管理を一任された。関ヶ原の合戦では、徳川方として行動したが、家康には認められず、先祖代々暮らした北の大地から離され、常陸宍戸(茨城県笠間市)へ移された。嫡男の秋田俊季は、正保2年(1645)三春に5万5千石で移された。

幕末の戊辰戦争の際、官軍が隣藩の棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城を免れた。

三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。

大正11年(1922年)に山頂部分(本丸)は城山公園として整備され、道路が開削されるなどして地形は大きく変わった。二の丸付近には駐車場が整備されて愛姫生誕の地の碑が立つ。また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、この一帯が現在も三春町の中枢地域の役割を担っている。

田村時代三春城絵図 16世紀後葉 (三春町歴史民俗資料館蔵)

戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城であったと思われる。本来の城である本丸を中心とした「主城」の東南には「東館」と呼ばれる曲輪が、谷を挟んだ北西には「月斎館」と通称される曲輪があり、2つの曲輪は「主城」から一定の自立性を保っていた。しかし、後期蒲生氏時代に「主城」と「東館」部分に石垣が設けられた頃には「月斎館」は放棄されており、その後「東館」も放棄されている。

江戸時代初期の松下長綱による改修により、かつての「主城」の一部である本丸西の山麓部分に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地には重臣の屋敷が配置された。

秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていた。

本丸推定復元図。上が本丸上段部の御座間・台所・大広間。

愛姫生誕地の碑。

愛姫は田村清顕の娘で1579年(天正7年)伊達政宗に嫁いだ。二之門横の駐車場にある。

三之門(中之門)跡。

二之門からつづら折りの坂道を登り、本丸への最後の曲折部に設けられた門。二之門と同じように、門の両脇に高さ2.3mほどの石垣に土塀を載せた小型の門である。門内に番所はないが、戦時に兵を配備する武者溜まりとなっている。

本丸表門跡。

本丸南側の出入り口に建てられた二階建ての門で、本丸を囲む土塀に続いて、両脇に高さ1.8mの石垣が築かれていた。間口6間に奥行3間、高さが10.5mと大きな建物は、岩城街道から城下町に入った新町を見下ろす壮麗な建物であった。

大広間跡。

大広間は本丸御殿の中核となる建物で、家臣一同を集めて儀式等で藩主が謁見するため、全体で6間に16間の巨大な建物であった。御上之間、中之間、広間の3室からなり、特に広間は6間に5間の柱のない空間となり、この大空間を覆う屋根の高さは、三階櫓とほぼ同じ12.6mにもなる。

御座之間跡。

御座之間は、御殿での儀式に際して藩主の控え室となる建物である。表から奥へ4室が雁行する平面形で、全体で4間半に13間と、奥行のある建物である。東側に付く縁側は、大広間まで続き、領内の山々が遠望できた。

御座之間跡から台所跡。

本丸御殿での儀式で供する料理を整える台所で、6間に8間半、高さ10.9mの建物。西側の土間には竈が2基据えられ、板の間にも囲炉裏があり、一度の大勢の家臣たちの料理を準備した。

本丸上段から本丸下段。

本丸下段の三階櫓跡方向。

三階櫓跡から見下ろす城下町。

本丸西端の城下を見渡す位置に建てられた三階櫓は、三春城のシンボルであった。1階が4間に7間と長方形の建物で、2階と3階が3間の母屋を利用して望楼を載せた古いタイプの櫓だが、棟の向きが各階で交差するのが特徴的であった。高さは12.7mあり、中には藩主が代々の将軍から戴いた朱印状が納められていた。

 

このあと、復元された前方後方墳・大安場1号墳のある郡山市の大安場史跡公園へ向かった。

福島県二本松市 安達ヶ原の鬼婆伝説の地(黒塚・岩屋)郡山市 安積山