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福島県郡山市 大安場(おおやすば)史跡公園ガイダンス施設 古墳時代の郡山

2024年07月03日 13時06分24秒 | 福島県

大安場(おおやすば)史跡公園ガイダンス施設。福島県郡山市田村町大善寺大安場。

2024年5月28日(火)。

郡山の歴史(2014年10月郡山市発行) (柳沼賢治)

東北の主な古墳とその立地 

古墳は、埋葬される豪族の生前の本拠地に築造された。よって古墳のある場所は、相応の政治勢力の拠点であり、交通の要衝でもある。

前期の東北で築造された最も大きい古墳は、宮城県名取市の雷神山(らいじんやま)古墳である(墳長一六八m)。次いで、福島県会津坂下町の亀ヶ森(かめがもり)古墳(墳長一二七m)、会津若松市の会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳(墳長一一四m)、いわき市玉山(たまやま)古墳墳長(一一三m)と続く。

これらの古墳は、東北南部の主な地域に分布しており、当時の連絡や情報の移動ルートと密接に関連している。亀ヶ森古墳は北陸への、会津大塚山古墳は中通りへの出入り口に当たる場所にあり、玉山古墳付近は、海上交通と関連して成長した政治勢力の本拠だった可能性が高い。このような視点で見ていくと、東北南部の多くの地域を結ぶ位置に立地しているのが雷神山古墳である。この古墳は、東北南部を縦断する阿武隈川と、奥羽山脈に源を発する名取川が太平洋に注ぐ付近に築造されている。阿武隈川の中・上流は福島県中通りのほとんどを占め、宮城県の白石川で分岐すると山形県の置賜(おきたま)へとつながる。また、名取川は、水源を越えると山形盆地に連絡する。一方で、太平洋に面しているのは、海上交通においても重要な場所だったからであろう。

名取に有数の政治勢力が形成され、東北最大の古墳が築造された背景には、東北の中で最も多くの情報が海や河川を介して集まる場所だったことが大きな要因と思われる。

正直(しょうじき)古墳群大安場古墳群の南西約2km、郡山市田村町正直にある古墳時代前期から中期に作られた古墳群。43基の古墳が確認され、中でも最大の35号墳は全長約37mの前方後方墳で、大安場古墳群との関係性が推測される。

一方、阿武隈川中・上流域に築造された初期の古墳は、須賀川市の仲ノ平(なかのだいら)三号墳(前方後方墳、墳長一七・五m)、大玉村の傾城壇(けいせいだん)古墳(前方後円墳、墳長四一m)、仲ノ平六号墳(前方後方墳、墳長二三・八m)、郡山市正直(しょうじき)三五号墳(前方後方墳、墳長三七m)大安場(おおやすば)古墳(前方後方墳、墳長約八三m)、須賀川市団子山(だんごやま)古墳(円墳か、直径約五〇m、墳形と規模は流動的)の順に築造されたと考えられる。これらの古墳はいずれも中通り中部に分布しており、北は宮城県角田市や柴田郡村田町まで、南は、栃木県那須まで古墳の空白地帯となっている。前期古墳のこのような分布には、どのような意味があるのだろうか。

各地で古墳が築造され始める前後には、特定の地域で使われていた土器が、地域を越えて大きく移動する現象が見られる。これは、弥生時代の地域の枠を超えた交流が急速に盛んになったからであり、東北南部には、北陸や東海(駿河)で作られた土器が持ち込まれたり、土器の特徴のみが伝わったりしている実例がある。その分布を見ると、北陸の土器は会津を介して中通りに至り、ここで一部南北に分かれるものの、いわきに向って移動しているのに対し、東海(駿河)の土器は、逆に太平洋側を北上し、いわきから阿武隈高地を経て会津まで達している。それぞれの地域の特徴をもった土器が、一方は東へ、もう一方が西へというように方向性をもって移動している事実から、前期の東北南部には、いわきと北陸を結ぶルートが存在し、東西方向に行き来する情報の流れが極めて頻繁だったことがわかる。

以上から、阿武隈川中流域に前期の古墳が集中して築造されたのは、この地域が太平洋と日本海を結ぶ内陸交流の結節点にあたることで、政治勢力の成長が促された結果であったと推定される。

中期の阿武隈川流域 一 中期古墳とその立地

中期になると、前方後方墳はなくなり円墳や前方後円墳など円形原理の古墳だけになる。このことは、地方の豪族達が本格的に大和朝廷の傘下に加わった結果と理解されている。

政権中枢の豪族の墓は、この時期に奈良盆地から大阪平野に場所を移し、古墳時代を通して大きさがピークに達する。地方では、それまで築造されていなかった地域に突如として大型古墳が出現したり、またその逆だったりというように、全国的に古墳の築造状況が変化する。これは、大王の権威が著しく強くなり、地方豪族との間に前期とは異なる関係を持つようになったことの現れとされている。

前期に大型古墳がみられた東北では、中期になると一時的に古墳の築造が低調になるが、後半(五世紀後半)には再び活発に転じる。

前方後円墳の北限が岩手県奥州市まで広がり、角塚(つのづか)古墳(前方後円墳、墳長四五m)が築造されたのもこの時期である。前期に大型古墳が数世代にわたって築造された会津盆地では、中期の古墳が極端に少なくなり、大型古墳がみられなかった白河や福島盆地で築造されるなど、地域勢力が浮き沈みするのは全国的な動向と一致している。また、前期のような墳長が一〇〇m前後の古墳はなく、数十mのものが多い。このような現象は、古墳の規模がピークに達する政権中枢と対象的で、大王の権力が強大になったという理解と符合する。

阿武隈川流域では、中小規模の前方後円墳が流域に沿って相次いで築造された(古墳築造の低調な時期もあった)。それらの古墳に立てられた円筒埴輪には、最も上段の突帯が口縁のすぐ下にあるという共通した特徴が認められる。本宮市の天王壇(てんのうだん)古墳(前方後円墳、墳長四一m)、安達郡大玉村の谷地古墳、伊達郡国見町八幡塚(はちまんづか)古墳(前方後円墳、墳長六六~六八m)、同じく国見町の堰下(せきした)古墳(円墳、直径二一m)、宮城県角田市の間野田(まのた)古墳(円墳、規模不明)、さらに郡山市田村町の大善寺でも採集されており、南北の広い範囲に分布している。遠隔地では、栃木市藤岡町の愛宕塚(あたごづか)古墳などにあり、同じ系統の工人達によって作られたものと考えられている。

中期古墳の分布と埴輪の共通性から、阿武隈川流域の豪族達は政治的に親しい関係をもつと同時に、北関東の豪族を通して埴輪文化を取り入れたものと思われる。

朝鮮半島系の文物

五世紀の倭の王は、国内の政治や軍事の権力を握ろうと、中国に使者を送り高い称号を得ようとしていた。また、人的交流や半島からの難民の移住などもあり、先進的な技術や文物が倭国にもたらされた。

古墳時代の人びとは、縄文時代以来の竪穴住居に住んだが、中期になると住居の一画にカマドが造りつけられた。中には、鉄を叩く台石と炉のある鍛冶工房も見られる。鉄の加工が集落で行われるようになったのである。大槻町清水内遺跡から出土した算盤玉(そろばんだま)形紡錘車田村町南山田一号墳(円墳、一四×一三・八m)から出土した硬質の小型把手付壺、把手が付き底に複数の孔を開けた蒸し器(多孔式の甑)など、朝鮮半島に由来する文物が急速に普及し、五世紀の列島と半島の交流の影響がこの地に及んだことがわかる。

中期になって加わったねずみ色の須恵器は、多くが朝鮮半島から渡来した工人が大阪に開いた官営工房といえる窯場で焼き、北は北海道までの広い範囲に運ばれた。阿武隈川中・上流域、特に南山田遺跡では栃木県宇都宮周辺や宮城県仙台平野と並んで、樽形𤭯(はそう)や二重𤭯(にじゅうはそう)(小型壺の周囲に透かしが覆う土器)、器台など、特別な時に用いる稀少な器種が目立つ。日常使用するもの以外の稀少な器種を手に入れることのできた集落には、須恵器の流通に関わった集団あるいは有力な豪族が住んでいた可能性が考えられる。

このように、古墳時代中期の阿武隈川流域では、古墳と朝鮮半島由来の文物の分布から、南北方向の交流が格段に高まったとみられる。

後期そして終末の古墳 一 新たな古墳の発見

平成二十二年、田村町にある守山城の発掘調査で直径が約二〇mの古墳(守山城三ノ丸一号墳)が発見された。円の三分の一程しか確認できなかったため正確な形はわからないが、六世紀の後半頃に築造されたこと、埋葬施設が横穴式石室であること、阿武隈川右(東)岸にも埴輪を立てた後期古墳があったこと、出土した埴輪は、北関東や阿武隈川上流域や、いわきの特徴をもっていることなどが明らかになった。

これまでに知られていた郡山盆地の後・終末期古墳には、六世紀後半築造の大槻町にある麦塚(ばくづか)古墳(前方後円墳、全長二六・八m)や七世紀前半に築造された安積町渕の上一号墳(円墳か、直径二〇m)などがある。

麦塚古墳は、埴輪を立てた郡山を代表する後期の有力古墳である。渕の上一号墳は、群馬県高崎市の綿貫観音山古墳やいわき市の金冠塚古墳などに類似する冑(かぶと)などが出土していることで有名である。

これまでは、麦塚古墳や渕の上一号墳の存在から、後期に阿武隈川の左(西)岸に政治勢力が集約され、それが奈良時代の政治拠点である郡衙(陸奥国安積郡の役所、清水台遺跡)に受け継がれていくと考えられた。しかし、守山城三ノ丸一号墳の発見で、古墳時代後期の郡山盆地には阿武隈川の両岸に二つの政治勢力があったことが明らかになった。

古墳時代の郡山盆地が、その後どのような経緯を経て一つの郡に集約されていったのかという、歴史の推移を理解する上で新たな課題が提起されたと言える。

群集墳と横穴墓

古墳には大型のものばかりではなく、小規模で群集するものもある。大型古墳の主を支えた階層の墓であるが、それら小規模な古墳の集まりを「群集墳」と呼んでいる。郡山盆地の大規模な群集墳として、阿武隈川の左(西)岸には大槻古墳群があり、右(東)岸には蒲倉(かばのくら)古墳群がある。大槻古墳群は、かつて一〇〇基ほどあったらしいが、現在ではほとんど残っていない。一基の発掘調査が行われていて七世紀中頃の土器が出土している。

蒲倉古墳群は、直径が約一〇m前後の七一基の円墳からなる(数次にわたる発掘調査によって数が増加している)。この古墳群は、横穴式石室の構造や副葬品(鉄鏃など)の年代が七世紀と考えられるものの、墓の周囲で行われた祭祀で使用した土器は奈良時代のものがほとんどである。これを、時代を超えて利用された古墳群と考えるかどうかは、さらなる検討が必要である。

出土品を観察すると、副葬品には戦闘に使用する鉄鏃が多い。また、同じ時期の集落に比べて須恵器の出土量が多いのも特徴である。その中には製品として流通しないような釉薬が垂れた粗悪品が含まれ、窯場の近くあるいは製作する工人が住んだ集落などで出土するものと似ている。

奈良時代の軍団(古代の軍事組織)に所属する兵士が須恵器の生産にも従事していたことは、窯から出土した瓦に軍団の職名が書いてある例から明らかで、田村町の東山田遺跡でも「火長(かちょう)(軍団の一〇人を統率する役職)」と書かれた文字瓦が出土している。

これらを総合すると、すべての古墳かどうかは別として、少なくとも須恵器の生産や軍事に関わりのある人物の墓が古墳群の中に含まれている可能性が考えられる。今後、石室の構造や副葬品の分析を通して性格を明らかにしなければならない古墳群である。

終末期には、小規模な横穴式石室墳のほかに、崖に横から穴を掘った横穴墓と呼ばれる墓も造られた。田村町小川の蝦夷穴横穴墓群は、これまでに二基の発掘調査が行われているが、一二号横穴墓からは柄頭(つかがしら)の形状が円筒状で先が丸い方頭大刀が一振、一三号横穴墓からも三振の大刀が出土している。一三号墓の一振には、装具の一部に銀象嵌されていた。これらの大刀は、中央政府から官人化した地方豪族に与えられた身分を表す品と考えられている。

三 古墳時代から律令時代へ

これまで見てきた後期から終末期の古墳は、現在のところ以下のような順序で築造されたと考えられる。大槻町麦塚古墳→守山城三ノ丸一号墳→安積町渕の上一号墳→蝦夷穴横穴墓群→大槻古墳群→蒲倉古墳群である。

古墳の内容が不明なものがあるものの、後期までに造られた大和政権との連合を示す記念物の前方後円墳はなくなり、古墳の主が影響力を持っていた領域は、七世紀後半以降の律令による中央集権的な行政区画である評(こおり)や郡(こおり)に受け継がれていく。

 

ねこ頭形土製品。縄文時代。町B遺跡出土。愛称「じょもにゃん」。

 

このあと、篠川城跡・篠川御所跡へ向かった。

福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 



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