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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県酒田市 本間家旧本邸 別館「お店」

2024年11月04日 09時06分55秒 | 山形県

本間家旧本邸。長屋門。山形県酒田市二番町。

2024年9月10日(火)。

酒田市街地の酒田市総合センター内の一室にある酒田市文化資料館光丘文庫を見学後、近くにある本間家旧本邸を見学した。本間美術館は以前訪問したので今回は省略した。建物内部は撮影禁止である。

本間家旧本邸は、本間家三代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上した二千石格式の長屋門構えの武家屋敷である。桟瓦葺平屋書院造りで、武家造りと商家造りが区分されながら一体となっている珍しい建築様式である。

巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造りの方で昭和20年(1945)の春まで本間家代々の本邸として使用したが、武家造りの建物部分には特別な時にしか出入りしなかった。

のち、1949(昭和24)年から1976(昭和51)年までは中央公民館、1982(昭和57)年からは観光施設として公開している。

邸内の襖絵のなかでは「日本海海戦の図」という油絵の洋画が珍しい。季節の掛け軸のなかでは小野竹喬の風景画が秀逸であった。

屋敷東側の薬医門内側。日常、家族はこちらの門から出入りした。

臥龍(がりゅう)の松。

大火を免れた樹齢400年以上の赤松。赤松は内陸部に多いため酒田で赤松が生育するのは珍しい。

玄関の屋根に覆いかぶさるように生えており、本間家では「門かぶりの松」ともよんでいた。「奢り高ぶらず、常に低姿勢でいなさい」という本間家の精神を表している。

七社の宮。

土蔵の中に七つの神を屋敷神として合祀して代々拝礼を行なってきた。

諸国から北前船で運んできた銘石を配した庭。

北海道の神居古潭石・佐渡の赤玉石・伊予の青石、灯篭には岡山の万成石など全国の石が配されており、庭の一角の石だけでも家が1軒建つほど高価なものという。

北前船は、上方に米などを運んだ帰りは積み荷が軽くなり船が不安定になることから、交易した先の港でその土地の石を船体を安定させる綿積石(海神石)として積んで船を安定させていた。

別館「お店」。

道路を挟んだ別館「お店(たな)」では、実際に使われていた帳場や度量衡、行灯等の灯かり、台所用品や写真資料などを展示しながら土産品も販売している。

本間家は初代原光が「新潟屋」というお店を開業したことから始まった。別館「お店」は本間家が代々商いを営んだ場所で、現在は商人としての本間家を紹介しており、帳場や度量衡、行灯等の照明具、看板などが展示されている。

当時多かった火事に備えて本間家が用意した消火道具も展示されている。

「竜胆車(りんどうぐるま)」は、本間家の裏紋で、女性の紋として使用している。

 

このあと、鶴岡市の東田川文化記念館へ向かった。

山形県 酒田市文化資料館光丘文庫 八森遺跡 飛島遺跡 亀ヶ崎城 山居倉庫


山形県 酒田市文化資料館光丘文庫 八森遺跡 飛島遺跡 亀ヶ崎城 山居倉庫

2024年11月03日 09時02分58秒 | 山形県

酒田市文化資料館光丘文庫。山形県酒田市中央西町。

2024年9月10日(火)。

遊佐町の鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮を見学後、酒田市街地の酒田市総合センター内の一室にある酒田市文化資料館光丘文庫へ向かい、14時30分ごろ駐車場に着いた。同館は、市立資料館、光丘文庫、公文書等管理室、埋蔵文化財整理室という4施設の機能を統合して2024年5月に開館した。

酒田市には3回目の観光になる。80年代初めに本間美術館鶴岡市の近代建築など、90年代後半は鳥海山登頂に合わせて土門拳記念館を見学した。今回は、同館のほかに本間家旧本邸飛島を予定した。

山形県の縄文中期前半の文化動態 多賀城市埋蔵文化財調査センター 菅原哲文 2020/11/29

庄内平野と周辺地域の様相

当地域は日本海沿岸に面しており、海沿いのルートを通じて縄文時代前期から北陸地方や北東北の

影響を受けてきた地域である。遊佐町吹浦遺跡では、前期末大木 6 式期を主とする時期であるが、北

陸地方や北東北に見られる土器が出土している(渋谷・黒坂 1988)。この傾向は、中期初頭・前葉を

通じて認められる。

中期前葉の時期であるが、鶴岡市(旧羽黒町)郷の浜 J 遺跡は前期末大木 6 式期から大木 7a 式

の土器が出土している(川崎ほか 1981)。内容を見ると、北陸の新崎式が出土の多くを占めており、

大木 7a 式土器は客体的である。円筒系土器も量的に多くはないが出土している。

 鶴岡市西向遺跡は、中期前葉の時期に位置づけられる。北陸地方の新保・新崎式土器が出土の主体

を占め、全体の 74%と報告されている(須賀井 2004)。北陸系土器は 6 群に分類され、2 段階の変遷が想定されている。大木式土器については大木 7a 式、7b 式土器が出土しているが、北陸系土器の手法を用いて文様が描かれたものがある。北東北に由来する、円筒上層 a~c 式土器が少量ながら出土している。

 北陸系土器の出土が顕著な傾向は庄内地方の他遺跡にも認められる。

 酒田市飛島に位置する蕨山遺跡では中期前葉の北陸系土器、大木 7b 式土器、円筒上層 b 式を主体

とする土器が出土している(齊藤 1993)。

このあと、近くにある本間家旧本邸へ向かった。

山形県酒田市 国史跡・城輪柵跡(出羽国府推定地) 堂の前遺跡 遊佐町 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮


山形県酒田市 国史跡・城輪柵跡(出羽国府推定地) 堂の前遺跡 遊佐町 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮

2024年11月02日 09時00分21秒 | 山形県

国史跡・城輪柵跡(出羽国府推定地)。山形県酒田市城輪嘉平田。

2024年9月10日(火)。

松山城大手門を見学後、北西方向へ進んで、13時ごろ城輪柵跡に着いた。

城輪柵(きのわのさく)は、北東に秀峰鳥海山を背負う庄内平野北半部のほぼ中央東寄りの荒瀬川扇状地に位置する古代城柵で、奈良時代末期に造営された平安時代の出羽国国府と推定されている。

山形県の庄内平野を南北に二分して最上川が流れている。北側の平野部では、出羽丘陵から流出した日向川と荒瀬川が合流し、その合流点附近は、両川の旧氾濫原が形成する微高地が西に向かって張り出している。この微高地は山麓から西に3キロほど張り出しており、この微高地上に大規模な古代の遺跡が集中している。

まずその西端には史跡城輪柵跡が所在する。この遺跡は昭和6年に発見され、方約720mを柵木で囲む遺跡として著名であるが、最近の中心部の調査により整然たる礎石建物等の配置が判明し、平安時代の出羽国庁ではないかとする説も提出されるに至っている。

この城輪柵跡の真東約3kmの丘陵端上には、八森遺跡と呼ばれている官衙風の配置をもつ礎石建物等からなる平安時代の遺跡がみられる。この両者のほぼ中間、城輪柵跡からは東約1kmの位置に堂の前遺跡がある。

総面積52万㎡の城輪柵跡には、一辺約720mの築地塀で区切られた正方形の外郭が設けられ、各四隅には2×3間の小さな櫓状遺構を配していた。内郭の中央には一辺約115mの柱塀や築地塀(ついじべい)で囲まれた政庁が設けられ、政庁正殿や後殿、東西両脇殿等の主要殿舎群が「コ」の字形に配置された。内郭の東西南北各築地の中央には八脚門を構えていた。

外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9mの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっていた。

遺跡の中心部は自然堤防を核として整地され、周辺より1m程高い。

政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物後半2期では礎石建物へと変わる。また、4期では板塀から築地塀へと変化が見られる。

城輪柵の性格は、江戸時代後期の『出羽風土略記』以来、律令官人の居城、柵戸の遺跡、国分寺、出羽柵、国府などの諸説が論じられてきた。

1931年、発掘調査により、25cm角の角材が密接して並ぶ遺構が検出され一辺約720mの方形を成して、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。1964年の調査では、遺跡中心部の「オ(大)畑」とよばれる、周辺水田よりも1mほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、二つの異なる時代の遺構が検出された。1965年の発掘調査で、正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明した。

遺構のうち、政庁南門、東門および築地塀の一部が復元され、歴史公園となっている。

政庁東門。左奥に政庁南門。

政庁南門。

西方向。

政庁東門。

政庁南門。

政庁南門から政庁東門・鳥海山方向。

国史跡・堂の前遺跡。酒田市法連寺字堂の前。

水田の地帯の狭い車道脇に案内板のみがある。平安時代の出羽国分寺跡と推定されている。

堂の前遺跡は、酒田駅の北東約8kmの荒瀬川左岸、標高約15mの水田中にある。酒田市城輪柵跡の東1.5kmにあたる遺跡は東西240m、南北265mの溝により四辺が囲まれ、南辺中央に門が検出されている。その内部からは堀立柱建物・礎石建物・井戸・矢板列・溝・土壙等の遺構群が発見された。堀立柱は直径30~50cmの巨大な丸柱で、大形の建物が存在したことを証明するものである。中門の八脚門跡も出土している。遺跡中央部からは筏地形(いかだちぎょう)による建物の基壇が検出された。出土品は須恵器・土師器・赤焼土器・陶磁器等の他、呪術用の木簡等がある。また、革帯用の石帯、鉄滓(てつくず)やフイゴの羽口もある。

堂の前遺跡は、昭和30年、大量の建築材等が発見され著名となった。この材の内には柱材や長押、斗等のほか多数の土器等が含まれており、つづいて昭和48年以降の調査の結果、かつて発見されていた古建築材は、低地帯における建物基壇の基礎工事としての筏風地業であることが判明した。材木層の上に積土層とバラス層を配し、周辺を13m×13.5mの規模で掘立柱列がめぐっている。

この建物の北から西をめぐって南へながれる溝がみられる。基壇建物の西には、4間×2間の南北棟建物2棟がほぼ同位置に営まれている。建物は柱間寸法がそれぞれ15尺、柱径も1尺8寸と非常に大規模であり、柱根自体も3本が遺存している。同位置の別の建物は柱間が14尺程で柱根2列が遺存している。基壇建物の北にも同じく柱間寸法15尺の建物の西妻とみられる柱穴が3個あり、この地域に巨大な掘立柱の建物群があったことをうかがわせる。

これらの建物を囲むように北と東には溝及び埋込みの板の基部が認められ、これに平行する溝もみられる。建物間には溝の他各所に土壙が多く認められる。以上の遺溝のうち基壇建物とその周囲の溝などは平安時代末期以降に属するものとみられ、掘立柱建物は10世紀頃に属するものであることが出土品等より判明している。

酒田市文化資料館光丘文庫の展示より

鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮。二の鳥居・随身門。山形県遊佐町上蕨岡字松ヶ岡。

随神門。登録有形文化財。江戸時代後期(1751-1829年)

西面する3間1戸八脚門で、切妻造鉄板葺とする。両脇前寄り1間に床を張り、金剛柵をたてる。円柱で、柱上出組とし、中備に蟇股を入れる。軒は二軒繁垂木。妻は二重虹梁大瓶束とし、前方へ持ち出す。伝統的な手法で手固くまとめられた端正な八脚門である。

鳥海山大物忌神社(おおものいみじんじゃ)の御祭神は大物忌大神で、創祀は欽明天皇25年(564)と伝えられている。貞観四年(862)官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めて、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。

中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧が奉仕したが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同13年に山頂本社を国幣中社に改め、同14年に吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。

昭和30年に三社を総称して現社号となった。平成二十年には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定された。

本殿。登録有形文化財。明治27年(1896)建築、1953年移築。

木造平屋建、銅板葺、建築面積263㎡。桁行3間、梁間6間で、切妻造銅板葺とし、1間向拝を付ける。正面が実長で13.8mに及ぶ大型の社殿で、内部は外陣と内陣に分かれ、さらに内々陣を造る。絵様や装飾的要素は少ないが、木割が大きく、直線的意匠でまとめた、壮大な社殿である。

 

このあと、酒田市街地にある酒田市文化資料館光丘文庫へ向かった。

山形県酒田市 松山城大手門


山形県酒田市 松山城大手門

2024年10月25日 12時20分48秒 | 山形県

松山城大手門。山形県酒田市新屋敷。

2024年9月10日(火)。

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所を見学後、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

松山文化伝承館の見学を予定していたが、松山歴史公園の駐車場に着くと松山城址館が近くにあったので、城址についての展示があるのかと思って入ってみた。女性職員がいて、ここは生涯学習施設で、多目的ホールに能舞台を設置していると能舞台の会場を見せてくれた。城址についての展示は文化伝承館にあるので、ここにはないという。ただ、大手門などのリーフレットは置いてあるので入手した。必要十分な情報が記載されていたので、大手門見学後、有料施設の文化伝承館の玄関まで行ったが入館しなかった。

松山歴史公園は、1982年に開園、松山藩としての歴史を持つ松山地区の歴史と文化を継承し、創造する交流拠点で、山形県指定文化財「松山城大手門」をはじめ、茶室「翠松庵」や郷土文化保存伝承施設「松山文化伝承館」などがある。

松山藩は、酒井家庄内藩の支藩である。1600年関ヶ原の戦いの後、元和8年(1622)、最上氏の改易によりその領地は三分割され、庄内14万石の領主に徳川四天王のひとつ酒井家から酒井忠次(酒井家の祖)の孫酒井忠勝が信州松代より転封され、鶴岡を居城に庄内藩が誕生した。正保4年(1647年)忠勝は、当時九歳の三男忠恒に最上川を眼下にし北東の防備地として中山(後の松山)八千石と内陸の左沢地方一万二千石計二万石を分封し、松山藩が成立した。忠恒は寛文2年(1662)初めて中山の地へ入り、宗藩の鶴ケ岡城、酒田の亀ヶ崎城の鶴亀から縁起を担ぎ、中山の地名を松山と改名した。明治の廃藩置県に至るまで8代に渡る歴代藩主によって209年間藩政が布かれた。

石高は立藩時は2万石であったが、3代・忠休(ただよし)は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかし、忠休が幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。

明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。

松山城大手門。

松山城の大手門は、三の丸の櫓門(通称、多聞櫓)である。江戸時代の城門としては、県下唯一残る貴重な文化財である。櫓門、桁行正面5間、背面3間、梁間3間、入母屋造、総欅白壁造、桟瓦葺で、高さは12.75mである。

天明7年(1787年)に竣工した松山城時代の大手門は、寛政2年(1790年)10月、落雷のため焼失し、現存する城門は、寛政4年(1792年)7月に酒田の本間光丘と娘婿の重利の寄進により再建された。大手門再建の時は、重利が松山藩に入って財政の建て直しをしていた。

初代藩主忠恒が、松山藩政庁の中心地として「中山陣所」という屋敷を構えたのは、寛文2(1662)年のことで、当時、松山の地は、中山村と称され、わずか17戸のみの寒村であった。松山城下の整備は、その前年より始められ、藩主屋敷を中心に家臣の住居がまとめられ、その四周には土居をめぐらせて郭内をその周辺地区と区別し、鍵型に交差する郭内の道路は、軍事上の厳しい配慮を示していた。こうして誕生した松山城下町であったが、何分にも支藩であったため、当時はまだ城を構えることは幕府から認められていなかった。築城が許されるのは三代藩主忠休の時代になってからのことである。

忠休は、寛延2(1749)年から26年間幕府要職である奏者番・寺社奉公・若年寄を勤めた功により、安永8(1779)年、上州桐生(現在:群馬県桐生市)に五千石の加増と松山城の築城が認められ大手門には「鯱」を上げることが許された。楼上に輝く一対の鯱鉾は、三河以来の武門の誉れとして、とくに幕府より許された由緒あるものであった。

築城の設計は宗藩宮田流の軍師長坂十太夫正逸の手になり、天明元(1781)年に着工し、本丸・二の丸の総面積38,708坪と広大な計画で、山を崩し谷を埋め、堀を作り民家を移しての大工事で、新城郭は全体が完成しなかったが、旧郭内とはその区域を異にし、古い土塁は廃毀された。よって、旧郭の土塁に設置された大手門は廃され、新たに新城郭に大手門を設置することとなった。

当初大手門は「三の丸の櫓門(矢倉門)」として天明2年に完成、二の丸も九分どおり完成したが、本丸は藩の財政難や藩主忠休の逝去・連年の凶作・藩財政の困窮・農村の困苦などで着工せず、未完成で天明7年に築城を未完成なまま終えた。

大手門には戊辰戦争までは門扉があり、殿様が城にいる時には門を開き、参勤交代で不在の時は門を閉めていた。家臣達は脇の小さな通用門を使っていた。平城で天守閣はない。敵が攻めて来た時に大手門が簡単に落ちないように階段はなく、縄梯子で昇降した。大手門の上には、武器や兵糧や食物を保管していた。昔は鶴岡が見えたという。

戊辰戦争後、「城郭破却の命令」が出され、明治元年9月に開城し、城地没収、城取り壊しとなった。明治2年11月、新政府の三陸磐城両羽按察次官坊城俊章(としあや)少将が城郭破却の状況検分に来て、「この大手門一つ残したところで今更謀反でもあるまい。取り壊すには及ばぬ」として取り壊しを免れた。その時接待したのが藩主忠匡のお守り役の絵師、田中静居であった。田中静居は坊城俊章少将と京都遊学時代に親交があり、静居のもてなしに感銘し、取り壊されなかったという。公家出身の坊城俊章は、三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て明治3年から4年まで初代の山形県知事となった。その後、近衛歩兵大隊長、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍し、伯爵貴族院議員となった。

大手門は、明治36年に大改修され、寺子屋のようして教室として使われた。大正時代は藩校の流れを汲んだ松山正心学校があり、尋常小学校を卒業した子供達が夜間勉強をした。

 

このあと、北西にある平安時代の国府跡である国史跡・城輪柵跡へ向かった。

山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡


山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡

2024年10月24日 11時10分28秒 | 山形県

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所。山形県庄内町清川字花崎。清川歴史公園。

2024年9月10日(火)。

戸沢村古口で最上川舟下りを体験し終えて、庄内平野の入口にある清川関所に着いた。「芭蕉上陸の地」の標示と芭蕉像がある。背後はエノキの古木と船見番所である。

松尾芭蕉は、弟子の河合曾良をともなって1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月17日)、江戸深川の芭蕉庵を発ち、9月6日岐阜県大垣に到着までの142日間にわたって旅をした。 5月15日、陸奥国尿前の関(しとまえのせき)から出羽国堺田に入り、尾花沢の鈴木清風を訪ね歓待を受けそこで、10日間滞在した。 5月27日、山寺に詣で、大石田、新庄を経て、6月3日本合海(もとあいかい)で舟に乗り、最上川を下り、清川で下船した。その後狩川(現庄内町)、手向(とうげ、現鶴岡市)、羽黒山・月山・湯殿山へと足を運んだ。

清川最上川舟運の水駅として発展した宿場町で、出羽三山詣での登拝口でもあることから、人の往来が盛んで今でも歴史的な価値のある旧跡・文化・遺品が多く残っている。江戸時代の清川には1日700人〜1,000人、年間3万人の出入りがあったという。

古くは、1187年に源義経の一行が奥州平泉へ向かったという伝承地、1689(元禄2)「おくのほそ道」での松尾芭蕉上陸の地、戊辰戦争東北初戦の地、明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所でもある。

川口番所(右)と船見番所(左)。

清川関所は庄内藩が置いた関所の5ヶ所の1ヶ所で、関所内には参勤交代の本陣(御茶屋)と番所があり、庄内藩主の江戸参府・帰城の際の宿泊所として、承応元年(1652)に建てられた。文化5年(1808)の大火で類焼し、その後再建はされず、翌年、清川組大庄屋役宅に居間などが増築された。

現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っている。

平成31年(2019)、川口番所や船見番所が復原され、清川歴史公園として公開されている。地区全体を「歴史の里」としてまちづくりを進めており、復元した番所は「歴史の里清川」を体感できるまち歩きの拠点施設として利用可能である。清川関所跡は日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』」の構成文化財になっている。

川口番所。番所資料館。

最上川の舟運は、古代から明治時代にかけ、経済と文化の大動脈として栄えていた。荘内藩は藩境に五つの番所を設置していたが、清川口の番所は清川と古口・清水・大石田との間を川船で往来することから、鼠ヶ関・小国・大網・吹浦の四口と異なり「川口番所」と呼ばれ、人・物・文化の交流が最も多かったといわれている。川口番所では、他藩との間を往来する「人」を監視していた。

船見番所から最上川方面への眺望。

荘内藩は清川に、内陸向け諸荷物の抜荷を監視するための「船見番所」をおいた。川口番所が「人」を監視したのに対し、船見番所は最上川を往来する「荷物」を監視していた。復元された施設は最上川に臨み、川面を眺めることができる。

内部は写真などを展示している。

大正11(1922)年。

昭和20年代末。

1914年(大正3年)に陸羽西線が開通して以降、舟運から汽車の利用に移ったことで徐々に衰退した。

1874年(明治7年)この地に清川小学校が創立されたが、その小学校も統廃合に伴い2009年(平成21年)に閉校した。今でも小学校があった時の名残で、関所のすぐ裏側には体育館がある。

昭和31(1956)年。

芭蕉上陸地の表示地が現在地で正しいのか川岸にあるのか確認するため、番所資料館に入り、女性職員に尋ねると、国道が川沿いに開通してから土手下内に隠れるようになったが、現在地でよいとのこと。大石田河岸の例からすると、本来は川岸に船着き場があり、石段の上に関所建物があったのだろう。

また、さきほど最上川舟下りで見学した仙人堂の常夜燈を寄進した斎藤治兵衛は清河八郎の父だと教えられた。近くには清河八郎記念館もある。

 

このあと、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

山形県戸沢村 最上川舟下り 仙人堂・外川(とがわ)神社 日本の滝百選・白糸の滝