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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県鶴岡市 出羽三山神社 出羽三山歴史博物館 芭蕉像・芭蕉句碑

2024年12月24日 08時55分50秒 | 山形県

出羽三山神社。山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。

2024年9月11日(水)。

鶴岡市立加茂水族館を見学後、湯の浜温泉下区共同浴場で入浴し、羽黒山へ向かった。

事前情報によると国宝・羽黒山五重塔は修理中のため見学できないということだったが、実際には見学することができた。羽黒山五重塔は1990年代後半に、日本百名山の月山登頂に合わせて湯殿山とともに見学しているので再訪となった。そのときは、羽黒山頂上を訪れなかったので、今回は訪れることにした。山頂を見学後は、麓に下りて「いでは文化記念館」羽黒山五重塔を見学した。「出羽三山歴史博物館」は内部撮影禁止であったが、「いでは文化記念館」撮影可能であった。

羽黒山有料道路で、羽黒山山頂の出羽神社(出羽三山神社)近くの駐車場に着いた。障害者割引で、往復200円。

羽黒山は、山形県鶴岡市にある標高414mの山で、出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。

出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で江戸時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。

明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。

出羽三山は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が593年に開山したといわれる。権力争いの中で、蜂子皇子の身に父と同様、蘇我馬子の毒手が及ぶのを恐れた聖徳太子が宮中を脱出することを勧めた。

その勧めと協力により、密かに宮廷を遁れた皇子は各地を遍歴したのち、593年、出羽国由良の浜で神楽を舞う8人の乙女に出会う。

その乙女に促され3本足の八咫烏(やたがらす)に導かれて、老樹が鬱蒼と茂った羽黒の阿久谷(あこや)に辿り着いて修行した後、出羽三山を開山したといわれる。

羽黒山の山名は、皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「現在の世を表す山」といわれる。

三山を巡る『生まれかわりの旅』の入り口で、西の祓川と東の立谷沢川に挟まれた海抜414mの緩やかな丘陵である。

出羽三山歴史博物館。

羽黒山頂の神社境内にあり、出羽三山の歴史と文化を物語る資料を収蔵・展示している。鏡池から出土した銅鏡190面や銅製でできた灯篭竿などの重要文化財をはじめ、神仏習合時代のすぐれた仏像や南北朝時代の名刀月山など、修験の霊場にふさわしい品が数多く展示されている。

重文・鏡池出土古鏡は、平安時代から江戸時代の銅鏡190面で、羽黒山頂の御手洗池(鏡池)より出土したもので「羽黒鏡」と呼ばれている。種類は和鏡が8割強、儀鏡、湖州鏡式鏡唐式鏡がある。鏡背紋様は双鳥文と植物文を組み合わせた自然風物が多い。

内部は撮影禁止である。

出羽三山歴史博物館出口外部に展示されている奉納額。

旅人姿の松尾芭蕉像と三山句碑。

芭蕉の三山句碑。

松尾芭蕉は、奥の細道で出羽三山に参詣し、三山をそれぞれ詠んだ。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山(すずしさや  ほのみかづきの  はぐろやま)

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな(かたられぬ  ゆどのにぬらす  たもとかな)

雲の峰 幾つ崩て 月の山(くものみね  いくつくずれて  つきのやま)

出羽三山神社参集殿。鐘楼と建治の大鐘(重文)。

参集殿は、地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に完工された。

鐘楼堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。

建治元年(1275年)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。

上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

三神合祭殿(さんじんごうさいでん)

出羽神社は、羽黒山頂の中心にあり、三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、積雪のため冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割をなす。

現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建であるが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物で、重要文化財に指定された。

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。

現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。

建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。

三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>

三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している

鏡池。

東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。

蜂子神社と左側の厳島神社。

表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。

出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。

出羽三山歴史博物館近くの建物。

出羽三山神社の主たる祭礼行事 ~松例祭12月31日[特殊神事]

毎年大晦日から、明くる元旦にかけて夜を徹して行われることから別名歳夜祭ともいわれ、羽黒修験の四季の峰のひとつ「冬の峰」の満願の祭事である。

 門前町手向地区より「位上」と「先途」と称する松聖2名が選ばれ、9月24日より百日の行に励む。この間、祭壇を設え、興屋聖に納められた五穀に稲霊の憑依を祈るとともに、五穀豊穣、天下泰平を祈願する。また古来よりこの祭りの費用を得るため、松の勧進として庄内地方の家々に出向き松例祭の寄進を募り満願の日を迎える。

 12月31日は地元地区の若者が早朝より昇山し「位上方」・「先途方」に分かれ、悪魔に擬した「ツツガムシ」をかたどった2体の大松明を作る「大松明まるき」がある。以降すべての行事は、この位上方と先途方の優劣・遅速等、競争の形をとり進められていく。

 

山頂地区から麓の「いでは文化記念館」へ向かった。

 

山形県 鶴岡市立加茂水族館②パシフィックシーネットル アカクラゲ クラゲドリームシアター


山形県 鶴岡市立加茂水族館②パシフィックシーネットル アカクラゲ クラゲドリームシアター

2024年11月08日 08時59分50秒 | 山形県

鶴岡市立加茂水族館。山形県鶴岡市今泉字大久保。

2024年9月11日(水)。

パシフィックシーネットル。 

ヤナギクラゲ属に属する。カナダからメキシコまでの東太平洋に生息する。和名:アメリカヤナギクラゲ(亜米利加柳海月)。最大1m以上。傘の色が金色、触手が赤色なのが特徴。世界中の水族館ではアカクラゲ、アトランティックシーネットルと並んで展示されることが多い。

カリフォルニア州とオレゴン州の海岸沿いでよく見られるが、北はアラスカ湾、西は日本近海、南はバハ半島の海域に生息するものもいる。

アカクラゲ。

分類:刺胞動物門 鉢虫綱 旗口クラゲ目 オキクラゲ科 ヤナギクラゲ属

学名:Chrysaora pacifica  英名:Japanese sea nettle 漢字:赤水母

傘径:~15cm

庄内浜では、春~初夏にかけて出現し、時に大量発生する。刺胞の毒は強く、刺し網などに入り漁師が刺されることがある。触手は長く、成長したものは3mに達する。クラゲを食べるので、加茂水族館では、ミズクラゲの切り身を与えている。

ハナガサクラゲ。

分類:刺胞動物門 ヒドロ虫綱 淡水クラゲ目 ハナガサクラゲ科 ハナガサクラゲ属

学名:Olindias formosa 英名:Flower hat jelly 漢字:花笠水母

傘径:~10cm

庄内浜では春~秋に出現する。夜行性のため日中はあまり泳ぎまわらず、また海藻や海底の岩などに付着して生活しているため普通ではまず見ることはない。刺し網漁でよく採集される。山形県の「花笠まつり」の踊りで使われる「花笠」に似ている。好物は生きた小魚で、他の餌は受け付けない

発光するクラゲでもあり、傘の周りの短い極彩色の触手のうち、先端のピンク色をした部分の手前、黄緑色の部分が発光する。

ラビアータ。

Aurelia labiata。ミズクラゲの仲間。アメリカ北部やヨーロッパ西海岸に分布。傘のふちが深く切れ込み、傘の中の放射管の分岐が少なく、泳ぎ方はよりダイナミック。優雅に漂う様子が美しい。

パープルストライプトジェリー。

ヤナギクラゲ属に属する。カリフォルニア州沖に生息する。傘の直径は最大70 cmで、放射状の縞模様がある。触手を含めた全長4.5 mの個体が観察されている。触手は年齢によって色や形態が異なるが、一般に8本の周辺の長い黒い腕と中央の4本のフリルのついた口の腕で構成されている。

水流に乗って移動し、主に動物プランクトンを捕食する。イチョウガニ属の幼体と共生しており、カニの幼体は有毒の触手で身を守る代わりにクラゲを食べる端脚類を捕食する。オサガメに捕食される。

エチゼンクラゲ。

分類:刺胞動物門 鉢虫綱 根口クラゲ目 ビゼンクラゲ科 エチゼンクラゲ属

学名:Nemopilema nomurai 英名:Nomura’s jellyfish 漢字:越前水母

傘径:~120cm

庄内浜では数年に一度、9~12月に大量に発生することがあり、傘径1mもの個体が数千匹も漁網に入り、網上げに支障をきたすこともある。食用になる。

クラゲドリームシアター。

ゆったりと泳ぐミズクラゲの姿に心が癒やされる。

ミズクラゲは雌雄異体であり、成体(メデューサ)が成熟するとオスの生殖巣(精巣)には精子、メスの生殖巣(卵巣)には卵がつくられます。精子は精巣から口腕を通って、口腕の先端付近から放出(放精)されますが、糸状または粥状の塊(精子塊)になっています。この精子塊を顕微鏡で観察すると、たくさんの精子が尾部で束ねられていたり、絡み合ったりして、ゆらゆらと揺れており、単独で元気に泳ぎ回る精子はなぜか観察されません。受精は体内受精と考えられていて、メスはこの精子塊をおそらく口腕を介して胃腔に取り入れ、卵巣で受精が行われます。このような繁殖を効率的に行うためなのか、ミズクラゲは夏期に密集することがあります。

受精卵は発生途上でメスの体外に排出されますが、プラヌラ幼生となるまで口腕の付け根側にある保育嚢に保持されます。保育嚢の発達したメスは口腕の形態がオスと大きく異なるので、繁殖期の雌雄鑑別は容易です。

ミズクラゲのプラヌラは、長径約0.2mmの卵形で、全身に生えた繊毛を動かして回転しながら遊泳します。プラヌラには口がなく何も食べませんが、刺胞を持っています。メスから遊離して数日後には基盤に付着し小さなポリプに変態するのですが、刺胞は付着に必要であったり、変態後に備えて体内に生産しているのでしょう。初期のポリプは触手が4本ですが、餌を捕って成長するにつれ、8本、16本と増えていきます。

ポリプは口の周囲に16本の触手を持った小さな(<2 mm)イソギンチャクのような形をしています。付着生活をしますが、分裂や出芽によってクローンをつくり無限に増殖します。出芽は触手に似た走根(ストロン)の先端部に小さなポリプが形成される現象です。走根が基盤に付着し、そこに黄土色をしたポドシストを形成することもあります。ポドシストからは条件が整うと小さなポリプが発生します。ポリプは高い再生能力を持ち、触手の破片から個体全体が再生することが報告されています。また、ポリプを細かく刻み、コラゲナーゼ等で処理して細胞レベルにまでバラバラにした懸濁液も、放置しておくと、翌日には細胞同士が集合して自転する球形の細胞塊が形成され、1週間後には多数の微小なポリプが発生します。さらに、ポリプは数ヶ月の絶食にも耐えられます。まるで不死身ですが、環境の変化には弱く、淡水にさらせば短時間で死滅してしまいます。

クラゲは約6億年前、神経と筋肉を最初に獲得した動物であると考えられています。神経と筋肉を獲得した動物は、大型化しても「行動」することが可能になり、様々な環境に適応して劇的に進化し、知性を発達させました。クラゲの筋肉は、原始的とはいっても、細胞内のエネルギー(ATP)を効率よく使って大きな力を発生させるアクチン-ミオシン系によって構成されます。また、神経には、光や接触などの刺激を受容して伝達する感覚神経、筋収縮を制御する運動神経、各種器官の働きを調節する自律神経に相当する役割分担が既に見られます。

クラゲの神経は散在神経系であり、脳はありません。しかし、観察していると、あたかも考えて行動しているような動作も見られます。刺胞動物のクラゲにおいて、拍動のリズムを作り出すのは傘の縁にある神経細胞です。また、傘の縁には光や重力を感じる感覚器があり、種によってはレンズや網膜を備えた眼を持っています。そのため、傘の縁には、リング状に神経細胞が集中しており、中枢神経のように働いていると考えられています。

刺胞動物と左右相称動物の間では、筋肉や神経が動作する分子レベルの仕組みに共通点が多いのです。

 

ハナガサクラゲと光るタンパク質。

日本産ハナガサクラゲより開発!耐酸性緑色蛍光タンパク質Gamillus

~生体内の酸性環境を調査する新技術~

ハナガサクラゲの触手から、耐酸性で緑色の蛍光タンパク質Gamillusを開発。

一般的な緑色蛍光タンパク質が酸性環境で蛍光を失うのに対して、Gamillusは酸性環境を含むほぼ全てのpH環境(pH4.5-9.0)で使用可能。

生体分子の分解・リサイクルを行うオートファジーなど、酸性細胞小器官が関わる未知の生命現象を調べる分子ツールとしての貢献に期待。

大阪大学産業科学研究所の永井健治教授らの研究グループは、鶴岡市立加茂水族館から提供された日本産ハナガサクラゲから、pH4.5-9.0の細胞環境で安定して蛍光する、耐酸性の緑色蛍光タンパク質“Gamillus”の開発に成功しました。

今回研究グループは、ハナガサクラゲの光る触手から、蛍光タンパク質をコードする遺伝子を新規に同定し、タンパク質工学を用いて遺伝子改良することで、耐酸性で単量体型、高輝度の緑色蛍光タンパク質Gamillus(Green fluorescent protein with acid-tolerance and monomeric property for illuminating soured environmentの略)を開発しました。

一般によく使われる、緑色蛍光タンパク質EGFP(オワンクラゲ由来)がpH6.0以下の酸性環境で蛍光を失うのに対して、Gamillusは酸性環境でも安定した蛍光を放ち、細胞内のほぼ全てのpH環境で使用可能です。Gamillusの立体構造をX線結晶解析法で決定したところ、一般的なGFPとは異なるトランス型の蛍光発色団を形成し、この構造が耐酸性メカニズムに寄与することを見いだしました。

酸性細胞小器官は、2016年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典博士が発見したオートファジーなど、多くの生命機能に密接に関わっています。しかし、既存の緑色蛍光タンパク質は、低pHで蛍光しないため、酸性細胞小器官内での使用が限られていました。Gamillusを用いることにより、マクロオートファジーにより蛍光タンパク質が細胞質から酸性細胞小器官へリソソーム輸送される過程を観察することが可能になりました。将来的には、既存の耐酸性の青色・赤色蛍光タンパク質と組み合わせることで、複数種のタンパク質を別々の色で標識して、同時に追跡することが可能となります。Gamillusは、酸性環境中の未知の生命現象を発見するための基盤技術となり、医学・創薬研究にも大きく貢献すると期待されます。

本研究は、文部科学省科学研究費補助金新学術領域研究「少数性生物学」、「脳構築における発生時計と場の連携」の一環として行われました。

本研究成果は、2017年12月29日(金)(日本時間)に「Cell Chemical Biology」(オンライン)に掲載されました。

海獣エリア。

ひれあしプール。

ひれあし広場。

屋上緑地広場から南方向

屋上緑地広場から北方向

 

1時間ほど滞在したのち、近くの湯の浜温泉下区共同浴場へ向かった。

山形県 鶴岡市立加茂水族館①オワンクラゲ ビゼンクラゲ ラクテアジェリー インドネシアシーネットル


山形県 鶴岡市立加茂水族館①オワンクラゲ ビゼンクラゲ ラクテアジェリー インドネシアシーネットル

2024年11月07日 09時00分58秒 | 山形県

鶴岡市立加茂水族館。山形県鶴岡市今泉字大久保。

2024年9月11日(水)。

古代鼠ヶ関址を見学して、9時開館の加茂水族館へ向かった。県内でもトップクラスの人気がある施設なので、9時5分頃に着いたが、さすがに観光客が続々と入場していた。クラゲが泳ぐ姿は文句なく美しい。

加茂水族館は、日本海に面した岬に建っている。愛称は「クラゲドリーム館」。クラゲの展示種類は60種類以上で2012年(平成24年)には種類数でギネス世界記録に認定された。また、庄内地方沖に生息する約140種類の魚などを展示し、アシカショーも行っている。

加茂水族館大水槽(クラゲドリームシアター)、クラネタリウム(常時30種類以上のクラゲを展示し、その飼育、展示の種類ともに世界一数を誇る)、クラゲプラネット(ミズクラゲ約2000匹が泳ぐ水量40トンの円形の水槽で、直径5mのアクリルガラス窓からクラゲを観察できる)やアザラシ、アシカショーコーナーを楽しめる。

加茂水族館は、1930年(昭和5年)に隣接する湯野浜温泉への鉄道開通を機に、同温泉の組合が加茂港背後地に当館を誕生させた。90年近い当館の歴史において、組合、県、市、第三セクター、民間、市と経営母体が変遷し、その途中に営業休止も経験した。経営上の紆余曲折も経ながら、クラゲに特化した水族館として復活。今や庄内地方有数の観光地となった。

水分が多いクラゲを排水溝で吸入してしまわないように水流の強さを抑えて水を循環させる「加茂式水槽」などクラゲの飼育・繁殖に関する高度なノウハウを持つため、海洋生物学研究者や世界の他の水族館からも注目を受けている。

オワンクラゲ。

分類:刺胞動物門 ヒドロ虫綱 軟クラゲ目 オワンクラゲ科 オワンクラゲ属

学名:Aequorea coerulescens 英名:Crystal jelly 漢字:御椀水母 傘径:~20cm

庄内浜では3~6月に多く出現する。傘の中央にある口を大きく開き小型のクラゲ類や小さなアミ類などを食べる。 発光するクラゲとして知られていて、刺激を与えたり紫外線を当てたりすると傘の縁が緑色に光ります。

ノーベル化学賞を受賞した故・下村脩博士が研究に用いていたのは、アメリカ太平洋岸に分布する別種のオワンクラゲ(Aequorea victoria)で、このオワンクラゲからエクオリンとGFP(緑色蛍光タンパク質)という発光物質が発見されています。エクオリンはカルシウムイオンの測定試薬として、GFPはその遺伝子を目的の遺伝子につないで発現させることで、細胞内での蛍光マーカーとして利用されています。

加茂水族館で展示されている、オワンクラゲの発光。

下村脩が2008年(平成20年)ノーベル化学賞を受賞すると、その授賞理由となった緑色蛍光タンパク質(Green Fluorescent Protein; GFP)がオワンクラゲ由来であることも報道された。このことでオワンクラゲを飼育している同館が注目され、同館の入館者数が通常の1.5〜2倍にまで増加した。同館で飼育されているオワンクラゲは、自然界から採取した成体は発光するものの、人工繁殖で世代交代させると発光しなくなっていた。そのことを聞いた下村が2008年(平成20年)10月に直接同館に電話をし、「セレンテラジンを餌に混ぜれば、2週間で光る」とアドバイスをした。そして、下村の紹介で、三重大学大学院生物資源学研究科の教授・寺西克倫からセレンテラジンを譲り受け、発光実験に取り組んだ。

ビゼンクラゲ。

分類:刺胞動物門 鉢虫綱 根口クラゲ目 ビゼンクラゲ科 ビゼンクラゲ属

学名:Rhopilema esculentum

英名:-

漢字:備前水母

傘径:~50cm

庄内浜では夏~晩秋に出現し、夕方ごろになって突然多数が泳いでいるのを見ることがある。青みがかった色をしており、庄内では「あおだんご(青団子)」とも呼ばれるが、水槽に入れて飼育していると段々と色が薄くなっていく。以前はスナイロクラゲと呼ばれていた。

成熟した野生個体は、光の刺激で一斉に放精放卵を行うため、朝に水槽の照明を付けた後、飼育水が白く濁ることがある。

ラクテアジェリー。

クリサオラ・ラクテア(Chrysaora lactea)は、ヤナギクラゲ科のクラゲ。日本ではラクテアジェリーとも言われている。

幅が8cmまでにもなる。 胃袋の間の隔膜は、縁の非常に近くまでまっすぐ。

オクタントあたり通常 5本、時には 7本または 9本の触手、各オクタントの 2つの二次触手は約半分、2つの三次触手は中央の主触手の約 4 分の 1、残りは両側に向かって連続的に長さが減る。

すべての触手は、ラペット間の裂け目から出ている。

南米のキューバからアルゼンチン、ブラジル、カリブ海まで分布。

インドネシアシーネットル。

学名Chrysaora chinensis 英名Malaysian Sea Nettle。

東部インド洋~西部太平洋の温暖な海域に生息するクラゲ。マレーシアンシーネットルとも呼ばれることもある。

肉食性で、多種のクラゲや動物プランクトン、甲殻類などを食べる。

英名の「Sea Nettle」は「海のイラクサ」という意味をもつ。その名の通り、シーネットルは毒性の強い刺胞をもち、刺されると焼けるような痛みや酷い蕁麻疹の症状が現れることが多い。

山形県鶴岡市 古代鼠ヶ関跡 義経・弁慶上陸地


山形県鶴岡市 古代鼠ヶ関跡 義経・弁慶上陸地

2024年11月06日 09時08分02秒 | 山形県

古代鼠ヶ関址及び関戸生産跡。鶴岡市指定史跡。山形県鶴岡市鼠ヶ関丙。

2024年9月11日(水)。

道の駅「庄内みかわ」で起床。飛島へは12日に行くことにして、本日は鶴岡市域を見学することにした。クラゲで人気のある加茂水族館は9時開館なので、それまでの時間に新潟県境にある古代鼠ヶ関址を見学しておくことにした。

日本海沿いの国道7号を南下すると、降雨帯に遭遇したが一時的なものだった。国道から日本海側に入り、8時20分ごろJR羽越本線鼠ケ関駅線路沿い海側の道路を南に進むと民家の先に古代鼠ヶ関址の案内板があった。

古代鼠ヶ関址は、古代東北の三関である菊田の関(勿来の関)、白河の関と並んで奥羽三大古関のひとつであり、平安中期から鎌倉時代初期まで存在した関門と考えられる。能因法師歌枕のねずみの関、吾妻鏡の念種関、義経一行が上陸した義経記の念珠関として有名である。

現在の県境付近にあったことが発掘調査で確認されており、山形県側のA地区から製鉄址(10-11世紀前半)、新潟県側のB地区は土器製塩址(9-11世紀)、C地区は平窯址(10-11世紀初)、D地区は千鳥足走行型柵列址(11世紀末)が発掘された。

鼠ヶ関については、古代には潟湖があり、古くから港津として利用されて、砂丘の上には漁村があったという。

蝦夷に対して置かれた城柵の一つである7世紀中葉の都岐沙羅柵(つきさらのき)が鼠ヶ関周辺にあったのではないかという説があるが、否定する意見が多い。

なお、近世念珠関址は、現在の県境より1k mほど北にあって、1872年(明治5年)に廃止されるまで北国街道と羽州浜街道の境にあり、江戸時代、酒井氏が当地に入部した1622年以降、移転・整備された関である。

線路を越えた丘陵末端にある八坂神社方向。

海側の道路には新潟県との県境標石がある。新潟県村上市伊呉野と接し、全国的にも珍しい「漁村の集落の中に引かれている県境」である。

山形・新潟県境は明治初年のとき、作為的に設定されたもので、県境は海岸に迫った低い丘陵末端の八坂神社前の鳥居の向かって右の柱からほとんど直角に折れて日本海海岸に延びている。

古代の越後・出羽国境は八坂神社のある丘陵末端と弁天島を結ぶ線であった。古老の話では、出羽・越後の国境は現在の県境からさらに、北方に後退したところにあった。今日の山形・新潟県境は戊辰戦争当時の庄内藩が政府軍を迎え撃つため最前線基地として、砲列を敷いた場所が今日の県境となったという。

 

このあと、加茂水族館へ向かった。

山形県鶴岡市 東田川(ひがしたがわ)文化記念館 旧東田川郡役所・旧東田川郡会議事堂


山形県鶴岡市 東田川(ひがしたがわ)文化記念館 旧東田川郡役所・旧東田川郡会議事堂

2024年11月05日 09時06分46秒 | 山形県

東田川(ひがしたがわ)文化記念館。山形県鶴岡市藤島山ノ前。

2024年9月10日(火)。

酒田市の本間家旧本邸を見学後、鶴岡市北東郊外にある東田川文化記念館へ向かい、16時30分ごろに着いた。受付へ行くと入館無料だった。旧東田川郡役所が江戸時代の陣屋風建物で意外だった。

東田川文化記念館は、旧東田川郡役所・旧東田川郡会議事堂、旧東田川電気事業組合倉庫で構成されている記念館である。建設された明治時代当時の工法による復元工事を1989年から行い、1995年に完成した。藤島歴史公園内に位置し、敷地面積は6,520㎡である。

旧東田川郡役所・旧東田川郡会議事堂の建物は山形県指定有形文化財に指定され、敷地は「旧東田川郡役所及び郡会議事堂」として2023年に国の史跡に指定された。

旧東田川郡役所。

旧東田川郡役所は、初代の建物が焼失後1887年(明治20年)に再建された建物である。純和風の木造平屋建建物で、ロ字型の平面の中央に中庭を設けており、西洋建築から得た技法を伝統的和風建築と調和させている。

大正15(1926)年の郡制廃止後、旧藤島町役場として昭和59年(1984)年まで利用されていた。

棟梁は当時庄内では第一人者といわれた高橋兼吉で、高橋は山居倉庫(酒田市)、西田川郡役所(鶴岡市)、善宝寺五重塔(鶴岡市)など全国に広く知られている建物を手がけた。

初代東田川郡役所の模型明治14年、明治天皇が東北巡見のさい立ち寄った。

初代の郡役所の建築年代は不明だが、明治11年に区務所として建築され、同年10月の郡画制度後に郡役所に転用されたのち、1886年(明治19年)の春に近辺の大火に巻き込まれ焼失した。地下から焦土並びに焼けた軒瓦が出土しており、現在の郡役所は焼失した郡役所とほぼ同位置に再建されたと推測される。

旧郡長室。

明治11年(1878)、藤島に郡役所がおかれた。山形県令は鬼県令と呼ばれた三島通庸、初代郡長は新潟県出身木村順蔵で、以来、茨城、群馬、滋賀、福島、山形県士族出身の郡長がおおよそ3~5年の任期で就任した。

中庭から玄関方向。

旧東田川郡会議事堂。

旧東田川郡役所の再建時に同時に建てられ、1903年(明治36年)に大改修が施されて郡役所とは対照的に西洋風建築となった。

木造2階建、壁は下見板張りを基本とする洋風建築である。縦長の上げ下げ窓はコロニアル風で、切妻と玄関の妻飾りはゴシック風の外観となっている。

1階の内部は和風の畳敷きで外周に廊下を廻し、内側に12畳半の座敷を4間、横長の20畳の座敷1間がある。2階はリノリウムの床の洋風の大広間で議場や各種会合に使用されていた。

初代の郡会議事堂は建築年代が不明だが、焼失した初代郡役所の代替としてこれを貸出していた記録があり、明治19年には存在していたことが明らかとなっており、古写真から洋風の2階建てであったと推測されている。

大正15(1926)年の郡制廃止後、東田川電気事業組合事務所を経て昭和59(1984)年まで旧藤島町の議場として利用されていた。

現在は、1階には鶴岡市立図書館の藤島分館などがあり、2階は旧議事堂をホールとした明治ホールがあり、コンサ-トや講演会に使用されている。

2階 明治ホール。洋風の明治ホールは椅子席で150人程度の収容が可能となっており、コンサ-トや講演会などに利用されている。とりわけ室内楽には最適で、木の響きがするホ-ルとして出演者にも聴衆にも好評という。

1階 図書館藤島分館。外観とは正反対の純和風のたたずまいとなっている。

旧東田川電気事業組合倉庫。

1924年(大正13年)頃の創建とされている。2階建土蔵造、切妻桟瓦葺。細部に凝った所があり、外壁や階段親柱に採用された特徴のある幾何学的意匠は、1920年代に西洋で先進的だった意匠を積極的に採り入れたもので、電気事業組合の先駆性を表現している。

明治44年(1911)、12代郡長の関原弥里が梵字川を開発し水力発電所を建設し、電力で灌漑用水を揚水し郡内一円に配水した。余った電気は郡内に配電して公益の電気事業として発展した。その郡営電気事業が大正15年の郡制廃止前の大正11年に組合に委譲された後に倉庫が建築された。

現在は管理棟・展示室として活用されている。1階は象ギャラリーとなっており、2階は旧藤島町の遺跡からの出土品などを展示している。なかでも藤島地域から出土した山形県指定文化財の独木舟(まるきぶね)は、全長14.05m幅1.24mで、現存の独木舟の中では日本最大とされている。

 

15分ほど見学して、西方向近くの東田川郡三川町にある道の駅「庄内みかわ」へ向かった。

山形県酒田市 本間家旧本邸 別館「お店」