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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県戸沢村 最上川舟下り 仙人堂・外川(とがわ)神社 日本の滝百選・白糸の滝

2024年10月23日 11時16分28秒 | 山形県

最上川舟下り。船着き場と対岸の仙人堂。山形県戸沢村古口。JR高屋駅前。

2024年9月10日(火)。

新庄市本合海の「芭蕉乗船の地」の見学後、最上川に沿って最上川舟下り乗船場へ向かった。旅行前に旅行雑誌を見ると、最上川舟下りには2社があり、内容が異なっていた。ネットで調べると、最上峡芭蕉ライン観光は、最上川を下るだけの舟下り約2500円で、仙人堂には行かない。自分の車を置いている所まで取りに行かなければならず、バス代や時間も要する。最上川舟下り「義経ロマン観光」は、仙人堂周辺のみの舟の周遊と仙人堂見学が約2500円、仙人堂に渡って帰るだけだと1000円だと書いてあった。

舟下りには関心がなく、一番興味があったのは、仙人堂だった。1000円なら安いので、これを予定した。

対岸に仙人堂がある地点に9時40分ごろに来たが、途中で見た最上峡芭蕉ライン観光のような営業所は見当たらない。国道横の空き地に駐車して、草刈りをしている男性に尋ねると、「義経ロマン観光」の営業所はJR高屋駅近くの高台にある、と教えてくれた。南側の高台へ登ると、下の国道からは見えなかったが、たしかにコンテナ小屋の営業所があり、1組の夫婦が舟下りを待っている様子だった。中に入り、仙人堂へ行きたい、と言うと、1時間近く何もやることがない、クマが出る、と言われて10時発の船旅に半ば強制的に参加させられ、2500円を支払わされた。

10時になると、4人で車に乗り、先ほどの空き地に着いた。車を下りると、川岸へ下る道があり、舟が2隻並んでいた。

さきほどの男性は社長兼ガイド兼船頭だった。そういえば、救命胴衣の着用も説明もなかった。話は自分の自慢話が多くて閉口したが、拍手を強制された。兼高かおるは何度もこの人の舟に乗船し、仙人堂を3度訪ねたという。兼高かおるから褒められたといっても、1959年12月から1990年9月まで放送していた「兼高かおるの世界の旅」というテレビ番組を見たことがある人は年代的に少ない。私は海外旅行が趣味だったので、80年代はよく見ていたが、その頃はすでに視聴率は低下していただろう。

本人もそれを分かっているので、最近、感銘を受けたディズニーランドのジャングルクルーズの真似に移行している。それで、現在の舟下りは「最上川トークライブクルーズで巡る最上峡ワールド」という名称になり、岸辺の岩はジャングルクルーズらしいようにワニの形をしているとか案内している。

最上川水運や仙人堂の歴史などの基本はガイドをしないので困ってしまう。このあと、清川番所の資料館を尋ねたら、職員が、新選組の源流を築いた清河八郎の本名は齋藤正明で、その父親である齋藤治兵衛が仙人堂に常夜灯を寄進したが、ご覧になりましたかという。実は、常夜灯に齋藤治兵衛と刻んであるのを見て気になっていたのだが、一気に氷解した。こういう話をしてほしいものだ。

といっても、歴史に興味がない観光客がほとんどなので、特に説明はしないのだろうが。では何を売り物にするかというのも難しいことだが。

舟下りは仙人堂の対岸から始まる。

仙人堂。木が茂っているので国道や岸からは鳥居しか見えない。

仙人堂上流にあたる対岸地区にはかつて集落があったので支流にかかる橋が残っている。

仙人堂・外川(とがわ)神社。戸沢村古口字外川。

日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として祀っている。源義経一行が兄頼朝から追われて奥州平泉に落ちのびる途中、この地に立ち寄ったのち、義経の従者・常陸坊海尊が建立したといわれる。芭蕉の紀行文「奥の細道」にも登場する。古くから舟旅の守り神として信仰され、現在は縁結び神社としても知られている。

右側の常夜燈には、「天保13年(1842)5月庄内清川 齋藤治兵衛」と刻まれている。齋藤治兵衛豪寿(ひでとし)は、清河八郎の父で、庄内藩領清川村(現庄内町)の郷士であり、庄内一の醸造石数を誇る酒屋を営む富豪であった。

nii.ac.jp「外川仙人堂信仰の展開 - 國學院大學学術情報リポジトリ」佐藤優2018によれば、

齋藤治兵衛は最上川の舟運と関わる人物とされる。仙人堂周辺は舟の難所で、隠れ岩が無数にあるため破船することが多く、山から吹き下りる突風は、舟の帆を折ることもある。舟の遭難は、人命だけでなく紅花の運送にも大きな損失をもたらした。

仙人堂は、舟の災難除け及び疳の虫除け(小児の疳封じ)が特異な利益として人口に膾炙していた。近世の出羽三山参詣とも密接につながって重要な位置を占めており、関東地方からの参詣者が記した道中記の中で、この社を参拝所及び「羽黒道者錫杖振りはじめの社」と記している。

仙人堂近くの湧き水と手洗い水盤。

仙人堂の脇には休憩所兼売店があり、湧き水で入れたホットコーヒー、アイスコーヒーを味わうこともできる。仙人堂わき水コーヒー(チュロス付)500円。出川哲朗も飲んだというので飲まざるをえない。

約60分の舟下りを終えて、営業所に戻ると、6人ほどの団体が待っていた。

このあと、西に進み、もう一つの名所「白糸の滝」の眺望箇所へ向かった。

日本の滝百選・白糸の滝。戸沢村草薙。

白糸の滝ドライブイン内から眺められる。草薙温泉の対岸にあり、日本の滝百選のひとつ。最上峡の滝群で最大であり、落差約120m。最上川に流れる水が白い糸のように見えるので、白糸の滝と名付けられた。

 

このあと、西に進み、芭蕉の下船地である清川関所へ向かった。

山形県鮭川村 小杉の大杉(トトロの木)国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)


山形県鮭川村 小杉の大杉(トトロの木)国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)

2024年10月22日 09時00分17秒 | 山形県

小杉の大杉(トトロの木)。山形県鮭川村曲川。

2024年9月10日(火)。

推定樹齢1000年と言われているこの天然杉は鮭川村の小杉地区にある大杉ということから、「小杉の大杉」という愛称で村民に御神木として親しまれてきた大杉で、映画「となりのトトロ」のトトロの形に似ていることで有名になった。

夫婦杉、縁結びの木、子宝の木とも言われ、パワースポットとしても知られている。

最上町の道の駅「もがみ」で起床。本日は、鮭川村の「小杉の大杉(トトロの木)」から最上川沿いに日本海方面へ進む。7月中旬ごろから山形県旅行の事前調査を始めて、旅行雑誌で知った。7月下旬の豪雨水害の中心地域だったので、アクセス道路の復旧状況をネットでチェックしていたが、この時点ではほぼ支障がなくなっていた。

案内標識に従って進むと終点の駐車場に着いた。狭い駐車場だが、トイレと休憩所がある。

休憩所からトトロの木が見えるが、見る方角により姿は違う。

撮影スポットが案内されている。

駐車場から緩い下り坂を歩いて5分ほどでトトロの木の根元に着いた。

根回り6.3m、樹高約20m、枝張り17mもあり根元には山神様が祀られている。

根元を一周した。

左奥にトトロに見える撮影スポットがある。よく見ると実は一本杉だが、耳に見えるてっぺんの2本の枝と地面に近づくにつれ広がっていく形はぽっこり出たお腹のようで、トトロに見える。

 

トトロの木を見てから、南方向へ進んで最上川河畔へ向かった。

国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)。芭蕉乗船の地。新庄市本合海。

「芭蕉乗船の地」記念碑。記念碑(左)と陶像(右)。

昭和 38 年(1963)に、芭蕉乗船の地を舟下りの乗降客などに広く伝えるため、地元の有志により記念碑が建立された。平成元年(1989)には、東山焼製の芭蕉と曽良の陶像が本合海エコロジーにより建立され、観光名所として親しまれている。

本合海は、最上川の中流よりやや下流、新庄市南西部に位置し、元禄2年(1689)、松尾芭蕉一行がこの地から乗船し、最上川を下っている。

古来より内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の中継地として栄え、右岸にある八向楯(やむきだて)は中世に築かれた城館跡であり、古来より広く観賞の対象とされ、芭蕉が訪ねた往時を偲ぶ優れた風景を今に伝えている。

日本三大急流のひとつである最上川は、米沢市の西吾妻山を水源として山形県中央部を北に流れ、新庄市本合海で西に向きを変えて酒田市で日本海に注いでいる。ひとつの県のみを流れる川としては日本一の大河で、流路延長は 229 ㎞に及ぶ。

平安時代の中期に編さんされた『古今和歌集』に「最上川 のぼればくだる稲舟の いなにはあらず この月ばかり」と歌われ、古くから交通・物流の大動脈としての役割を果たしてきたことをうかがい知ることができる。江戸時代には、紅花をはじめ、最上川流域のさまざまな物資が舟運によって京や大坂などに運ばれ、帰り船で持ち帰った上方文化が、今も最上川流域の各地域に息づいている。

新庄市南西部に位置する本合海は、古くから最上川舟運の重要な川湊として栄えた河岸集落である。最上川が西に大きく流れを変える湾曲部の右岸の八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社があり、最上川の舟人を守る神として古くから信仰されてきた。

元禄 2 年(1689)には、奥の細道を訪ねた俳聖松尾芭蕉が、門人曽良らとともに新庄に 2 泊の後、本合海から舟に乗って最上川を下り、羽黒山に向かっている。その後、芭蕉の足跡をたどり、多くの俳人・文人がこの地を訪れている。

このように本合海集落は、その自然的・歴史的・文化的な要素を背景として、古くからの風習や信仰などが色濃く残っており、2014年に「おくのほそ道の風景地(本合海)」として国の名勝に指定された。ている

松尾芭蕉と本合海。

元禄 2 年(1689)、みちのくの歌枕をたずねて平泉にたどり着いた俳聖松尾芭蕉と門人曽良は、奥羽山脈を横断し出羽国に入る。6 月朔日(新暦 7 月 17 日)、芭蕉一行は大石田を発ち、猿羽根峠を越えて新庄に入っている。

芭蕉は新庄に入る道すがら氷室の清水(現・柳の清水)を訪ね、「水の奥氷室尋る柳哉」の句を詠み、芭蕉はそれを新庄の城下町の中心部にある風流亭に宿泊した際に、三つ物(連句の発句・脇句・第三)の発句としている(曽良『俳諧書留』)。芭蕉一行は新庄に2泊し、風流(澁谷甚兵衛)や盛信(澁谷九郎兵衛)ら新庄の俳人と俳諧交流を行い、6 月 3 日に新庄を発ち、本合海より舟にて庄内に向かった。

芭蕉は、大石田に滞在中に「五月雨を集めて涼し最上川」の発句で歌仙を巻いているが、本合海から乗船し「水みなぎって舟あやうし」と船上での自らの体感によって、「五月雨を集めて早し最上川」と改めている。

明治時代以降は、松尾芭蕉の足跡をたどり、正岡子規や齋藤茂吉をはじめとする多くの近現代の俳人・歌人が本合海を訪れている。

明治 26 年(1893)、正岡子規は芭蕉の『おくのほそ道』をたどり、彼自身の「奥の細道」を綴る旅に出る。子規の紀行文『はて知らずの記』には、「草枕夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず秋たちにけり/すむ人のありとしられて山の上に 朝霧ふかく残るともし火/立ちこめて尾上もわかぬ暁の 霧より落つる白糸の滝」の和歌が記されている。

その後も、山形が生んだ歌人・斎藤茂吉や現代俳句の巨匠・金子兜太、黛まどかなど著名な俳人・歌人が本合海を訪れ、句や歌を詠んでいる。

北側には船着き場跡らしき浅瀬がある。

八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社がある。

西郷隆盛と庄内藩。

 

このあと、最上川舟下りの乗船場へ向かった。

山形県最上町 芭蕉が通った山刀伐(なたぎり)峠 瀬見温泉共同浴場


山形県最上町 芭蕉が通った山刀伐(なたぎり)峠 瀬見温泉共同浴場

2024年10月21日 11時29分12秒 | 山形県

山刀伐(なたぎり)峠顕彰碑。山形県最上町満沢。

2024年9月9日(月)。

顕彰碑には俳人加藤楸邨の筆による「高山森々...」の一節が刻まれている。昭和42年建立。

山刀伐峠の標高は470mで、峠道の周りにはブナ林が広がる。「山刀伐」という名前は、山仕事や狩りをする際に被る「なたぎり」に似ていることに由来するといわれている。

元禄2年(1689)5月17日(陽暦7月3日)、松尾芭蕉と河合曾良は最上町の封人の家に逗留した後山刀伐峠を越えて、尾花沢市の鈴木清風宅へ向かった。この道は、「おくのほそ道」全行程2400kmの中でも最大の難関といわれており、「高山森々として、一鳥声きかず、木の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし」と芭蕉が記したように、昼間でも真っ暗で芭蕉も少し怖く感じたようである。

刀を持った山賊が住み着いており、道行く旅行者を襲撃しては身包みを剥ぐ危険な峠であったようで、芭蕉が、山刀伐峠を越えるにあたっては、「封人の家」の当主有路氏が、山賊から芭蕉の身を守るため、屈強の若者を護衛に付けて先導させた、と記されている。

最上町堺田の松尾芭蕉が宿泊した旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家)と堺田分水嶺を見学後、西へ戻って、芭蕉が挑んだ「おくのほそ道」最大の難所である尾花沢市との境にある山刀伐(なたぎり)峠へ向かった。宮城県大崎市鳴子と山形県最上・村山地方を結ぶ道である国道47号線から南方向へ向かう県道28号尾花沢最上線に入り、赤倉温泉を過ぎて山刀伐峠トンネル手前から旧道に入って、山頂駐車場へ向かう。旧道ができる前の歩道が芭蕉が歩いた「歴史の道」で「二十七曲り」ともいわれる遊歩道になっている。

旧道は1台がやっと通れるほどの狭さで、曲がりくねっているのでライト点灯は欠かせない。離合箇所もほとんどないので対向車が来た場合は離合困難だと思いながら登っていくと、軽トラが駐車していた。車を降りて車幅と路肩の堅牢さを確かめると、何とか横をすり抜けられると判断できたので、ドアミラーを格納して通り抜けることができた。軽自動車同士だったので可能だったが、普通自動車だと谷底へ転落だろう。

少し登ると二人が除草作業中だった。車の中から、ドアミラーを畳んでいてくれたら楽だった、と声を掛けた。30分ほどあとに往路を戻ると、除草作業を続けていたので、軽トラはどうなっているのかと心配しながら少し下ると、道路山側のスペースに道路から外れたように駐車していた。ありがたいとは言え、道路を知悉しているなら最初から通行に支障がないように駐車してくれればよかった。地元の人が油断するぐらい通行量は少ないということでもある。

ほどなく峠下の山頂駐車場へ着いた。20台ほど駐車可能の広い駐車場でトイレもある。秋田ナンバーの普通自動車3台が整列して駐車していた。調査研究のような気配がした。峠周辺では誰とも会わなかったので、多分そうだろう。

山頂駐車場の尾花沢側は通行止めになっていた。尾花沢側のほうが道路は広いらしいので、当初はこちら側から旧道を登る予定だったが、通行止めらしかったので最上町側から登ってきたのだ。早朝、ナビを見ると、県道28号線の山刀伐峠トンネルの尾花沢側付近に片側交互通行の表示があったので確認すると、尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館の職員も市役所の職員も県道28号線は通行止めと言ったので、新庄・最上町方面から迂回したのだが、実際には県道28号線は交互通行ができて、通行止めだったのは旧道の尾花沢側だった。

県道28号線の「山刀伐トンネル」は、通年通行可能であるが、峠を越える旧車道、さらには江戸期以来の旧街道(歴史街道)は、いずれも冬季通行止である。周辺では、熊の目撃情報があるため、山に入る場合は熊鈴を持ち、単独ではなく複数行動することが推奨されている。9月6日に米沢市の舘山城跡でクマと遭遇したので、気にはなったが、熊鈴を身に着けて峠への遊歩道を登っていった。

途中で「歴史の道」に出会う。見下ろすと、たしかに急傾斜だ。

山刀伐峠顕彰碑付近には東屋がある。山刀伐峠顕彰碑には駐車場から5分ほどで着いた。

東屋から尾花沢方面へ向かう「歴史の道」。

クマが出るかもしれないので、すぐ駐車場へ帰った。

往路の旧道を下り、瀬見温泉共同浴場へ向かった。

瀬見温泉共同浴場せみの湯。最上町向町。

温泉街の東端にあり、駐車場もある。瀬見温泉名物の「ふかし湯」を始め、内湯・露天風呂・足湯の四つの温泉が楽しめる。

コイン式で自動ドアが開閉する。400円(100円玉4個必要)で両替機はない。

 

このあと、東近くにある道の駅「もがみ」へ向かった。新しいので室内にはWIFIが使える休憩所があった。その下の河原は水害で遊具などが被害を受けていた。

翌朝は鮭川村の小杉の大杉(トトロの木)から見学開始である。

山形県最上町 芭蕉が泊まった旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家) 堺田分水嶺


山形県最上町 芭蕉が泊まった旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家) 堺田分水嶺

2024年10月20日 10時24分44秒 | 山形県

重文・旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家)。山形県最上町堺田。

2024年9月9日(月)。

国史跡・新庄藩主戸沢家墓所を見学後、芭蕉が尾花沢の鈴木清風宅へ来る前に泊まった最上町の旧有路家住宅(封人の家)へ向かった。山間部を通ると、小さい盆地のような地区があり、宮城県へ向かう国道国道47号沿いの北側に旧有路家住宅、南側に駐車場がある。

封人(ほうじん)の家とは、国境を守る役人の家のことで、この名称は俳聖松尾芭蕉の「おくのほそ道」に由来する。

旧有路家住宅は、山形県東部に古くから見られた茅葺き寄棟造り、広間型民家で、桁行24.755m、梁間9.999m、建築面積269.180㎡(約81坪)の大型民家であり、江戸初期を下らない時代の創建と見られている。

解体復元工事が実施されて、創建当時の様式で保存、一般公開されている。この建造物は、江戸期には新庄藩上小国郷堺田村の庄屋住宅で、内部は床の間、いりざしきなどの5部屋と、内庭、内まや(厩)からなる。

有路家は、江戸時代初期に独立した村となった堺田村で、代々、村の庄屋を勤めた家柄である。建物は役屋(村役場)としての性格を持ち、問屋や旅館としての機能も備えていたとみられている。仙台藩領と新庄藩領の国境を守る役人という立場でもあったとされ、住宅構造には、江戸期に庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅宿ともなり、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史的性格が強く反映されている。

この住宅は、松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記した、堺田のいわゆる"封人の家"と見なされている。元禄2年5月15日(1689年7月1日)、平泉から仙台藩領の尿前(しとまえ)の関から出羽国尾花沢へと旅路を急いだが、「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」と「おくのほそ道」に綴っているとおり、大雨のためしかたなく、二泊三日、この家に滞在した。

その時に詠んだ句、「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり/しと)する 枕もと」が有名である。

最上町は以前は小国と言う地名で山形県内では随一の馬産地で、小国産の牡馬は小国駒と呼ばれて江戸や越前地方へも移出された。人馬が一つの家で寝食を共にする様子を詠んだ芭蕉の句の背景には、小国が馬産地であり馬を大切に扱う生活環境があった。

土間・まや。

土間から座敷方向。

土間から座敷方向。

「なかざしき」

「いりのざしき」

床の間。

堺田越(さかいだごえ)は、山形県最上町と宮城県大崎市の間にある標高350mの峠である。国道47号が走っており、峠の頂上に最上町堺田集落があり、JR東日本陸羽東線堺田駅がある。

非常になだらかな峠であり、奥羽山脈を横断する峠の中でも標高が低い方である。そのため、最上町にやませが流れ込みやすく、標高の低さが逆に冷害の原因になっているといわれる。

道路も非常に直線的であり、並行する国道に比べて最も状態が良いため、仙台市や大崎市から、新庄市を経由して庄内地方や秋田県に向かうトラックが、頻繁に走っている。

古来より、現在の仙台市から大和町、加美町、大崎市岩出山を経て太平洋と日本海を結ぶ重要な峠であり、舟形街道の清水河港から最上川を舟で下って酒田港にいたるルートは、物流のルートとしても、旅のルートとしても使われた。仙台藩(尿前の関)と新庄藩(笹森口留番所)がそれぞれ関所を設けていた。現在も往時の街道が残されており、「出羽仙台街道」として、大崎市尿前の関から最上町笹森集落まで旧街道を探索することができる。

堺田分水嶺。最上町堺田。

堺田集落は、太平洋と日本海へ分かれて流れる分水嶺の真上に存在する集落であり、堺田駅前には、ほとんど見られない「地上に露出した分水嶺」がある。ある一本の水路が、流れるうちに自然に日本海側と太平洋側に分かれる水路である。

駐車場に戻ると、分水嶺の案内標識があった。簡単に行けそうだったので、蕎麦畑の横を通って行ったが、行き着けなかったので、一度は諦めて駐車場に戻ったが、その地点からもうすぐ奥だったと分かり、再度チャレンジして分水嶺公園の東屋にたどり着いた。

分水嶺を眺める地点の広場は、JR堺田駅前の広場であることに気づき、自動車で移動したほうが早かったと思いながら駐車場に戻り、芭蕉が苦労して越えた山刀伐(なたぎり)峠の見学に向かった。

山形県新庄市 手打ちそば「さぶん」 新庄城跡 新庄藩主戸沢家墓所


山形県新庄市 手打ちそば「さぶん」 新庄城跡 新庄藩主戸沢家墓所

2024年10月19日 09時00分16秒 | 山形県

手打ちそば「さぶん」。山形県新庄市小田島町。

2024年9月9日(月)。

尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館などを見学後、舟形町の西ノ前遺跡公園を経て、新庄ふるさと歴史センターに着いたとたん、センターから出てきた職員に長期休館中だといわれた。7月の水害もあり、各予定地のHPなどで確かめていたはずだが、チェック漏れだったようだ。新庄城跡の見学なら駐車したままでいいというので、新庄城跡へ歩いて向かった。

100mほど歩くと、角の蕎麦屋が目についた。大石田そぼ街道や尾花沢そば街道などが有名らしいが、昼食のタイミングから外れていたため蕎麦を食べる機会を逸していた。ちょうど11時30分ごろだったので、「さぶん」という蕎麦屋に入ることにした。店内に入ると、半分ほどの入りだった。入口側の長い机席が一人用らしかったので、欧米人の若い男性の横に座った。

メニューを見ると、天ぷら付きは高い。旅行雑誌を見て、山形名物で気になっていた板蕎麦2人前1320円を注文した。トイレついでに奥の座敷を覗くと、中華系らしい10人ほどの女性の団体が食事を終わりかけているところだった。12時ごろになるとほぼ満席になった。

「さぶん」とは「佐藤文七」という屋号から来ているようだ。明治8年の建築という古民家を利用した店内には、いろりを備えた座敷が設けられるなど田舎情緒にあふれている。もともと、みそやしょうゆの醸造、呉服などを扱っていた商家だった同店は平成9年、この場所でそば店を始めたという。開店当初から続けているのが石臼ひきの自家製粉という。

新庄城跡(最上公園)。新庄市堀端町。

新庄城は、新庄藩6万石の本拠として寛永2年(1625年)、新庄藩初代藩主の戸沢政盛により築城された。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。

最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。

本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったが、寛永13年(1636)の火災による焼失以来天守櫓は再建されなかった。

本丸表御門跡付近の石垣。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。

現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されている。

 

戸沢氏は、平維盛の子平衡盛が奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向したのが始まりとして平氏と称したが、平衡盛の「衡」という漢字は奥州藤原氏が通字として使用しており、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主が、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて源頼朝に存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったという奥州藤原氏郎党説が有力である。

鎌倉時代初期の1206年、戸沢氏は南部氏から攻められ、滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町)に本拠を移した。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。そこから周囲に勢力を拡大していったものと推察される。

南北朝時代になると、戸沢氏は南朝に属した。北畠顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入った記録があるが、興国2年(1341年)の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は出羽国へ去っていき、滴石の兵も従ったとある。興国2年以後、南部氏が北朝方に寝返ったことと、北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となり、この時に仙北地方に移ったと推測される。但し、滴石庄には庶流を置いていったと考えられる。

延文元年(1356年)に戸沢英盛が鎌倉へ出仕しており、この頃には他の武将達同様に北朝方に転向して時代を生き抜いたようである。

戸沢氏は、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに、仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指していく。応仁2年(1468年)、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退すると、戸沢氏は、以後仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏・安東氏との抗争を続けた。

応永31(1424)年13代戸沢家盛の頃に角館城に居を構え戦国大名としての地位を築いたとされる。

元亀元年(1570年)ごろ、戸沢道盛は北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定した。その後、道盛の子、戸沢盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功した。これが戸沢氏の勢力全盛期となった。盛安は中央の動静に絶えず注目しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には主従僅か10人ながら東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、所領を安堵された。しかし盛安は参陣中の小田原で病死し、弟の戸沢光盛が家督を継いだ。豊臣秀吉の奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地の代官としての権限を与えられた。

光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督を相続した。秀吉の死後、政盛は徳川氏重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近していった。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦った。しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始した。戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡4万石へ減転封された。

松岡藩への転封後も政盛は、徳川氏への接近を積極的に進めていった。鳥居氏との縁戚により、本来江戸幕府内での扱いは外様大名であるはずの戸沢氏は譜代大名とされた。元和8年(1622年)、最上氏の改易を受けて鳥居氏が最上氏の旧領出羽国山形の藩主となると、戸沢氏は鳥居氏の一族として、常陸国松岡から出羽国新庄へ加増転封された。

以後は新庄藩6万石(後6万8千石)の大名として明治維新まで続いた。最後の藩主正実の代の戊辰戦争では官軍側についたり、奥羽越列藩同盟側に付いたり藩としての姿勢に揺れがみられたが、最終的には官軍に付いたため、その功績により賞典禄1万5000石を下賜された。

国史跡・新庄藩主戸沢家墓所。新庄市十日町。

墓所は新庄市街から離れた北東方向の田園地帯にある。茅葺屋根の廟所は珍しい。

藩主戸沢家の墓所は新庄市瑞雲院桂嶽寺の2ヶ所にあるが、向陽山瑞雲院(曹洞宗)は、山形県白鷹町瑞龍院の末寺で、藩政時代寺領150石を有し、領内禅宗の事務を統括する禄所であった。初めは、城下町北の入ロの要として、羽州街道西側に建立されたが、元禄14年(1701年)全焼し、寺地を宝永3年(1706年)東側の現在地に移した。その際に、焼寺の西奥に墓石のみであったものを、現在の廟建築の形式に変えたものと思われる。ここには6棟の廟があり、桂嶽寺に廟所がある2代正誠を除く10人の藩主が葬られている。

御廟所は、当地では御霊屋(おたまや)と呼ばれ、建立された順序は、瑞雲院1号棟(1704年から1721年推定)・桂嶽寺御廟所(1724年)・瑞雲院2号棟(1742年)・3号棟(1747年)・4号棟(1782年)・5号棟(1788年)・6号棟(1798年推定)の順になる。

造りは、単層宝形(ほうぎょう)造りで、大きさはそれぞれ違うが、いずれも絵欅(けやき)造りで、石場の上に土台を据え、丸柱を建て、柱間に厚い板をはめこんで壁としている。入ロは観音開きの扉、床は石畳で板敷きはない屋根は全て茅葺きであるが、桂嶽寺御廟所だけは近年木羽葺きに替えられた。

このさや堂の中には、歴代藩主とその正室(1基のみ側室)、家族の墓石が納まっている。その内訳を見ると、総数27基で、藩主11名・正室6名・側室1名・その他9名である。

その他9名のうち、4名が9代正胤の子どもたちであるのが注目される。

全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子ども、側室など一緒に葬られているのは極めて稀である。また、各歴代藩主の墓が一堂にあることから、1700年代の初期から後期に亘る約100年の間の建築様式の変化は、その時代時代の新庄藩政の姿を浮き彫りにするもので、歴史的に大変興味深い。

正龍院殿實翁禅相大居士塔。第11代藩主で最後の新庄藩主戸沢正実の墓。

殉死した3人の墓。

 

このあと、芭蕉が尾花沢へ来る前に泊まった最上町の旧有路家住宅(封人の家)へ向かった。

山形県尾花沢市 芭蕉清風歴史資料館 養泉寺 舟形町 西ノ前遺跡公園「女神の郷」