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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開②道灌濠から乾門まで

2024年12月23日 08時48分27秒 | 東京都

皇居。道灌濠。令和6年秋季皇居乾通り一般公開。

2024年12月4日(水)。

 

下道灌濠。道灌濠は、皇居(江戸城)内に残る太田道灌時代の堀とされる。

道灌濠は現在、上・中・下に分かれているが、昔は繋がっていた。

西桔橋(にしはねばし)門跡。

内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいる。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門があったが、現在は石垣の一部が残っているだけである。

桔橋(はねばし)とは、有事の際、橋をはね上げて往来を不可能にする仕掛けを持った橋のことである。この橋と北桔橋の2橋が江戸城防備のために、桔橋となっていたが、現在は普通の橋となっている。

富士見多聞。

外庭東門警備派出所。皇宮警察本部吹上護衛署。

乾濠。

江戸城本丸を守る内堀のひとつで、形が三日月に似ているため別名「三日月濠」とも呼ばれる。

乾門。

乾門は、江戸城の巽(たつみ)二重櫓の対角線上である西北に位置し、乾の方角にあたることから名付けられた。江戸時代、この場所には「上覧所」と呼ばれる施設があった。上覧所とは主に将軍が物事を見物する場所のことで、例えば、旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露した。また、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄った。

1888年(明治21年)、旧西の丸裏門にあたる紅葉山下門がここに移築され、皇居への入場門の一つとして利用されるようになった。

 

北桔橋門(きたはねばしもん)。

北桔橋門 から観光客が皇居東御苑へ入る様子が見られた。週に数回通ることができるという。

地下鉄竹橋駅へ向かった。

西銀座チャンスセンター。

有楽町界隈へ来た記念にニュースでよく見る風景を体験してみた。

「散歩する朝永振一郎博士」像。つくば中央公園。

秋葉原から「つくばエクスプレス」に乗車して終点の「つくば」で下車した。つくばエキスポセンターへ行こうとしたが、八丈島・青ヶ島で6万歩ほど歩き回っていたため、力が尽きた。つくば中央公園を少し見て帰ることにして、北千住駅で乗り換えて御茶ノ水駅で下車して、神保町で友人と会った。

翌5日は神奈川県大和市の介護ホームにいる兄を見舞って、東海道線で名古屋に帰った。

皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開①坂下門外から局門まで


皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開①坂下門外から局門まで

2024年12月22日 08時52分35秒 | 東京都

皇居。二重橋前。令和6年秋季皇居乾通り一般公開。

2024年12月4日(水)。

2024年年11月30日(土)から12月8日(日)までの9日間、秋季皇居乾通りが一般公開された。入場時間は午前9時から午後3時までで、皇居坂下門から参入、皇居乾門から退出する。

乾通りには8種類、およそ70本の色とりどりのモミジが植えられているという。

11月30日に八丈島でテレビニュースを見ていたら、乾通りの通り抜けの映像が流れてきた。全く予定外だったが、来年の桜の時季の通り抜けは予定していたので、12月3日に八丈島・青ヶ島の旅を終えて東京へ戻ったあと、翌朝見学することにした。

有楽町駅で下り、二重橋前に着いたのが7時30分過ぎだった。

多くの人が石造りの橋「皇居正門石橋」を二重橋と思っているが、実はその奥にある橋「皇居正門鉄橋」が二重橋である。

「皇居正門鉄橋」は、1614年(慶長19年)当初、二重構造(木造)であったことが、名前の由来となっている。現在の橋は、明治宮殿造営(完成明治21年)に当り、錬鉄製の橋に架け替えられ、更に昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43年)に先立ち、架け替えられて現在に至る。

一方、「皇居正門石橋」は、1888年(明治20年)12月、明治宮殿が竣工する前年に完成した。

8時前に坂下門外にある障害者用の入口に並んだ。障害者用の入口にはその後も誰も並ばなかった。

一般者用には10人ほど並んでいた。

8時45分ごろから参加者が目立って増えてきた。8時50分ごろに、手荷物検査が始まり、8時55分ごろに坂下門手前に並んだ。皇宮護衛官3人がこちら側を向いて立っていた

宮内庁の事務官3人が現れ、大音声で、通り抜けの開始を宣言した。皇宮護衛官は180度ターンして坂下門へと歩み始めた。このあたりは、衛兵交代の儀式の雰囲気がある。先頭から2列目だったので、興味深く拝見した。朝早く来てみないと分からないものだ。

坂下門の右奥に見える宮内庁庁舎。

坂下門を出るまでは、ゆっくり歩くように言われる。

坂下門。

宮殿。

宮内庁庁舎。

昭和10年(1935年)に建築された建物で,庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間,仮宮殿として使用されていた。

あるとき宮内庁の担当者に挨拶してくれと頼まれて、乾門からタクシーで乾通を通り抜けて庁舎に入り、挨拶したことがある。

地下壕かと思ったら、宮殿との連絡用通路・車庫?だという。

東御苑南西端の富士見櫓。

富士見櫓は江戸城の中でも高い位置にあり名前の通り当時はここから富士山が見えたという。

蓮池参集所。

宮内庁本庁舎の向かって右側に有る平屋建ての建物で、ボランティアで全国各地から集まる勤労奉仕団の集合及び休憩場所になり、天皇皇后両陛下が 勤労奉仕団にご会釈をされるという。

トイレと生垣。

トイレ横から見る富士見多聞。

富士見多聞には今年3月に内部へ入り、乾通り方向を見下ろした。

山下通り。

右側奥が「紅葉山」で、皇居の中でも静かで緑多い通りという。奥に豊明殿がある。

局門(つぼねもん)。

宮内庁の倉庫らしい。

富士見多聞。

門長屋。

西桔橋(にしはねばし)門跡。

内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいる。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門があったが、現在は石垣の一部が残っているだけである。

桔橋(はねばし)とは、有事の際、橋をはね上げて往来を不可能にする仕掛けを持った橋のことである。この橋と北桔橋の2橋が江戸城防備のために、桔橋となっていたが、現在は普通の橋となっている。


八丈島・青ヶ島への旅⑥三宅島港着発から竹芝桟橋まで

2024年12月21日 09時00分44秒 | 東京都

三宅島南岸。

2024年12月3日(火)。

船の行程は、八丈島発9:40、御蔵島着12:35、発12:40、三宅島着13:35、発13:45、東京着19:50である。伊豆大島には寄らない。

御蔵島港から北に約18km離れた三宅島へ向かう。噴火による避難は記憶に新しい。

三宅島は、伊豆大島の南57kmに位置する直径8kmのほぼ円形をした島で、伊豆-小笠原海嶺の上にあり、第四紀更新世の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で噴火が始まり、島が形成されたと考えられている。

島は雄山(おやま)を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体であり、玄武岩質の成層火山である。

雄山を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山(常時観測火山)に選定され、気象庁によって火山活動度ランクAの活火山に指定されている。

最近500年間では平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。

2000年6月26日から三宅島南西部を震源とする小さな火山性地震が観測され始めた。一連の現象は、三宅島の南西部に貫入したマグマが西方海域へ移動したことによると推定された。

その後、地震の震源はさらに西方沖へ移動し、新島、神津島近海で活発な群発地震活動(最大マグニチュード6.5、震度6弱)となった。

7月4日頃から再び雄山山頂直下を震源とする地震が観測され始め、次第に活発化していった。7月8日、山頂で小規模な噴火が発生し、山頂付近に直径700〜800mの円形の陥没地形が形成された。この陥没は次第に拡大し、8月中旬までに直径1.5km、深さ450mのカルデラが形成された。

8月10日には噴煙の高さが8000mに達する規模の大きな噴火が発生した。その後は断続的に噴火が観測され、18日の噴火では噴煙の高さが14000mにも達した。この噴火の際には西側山麓で降灰があり、中腹では50cmの噴石、山麓でも5cm程度の火山礫が落下した。

8月29日の噴火の際には低温で低速の火砕流が発生し、山頂から北東側に5km、南西側に3km流れ、北東側は海にまで達した。また、雨による泥流も頻発した。8月31日、火山噴火予知連絡会は「今後、高温の火砕流の可能性もある」とする見解を発表。これを受け、9月1日全島避難が決定、4000人余の島民は島外での避難生活を余儀なくされることになった。

噴火は9月まで続き、その後は山頂火口からの大量の火山ガス放出活動に移行した。その後火山活動は低下し、2005年2月1日、全島避難指示から4年5ヶ月に及ぶ避難指示が一部を除き解除された。

桟橋へ近づく。南には御蔵島が見える。

三宅島・三池港桟橋。

三宅島・御蔵島。

伊豆諸島北部。14時15分ごろ。

伊豆大島。伊豆半島。16時20分ごろ。

レインボーブリッジ。

東京タワー。

当日は東京に泊まり、翌朝は皇居乾通り通り抜けで紅葉を楽しんだ。

八丈島・青ヶ島への旅⑤八丈島底土港から御蔵島港着発まで


八丈島・青ヶ島への旅⑤八丈島底土港から御蔵島港着発まで

2024年12月20日 09時32分34秒 | 東京都

八丈島。底土園地。

2024年12月3日(火)。

本日は八丈島朝発の東海汽船の大型客船で竹芝桟橋へ帰ることにした。11月29日の往路便が欠航したのでANAの午後便を予約していたが、2日夜の東海汽船のHPで運航が確認されたので、その時点でANAをキャンセルした。船のほうが運賃は安いし、八丈島の観光も30日の午後と2日に回った程度でいいだろうと判断した。また、御蔵島と三宅島を見たことにできるからだ。

船の行程は、八丈島発9:40、御蔵島着12:35、発12:40、三宅島着13:35、発13:45、東京着19:50。八丈島の乗船地が底土港になるか八重根港になるかは営業所に確認しなければならないので電話すると、底土港だった。

宿の最寄りバス停である「大脇前」を8時5分のバスに乗り底土に8時18分に着いた。目の前にフェリーターミナルがあるが、その前に海岸を眺めてみた。

フェリーターミナルの2階に登り周囲を眺めてみた。

沖合に停泊していた青ヶ島行きの客船「くろしお丸」が8時30分ごろに埠頭に接岸してきた。「くろしお丸」は9:30出航で青ヶ島12:30着である。

この時期の「くろしお丸」の運航は1週間のうち月火のみというパターンが多い。

8時45分ごろから乗船券の販売が始まった。案内所で11月29日の便が欠航してえらい目にあったというと、八丈島に接岸できず沖から東京へ引き返すこともあるという。

9時20分すぎに竹芝桟橋行き客船「橘丸」への乗船が開始され、埠頭のほうへ歩いていくと、「くろしお丸」が間近に見えた。乗客は10人ほどが確認できた。

底土港フェリーターミナルと八丈富士。

乗船後9時35分ごろに展望デッキに出ると「くろしお丸」は遠くに行ってしまっていた。

9時40分ごろに出航した。底土港はどんどん遠ざかっていく。

八丈小島と八丈島。

御蔵島。油断していたら12時ごろに御蔵島の西岸を進んでいた。

御蔵島の北には三宅島が見える。

岸辺の崖から滝が流れ落ちている。

御蔵島北岸へターンすると三宅島が見えた。

御蔵島の北岸に向かう。

御蔵島港。

タラップ風景。

タラップを運搬する車両。

御蔵島港から三宅島へ向け出航。

八丈島・青ヶ島への旅④ヘリから眺める青ヶ島・八丈島 島寿司・大里の玉石垣・樫立温泉・中之郷温泉


八丈島・青ヶ島への旅④ヘリから眺める青ヶ島・八丈島 島寿司・大里の玉石垣・樫立温泉・中之郷温泉

2024年12月19日 08時52分07秒 | 東京都

八丈島(八丈富士・三原山)と八丈小島。青ヶ島ヘリポートから。東京都青ヶ島村。

2024年12月1日(日)。

7時30分から「あおがしま屋」別棟で和朝食。半分ビュッフェスタイルだ。朝食後に宿代などを精算した。女将の夫は愛知県の三河地方の出身で、私と同年らしい。くろしお丸は先週は月・火のみ運航で、夫は八丈島からくろしお丸で今日帰るという。女性の一人客は、その往路便で帰るという。この時期は、だいたい月・火のみの運航になってしまうようだ。キャンプをするつもりもあったと言うと、以前キャンプ場で泊まり、「あおがしま屋」でも泊まった女性がいたという。船ならともかくヘリだとテントなどは運べないよね、と言うと、郵便局に送る人もいるという。

9時30分過ぎに青ヶ島ヘリポートに着くと、昨日と同様好天に恵まれて、八丈島と八丈小島がくっきりと見えていた。

青ヶ島ヘリポートに着陸する東邦航空「愛ランドシャトル」。

東邦航空「愛ランドシャトル」の八丈島空港9時55分発青ヶ島10時15分着のヘリは待合室から見ると点のような形で近付いてきた。ヘリポートに近づくと右側に回り込んでしばらく見えなくなったが、あっという間にヘリポートに着陸してきた。

着陸前に待合室のガラスドアで着陸を待っている乗客が2人いたので、私は中に入るように声をかけた。制限エリア外に決まっているからだ。ガラスドアに一番近い位置にいたので、数人が撮影するのかと思い、ドアを開けたままにしていたら、「寒い風が入ってくるからガラスドアを閉めろ」と私に注意する人物がいて、係員にアピールした。係員がガラスドアを閉めて待つように規定されていると言ったので、ドアは閉められた。事故でヘリのローターが飛んでくることもないわけではないので当然だろう。ガラスドアから着陸風景を撮影すること自体は規制されていないようで、撮影したのは私一人だけだった。

青ヶ島発は10時20分、八丈島空港着は10時40分で、ほぼ定刻どおり出発した。往路便も復路便も操縦士後方窓側であった。

青ヶ島を出たあとに、そういえばと思ってカメラを青ヶ島方向に向けて撮影した。後方に手を向けただけなので、どう映っているかは分からなかったが、うまく撮影されていた。

中央奥は尾山展望公園や大凸部などの外輪山北部で、丸山などのカルデラは見えない。中央上部の反射している人工物は取水場などの水道施設である。その下が東西に分かれた岡部地区で、建物が点在している。その下はジョウマン共同牧場の牧草地帯だろう。

青ヶ島を出て一直線に八丈島へ向かっているので、八丈小島・八丈富士・三原山は常時見えていた。八丈小島と八丈島の間は想像以上に広い。

八丈島の樫立・中之郷エリアか。

明日葉そば。八丈島空港レストラン。

1000円。それなりに美味い。羽田空港から八丈島空港に着いた11月30日にレストランのメニューサンプルを見たら島寿司と明日葉そばのセットが一番人気で2000円と書いてあったので、空港に着いて注文しようとしたら、なかった。予約で売り切れたという。島寿司が食べたかった、というと「八丈ストア」にはあるはずだという。

「バスパ」という八丈町営バスの路線バス・3温泉フリー利用できる1000円のフリー乗車券を活用するつもりで旅行前からバスの時刻表を見てシュミレーションを繰り返してきたせいで、11時22分八丈島空港バス停乗車、11時29分八丈ストアーバス停下車で、島寿司購入後、徒歩で11時51分護神バス停発に乗車し樫立温泉(ふれあいの湯)下車の行程を実行することにした。

バスに乗った途端、八丈島歴史民俗資料館が12月1日から長期休館になったという掲示に驚いた。知っていれば11月30日に見学していた。約2年後に大賀郷の「歴史民俗資料館」バス停近くに新設されるという。末吉温泉休業と同じくショックを受けた。

「八丈ストア」。三根(みつね)地区西端、八丈島空港東端近くにある。「スーパーあさぬま」より車の数が多い。内部の品ぞろえも多かった。島寿司コーナーを教えてもらって、覗いてみると松・竹・梅のように魚の種類が分かれて並んでいたので一番安い「かっぽれ」1080円を購入した。

島寿司「かっぽれ」1080円。

大里のバス停で中之郷方面行きバスを待つ間に食べた。大東島で島寿司は食べたことがあるので味は分かっていた。

天照皇大神宮護神バス停がある交差点から見えた。

大坂トンネル手前から眺める八丈小島。

樫立温泉(ふれあいの湯)。建物前にバス停がある。

温泉の浴槽は広い。湯質も良かった。ツアー団体の客もいた。このあと、バスで大里へ。

大里の玉石垣。六方積みという手法で横長の玉石が規則正しく積み上げられている。かつて、流人が積み上げたという言い伝えが残っている。

きりがないので、適当に切り上げて、青ヶ島が見えるという中之郷温泉「やすらぎの湯」に行くことにした。13時50分過ぎに大里で乗車して14時3分ごろ「中田商店前」で下車し、海岸へ下っていった。前日の青ヶ島徒歩旅行で3万歩以上歩いていたので、荷物全部を入れたデイパックを背負って坂道を下るのはつらかった。

海岸近くから眺める青ヶ島。

「やすらぎの湯」への案内標識は一つもないが、ひたすら坂道を下ると建物があった。左に行きかけたが間違いと分かったので建物を右から左へ巻いてさらに下った。この近辺に「名号墓」というものがあった。

名号墓。

本日初めて史跡らしきものに出会った。

14時40分頃に中之郷温泉「やすらぎの湯」に着いた。

湯質は平凡だが、窓の外には海の中に青ヶ島が浮かんでいた。入ったときは2人程度だったが、すぐに10人近くになった。外に出ると車が10台ほど駐車していた。

バス通りまで坂を登っていくと40代ぐらいの入浴帰りの女性が抜いていった。途中で魚をさばいている料理人らしき老人と親しく話をして横道に入っていったので地元の人だろう。

学校帰りの中高生にも挨拶されながら、1時間ほどかけてバス通りにたどり着いた。バス停近くの「八丈ストア・ミニミニ店」でCGCの安いペットボトル茶を購入した。16時38分のバスに乗車して、大賀郷の「大脇前」で下車し、八丈島の観光を終えた。

翌朝は底土港から竹芝桟橋への旅客船で帰ることにした。

八丈島・青ヶ島への旅③青ヶ島の絶景 二重カルデラ 尾山展望公園