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東京深川 清澄庭園 三菱財閥岩崎家三代が築いた池泉回遊式庭園

2025年01月15日 08時54分03秒 | 東京都

都立庭園・清澄庭園。正門(門松)。東京都江東区清澄。東京都指定名勝。

2025年1月3日(金)。

清澄庭園は、三菱財閥岩崎家三代が築いた池泉回遊式庭園で、名石の庭として知られる。

本日は箱根駅伝2日目ゴール地点・大手町での見学がメインである。しかし、何時から場所をキープすべきか情報はなかった。ゴールが13時過ぎとして9時では4時間も待つことになるので早すぎると思った。

そこで、都営地下鉄の車内広告に都立庭園が2日と3日にも開園するとあったので、見学したことがなかった清澄庭園を見学することにした。

一方、東京サブウェイ72時間券の期限は1月3日の8時41分までだったので、東京サブウェイ72時間券の2枚目を清澄庭園見学後の10時過ぎに購入すれば、期限は1月6日の10時過ぎになり、JR都区内フリー乗車券を使用する1月6日早朝に新橋から「ゆりかもめ」に乗り、終点である豊洲から有楽町まで地下鉄を利用することができることも考慮した。

大江戸線「清澄白河」に8時30分ごろ着いて、9時に清澄庭園へ入ると、意外と見どころがあり、9時45分ごろに出て、深川江戸資料館まで歩いてから半蔵門線「清澄白河」から大手町に着いたのは10時30分ごろだった。すでにゴール付近は空いている場所はなかったので、10時までには来ている必要があったと思われる。

入口。「下町気分でお正月」2025年1月2日(木)・3日(金)開催

清澄庭園の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられている。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿(現・野田市)の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようである。

清澄は深川地域内にあり、江戸時代以前のこの一帯は隅田川の三角州に蘆荻の茂る低湿地帯であった。徳川家康の江戸入府に伴い、隅田川の水運や木場の発展を背景にして、魚介類の需要に応えるため隅田川河口に深川猟師町が誕生した。清住(現・清澄)周辺に町が出来始めたのは寛永時代(1624〜1643年)頃で、江戸の繁栄に伴い猟師町から商業中心の町屋に変貌し、清住町には仙台蔵が出来て、仙台掘が深川木場への重要な流通水路として発展した。

明治11年(1878年)深川清住町と伊勢崎町の土地約3万坪を、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、以降、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代にわたって清澄庭園は引き継がれた。

明治13年(1880年)4月、庭園は「深川親睦園」として 一応の竣工をみて、平時は三菱社員の慰安の場、特別の内外の賓客がある時は接待の場とされた。

清澄庭園の特徴の一つが巨石の石組みで、弥太郎は全国から集めた巨石を船便で庭園に持ち込んだ。また、池沼を改修し、新たに林泉を設けて大庭園を築造、池は二カ所の堀で仙台掘さらに隅田川に通じている。

『岩崎久弥伝』によれば「ここには旧幕時代の大名屋敷の池庭があった。弥太郎はそれらの庭を改修し、これを綜合拡張して新たに林泉の布置を定めてここに一大庭園を造築した。」と記されている。また弥太郎は青年時代から造園に興味があり、特に石が好きだったようで「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以て憂悶を感ずる時は名庭園を見る。中略、ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巌大石を配し、老樹黙綴して豪宕の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造る時あればかくの如きものに倣はんと欲す。」と記されている。

明治19年(1886年)の地図によると、洋館東側に大きな建物があり、日本館と思われる所にも小邸がある。庭園の殆どの所は池が掘られ、築山と回遊する園路があり、南側には仙台掘から引込んだ水路が東に流れ、富士山から遊園地にかけて大きな鴨池がある。

弥太郎の弟・3代目弥之助は、明治18年(1885年)弥太郎の没後、完成途中だった清澄庭園の後を受け、施工計画書を作って修築を進め、国内外の要人の社交場として豪華さを目指し、巨額の建設費を投じて明治24年(1891年)に完成させた。

弥之助は明治19年(1886年)に京都から武者小路千家一門の茶匠である磯谷宗庸を招き、園游開場、温室園芸場、植込地を設け、多くの庭石を入れた。また、日本館と洋館を新築、日本館は木造建坪315坪で河田小三郎の設計で大広間、茶室、小集会室、松の茶屋などを備えた。洋館はチューダー式赤煉瓦建坪782坪で英国のジョサイア・コンドルの設計で、明治22年(1889年)に完成した。

弥之助によって完成された庭園は、明治初期の回遊式潮入り林泉の名園といわれ、敷地約3万坪で「汐入り」の庭に渓流、入江、渚灯を設け、池には大小の島を配し橋を架け、東西に藤を擬した小丘を築き、老樹に見事な庭樹で補い、東北、四国、九州、小笠原、伊豆などから庭石を収集搬入し完成された庭園であった。

弥太郎の長男で4代目の久弥は、池の南岸に保岡勝也設計の小亭「池の御茶屋」(現・凉亭)を建て、明治42年(1909年)英国の陸軍元帥キッチナーを歓待した。

大正9年(1920年)、久弥は社会情勢の変遷や将来の経営を考え、庭園の南東の園芸場、園遊会に使われていた芝生区域約3,000坪の公開を目的に、東京市公園課と相談し児童遊園として改造し、大正10年(1921年)12月に一般公開した。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災では清澄庭園は逃げ惑う人々の避難場所となった。建物は凉亭を除き日本館も洋館も灰となり、庭園も老木大樹は焼かれ、石組みも損傷、壊滅的な打撃を受けた。

大正13年(1924年)10月、岩崎久弥は破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開した。寄付された内容は、敷地15,541.08坪、日本館、凉亭、中島、松の茶屋の焼跡、沢渡りの大飛石、長瀞峡などの水景と芝生築山、清澄遊園である。

昭和2年(1927年)2月、新宿御苑で行われた大正天皇御葬儀で使われた葬場殿(建坪71坪)を、清澄庭園に移築して「大正記念館」と命名し、昭和3年(1928年)5月27日、開館式を行った。

昭和52年(1977年)庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した。

名石。

伊豆石、伊予青石、紀州青石、生駒石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石。これらは庭園に据えられた庭石の代表的なものである。このほか敷石や橋、磯渡り、枯滝の石を含め、園内には無数の石が配置され、「石庭」の観を呈している。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものである。

水鉢(大和御影石)。

一両・十両・百両・千両・万両。

大きいものは、霜除け(鎧)、小さいものは霜除け(巻おろし)。

大正記念館。

昭和3年(1928)、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したもの。最初の建物は戦災で焼失(1945)してしまったため、昭和28年(1953)に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建した。平成元年(1989)4月に全面改築され、現在は集会施設となっている。

大泉水三つの中島を配した広い池。水面に島や数寄屋造りの建物、樹々の形を映しだすこの池は、庭園の要である。昔は隅田川から水を引いていたため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれている。現在は雨水でまかなわれている。

富士山。

この庭園で最も高く大きな築山。関東大震災以前は、この築山の山頂近くには樹木を植えず、サツキやその他のツツジ類の灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現していたという。

石仏群。

枯滝。青石。

真鶴石。

芭蕉の句碑。「古池や かはづ飛び込む 水の音」。

涼亭(りょうてい)。

池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。

震災や戦災をまぬがれ今日に至ったが、昭和60年(1985)に全面改築工事を行い、現在集会施設として利用できる。平成17年(2005)、「東京都選定歴史的建造物」に指定。

磯渡り池の端に石を点々と置いて、そこを歩けるようしたもの。広々とした池の眺めが楽しめるだけでなく、歩を進める度に景観が変化するように配慮されている。

長瀞峡。

9時45分ごろに庭園を出た。

深川江戸資料館へ向かうと、寺が通りの両脇に密集していた。付近を散策する人たちが多くいた。深川江戸資料館は有料だったので、「清澄白河」駅に戻り、東京サブウェイ72時間券を発行してもらい、大手町へ向かった。

東京 国立競技場 1月2日大学ラグビー準決勝見学


東京 国立競技場 1月2日大学ラグビー準決勝見学

2025年01月14日 08時47分07秒 | 東京都

国立競技場。

2025年1月2日(木)。

皇居新年一般参賀の1回目10時10分開始分を見学して、大学ラグビー観戦のため、10時40分ごろ大手門を出て大手町駅から大江戸線の「国立競技場」駅に向かい、11時15分ごろ「国立競技場駅」に着いた。

大学ラグビーも一般参賀と同じく正月のテレビでは定番の風景だ。国立競技場で開催される大学ラグビー準決勝のチケットを1月4日の秩父宮ラグビー場の分と合わせて1月1日にネットで購入した。

数週間前にチケット購入用のためネット会員に登録していたが、システム利用料がチャージされることが不満で購入しなかったのだが、直前になり必要なんだろうと思い購入した。自由席で1500円とシステム利用料220円の1720円QRチケットにしておいた。コンビニで紙発券だとさらに高いのだろう。

駅から近いBゲートに向かい、購入履歴からQRコードを表示して入場した。

第一試合は明治大学対帝京大学で12時25分開始

第二試合は早稲田大学対京都産業大学で14時45分開始。

11時30分ごろだったので、シートはかなり空いていた。臨場感が味わえるのかと思い、1階の1番下の席に座った。

国立競技場といえば、東京オリンピックで設計が隈研吾に替わったいわくつきのスタジアムだ。隈研吾が設計したミュージアムは最近評判が悪い。老朽化が激しい。木材の扱い方を知らない、と言われている。国立競技場も陸上トラックと球技場を併存させた設計となって使い勝手が悪いといわれていた。文教族のドン森喜朗の横車らしい。

試合開始10分前。

試合開始直前。

明治の攻撃。

帝京の攻撃。

開始7分後、帝京の1回目トライの瞬間。

開始8分後、帝京の1回目トライ後のコンバージョンキック直前。

開始16分後、帝京の2回目トライ。

トライすれば近くで見れると思ったが、1階の1番下は実に見にくい。はるか遠くでプレーしている感じだった。ラグビーの縦サイドも短く見えて全体が小さく見えた。

第一試合終了後、反対側に移動するため、通路を歩いていたら明治のフィフティーンが応援御礼をしていた。

通路を移動していく。

第二試合は第一試合と真反対の高い場所に座った。ゲームの全体像は見やすい。トラックがある分距離観がある。1月4日に秩父宮ラグビー場の上の席で観戦したが臨場感は段違いにあった。

第二試合。試合開始直前。

第二試合。後半11分、早稲田のトライ。

早稲田はここまでは良かったが、その後は京産大に押し込まれ防戦一方だった。

16時30分ごろに試合が終わり、宿へ帰った。

翌日は箱根駅伝2日目ゴール地点での見学がメインである。

2025年皇居新年一般参賀


2025年皇居新年一般参賀

2025年01月13日 08時58分21秒 | 東京都

皇居新年一般参賀。

2025年1月2日(木)。

日本の新年行事でニュースに扱われる筆頭は皇居の一般参賀である。10時10分に始まる第1回に間に合うように7時30分頃に二重橋駅から二重橋方向へ向かった。7時ごろに着きたかったがやはり遅れてしまった。列の最後尾で、日の丸の小旗をもらった。1回目に入れそうな気がしたが、先頭から何人目かは分からない。

2回目では駄目なのは、大学ラグビー準決勝のチケットを購入しており、国立競技場で12時25分に第一試合が始まるからだが、最悪2回目でも問題はないと思っていた。

新年一般参賀(宮殿東庭における参賀)の宮内庁発表概要。

参入時刻 午前9時30分~午後2時10分。

参入門  皇居正門(二重橋)、退出門     坂下門、桔梗門、大手門、乾門。

お出まし(予定)   天皇皇后両陛下が、5回長和殿ベランダにお出ましになる。

第1回 午前10時10分頃第2回 午前11時00分頃、第3回 午前11時50分頃、第4回 午後1時30分頃。

1回目は、天皇皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下、佳子内親王殿下及び常陸宮妃殿下が、2回目及び3回目は、天皇皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下及び佳子内親王殿下が、4回目以降は、天皇皇后両陛下、秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下及び佳子内親王殿下が御一緒にお出ましになる予定。

参賀者は、午前9時30分から午後2時10分までに、皇居正門(二重橋)から参入し、宮殿東庭の参賀会場を経て、坂下門、桔梗門、大手門又は乾門から退出することとなる。

混雑や危険を防止するため、手荷物検査とセキュリティーチェックが行われる。

自己撮影用器具、三脚、脚立等の機材は禁止

なお、折り畳み椅子はどうかと思い、yahoo知恵袋などを見ると駄目そうだった。実際にも使用している人もいなかった。

 

8時ごろ、箱根駅伝がスタートしたらしく周辺で動きがあった。

8時15分頃から手荷物検査が始まった。ペットボトルの飲み物を少し飲むのが主な内容だった。

そこからレーンに分けられて並ぶことになる。

手荷物検査所。

9時20分頃、皇居正門前広場に移動する。

9時30分ごろ宮内庁職員・皇宮警察に先導されて、のぼり旗を持った集団を先頭に皇居正門から入場していく。

奥の正門鉄橋(二重橋)を渡り、正門から反対方向の宮殿方向に向かう人並が奥に見えている。

皇居正門へ向かう。

正門前の眼鏡橋欄干から皇居正門前広場の参集者たちを望む。

正門鉄橋(二重橋)を渡り始める

正門前の眼鏡橋と皇居正門前広場。

宮殿東庭へ向かう。

立つ場所は、正面中央がいいのに決まっている。しばらくすると、案内放送は奥に誘導しだした。やはり早い時間に並び始めたほうが正面に立つことができる。遅いと左右に誘導されてしまう。

正面奥の高台には報道陣のカメラが並んでいた。

長和殿ベランダ。開いている開口部から陛下たちはベランダにお出ましになった。

上皇・上皇后陛下。

10時15分ごろ宮殿から右の宮内庁方向へ退出する。

富士見櫓。

10時30分ごろ桔梗門方向へ向かう参賀者たち。

私は大学ラグビー観戦のため、国立競技場駅で下車しようと、大手町駅に近い大手門へ向かった。

元旦の東京初詣 日枝神社、豊川稲荷東京別院、神田明神、冨岡八幡、浅草寺


元旦の東京初詣 日枝神社、豊川稲荷東京別院、神田明神、冨岡八幡、浅草寺

2025年01月12日 08時56分30秒 | 東京都

日枝神社。 山王鳥居と表参道(山王男坂)。東京都千代田区永田町。

2025年1月1日(水)。

元旦は初詣の寺社ぐらいしか観光する場所はない。参拝したことがある明治神宮などを除いて何か所か選定したうち、まず南北線沿線の神社である日枝神社を訪れることにした。国政選挙のときに当選祈願する神社としてニュースでよく見かけるので選んだ。このあと豊川稲荷東京別院、神田明神、冨岡八幡、浅草寺に足を運んだが、混雑がひどくなって閉口した。元旦は昼から人出が増えるらしく、多客が予想される神社から先に参拝したほうがよかった。

日枝神社(ひえじんじゃ)へは永田町駅で下りた。グーグルマップで確認して選択したのだが、溜池山王駅からが正解だと翌日に知った。永田町駅から坂道を下ったが、それなりに面白い風景だった。

9時20分頃日枝神社参道下に来ると、すでに多くの人が上から下ってきていた。狭い境内にも多くの人がいた。参拝自体は列はもなくできた。

神門。

拝殿。

本殿向かって左に子供を抱いた母親の神猿(まさる)、右には父親の神猿(まさる)が置かれている。猿は群れを大切にし、子宝に恵まれ安産であることから「家内安全」「子授け」「安産」を願って母猿を、「まさる」の語呂から「商売繁昌」「厄難消除」「良縁」を願って父猿を撫でると良いといわれている。日枝神社の境内には「狛犬」ではなく、「狛猿」が置かれている。猿は御祭神「大山咋神」の使いである事から「神猿」(まさる)といわれている。

日枝神社は、山王信仰の神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。

創建は、鎌倉時代に江戸氏が山王宮を祀ったことを起源とするが、直接的には文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である仙波日枝神社を勧請したことに始まる。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。

慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。

 

朱色の鳥居が並ぶ裏参道を下り、外堀通りを歩いて赤坂見附方面へ向かい、歩道橋を越えると、豊川稲荷の山門があった。

豊川稲荷東京別院。東京都港区元赤坂。

曹洞宗豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られた。大岡越前守にあやかり、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となる。また明治以降の赤坂は、料亭や芸者などが集まる花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えた。ジャニーズ事務所所属タレントをはじめ、著名な芸能人、スポーツ関係者からの信仰を集めていることでも知られる。

本堂に参拝後、茶店などを見に行くと本堂前より長い列があり、その先に「融通稲荷」があった。

「融通稲荷」では10円の融通金を自由に持って返ることができ、1年後(または願が適った時)に利子を付けて返納する。境内に置かれている「融通金(ゆうつうきん)」と書かれた黄色の袋は、参拝者全員が無料で持ち帰ることができるお守りで、財布の中に入れておくとお金に困ることがなく、開運招福や金銀財宝の融通が叶えられるとされている。

丸の内線に乗って「御茶ノ水駅」へ。神田明神へ向かうが、聖橋を見るために大回りになってしまい、11時頃に神田明神前に着くと、大行列に驚いた。

神田明神。東京都千代田区外神田。

神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。神社本庁の別表神社。

3柱を祭神として祀る。

一ノ宮 - 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。縁結びの神様。天平2年(730年)鎮座。

二ノ宮 - 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。商売繁昌の神様。1874年(明治7年)に大洗磯前神社より奉祀。

三ノ宮 - 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、1874年(明治7年)に構内の摂社である将門神社に遷座、1984年(昭和59年)に本殿に奉祀復帰。

社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。

承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は関東地方の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。

1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、太平洋戦争後の1984年(昭和59年)になって本社祭神に復帰した。

江戸時代初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782年)には権現造の社殿が造営されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。その後、1934年に当時では珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。

神馬「あかり号」。

江戸神社 。 大宝2年(702年)に武蔵国豊島郡江戸に創建された「江戸最古の地主神」である。鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬された。太田道灌の江戸城築城後は城内にて祀られていたが、徳川家康による慶長8年(1603年)の江戸城の拡張の際に神田神社境内に遷座した。

富岡八幡宮。東京都江東区富岡。

13時ごろ、東京メトロ東西線「門前仲町」駅で下りると、駅通路が行列路になっていた名残りがあった。駅前通りも歩きずらいほどの混雑。鳥居前の行列順路も駅前通りからに変わっていた。

富岡八幡宮深川八幡宮とも称され、1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島と呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。創建当初は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。

江戸最大の八幡宮であり、8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。また江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。

富岡八幡宮宮司殺人事件。

2017年(平成29年)5月、富岡八幡宮は、宮司継承問題のため神社本庁からの離脱を決議した。同年9月神社本庁から正式に離脱して単立神社となり、富岡長子が第21代宮司に就任した。神社本庁のトップまで務めた有力神社の離脱として話題となった。

同年12月7日、解任されていた第20代宮司富岡茂永とその妻は境内北東の通用門付近で待ち伏せし、姉の富岡長子と長子の運転手を日本刀で襲い、長子は死亡し、運転手は重傷を負った。茂永は妻を殺害した後に自殺した。

伊能忠敬の銅像。

江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年(平成13年)に境内大鳥居横に銅像が建立された。

社殿。

社殿は、1683年(天和3年)に焼失し、1703年(元禄16年)には地震により損壊し、1923年(大正12年)の関東大震災でも損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返した。現在の社殿は1956年(昭和31年)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。

参拝を終えても、まだ13時30分頃だったので、昨日参拝した浅草寺の元旦の様子でも見ようかと浅草に向かった。

銀座線の浅草駅を降りたが、警察が駅階段の規制をしていた。

14時30分頃、雷門前に来たが人出の多さに閉口したので、10分ほど滞在して宿へ向かった。

大晦日の東京 麻布十番の更科そば・堀井 浅草寺 花やしき


大晦日の東京 麻布十番の更科そば・堀井 浅草寺 花やしき

2025年01月11日 09時09分32秒 | 東京都

更科・堀井。麻布十番。

2024年12月31日(火)。

2024年12月30日から2025年1月7日(火)まで東京の年末年始を体験した。寒い冬は苦手なので旅行は今まで考えていなかったが、余命も少なくなり、安倍黒田インフレで今後の旅行費用高騰必至なので敢行することにした。2018年に身体障害者になって運賃半額になったこともある。宿は赤羽のカプセルホテル。11月末ごろに予約、8泊で27700円平均1泊約3460円。年末年始料金で普段より高い。帰るときに通常料金を見たら予約時から12%値上げされていた。1年後には諸物価は50%値上がりしているだろう。

2日の皇居一般参賀、3日の箱根駅伝などを軸に、見学ポイントを日別に複数予定しておいた。2日の国立競技場と4日の秩父宮ラグビー場でのラグビー観戦も数週間前に予定して会員になっておいた。

1月6日(月)は疲労のため今秋2回断念した西郷山公園・菅刈公園のために設定した。

27日に近所のファミマで東京サブウェイ72時間券を2枚購入した。31日朝から6日朝まで24時間あたり500円で東京メトロと都営地下鉄が利用できる。6日はJR都区内フリー乗車券760円を購入した。JRは名古屋・藤沢が2750円、東京・名古屋が3190円。

12月30日(月)JR東海道線の藤沢で下り、神奈川県大和市の介護ホームにいる兄を見舞った。

12月31日(火)。大晦日・年末の風物詩といえば「蕎麦屋」。有名店をネットから探して「更科堀井」を選んでいた。11時開店だが、店のSNSに早期開店の告示はなかった。赤羽岩淵でバウチャーを乗車券に変え、9時過ぎに着くことを目指したが、「麻布十番」駅からのアクセスが分からず、グーグルマップのナビは方向が分かりづらい。苦労して着いたのは9時45分ぐらいだった。30~40人ほど並んでおり、列も増えていった。

しばらくすると、テレビ朝日のある番組スタッフが、インタビューさせてほしい、と声を掛けてきたが、顔出ししたくないし、気の利いたことも言えないのでお断りした。10時15分ごろになると、紙コップに入れた甘酒を配ってくれた。10時40分ごろに、少し早めて10時45分ごろから開店しますと告知があり、直後に店へ入れ込んだが、私の2人前で打ち切りになり店先で待つことになった。あと5分早く列に並べば第1回に入店できただろう。

門松ではなく、門ネギが立っていた。

11時5分に入店して椅子席で待つと、5分ほどで一人席が空いた。

6人ほどのグループ客にどこかの報道番組が取材をしていた。

車海老天もり・さらしな。2200円。

更科は白い。

11時30分頃に店を出ると、行列は角を回って伸びていた。

このあと、上野のアメ横へ。何も買うものもなし、テレビや想像どおり、雑踏がすごいので浅草へ向かった。浅草寺は行ったことはあるが、最近は見たことがなかった。

本堂で賽銭を入れた。翌日も15時ごろ様子を見に来たが、雷門で警察が規制しており、長蛇の列だったので、そのまま帰った。前日に来て参拝しておいたのが正解だった。

「花やしき」。身障者無料だったので入場してみた。

ローラーコースターが横を通る民家は作り物だった。

14時過ぎだったが、この時期は16時30分には暗くなるので、早めに切り上げて宿へ向かった。