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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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八丈島・青ヶ島への旅③青ヶ島の絶景 二重カルデラ 尾山展望公園

2024年12月18日 09時21分00秒 | 東京都

尾山展望公園と大凸部への分岐。東京都青ヶ島村。

2024年12月1日(日)。

10時15分頃に青ヶ島ヘリポートに着き、復路便が八丈島へ向けて飛び立つのを見てから宿の「あおがしま屋」へ向かう送迎の車に乗り込んだ。3分余りで宿に着き、部屋に案内された。翌朝ヘリに乗るので観光時間は当日の日中しかない。事前にネットを見ていたので行先はまず、尾山展望公園と決めていた。二重カルデラ斜面の池之沢地区にはサウナや噴気孔があるが、レンタカーがないと厳しそうだったが、5000円も出すのもどうかと思ったので借りなかった。結局、池之沢地区まで降りてみたが、私のような徒歩の人には出会わなかった。坂を駆け下ってきた青年一人を別にして。観光としては、レンタカー5台ほどを見た。サウナ・噴気孔・丸山に行きたければレンタカーが必要だろう。もっとも、登山をしていたころの私であれば余裕で日帰りができたと思うが、身体障害者の高齢者には困難だった。重要なことは、二重カルデラを見下ろすことだけと思っていたので、それで良かった。

二重カルデラを見下ろす展望所には尾山展望公園と島の最高地点である大凸部(おおとんぶ)の2か所がある。レンタカーがあれば2か所可能だが、どちらか1か所を選ぶとしたら島の中心に近い尾山展望公園だとグーグルマップのクチコミに書いてあったので、尾山展望公園を選択した。

地図はないのかと宿の男性に尋ねたら、ない、と言われたが、部屋にマップ兼ガイドのパンフレットがあったので、持っていっていいのかと尋ねたらOKしてくれた。

宿を出てすぐ南に大凸部へ登る道と左に尾山展望公園へ向かう道の分岐があった。変電所を越すと海側へ下った児童公園入口に「還住(かんじゅう)の碑」がある。その先には青ヶ島小中学校があり子供の声が聞こえてきた。

2023年後半から24年前半にかけ、NHKの「英雄たちの選択」などで還住(かんじゅう)の歴史が紹介されたので、2月ごろに来島の計画を立て始めたのだ。

「青ヶ島村 還住(かんじゅう)の碑」。

1785(天明5)年頃、大規模な噴火による全島民避難で、青ヶ島は無人島になった。多くの苦難を乗り越え、約50年後、当時の名主であった「青ヶ島のモーゼ」と呼ばれる英雄・佐々木次郎太夫によって、生き残ったすべての島民が島へ帰還することができた。その歴史を「還住(かんじゅう)」と呼び、この還住の碑は、島民を導いた名主の想いを表した像である。

青ヶ島小中学校の先に見える八丈島と八丈小島。

 

天明の別れと青ヶ島のモーゼ 都立広尾病院消化器内科(島しょ医療研究会世話人)小山茂

島しょ医療研究会誌 第 4 巻 第 1 号(2012)より抜粋

青ヶ島は島全体が黒潮の流れに包まれ、現在も海上の交通が困難な島である。この島が、有史以来伊豆諸島で最も深刻かつ教訓的な自然災害を経験した島であることを知る人は少ないだろう。1785 年(天明 5 年)に発生した大噴火で島民 200 人余りが八丈島に逃れ、100 人以上が犠牲となり以降無人島となった。

佐々木次郎太夫が先頭に立ち、故郷に還住を果たしたのはそれから半世紀後の 1835 年(天保 6年)だった。当時の記録は、幸い八丈島の博学流人近藤富蔵による『八丈実記』をはじめ詳細に残されており、日本を代表する民族学者柳田國男もそれらを検討し整理している。彼の全集に青ヶ島還住記』という一章が収載されており、本稿はそれを中心に概説する。

 

青ヶ島は東京の南 358km、八丈島の南方 65kmにあり、伊豆諸島の有人島として最も南に位置する。世界的にも珍しい二重カルデラ複成火山の島であり、外側カルデラ中央には丸山という内輪山がある。最高点は外輪山北西部にあたる大凸部(おおとんぶ)で標高 423m である。

はじめて史料に登場するのは 15 世紀に入ってからである。内容は船の遭難など海難事故の記録ばかりで、当時の海上交通がいかに困難だったかが偲ばれる。

青ヶ島は他に隣島がないので早くから八丈島の属島であり、たった一つの取引先であった。村に名主は置かれていたが、八丈の地役人が伊豆御代官の下に支配した。貢物として絹を納めていたが、糸を染め機織る者が島内にいないので、白糸を持参し八丈の女性たちに織ってもらって納めた。

青ヶ島の名主の家は、噴火当時までに 8 代続いている。佐々木家が代々の名主で、後に島の復興を完成し永く功業をたたえられている“青ヶ島のモーゼ”、次郎太夫伊信(これのぶ)もまたこの家の出であった。

旧火口の盆地は当時から池之沢と呼ばれていた。中央に大小 2 つのかなり深い池があり、その周囲が島民の主たる農耕地であった。外輪山の上にある住まいから作場に降りて行くという生活で、島民の衣食には十分な肥沃な耕地だった。

[第 1 回噴出:1780 年(安永 9 年)]薩摩の桜島が爆発した次の年の 6 月だった。池ノ丸橋という所に火穴があき、おびただしい湯が湧き始め、1 日で池の水位が 6 寸余り高くなった。28 日以後は火穴が数を増し、みるみる池の周囲を浸水し、大池小池が 7 月 15 日には一続きになってしまった。池の水は熱くなり手を入れることもできなくなった。大木は根を熱湯に浸されてたちまち落葉し、樹はことごとく立ち枯れとなった。空地は盛んに煙を吐き、これに当たった作物は皆枯れた。

甘藷(サツマイモ)はその頃すでに冬春の捕食料として栽培していたが、池の周囲の作付け分は全滅し高所の畑だけにわずか残った。桑の木も一度に枯失し御年貢の養蚕も困難になった。木綿も全滅し衣服の材料にも困窮した。それよりさらに困ったのは飲み水で、池が溢れるとともに井戸が使えなくなった。

[第 2 回噴出:1781 年(天明元年)]4 月の 10 日 11 日にまた地震が発生し、11 日の昼前には池之沢のミソネという所から灰の噴出があった。島中が真っ暗になり、夜に入ってからは湯水が湧き上がった。前回の引水の跡、格別被害のなかった作場の土も今後は水とともに流れてしまい、大小の岩塊だけが残って耕地に戻すのが困難になったのみならず、地面一帯が熱くなり最も丈夫な作物さえ失せた

第 3 回噴出:1782 年(天明 2 年)]5 月3 回目の噴出が起こった。鰹節と塩辛、少々の麦の貯えに海藻を加えて人々は命をつないだ。

第 4 回噴出:1783 年(天明 3 年)]3 月 9 日の夜になって丑の刻に大きな地震が8 回揺れた。しばらくして池之沢に大穴が空き、今度は火石を吹き上げ始めた。空へ噴き出した小石は外壁の上にある村中に降りかかって火災を起こし、名主七太夫は家、蚕屋、家財とも焼け蔵だけが残った。その他百姓の家 29 軒と堂小屋 26、合わせて 61 棟が全焼した。島の農作物や草木は火穴から最も遠い西北の一部にわずかにのこるばかりで、その他は一切跡形もなく樹木はすべて立ち枯れになった。桑の葉も尽き養蚕は壊滅状態となった。

1784 年(天明 4 年)の 1 年だけ災害が休みだった。

【天明の別れ】

1785 年(天明 5 年)3 月 10 日午前、新たな噴火に見舞われた。今まで経験したどれより更に激烈で、昼でも真っ暗な日が 8 日間続いた。島民はいよいよ踏みとどまっていることが出来なくなった。

八丈では青ヶ島の方向に火炎立ち上るのを見て早速通用船を出帆させた。幸い波風よく夜に近づけたが、真っ暗で船を寄せることができず夜明けを待って周囲から様子を見た。頂上中央から北寄りに白煙が渦巻き、島の周囲は一円に黒煙で絶えず火炎が立ち、山の形は一様に低くなったように思われた。その内に時々震動があり、山焼けも進み船を付ける見込みがなく引き返して状況を報告した。それから 20 日近く手立てがなく、眺め暮すしかなかった。

そこへ青ヶ島の方から名主七太夫ほか 8 名が船を出して注進に来たので被害状況が明らかになった。一昨年まで噴火はほどなく鎮静したのだが、今度は 20 日近くも荒れ続いた。かつて底知れぬ池だった池之沢が火石と砂土によって埋まっていき、日増しに火口が高くなり火石が里中まで吹きかけてくるのは必発でそうなれば逃れる道がない]「どうか山焼けの鎮まるまでの間、在島者を八丈に引き取って一命を助けてくだされ」というのが七太夫らの願書の趣意であった。

八丈の方はこの災害の報せを受け、即刻救援に行こうとしたのだろうが、波風の妨げがあり 10 日余り出発できなかった。

4 月 10 日には樫立村名主の市郎右衛門ら一行が青ヶ島からやってきた舟に救援物資(御救い穀)を積んで乗り、八重根港を出帆した。夜に入って島に近付くと、山焼けの火で空も島山も真昼のごとく炎が波を照らした。翌 11 日朝にかろうじて西浦に船を着け、物資を神主ならびに役人へ引き渡した。島中を検分しようにも風が悪く、早速帰帆となった。青ヶ島の男女 45 人が避難のため便乗し漕ぎ出したが、沖合に出るまで灰砂が降りかかりやっとの思いで八丈に戻った。

このときの島はすでに一面の火になり、人家もすでに消失していたらしい。老少男女の者が浜に下りて潮に浸り岩に取りすがって嘆き悲しむ声は、たとえようもなく哀れであったと言っている。

さらに半月余経て 4 月 27 日に三艘の助け舟が八丈から漕ぎ寄せられた。108 人の男女が救助され、大急ぎで八丈に戻ってきた。島にはまだ幾人か残っていて、助けてくれと泣き叫んだが、船は小さし人は多し、これ以上はどうしても救えなかった。

当時の青ヶ島の人口は、安永 3 年の記録によれば家数 53 軒、男 161 女 166、合わせて 327 人ほか流人 1 人とのことである。これから 6 年目が最初の噴火だから、ほぼこの数のままとみてよいだろう。4 月 11 日に 45 人、27 日に 108 人、3 月終りに名主らと共に来た者を合わせると脱出者は 202 人である。残された島民の大部分は2 度の助け舟を待てなかったと思われる。

【避難生活と起返(おこしかえし)】

青ヶ島の避難民は八丈でそれぞれ知り合いの家を頼って住んだが、いずれも衣食に窮乏していた。労力は八丈でも余っており、対等の経済生活を送ることは困難だった。

名主七太夫は 3-4 年の間にこの世を去り、継いで名主になったのは三九郎であった。名主三九郎が青ヶ島に渡ったという初めての記録は、噴火から 4 年後の 1789 年(寛政元年)である。12 人の一行は 6 月 16 日に出て 21 日に無事帰還している。八丈の役所はその時の実地検分の意見書に基づき、新たに青ヶ島還住の方策を立て、穀物の購入や開発準備のための資金援助もした。「起返」(おこしかえし:復興開発)へのはじまりである。

1793 年(寛政 5 年)7 月 12 日、三九郎は 19 人とともに穀物農具を舟に積んで渡り、小屋をかけ 12 人を残し置いた。ところが種穀の不足からそのうちの 5 人が翌 8 月に八丈へ渡ろうとして海上で行方不明になった。翌 1794 年(寛政 6 年)4 月には二艘仕立てで食料を運んだところ、島に着いてから時化に遭い船が流失した。埋まっていた資材を掘り起こし農具を釘として小舟をつくり、6 月に一行 13人はかろうじて八丈に還った。

1799 年(寛政 11 年)9 月 4 日、男女 33人の数家族が共同で穀類を船に積んで出帆した。これも海路を見失い紀州まで漂流した。還住の計画はここでいったん頓挫した。島に渡っていた 7 人は 8 年間耐え忍んでいたが命をつなぐ方途がなく、1801 年(享和元年)6月 8 日焼け残りの資材で小舟を作り全員それで八丈へ引き揚げた。島は再び無人無毛の地になり、それが 16 年間続いた。

【佐々木次郎太夫のリーダーシップ】

 新しい名主次郎太夫の名は、最後の噴火から32 年目の 1817 年(文化 14 年)に還住願い書を出し、再度の「起返」開始で登場する。1770 年(明和 4 年)の生まれでこの時 47 歳、天明の別れの時はわずか 15 歳で八丈へ逃げている。

避難民は死んで代が変わり、生き残りも次第に衰弱していった。1817 年(文化 14 年)には寄留者数が 177 人に減少した。八丈全体の人口は増加しており、仮住まいの身では渡世にも難渋するようになった。何より不利な状況は、政府の援助金は期待できず、基金ももう底を尽いていたらしい。このままではいられなかった。

文化 14 年に還住願い書が取り上げられて後、仲間に言い渡した計画は驚くべき行き届いた誠意のこもった内容だった。そしてその通りに実施された。

彼の計画では、船を大小 2 艘新造し、まず 177人の中から 27 人を選抜して 7 人を交通方、他 20人を先発隊として島に渡らせ、建設の仕事に就かせるというものだった。個々の職制には主任が指名され、浜と道路の復旧を島開発の第一の要件として各々の棟梁を浜方普請棟梁・道普請棟梁として任命した。ほか伐開棟梁、漁棟梁の職を設け、耕地作物が充足するまで魚類で食料を補うだけでなく魚油を燈火として用いらせた。

さらに用意周到に鰹節の貯蔵も始めこれを厳密に管理し、隠し積みなどは厳罰に処した。本来青ヶ島の貨幣でもあった鰹節の統制管理は、島民の公共心も復興させたに違いない。

復興計画は着々と進行したが、経過に関する正式な中間報告は伝わっていない。その中で話として伝わっているのは島を荒らした野鼠の退治についてである。島では移住以来駆除策を施しても効果が上がらず、麦粟は栽培できなかった。これは焼け死んだ人々の怨恨によるのであろうとのことから、施餓鬼供養を営んでねんごろに弔ったところ、それから次第に野鼠の数は減り、自由に何でも耕作できるようになった。

次郎太夫の計画が始まってからというもの、ただの一度も船は風波の妨げなく往来していた。これには八丈の人も驚いたらしく、目に見えぬ神秘の導きを感じていた。

【還住成就】

彼の計画通りだったかどうかは不明だが、ゆっくりと還住は実現した。文化 14 年に願書を提出して 20 人の先発隊が島を渡り、17 年目の 1834年(天保 5 年)に至ってやっと青ヶ島人の全部が故土に還り、翌 1835 年(天保 6 年)に検地竿入れを受けた。

還住後の生活状態は噴火前より様々な点で良くなっていたようである。神社も寺も再建され、水は涌き水に頼らず雨水を受けて使用する設備にした。ほか新しい事業として、塩を焼く釜を二か所に設けた。集落は始め 3 つに分ける企画だったが実際は終始一村として取り扱われた。

島の復興はその後着々と進み、1839 年(天保10 年)には 60 年以上絶えていた貢物の絹が再び納められ、翌年には次郎太夫に亡地新開の勲功をもって公船の免許がおり、金子や手形が給付された。復興の完了した 1844 年(天保 15 年)の 6 月、次郎太夫の表彰が行われた。すでに 74 歳だった彼は更に 10 年復興を見届けてから世を去り、神に祀られた。祠は島のテラノトンブという頂に、吏長の両人を島の守護として祀ったとあるが、もう一人は三九郎であろう。

佐々木次郎太夫の墓。

「還住の碑」から尾山展望公園へ向かう道の分岐のすぐ先にある。車1台通れる狭い道に面している。

尾山展望公園から。青ヶ島の二重カルデラ。丸山と噴気孔(ひんじゃ)地帯。

丸山は、1785年の天明の大噴火で形成された標高223メートルの内輪山(火口丘)である。

分岐から山側へ登る。ここから健常者なら15分ぐらいだろう。20分以上かけて登った。水道施設横の車道終点から右折して舗装された水平道を行くと、最後に急坂があった。気温15度ぐらいだったので汗だくになり、2枚ほど服を脱いだ。最高点の標高は400mほどといい、東台所神社への道が続いていた。

砲台の跡のような窪みがあり、星空の観察所らしい。大凸部は西に寄った場所にあるので、ここのほうがカルデラ全体が見えるという。

尾山展望公園から下ったヘリポートが見える地点で12時ごろになった。日没の16時30分まで時間があるので、カルデラまで行けるだけ行こうと歩き出した。

外輪山を経由してカルデラまで下ることは大変だと分かっていた。尾山展望公園から内側までかなりの高度差もあり、距離もある。名主屋敷跡への標識があったが、下り階段に雑草が繫茂しているうえに屋敷跡の影も見えないので通過した。清受寺と大里神社入口を過ぎ、しばらく行くと外輪山・カルデラと丸山が見えてきた。

前方に「平成流し坂トンネル」があり、右下へ下る流し坂は閉鎖されていた。

トンネルを出てからは下り坂が延々と続く。

下り坂の終点には自動車整備工場があるが、日曜日なので誰もいない。グーグルマップでは、ここから100m先に池之沢噴気孔があることになっていたが全くの誤りだった。

キャンプ場・サウナへ向かう道を過ぎると、運送会社の駐車場に10台ほどトラックなどが駐車していた。事務所に行きかけたが人影はなかった。グーグルマップでキャンプ場・サウナへの道を案内され200mほど歩いたが登り坂になり、身体が電池切れになった。時間はあるが、体力が持たない、外輪山まで登り返すのがやっとだと思い、往路を引き返した。

佐々木卯之助の碑。岡部地区。

江戸時代、飢饉のさい幕府射撃場での耕作を黙認したことで流刑になったという。

岡部地区に戻り、駐在所を経て、島で唯一の商店で食品や土産などを売っている「十一屋酒店」に着いたが、非情にも日曜日休みだった。青ヶ島では日曜日のみの観光は避けた方がいい。

飲む物がない、と思ったら民宿「杉の沢」の前に自販機があり、2つだけ売り切れボタンが点灯していなかったので助かった。15時30分ごろ宿に帰った。

歩数アプリを見ると3万歩を超していた。2万歩はたまにあるが3万歩は初めてだ。

19時から別棟で夕食が出された。刺身は美味い。10種類ほどのビュッフェスタイルで、調理などに時間がかかりそうだ。女将が携帯電話ではなく客とSMSでやりとりする理由は食事の準備のためなのだろう。

20時ごろ部屋を出ると星が見えた。

八丈島・青ヶ島への旅②宇喜多秀家の墓と居宅跡 青ヶ島へのヘリ飛行


八丈島・青ヶ島への旅②宇喜多秀家の墓と居宅跡 青ヶ島へのヘリ飛行

2024年12月17日 09時55分32秒 | 東京都

宇喜多秀家の墓。東京都八丈町大賀郷。

2024年11月30日(土)。

13時15分頃に八丈島空港に着き、徒歩で八丈植物公園・ビジターセンターへ行き、見学後、宿泊先の大賀郷へ向かい、「スーパーあさぬま」で島寿司や土産品などを物色して、宿泊施設ケンチャ・ルマへ向かった。15時30分頃に受付に着いたが誰もいなかったので10分ほど待ったが、近くにある「宇喜多秀家の墓」へ行くことにした。5分ほど歩くと教会のある坂の上に墓地の入口があり、奥に「宇喜多秀家の墓」が見えた。その手前横には浮田家の墓がある。

宇喜多秀家(1572年~1655年)は備前国の武将宇喜多直家の子で、豊臣秀吉の寵遇を受け、朝鮮出兵等に活躍した。秀家の秀は秀吉の一字を与えられたものである。備前岡山城主として備中・備前・美作に約50万石を領し、備前宰相として秀吉の五大老に列せられた。また、秀吉の養女となった前田利家の娘・豪姫を正室として迎えたことから、前田家とも姻戚を結んだ。

関ヶ原の戦いで敗れたため、慶長11(1606)年に八丈島に流され、明暦元(1655)年に死去した。墓は、約7m四方の玉石垣に囲まれた一族墓の中央に五輪塔形の墓石で、天保12(1841)年に9代秀邑が建てたものである。当初の墓石は、傍らにある位牌型の墓で、現在地より西北方にあったものを移転したものである。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家は西軍の副大将として、西軍の主力(西軍の中では最大の1万7000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。関ヶ原の戦い後、秀家は捕縛を逃れて伊吹山方面に逃亡、上方に潜伏後、同じ西軍であった島津義弘などを頼り薩摩国へ落ち延びた。慶長7年(1602年)、徳川・島津間の和議が成立し、島津忠恒が上洛し家康と対面したとき秀家潜伏が明かされ、身柄引渡しが進められることとなった。慶長8年(1603年)秀家は伏見に向けて薩摩を出発した。忠恒の秀家助命依頼により、秀家は西軍の将としては軽い処分で済み、秀家の身柄は駿府城に置かれた。その直後八丈島に移されることが決まり、慶長11年(1606年)に息子2人(孫九郎秀隆・小平次秀継)などとともに八丈島に移された。秀家は八丈島の公式史上初の流人とされる。

八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。妻の実家である加賀前田氏や旧臣であった花房氏・進藤氏から米や金子、料紙の支援を受けた。

秀家は島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。また、八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。

元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったと伝わる。

八丈島での生活は不自由であったらしく、八丈島の代官におにぎりをご馳走してもらったとき、ひとつだけ食べて残りは息子達に持ち帰ったという話がある。明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。このときすでに江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。

浮田家の墓。

秀家とともに流刑となった嫡男・孫九郎秀隆と末子・小平次秀継の子孫が八丈島で血脈を伝えた。孫九郎直系の子孫のみが「宇喜多」を称し他の家は「浮田」を称した。秀継の子孫は浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興した。

明治の恩赦により、宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京の前田家の土地に移住したが、のちに浮田半七家は帰島し、子孫は大賀郷に在住して現在も秀家の墓を守り続けている。

宇喜多秀家の居宅跡。

最寄りのバス停「おおわき」の近くにある。民家横の道を50mほど進むと居宅跡の表示がある。

居宅跡を奥まで進み、さらに小道を進むと、墓入口手前の坂道に出た。

豪姫(ごうひめ、1574年~1634年))は、前田利家の四女として尾張国荒子(現・名古屋市中川区)に生まれた。生母はまつ(芳春院)。数え2歳の時、父の利家が羽柴秀吉との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出された。豪姫は安土城で秀吉や正室の寧々(高台院)に寵愛されたといわれる。秀吉の猶子であった備前国(現・岡山県)の戦国大名で岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁ぎ「備前御方」と呼ばれた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に宇喜多氏は改易。秀家は、息子2人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪とされた。

宇喜多家が没落後、高台院に仕えていたが、洗礼を受けたのち、慶長12年(1607年)頃、金沢に引取られ化粧料として1500石を受けた。ロドリゲス・ジラン神父は豪姫が洗礼を受けたことをローマに報告しており、その信仰の先達を勤めたのは内藤ジュリアであったともいわれている。

豪姫は、弟であり加賀藩3代藩主である前田利常と協力して、秀家への仕送りを江戸幕府と交渉した。その結果、慶長19年からは定期的に食料や金品を送ることができた。

寛永11年(1634年)5月、死去。享年61。

仕送りは豪姫が亡くなったあと、宇喜多秀家が解放されるまで続いたと伝わる。

八丈島空港。

2024年12月1日(日)。9時40分ごろ青ヶ島行きのヘリに搭乗開始

当日は、大賀郷の宿泊施設「ケンチャ・ルマ」から徒歩で八丈島空港へ向かった。八丈島空港へのバス路線は日曜日のみ運休である。グーグルマップで30分余りだが、50分ほどかかって8時30分頃八丈島空港へ着いた。東邦航空愛ランドシャトルの八丈島→青ヶ島便は9時55分発・10時15分着で、9時ごろから搭乗手続きが行われる。注意書きを読んでくれと渡されたが、興奮していたせいか、離着陸時はカメラは禁止という項目を理解していなかった。

ヘリは1980年代初めにニューヨークで遊覧飛行に搭乗して以来だ。

TAL  JA7698の機材は、「シコルスキーS76 C+/C++」のようだ。乗員 2名(操縦士1名・整備士1名)、乗客 9名。最大速度 287km/h、巡航速度 200km/h〜300km/h。

八丈小島。

青ヶ島は八丈島から68km南に離れている。

青ヶ島は火山島であり、二重カルデラをなしている。人が定住している集落は青ヶ島の北部の台地にあり、ヘリポートはその八丈島寄りにあることが分かる。

青ヶ島村ヘリポート。東京都青ヶ島村。

復路便が飛び立っていく。

八丈島・青ヶ島への旅①八丈植物公園 八丈島ビジターセンター


八丈島・青ヶ島への旅①八丈植物公園 八丈島ビジターセンター

2024年12月16日 10時44分20秒 | 東京都

愛知環状鉄道。岡崎駅行き列車の到着。高蔵寺駅。愛知県春日井市。

2024年11月29日(金)から12月5日(木)まで、東京都の八丈島・青ヶ島を中心に旅行した。10月26日から10月27日にかけて伊豆諸島北部を旅行した続きである。2023年末から2024年初めにNHKで2回ほど青ヶ島が取り上げられた。2024年3月に東京へ行ったときに、2月に伊豆諸島も検討し、大体の見学地も決めた。旅行で大事なのは宿泊費である。青ヶ島・八丈島・新島・神津島には無料のキャンプ場がある。ザックでは重いのでキャリーケースを使うとしてもシュラフだと嵩張る。シュラフカバーが使える時期にしようかと伊豆諸島は延期した。夏が過ぎて10月ごろになっても暑いし台風も多く体力もなくなったのでテント泊は諦めた。

伊豆諸島北部は行程を決めたが、問題は青ヶ島だった。予約が難航したので、伊豆諸島北部のみ先行実施することにした。

 

青ヶ島へは、ヘリでも船でも八丈島から日帰りはできない。楽天トラベルに宿はないので、青ヶ島村のHPにある民宿に電話すると、工事の客で満員だという。次に「あおがしま屋」に電話すると、船は欠航が多いのでヘリの往復を確保してから連絡してくれヘリは1日9席しかないから大変だよ。確保できたら連絡はSMSでと言われた。東邦航空「愛ランドシャトル」のHPを見ると1か月前から予約とあり、9時から予約開始とある。しかもネットではできず午前中は電話のみ。10月30日に会員登録をしてから9時ちょうどから電話したが繋がらない。何度もリダイヤルすると、いつも9時30分前後からようやく繋がり、11月30日の往路便が予約できた。次は12月1日の復路便だが、11月31日はないので10月31日は電話しても仕方ない。11月1日に電話すると12月1日の復路便はキャンセル2番目だった。12月1日の往路便は空いていたので予約した。11月30日はとりあえず入金した。11月2日に電話すると、12月2日の復路便を予約できたので、11月30日往路便をキャンセルした。早速「あおがしま屋」にSMSで12月1日(日)宿泊を予約した。2食税込みで11000円。昼食必要なら1000円。

八丈島へは往復ANA便より安い11月29日(金)22時30分竹芝桟橋発の八丈島翌朝着フェリーと、12月3日(火)八丈島早朝発のフェリーで竹芝桟橋夜着の行程を考えていたので、楽天トラベルで八丈島の前泊・後泊となる11月30日(土)と12月2日(月)のホテル「ケンチャルマ」を予約した。

2024年11月29日(金)、名古屋市の大曽根駅から「ゆとりーとライン」で8時前にJR中央線高蔵寺駅へ。岡崎まで愛知環状鉄道を利用することにした。浜松までだと100㎞を超え、障害者割引が適用される。愛知環状鉄道は春日井市・瀬戸市・豊田市・岡崎市の山間部を通る鉄道なので今まで乗車したことがなかった。岡崎駅でJR東海道線と接続している。豊田・岡崎間は沿線人口が多い印象で、利用客が多いのは豊田市駅ぐらいで、単線区間が多く、駅の前後のみ複線というパターンだった。

岡崎駅で途中下車して、みどりの窓口で浜松・東京都区の乗車券を購入。東海道線に乗り換え、10時30分ごろ豊橋駅で途中下車駅前のスパゲッ亭チャオ ( オーギヤグループ)の本店に向かい、2階の店先で1番で開店を待ったが、10数人ほど並び出して驚きだった。数か月前まで存在を知らなかったが、知人に名古屋のあんかけスパの名店「チャオ」で食べようかと言ったら、豊橋にも「チャオ」があると堂々と答えたので食べてみようと思ったのだ。

「バイキング」(1000円)を食べたが、名古屋のチャオとは全く違っていた。麺がふわふわでソースもまずかった。

東海道線を乗り継いで熱海駅で15時ごろ途中下車熱海温泉共同浴場山田湯の営業時間は、 午前8時~午前11時、午後3時30分~午後9時なので、これに合わせた。

まず、駅構内にある小田原吉匠 ラスカ熱海店へ行き、揚げたてのアジの唐揚げ(300円)を食べた。柚子胡椒味を注文。実に美味い。

次に駅前の商店街にある又一庵へ行き「熱海ばたーあん」パン(400円)。実に美味い。そこから5分ほど歩いて熱海温泉共同浴場山田湯へ15時45分ごろ入浴。500円。湯槽は2人から3人ほどの大きさなので、混んでいたら入浴できない。客は私一人だった。

16時過ぎに熱海駅から東京方面の東海道線に乗車し、あとは竹芝桟橋へ向かうだけになった。

平塚駅を過ぎた17時ごろにスマホに音がしたので見ると「東海汽船(重要)」というタイトルのメールで、今夜の大型客船は欠航だという連絡だった。これはどうしようもない。いっそ八丈島・青ヶ島全行程を諦めるか、と一瞬思ったが、青ヶ島予約の苦労を考えると八丈島に明日中に行かざるをえない。残るはANAの八丈島便しかない。スマホでANAのHPを見ると、早朝・昼・午後の便がある。朝は早すぎるので11月30日12時15分羽田発便を見ると残席があったのでとりあえず横浜駅で下車してホームのベンチから予約した。早朝便は、ヘリの青ヶ島便に接続している便のようだ。青ヶ島だけ考えれば東京から朝のうちに八丈島経由で青ヶ島まで行ける。翌朝ヘリで八丈島に帰り、八丈島を半日観光して夕方に東京に帰ることも可能だ。ただし、大型客船便の倍の運賃になる。

今夜の宿も必要になった。楽天トラベルで検索して赤羽のカプセルホテルを3800円で予約した。この程度の波の高さで欠航だと帰路の船便も信用できないと思い、12月3日午後のANA便も予約した。東海汽船は往復予約していたが、往路便欠航により自動的に復路便もキャンセルになった。閑散期なので予約は必要ではないが、予約しておいたので欠航の連絡が来た。予約なしだったら、19時か20時に竹芝桟橋で初めて知ることになっただろう。

11月30日、10時ごろ浜松町から東京モノレールで羽田空港へ向かった。1990年代末に旭川空港から名古屋便を乗り過ごして羽田空港へ着いて以来だ。モノレールからは富士山も見えた。

ANAのある第2ターミナルに着き、展望デッキから眺めた。富士山はどこから見えるのかと警備員に尋ねると、JALのある第1ターミナルなら見えるというので、シャトルバスで第1ターミナルの展望デッキへ行くと、確かに見えた。

数年前にイオンカードのゴールドに昇格させてもらったが、特典のラウンジ利用は中部国際空港では使用できない。成田・羽田・札幌などの空港ラウンジは使用できるので、バカにしていると思っていたが、運よく羽田のラウンジを使用できることができた。以前は、ナッツ類は無料だったが、今は有料になっていた。ドリンクは20種類ほどのフリードリンクになっていたので6杯ほど飲んだ。ちょうど搭乗時間になりかかっていてタイミングが良かった。

席は脱出口の窓側にしてもらった。左側だったので房総半島が良く見えた。三宅島・御蔵島は分からない。

八丈島に近づくと、右側の窓の外に八丈小島が見えていたが撮影はできなかった。

着陸体勢に入ると、八丈富士とは反対側の三原山が見えた。

13時15分頃に八丈島空港に着いた。目の前の八丈富士は立派だった

奥に八丈小島も見える。

空港内に観光案内所がある。レンタカーを使わずバスを使うつもりだったのでバスの時刻表などを入手した。横の掲示板に「末吉温泉休業」の表示があり驚いた。工事休業により12月下旬まで休業という。主要な目標だったのでがっかりしたがどうしようもない。その代わり、ほかの温泉は無休になったという。

空港から大賀郷にある宿との歩道はグーグルマップで予習していたので、まず八丈植物公園にあるビジターセンターへ向かい20分ほど歩いて14時ごろに着いた。

ビジターセンターに着くと15分ほどの八丈島の自然に関するビデオをツアー団体に混じって見せられた。これは有益だった。

次に光るキノコの部屋に案内された。

昆虫標本のコーナー。

ビジターセンターに日没が16時30分頃と表示されていた。大賀郷へ向かった。

スーパーあさぬま。15時ごろに着き、20分ほど店内を見て回った。

島寿司が一番の興味だったが、島寿司コーナーには何もなかった。店員に尋ねると、波が高くて漁ができない、当分は無理じゃないか、という。島寿司は10年ほど前に沖縄の大東島で食べたことがある。大東島は八丈島周辺からの移住民が開拓した島である。無理かなと思ったが、2日後に行った三根の「八丈ストア」には大量に積まれていた。

外が暗くなりかけていたので、歴史民俗資料館は後日にして、大賀郷の宿泊施設ケンチャルマへ向かった。受付は17:30で閉まるし、何やら注意事項が多い。受付が不在だったので、近くの宇喜多秀家の墓へ向かった。

伊豆諸島日帰り旅行③神津島


東京国立博物館・埴輪展⑨親子の愛 寅さん埴輪 明治天皇陵の武人埴輪

2024年12月15日 09時02分39秒 | 東京都

東京国立博物館「挂甲の武人 国宝指定50周年記念特別展「はにわ」」。

2024年10月29日(火)。

 

エピローグ 日本人と埴輪の再会

古墳時代が終わると埴輪は作られなくなりますが、江戸時代に入ると考古遺物への関心が高まり、埴輪がふたたび注目を浴びるようになります。著名人が愛蔵した埴輪、著名な版画家の斎藤清が描いた埴輪、埴輪の総選挙(群馬HANI-1グランプリ)でNo.1になった埴輪など、芸術家や一般市民など幅広い層で埴輪が愛されています。ここでは近世以降、現代にいたるまで埴輪がどのように捉えられてきたかについて紹介します。

武人埴輪模型 吉田白嶺作 大正元年(1912年)東京国立博物館蔵

明治天皇陵に埋められたとされる武人埴輪の模型です。江戸時代以降に国学が発達したことで、古い祭儀への関心が高まり、皇室に関係する場面にも古墳の要素が取り入れられることがありました。幕末の孝明天皇陵は円墳になり、明治天皇陵では埴輪が作られたことが知られています。

10時30分過ぎに会場を出て、東京都美術館で開催されていた「田中一村展」を見学した。1984年12月16日に放映されたNHK教育テレビの『日曜美術館』「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」を見て、翌年春の巡回展を名古屋のデパートで見た。2002年に奄美市の「田中一村記念美術館」と名瀬の「田中一村終焉の家」を見学した。それ以来の展覧会鑑賞であった。

30分ほどで会場を出て、東京駅からJRの高速バスで名古屋に帰った。

東京国立博物館・埴輪展⑧馬 鹿 牛 犬 猪 鳥 魚


東京国立博物館・埴輪展⑧馬 鹿 牛 犬 猪 鳥 魚

2024年12月14日 09時26分37秒 | 東京都

東京国立博物館「挂甲の武人 国宝指定50周年記念特別展「はにわ」」。

2024年10月29日(火)。

 

第5章 物語をつたえる埴輪

埴輪は複数の人物や動物などを組み合わせて、埴輪劇場とも呼ぶべき何かしらの物語を表現します。ここではその埴輪群像を場面ごとに紹介します。例えば、古墳のガードマンである盾持人(たてもちびと)、古墳から邪気を払う相撲の力士など、多様な人物の役割分担を示します。また、魂のよりどころとなる神聖な家形埴輪は、古墳の中心施設に置かれ、複数組み合わせることで王の居館を再現したのではないかと考えられます。このほか動物埴輪も、種類ごとに役割が異なります。この章の動物埴輪は、従来にないダイナミックな見せ方で展示します。

鹿形埴輪 静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北蔵

後ろを振り返ったポーズをとる、いわゆる「見返りの鹿」です。大きな角を持った牡鹿で、胴部には焼く時に空気を抜く穴があけられています。鹿の埴輪は犬や人物とセットになって狩猟場面を構成し、この古墳からも弓を持つ人物が出土しました。後の世の武士が愛好した鷹狩のように、狩猟は常に権力と結びついていました。

 

東京国立博物館・埴輪展⑦重文・家形埴輪 大阪府八尾市 美園古墳出土