自分の立場からいって、そんなにブログをアップしているわけにはいかない。
若輩者で、半端者で浅はかな「知」もどきを垂れ流す程度であろうから。
それでも、それを記すことは常に自己審問を、自分自身への怒りと苛立ちを燃え上がらせ、自分と他者や世界の苦痛を巻き込ませ、その渦の中に自分が巻き込まれ傷つくことはできる。
だから、震災や世界ことについて時々、多少なりとも語っていこうと思う。
しかし、やはりまず彼の言葉をまず僕は伝えたいと思う。
彼、辺見庸の言葉は、いま多くの人に読まれ、語られ、聞かれるべきだと強く確信している。
震災緊急特別寄稿 「日常の崩壊と新たな未来―非情無比にして荘厳なもの」
風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。
その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。
それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。
ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。
それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。
わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。
知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。
津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。
時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。
われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。
愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。
家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。
カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。
混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。
いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。
わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。
(2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)
辺見は言う。「すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか」と。半端者の僕は、これを身体に刻み込み、まず日々を生きようとおもう。自分がまずすべきことを、着実に。
しかし、辺見はかつてこのようにも言っていた。
『永遠の不服従のために』講談社文庫版p198-199
日常のイナーシア(慣性)が、自他のすべてを制していく。皆で中身のない"勤勉合戦"をはじめる。有事法制が閣議決定された夜だってそうだった。抵抗を抑圧する不当な強権が別して発動されたわけではない。抵抗そのものが皆無だったのだ。皆が数十年来のイナーシアに夢遊病のように従っていた。戦わずして安楽死である。この国のマスメディアで有事法制反対を口にするのは、たんに月並みな知的お飾りにすぎない。口先で言うだけで、なにか失う覚悟なんかありはしないのだから。ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、よく見ると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも、表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる。(二〇〇二年四月十六日夜記す)
日々の為すべきことをただまず行う。しかし、時として向こう見ずを、馬鹿を承知で「日常のイナーシア(慣性)」からでようと思っている。
それは自分のナイーブさやナルシシズム、軽薄さを証明することになろうとも。
自分が「イノセント=無垢なるもの」であろうとすることは、辺見の言う誠実さから程遠いだろう。
その言葉をここまで記録しておきたくなる書き手は滅多にいませんね。
コメントありがとうございます。
日経のは読んでいないんですよ。日経嫌いなもんで(苦笑)。
近くの図書館で過去新聞をあさろうかな。
かつての世代がサルトルをいつも意識したように、僕にとっては辺見の言葉はいつも意識し影響を与えられる言葉ですね。
ある種の原点です。
コメントありがとうございます。
河津さんのブログを時々、お邪魔しているもとしては非常に光栄です。
きまぐれなブログ、およびブログ主ですが宜しくお願いいたします。
同感しきりです。私は今、安穏の地大和に居住しておりますが、生まれ育ったのは被災の地東松島。あちらこちらのサイトを巡り巡りして辿り着いたのが辺見氏のこの文章。
彼もまた今おそらくは私と同じ立場。違うのは彼はその思いを世に訴えうる力を持っていると言うこと。
ならば・・・私の出来ることはその彼の思いを一人でも多くの方に読まれることに寄与すること・・・
ということで、ここにある辺見氏の文章を転載することのご許可をいただきたいのですがいかがでしょうか。
レインメーカーです
転載は特に問題ありません。
(本当は著作権等問題はあるんでしょうが、今はこの辺見の言葉が広がることが重要でしょう)
僕も別の方のブログから転載させて頂きました。
またよろしければ、お立ち寄りください。
http://yo-hemmi.net/
辺見庸氏のテレビ出演情報をお教え頂きありがとうございます。
ぜひ視聴したいと思っております。
今回の東日本大震災をうけて、彼がどのような発言をしているのか、探している中でこのブログにたどりつきました。
共感を持って読ませてていただきました。
ありがとうございました。
これからもレインメーカーさんのブログを楽しみにしております。
コメントありがとうございます。
自戒として持っているのは、辺見さんの言葉にカタルシスを得るだけでなく、僕等自身の苦闘から言葉と行為を積み上げていかければならないと思います。
きまぐれなブログ(ふまじめな話題も多いです)が、よろしくお願いいたします。
詩の転載をOKしていただいたのですが、先に
北日本新聞の『震災緊急特別寄稿』の転載をさせていただきました。
申しわけありません。よろしくお願いします。