僕が嫌いだとハッキリ言えるものが、一つある。
それは、スターリン主義的な反スターリン主義者といえる人々のこと…
左翼関係の論者(最近は右翼にも…)に多いはずだ、この手の人間は。
言ってることはおおかた正しい、同意する。しかし、その外部批判、内部批判から醸し出される雰囲気と言うか、攻撃性が自分は受け付けないなと思うことはある。
誤解のないように言うけれど、批判は必要だ。内部批判を含めて必要だし、それは連帯の輪をみだすと言って内部批判が封殺されることは絶対に避けなければならない。そして僕が苦手としている闘争も絶対に必要だ。
ただ、僕がスターリン主義的な反スターリン主義者から受け取る言葉には、「思想・思考の揺らぎ」を、あるいは「迷い」を受容することが感じ取れないことだ。
僕は非軍事論者=日米安保・自衛隊廃止論者だし、「日の丸・君が代」反対論者、そして天皇制反対論者でもある。
でも最初からこの考えだったわけではない。
高校ぐらいまでは、日本は積極的に自衛権も主張すべきだと思っていたし、改憲してもいいと考えていた。
(ただあくまで自衛権であり、海外派兵は憲法で明確に禁止すべきだと考えていた。まあスイスのような国になるべきではないかとその時は考えていたのだと思う)
日の丸や君が代も好きだった。そして小学校のころ受けていた、平和教育にも何か良く分からない反発を感じていた。
それでも勉強をしてみたり、ニュースを聞いたり、自分で考えているうちに、様々な揺らぎを通じながら、以下の考えになった。
スターリン主義的な反スターリン主義者は、この思考の揺らぎ、いや人間存在の揺らぎを受容する余地がないと思っている。
「それはお前がナルシスティックに依拠していた思考や思想家が批判されているから、ナルシスティックな過剰防衛に走っているのだろう」と言われれば、そうかもしれない。
それでも思考の揺らぎを認めない言説とは、最終的に袋小路に詰まるのではないか。
それはスターリンや全共闘運動などが、粛清という悲劇に到達してしまったように。
これから現実に粛清が起こるかどうかではない。隠喩としての粛清がおきる。
もっと平たく言えば、「揺らぎを認めない言説」はコミュニケーションレベルでの粛清。
ある感情をもつ者、思考を持つ者、その揺らぎを自己の空間とコミュニケーションのなかから排除してしまうことになるのではないか。
それはこの前書いたニヒリズムと通じる事がある。
自己のコミュニケーションのなかに「揺らぎ」が存在させないこと→つまり前に書いた権力への意志とは別の形態の、権力への意志。
自分たちが嫌っていたものになってしまう可能性がそこにはある。
権力の意志による揺らぎの排除。ニヒリズムによって揺らぎを無視すること。揺らぎに対し嘲笑すること。
権力やニヒリズムを批判していはずなのに、それど類似した存在になってしまうこと。
スターリン主義的な反スターリン主義者がいかに「正しいな」と思える事を述べていたとしても、僕が違和感を感じるのは今述べてきたようなことだ。
とは言いつつ、平和問題や日本のナショナリズム問題、死刑問題のニュースを見てヒステリックに怒っている自分が一番、スターリン主義的な人間かもしれない…
PS
かつて合気道の達人が弟子にこんな質問をされたそうです。
弟子「先生、合気道の最強の技はなんですか?」
師匠「そりゃあ君、自分を殺しに来た人間と友達になれる事だよ」
そんな思想の言説を、僕等は持たなければならないのだと思う。
なので僕の基本スタンスは、新自由主義者も国家主義者もどんな奴も、仲間なんだと。
闘うときは、闘いますけどね。