泰西古典絵画紀行

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レンブラントと宗教画(1)

2009-08-16 22:22:33 | オランダ絵画の解説
 オランダ・バロック絵画館では歴史画History Painting(物語画)の収集がコレクションの重要な柱の一つで,09年現在,旧約聖書をモティーフとした絵画15点,新約聖書の絵画7点を所蔵しているが,とくに旧約聖書の題材に力を入れている.
 このこととレンブラント派の作品の収集をもう一つの柱としていることは,よく話題にされるようにレンブラントの生きた宗教改革の時代の新教国オランダにおいては,宗教画の需要が低迷していたらしいと考えれば,一見矛盾するように見える.

 人文主義者エラスムスによるギリシア語の「校訂新約聖書」刊行後,1517年ドイツでルターが「95ヶ条の論題」を提示して「聖書中心主義」(「聖書のみ」を拠りどころとして「聖伝」を否定)を主張し,秘蹟としては新約聖書に記載されている洗礼と聖餐(カトリックの聖体)のみを認めて後,従来のラテン語ではなく自国語の聖書がグーテンベルグの活版印刷によって広まってゆく中でキリスト教徒は分裂してゆく.
 とくにフランスのカルヴァンは1536年「キリスト教綱要」を刊行し,後にドルトレヒト会議で定められた信仰基準,カルヴァン主義の五箇条TULIPとは,人間の全的堕落・無条件的選択・限定的贖罪・不可抗的恩恵・聖徒の堅忍とされているが,いずれにしてもカルヴァンは「神を目に見える形としては捉えられないので,神を図像化したものはすべて神聖への冒涜」であり,教会の建物の中での偶像崇拝のみならず,そのような図像の所有さえも禁じている.
 これに対するカトリック側の対抗(宗教)改革の動きの中で,1545-63年のトリエント公会議では,七つの秘蹟(洗礼・聖体・婚姻・叙階・堅信・告解・塗油)など教義の正当性の再確認とプロテスタント側の主張の排斥,教会の自己改革を決定した.その間の1555年にアウグスブルクの和議が結ばれ,ドイツにおけるルター派は容認されたが,カルヴァン派の信仰は認められず,信仰の選択は都市や領主が決定するもので個人の信仰の自由は認められなかった.その後,フランスではユグノー(フランスのカルヴァン主義者)戦争後の1598年のナントの勅令で個人の信仰の自由が認められた.
 オランダでは1560年頃,カルヴァン主義がフランドルのフランス語圏から伝播し,カトリックのスペインに対抗する北部諸州において重要な役割を持つようになり,アムステルダムでは1578年に改革派(カルヴァン派)が政治の実権を握り,他派(カトリック・他のプロテスタント諸派[ルター派・メノー派]・ユダヤ教徒)の信者は公職から追放された.しかしながら,その後,支配階級の市民(門閥貴族)は,他派の信者も都市の経済的発展に寄与していることを認識し,比較的寛容に扱うようになる.レンブラントの活躍し始めた時代はスペインとの12年停戦が協定された1609年以降のオランダ絵画の第二世代の時期といわれ,同地の宗教対立は沈静化していたようだ.

 すなわち,レンブラントの生きた17世紀前半には,レイデンにしろアムステルダムにしろ,家人にしろ隣人にしろ,周りがどのような宗教を信奉しているか気にかけないし,非公式の秘密礼拝があちこちで行われていた事実がある多宗教multi-denomitionalな時代であった.実際,レンブラントの父は結婚前に,母は結婚後に,カトリックからプロテスタント(カルヴァン派)に改宗しており,レンブラント自身は生涯を通じてカルヴァン主義者であったが,妻のサスキアは旧教会に葬られ,師匠のラストマンはカトリックであった.また,レンブラントの肖像画の注文主はカルヴァン派・メノー派・カトリック・ユダヤ教徒を含んでおり,アムステルダムの新居はユダヤ人居留区にあって,メノー派の人々とは深いつながりがあったという.
 従来のようなカトリック教会で使用された大祭壇画の需要は共和国内で激減した.レンブラントが目標としたルーベンスのように,他国の王侯貴族から引きも切らない注文を受けるだけの名声があればというところではあろうが.それに替わる顧客として現れたのが裕福で学識のある市民階級で,宗教画も彼らの邸宅を飾る比較的小画面の作品に変容してゆく.
 上述した教義から,カトリックの礼拝ミサで取り上げられるのは福音書に記述されたキリストの生涯にまつわる説話が多く,「キリストの受難」の絵画,とりわけ磔刑図は,オランダではカトリックの隠れ教会や個人宅の礼拝堂の祭壇画,あるいは寝室での祈りの対象として描かれていた.マリア信仰とともに神の子をも描く「聖母子」「聖家族」や「聖人像」も同様でカトリック信者の信仰の対象となるが,実際には親密な芸術作品としてあるいは鑑識眼を誇示する財産としてプロテスタント信者の所蔵となることもあった.聖人像でも例外的に,聖ステファノは初めての殉教者として聖書「使徒行伝」に記述があり,聖ヒエロニムスはとくに書斎にいる図像表現が聖書の翻訳や神学書の著者として,プロテスタントに認められていた.結局,当時のオランダでは,教義にかかわる図像学的意味の濃厚なものでなければ,信仰を問わず購入されていったようである.
 このような需要のある中で,レンブラントは宗教画を描いてゆくが,その主題は,上述の印刷された聖書のデューラー・レイデン・ヘームスケルクやM・ド・フォスらの挿絵版画と師のラストマンの作品からインスピレーションを得ている.Manuthによれば,レンブラントは登場人物の感情的反応に焦点を当てた物語を好むことが多く,美徳と悪徳を対比し感情を移入させるような作品に仕上げている.その点において,じつは,前レンブラント派からレンブラント派をふくめて,彼らはとくに旧約聖書の主題を多く取り上げていたのである.
 Manuthによれば,レンブラント派の主題としてもっとも多いのは「ハガルの追放」であるらしいが,それに続く「ハガルと天使」やアブラハム・ヤコブ・トビアスの説話などを通じて,神の使いとしての天使を登場させ,神との接触を間接的に表現したとも考えられる.
 「ハガルの追放」1637  「トビアスとその家族のもとを去る天使」1637


1630年代のレンブラントはとくにサムソンの物語を頻繁に取り上げている.
 「デリラに欺かれるサムソン」1628 「 舅を脅かすサムソン」1635
 「目を潰されるサムソン」1636  「婚礼の客に謎をかけるサムソン」1638


 レンブラントの弟子の信仰は異なっていたが,主題に関しては,1630年代後半の弟子フィクトルスは厳格なカルヴァン派で,旧約のみで新約の主題は一点も扱っていないのに対し,最後の弟子ヘルデルは1685年ごろ製作した「天使をもてなすアブラハム」の中で天使の一人を神として描いているが,これはレンブラントの1656年の同主題の銅版画の表現にも似ている.
レンブラント「天使をもてなすアブラハム」1656 ヘルデル「天使をもてなすアブラハム」

 Manuthは「西洋美術史において17世紀オランダ画家達ほど旧約及び新約聖書の視覚化に貢献した画派はないが,その中で主導的な役割を果たしたのがレンブラント派であった」と結んでいる.

 要約すると,オランダという国の寛容性,個人の宗教的自由と嗜好,芸術である物語画の役割が宗教的対象から趣味の対象として変遷していったことが,比較的小画面で説話的主題の宗教画の需要を高め,レンブラント派はその中に活路を開いて聖書の劇的な場面を描いていったといえよう.

参考文献:
・「レンブラントとレンブラント派」展図録,「レンブラントの世界における宗教画」,V.Manuth,2003
・「レンブラント・巨匠とその周辺」展図録,「レンブラントと聖書」,C.Brown,1986
・"Rembrandt",C.Tuempel,1993


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