「生協だれでも9条ネットワーク」

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【参加報告】12.6銀座大行進でSEALDsが「KEEP CALM AND NO WAR」と掲げたのは何故か

2015-12-11 23:59:01 | 参加報告


<K.Mより>
 12/6の集会&大行進に参加。そのチラシにも会場の日比谷野音のステージの上に掲げられた大きな横幕に「KEEP CALM AND NO WAR」(落ち着け、そして戦争反対)という言葉が掲げられていた。「KEEP CALM」ってどんな意味だろうと思っていた矢先、「内田樹の研究室」というブログの12月6日付の「あるインタビューから」という記事を読んでようやく理解ができた。
内田樹さんが、「ある市民団体の機関紙のインタビューを受けたが、一般の方の眼にはあまり触れる機会のないものなので、ここに転載しておく」としてブログでインタビュー内容を紹介している。

「内田樹の研究室」の「あるインタビューから」という記事はこちら

かなり長いが、以下、抜粋。
 市民生活が直接攻撃されているにもかかわらず、当の国民が自分たちの生活をおしつぶそうとしている政権に支持を与えている。論理的に考えるとありえないことです。なぜこんなことがまかり通っているのか。
思想的には「戦前回帰」ですが、戦前の日本には軍部と治安維持法という実効的な暴力装置がありました。今の日本にはそういうものはありません。ですから、市民が政府に怯えて政府の暴走を看過しているということではい。市民自身がその暴走を「よいこと」だと思っているということです。国民の半数が政権の暴走にある種の期待や好感を寄せているという事実を私たちはまず冷静に見つめる必要があります。当否の判断はさておき、多くの国民は「今のシステムを根本から変えたい」という強烈な「リセット願望」を持っている。

-国民の意識が反転されたような形で出てくる原因はどこにあるのでしょうか
 戦後70年の最も大きな変化の一つはかつては人口の50%を占めていた農村人口が人口比1.5%にまで激減したということです。それは農村共同体的な合意形成の仕組みが放棄され、「会社」の仕組みがマジョリティを形成するに至ったということです。統治のスタイルもそれに応じて変化しました。それが社会のすべての制度の「株式会社化」をもたらした。
 株式会社は民主主義によっては運営されていません。CEOに権限情報も集中させ、すべてが上意下達のトップダウン組織です。従業員の合意を取り付けてから経営方針を決めるというような鈍くさい企業は生き残ることができません。経営政策の適否について従業員は判断することが許されない。それはCEOの専管事項です。
 でも、そのようなワンマン経営が是とされるのは、その「独裁的経営者」のさらに市場が存在するからです。経営判断の適否は市場がただちに売り上げや株価として評価する。商品がどれほどジャンクなものであっても、雇用環境が非人間的であっても、市場が評価して売り上げが伸び、株価が上がる限り、CEOは「成功者」とみなされる。
 そういう仕組みに現代日本人は慣れ切っている。生まれてから、そういう組織しか見たことがないという人がもう人口の過半です。彼らにしてみると「民主主義的合意形成って何?」というのが実感でしょう。家庭でも学校でもクラブ活動でもバイト先でも、これまでの人生でそんなもの一度も経験したことがないのですから。知っているのは株式会社的トップダウン組織だけであり、その経営の適否は組織成員たちの判断によってではなく、上位にある市場が決定する。
 自分の生き方が正しかったかどうかを決めるのは、試験の成績であり、入学した学校の偏差値であり、就職した会社のグレードや年収であるという「成果主義」「結果主義」にサラリーマンは慣れ切っています。その心性が安倍政権を批判することができない知的な無能を生み出す土壌だと私は考えています。
 安倍晋三も橋下徹も「文句があったら選挙で落とせばいい」という言葉をよく使います。これは彼らが選挙を市場と同じものだと考えていることをはしなくも露呈しています。

-SEALDsの活動はそういう状態に風穴をあけた感じがありますね
 SEALDsの活動の際立った特性はそれが現代日本の政治状況における例外的な「保守」の運動だということです。彼らの主張は「憲法を護れ」「戦争反対」「議会制民主主義を守れ」ということです。国民主権、立憲デモクラシー、三権分立の「現状」を護ることを若者たちが叫んでいる。老人たちのつくる政権はあとさき考えずに暴走し、若者たちが「少し落ち着け」と彼らに冷水を浴びせている。まるで反対です。こんな不思議な構図を私たちはかつて見たことがない。だから、今起きていることをよく理解できないのです。
 この夏に国会内外で起きたのは、国会内では年寄りの過激派たちが殴り合い、国会外では保守的な若者たちが「冷静に」と呼びかけたという私たちがかつて見たことのない光景でした。あれを60年安保になぞらえるのは不適切だと私は思います。日本人は「あんな光景」をかつて見たことないのですから。
それに気がつかないと今何が起きているのかがわからなくなる。今の日本の政治状況の対立図式はひとことで言えば「暴走/停止」なのです。
 この保守的な護憲運動の特徴は、支持者のウィングを拡げるために「安保法制反対」という「ワン・イシュー」に限定したことです。通常の市民運動はそこから原理的に同一の政策をどんどん綱領に取り込みます。原発問題、沖縄基地問題、人権問題、移民問題、LGBT問題へとどんどん横に拡げて、網羅的な政策リストを作ろうとする。けれども、そうやって政策の幅を拡げることで、市民運動への参加者のハードルはむしろ上がってしまう。

 SEALDsはその点ではむしろ「大人」だったという気がします。彼らは政治目標を法案反対一点に絞って政策集団としての綱領的な純粋性や整合性をめざさなかった。だから、あれだけ多くの賛同者を惹きつけることができたのだと思います。
 彼らは法案に反対しているだけで「よく戦わないもの」を罵倒したり、冷笑したりすることがなかった。できる範囲のことだけでいいから自分たちの運動を支援して欲しいとていねいに、実に礼儀正しく市民たちに訴えた。世間の耳目を集める政治運動がこれほど謙虚であった例を私は過去に知りません。それだけ彼らの危機感が強かったということだと私は思います。文字通り「猫の手も借りたい」くらいに彼らはせっぱ詰まっていた。だから、「これこれの条件を満たさないような人からの支援は要らない」というような欲張ったことを言わなかった。その例外的な礼儀正しさに、彼らがほんとうに肌に粟を生じるほどに安倍政権の暴走を恐怖していることが私には伝わってきました。

-年があけて二〇一六年は夏に参院選があり、ここでまた国民の次の判断が求められます。改悪戦争法の破棄、集団的自衛権容認の閣議取り消しをもとめる一点集中の政府実現のために野党共闘が呼びかけられています。また、戦争法廃止、憲法九条守れの二〇〇〇万人署名が総がかり運動としてすすめられています。いま大事なことはどういうことでしょうか
 「保守と革新」という対立軸がいつのまにか逆転していることに気づかなければ、何をすべきかは見えてこないと思います。市民生活を守るために、私たちがまず言わなければならないのは「落ち着け」ということです。「止まれ」と言うことです。議論なんかしている暇はない、全権を官邸に委ねてお前たちは黙ってついてくればいいんだという前のめりの政治家たちに対して「少し落ち着きなさい。ゆっくり時間をかけて議論して、ていねいに合意形成をはかりましょう」と告げることだと思います。暴走する政治家たちの決まり文句はいつでも「一刻の遅れも許されない」「バスに乗り遅れるな」ですけれど、これまでの経緯を振り返れば、それが「嘘」だということははっきりしています。決定に要した時間と政策の適切性の間には何の関係もありません。
 逆説的ですが、今の市民運動に求められるのは「急激には変化しないこと」です。国のかたちの根本部分は浮き足立って変えてはならない。そのための惰性的な力として市民運動は存在します。それは市民運動のベースが生身の身体であり、生身の身体は急激な変化を望まないからです。
痛み、傷つき、飢え、渇き、病む、脆い生身の身体をベースにしている運動は独特の時間を刻んで進みます。その「人間的な時間」の上に展開される市民運動がいま一番必要とされているものだと私は思います。
 まずは来夏の参院選で政権の暴走を止めるために、「立ち止まって、ゆっくり考える」というただ一つの政治目標の下にできるだけ多くの国民を結集させることが最優先だと思います。


 これを読んだら、これまで抱いていた謎がとけた。先日もある仕事で関わりがあって日頃は他愛のないおしゃべりができる男性と論争になってしまった。「私個人は平和がいいと思うけど、日本はアメリカについていくしかないんだろうし、そういうことは上が考えてるでしょう」と言うので驚き、「なんでそうなの」と食い下がったら「戦争に敗けたんだからしょうがない」との答えにさらに驚いた。70年前に敗けた大国の機嫌をうかがいながら卑屈についていくって、奴隷意識じゃないですか」と思わず反論してしまった。
 なぜそう思ってしまうのかを考えていて、もしやと頭によぎったのが「社畜」意識がしみついている男性の方が多数派ではないかということだった。自分の考えはあってもそれはとどめておき、上位の人間の思惑からはずれないような言動をとるのが大人というものだという意識。そのことによって自分と家族、周囲の人たちが安泰ならよしとしてしまう意識。労働組合の組織率の低下、あっても労使協調路線に変質した労組しかないことによって、経営者の政策が間違っていたら団結の力も使ってそれを糺すことができるということを知らない従業員が多数派になってしまっている。経営者が好む司馬遼太郎の英雄史観にもとづいた小説を労働者側も読んで自らを経営者と同じ感覚に染めていく(これは『司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像』なども読んだことから言える)。
 その推測がある程度は当たっていると思えた。自分や周囲の人間の保身のためにはお上の意向に沿った意見をもつようにし、自分の知らない人たちがつらい目にあっていても痛みに思うことのない人々が、日本ではまだまだ多数派なのだ。そういう人々に本当にそれでよいのか問いかけながら、私たち政権打倒運動の側が「安保関連法制廃止」の一点で一致できることを条件に絞ってまとまり、並行して共感をもっともっと広げていかなければならない。あらためてそう思った。2000万人署名を街頭に立つだけでなく周囲の人々に広げる取り組みなども含めて、最大限に工夫し努力していかなければ、日本の冬の時代までもうあまり時間がないと思えた。

(追記)
内田樹さんの「保守」「革新」という言葉の使い方についてご指摘をいただいた。確かに一般的な使われ方とは違うと思うが、何を言われたいのかを汲み取れば特に気にならないと思う。極右政権の急進的な動きにSEALDsは「Keep calm」(落ちつけ)と言っている。「Keep calm」はよく子どもに対して注意する言葉として使われるのだそうだ。そう、そう言って聞かせるのはまさに「大人」なのだ。

※冒頭の写真は柳下さん撮影分。横幕の中に「KEEP CALM AND NO WAR」の文字がはっきり写っている。


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