「生協だれでも9条ネットワーク」

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【寄稿】大野省治氏より「私の人生」(『生協運動久友会だより』掲載分に補筆されたもの)

2016-02-06 23:45:36 | 情報提供


<管理人より>
 日本生協連職員OBの大野省治さんからご寄稿をいただきました。「生協運動久友会」(現在では役員などのOB会に改組されている)が年2回発行している『久友会だより』に寄稿され、2015年12月号=No.82に掲載された自分史に補筆されたものです。先に「JCCU協同組合塾」のブログに掲載していますので、そちらの記事と連動してご紹介いたします。なお、冒頭の写真は掲載号の表紙です。

【寄稿】大野省治氏「私の人生」
(おおの・しょうじ 元全国消団連事務局長)


私の家族
 私は1930年生まれ、支那事変の名で中国侵略が開始されたのは小学校1年の7月7日。大戦は1945年8月15日終わった。当時旧制中学校以上の学生・生徒は「学徒動員令」という勅令により強制的に工場で働くことになり、旧制高校専門学校以上の学生は徴兵され戦場へ行った。
 二兄は陸軍予備士官学校に合格。航空隊の通信士官となり中国南昌飛行場大隊に配置され少尉中隊長。妻の兄は同じく徴兵令、海軍経理学校に合格し主計少尉参謀となって航空特攻機発進基地に配置された。
 我が家から長兄は第六師団から山砲隊員として北支から中支へ転戦、更に仏印、暹羅へと転戦し、敗戦となって帰国。もう一人は久留米師団からビルマへ派遣され、高い山をいくつも越えて敗戦を迎え、生き長らえ辛うじて帰国。だが内地にいた一人は佐賀高校生で、学徒動員長崎造船所で勤務中に原爆被爆し死去。もう一人は大牟田市三川国民学校高等科の教員として児童の指導をしていたが、夏の強い日差しを受け戸外作業指導中熱中症となり、製氷工場が空爆で製氷不能となり看病も虚しく死去した。

私の戦時体験
 私は中学3年生、8月7日正午頃三池染料工業所に勤務中にB−24の編隊爆撃を受けた。私は警報が鳴ると逸早く工場の退避壕へ隠れた。幸いにして爆発音聞きながら過ぎ去るのを待った。被害を受けずに助かり、私の今日がある。
 幼稚園の頃の歌は肉弾三勇士など軍歌が中心。軍国主義教育で一貫していた。旧制中学では物理の教師が海軍中尉で、宿題に軍人勅諭の丸写しを出すなど物理学と軍人勅諭がどんな関係があるのかと不満を覚えた。だが礼儀の項は覚えていたので師団から来た査閲官から唱えてみよと命じられて、私は長い文句を口述したので褒められた。教育の軍事化というのは“殴りつけてでも実施させること”が徹底していた。

8月7日、大牟田空襲
 敗戦の色濃くなって、空襲警報が発せられると、夜でも即刻三里小学校の防衛に駆けつけた。8月7日の正午頃米軍大型爆撃機の編隊が大牟田市上空を襲った時は、工場の防空壕に逃げ込んだ。広島の翌日である。幸い私は命だけは助かったが、逃げ遅れた相当数がいて、爆弾で工場敷地一帯に工員らの死体が転がっていた。社屋・工場は崩壊、無惨。中学同級生が7名戦死した目も当てられない惨状。米軍爆撃機による爆撃の最中に大牟田の高射砲陣地から発射した砲弾が敵の爆撃機B−24に命中し撃墜させた。高射砲陣地兵士はよく戦ったと思う。
 私は中学3年生、被爆直後、工場から帰宅を許されると直ぐ近所に撃墜された機体を見に学友と二人で出かけた。夕方近いが8月の空は明るく、畑の上に横たわるB-24は壊れ、機内が露出して見えた。地面に叩きつけられ、米軍乗務員の丸く腫れ上がった遺体が折り重なっていた。機関砲や砲弾等武器・通信機も転がっていたが、手出しはせず見るだけで現場を離れた。つい先程は三池染料の骸炭工場付近で殺された女子事務員や工員、朝鮮から動員されて来ていた少年工員の腕や胴体が切断された死体を目の前で見てきたのだ。
 撃墜されて死んだ敵の飛行士数人を目の前にしても、私は気の毒とも可愛そうなどの感傷はなかった。これが戦争の実態なのだ。自分は生きている、と確かめた。同級生で肩下に焼夷弾が当たり腕を失った友があったが、成績の良かった彼は若くして死去した。2日後の9日、長崎に原子爆弾が落とされ、私は有明海の東側から西海岸の雲仙岳と多良岳の間に、入道雲のような原子雲を眺望した。
 8月15日敗戦の日が過ぎて、アメリカ兵と街なかで顔を合わせることがあっても、まだ戦時中の敵対感覚であり、振り向きもせず通り過ぎた。英語の友成先生が、中学校へ来訪したアメリカ人と話を交わして居るところを見かけてから、やっと敗戦となった現実を認識するゆとりが出てきた。

※戦後以降の分は、「JCCU協同組合塾」のブログの記事からお読み下さいm(_ _)m