法栄親道 日一遍。
法然 栄西 親鸞 道元 日蓮 一遍
〈2014明大・国際日本(国際日本)
文章は鎌倉時代の新仏教運動について述べたものである。(中略)
12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。やや時代が下ると幾多の新しい仏教教団が形成される。代表的な教団をあげるならば、浄土宗、浄土真宗(一向宗)、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗(法華宗)、時宗(時衆)などがそうである。浄土宗の開祖は法然、浄土真宗(一向宗)の開祖は[ C ]、臨済宗は[ D ]、曹洞宗は[ E ]、時宗(時衆)は一遍、日蓮宗(法華宗)はその名の通り日蓮である。
なかでも、浄土教と[ F ]から伝来した禅宗が群を抜いていた。日本の浄土教の起源は平安時代にさかのぼり、鎌倉時代になるとその勢いが増した。念仏行者・遊行者として知られている[ G ](図1)は平安末期における浄土信仰の代表的な布教者であった。
図1

浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽往生することができると説く。図2のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。
図2

一方、禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。
日蓮宗(法華宗)と時宗(時衆)の場合は、いずれも浄土宗と浄土真宗(一向宗)と同様、男女老若を問わない民衆への布教によって繁栄を迎えた。浄土教の念仏と同様に、[ M ]の著者日蓮の教えは、いわゆる[ N ]を唱えることを信仰の軸とした。時宗(時衆)の開祖である一遍は[ O ]念仏を普及させたため世に知られるようになった。
このような新しい宗教運動の出現により、日本の仏教の様相はこの時代にすこぶる変遷したと結論できる。
(答:A最澄、B比叡山、C親鸞、D栄西、E道元、F宋、G空也、H南無阿弥陀仏、I来迎図、J茶、K永平寺、L正法眼蔵、M立正安国論、N題目、O踊)〉
2013大学入試センター試験
問1 下線部a法然・親鸞・日蓮らの活動に関連して、彼らの宗教活動と政治権力とのかかわりに関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。
X 法然の弟子で、『選択本願念仏集』を著した親鸞は、朝廷により配流された。
Y 南無阿弥陀仏の題目を唱えれば救われると説いた日蓮は、鎌倉幕府により追害された。
1X正 Y正 2X正 Y誤
3X誤 Y正 4X誤 Y誤
(答:4 ※X『選択本願念仏集』ではなく『教行信証』が正しい、Y日蓮が主張した題目とは「南無妙法蓮華経」のこと。「南無阿弥陀仏」は念仏。日蓮ははじめ伊豆、のち佐渡に流された。)
〈2005上智大・法外総合人間:「ここをもて ア興福寺の学徒、太上天皇(イ後鳥羽の院と号す、諱(いみな)尊成)、今上(土御門の院と号す、諱為仁)、聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
ウ主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、エ真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、損りがはしく死罪に坐す。あるひは オ僧儀を改めて姓名を賜ふて カ遠流に処す。キ予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
(『教行信証』後序)
問1 下線部アについて、興福寺奏状を起草した人は誰か。1つ選びなさい。
1覚円 2貞慶 3円盛
4尊円 5高弁 6慈円
(答:問1→2ジョウで尻取り!、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、問6→2、問7→6)〉
問2 下線部イについて、「後鳥羽の院」の説明として正しくないものを1つ選びなさい。
1 承久の乱の結果、隠岐に配流となり、そこで生涯を終えた
2 若くして長男の土御門天皇に譲位して上皇となった
3 北条義時追討の宣旨を発して挙兵したが、幕府軍の前に完敗した
4 藤原定家・家隆らに命じて『新古今和歌集』の編纂にあたった
5 政治的手腕にすぐれ、「日本国第一の大天狗」と評された
6 あらたに西面の武士をおき、軍事力の増強をはかり、院政を強化した
問3 下線部ウには、ある出米事に対する著者の厳しい批判と抗議が見られる。その出来事とは何か、1つ選びなさい。
1 和田合戦以降、執権が北条氏一族のあいだで世襲されるようになったこと
2 悪人正機説が、朝幕間で正反対に解釈され、政治的に利用されたこと
3 源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された事件
4 本願寺が東西に二分されるに至った政治的紛争
5 畿内・西国を中心とした養和の大飢饉の際の朝廷の無策ぶり
6 法然を師とする専修念仏教団への弾圧
問4 下線部(エ)と(キ)について、「真宗興隆の大祖源空法師」および「予」はそれぞれ誰を指しているか。正しい組み合わせを1つ選びなさい。
1源信-法然 2法然-親鸞 3法然-唯円
4親鸞-蓮如 5親鸞-善鸞 6親鸞-唯円
問5 下線部(エ)に関して、「源空法師」の思想に深く影響を受けた人物で、政治的な後援者でもあったのは誰か。1つ選びなさい。
1源頼家 2北条義時 3九条兼実
4源通親 5平清盛 6藤原通憲
問6 下線部(オ)について、「僧儀を改めて」とあるが、ここでの意味は何か、1つ選びなさい。
1改宗する
2僧籍を剥奪される
3独身生活をやめ、妻帯する
4顕密仏教(南都北嶺)のしきたりに従う
5別の師のもとで学ぶ
6都での伝道活動を自粛する
問7 下線部(カ)と(キ)について、「遠流に処す」とあるが「予」はどこに流罪となったか、1つ選びなさい。
1安房 2土佐 3讃岐
4佐渡 5伊豆 6越後
(答:問1→2、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、※ 法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。「くじょうかねざね」→「じょうど」、「ほうねん」 問6→2、問7→6)〉
2012早大・文化構想
13世紀前半に起きた寛喜の飢饉は、長雨と大風雨による凶作によって引き起こされた。京都の街路に充満した餓死者の死臭がひどかったと記録されている。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮で国土安穏の祈禱を行った。こうした社会不安による紛争の増加が、[ B ]を制定した一つの背景になった可能性もある。13世紀後半にも、大地震や異常気象で正嘉の飢饉が起きた。日蓮は『[ C ]』で、天変地異が続発するのは『法華経』の教えに背いているからであるとし、このままでは国内の反乱と他国からの侵略が起きると述べたために、伊豆国伊東へ流された。
問4 空欄Bには日本最初の武家法が入る。漢字5字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。
問5 空欄Cに該当する語句を、漢字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。
(答:B御成敗式目、C 立正安国論 )
〈2015関西大・文商法など2月4日実施
鎌倉時代に地方を行脚した一遍の生涯を描いた『一遍上人絵伝』には、東西を貫く2{(ア)山陽道(イ)南海道(ウ)東海道}に近い吉井川の河原に形成された備前国福岡の市が描かれている。道を挟んで建てられた小屋には、米・鳥・布・履物などの品物が並べられ、往来する人々の間に裸足の一遍の姿がある。」
(答:2ア)〉
〈2014立大・文
次の宗派1・2それぞれについて、日本での開祖を甲群のa~dから主要著書を乙群のa~dからそれぞれ1つずつ選び、その記号をマークせよ。
1曹洞宗 2臨済宗
甲群)a一遍 b栄西 c親鸞 d道元
乙群)a教行信証 b興禅護国論
c正法眼蔵 d立正安国論」
(答:1dc、2bb)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本):「
禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。
(答:D栄西、J茶、K永平寺、E道元、L正法眼蔵)〉
〈2013北海道大学・前期:「Ⅱ 次の文章を読んで、下記の設問(問1~8)に答えなさい。
鎌倉時代に入ると、京都にa幕府によって六波羅探題が設置され、在京御家人らが帝都・王権を警固・監視する体制が敷かれた。また、中世都市京都においては、寺社勢力の増大と多様化も重要な変化であった。ここでは。b新興勢力ともいうべき禅宗の巨刹、建仁寺と東福寺とを取りあげて見てみよう。
質実剛健な学問重視の風潮を伝える建仁寺は、c渡海入宋僧の栄西の創建にかかる。だが、栄西の京都進出成功までの道のりは険しかった。栄西は、臨済禅の技法を取り込むことでd中世仏教の主流派のひとつ、天台宗の内部改革を企図していたのだが、当の天台教団、[ ア ]山延暦寺から排撃されてしまう。その後、栄西は、北条政子らの帰依を得て、鎌倉に寿福寺を創建し、1202年、ようやく京都で建仁寺を開くことに成功する。建仁寺の開基は、鎌倉幕府2代将軍の源[ イ ]であり、創建にあたって付された条件は、同寺を、「三宗(真言・天台・禅宗)兼学」の道場とすることだった。出発時から、禅単独の興隆は難しかったのである。
ところで、e禅宗といえば武家との関係が連想されがちだが、洛南の地に壮麓な伽藍を誇る東福寺は、f摂関家の菩提寺のひとつであった。1236年、朝廷の最大有力者で当時摂政の九条道家が発願して、渡海入宋僧の臨済僧円爾(えんじ)が開山として迎えられている(道家没後の1255年に落慶供養・開堂、1271年に全堂完成)。円爾とその弟子たちは、g博多の貿易商人や中国臨済禅の第一人者と密接な関係を長く保っており、中国からの先進的な宗教や文物の移入が、彼らに期待されたのであろう。以後、東福寺は、九条家の外護(げご)のもと、円爾の門流のみから住持を取る体制をとり、勢力を拡大していった。
問1 空棚[ ア ][ イ ]に入る語句(地名・人名)をそれぞれ記しなさい。
問2 下線部aについて、六波羅探題が設置されるに至った歴史的な経緯を、関係する人物の名を最低二人は挙げつつ、60字以内で説明しなさい。
問3 下線部bについて、臨済宗とならぶ禅の宗派として、曹洞宗がある。
(1)日本における曹洞宗の開祖は誰か、答えなさい。
(2)曹洞宗の修行法を端的に示す言葉を、漢字4文宇で答えなさい。
(3)それに対して、日本の臨済宗が重視するのは、師から与えられた問題を解くことである。その問題は一般に何と呼ばれるか、漢宇2文宇で答えなさい。
問4 下線部cについて、栄西が中国からもたらしたと伝えられ、のちに茶道に発展する喫茶法とはどのようなものか、20字以内で説明しなさい。
問5 下線部dについて
(1)天台宗の最高位の僧を何と呼ぶか、
(2)また、延暦寺とならぶ天台宗の拠点寺院の名は何か、それぞれ答えなさい。
(3)また、なぜ天台宗や真言宗が「中世仏教の主流派」といえるのか、60字以内で説明しなさい。
問6 下線部eについて、室町時代になると、幕府の官寺としての「五山の制」が確立する。
(1)最高位である「五山之上」に位置づけられた寺院の名を答えなさい。
(2)五山以外の禅宗寺院である大徳寺から出て、『狂雲集』を著した禅僧の名を答えなさい。
問7 下線部fについて、鎌倉幕府最初の摂家将軍の氏名を答えなさい。
問8 下線郡gについて、足利義満に対明通交の再開をすすめ、その結果、自身が使者となって明に渡海した博多の貿易商人は誰か、答えなさい。
(答:問1ア比叡・イ頼家、問2〔解答例〕後鳥羽上皇による承久の乱を破った後、幕府軍の将北条泰時と時房を六波羅探題に任じ、朝廷の監視や西国の統轄にあたらせた。(59字)、問3(1)道元(2)只管打坐(3)公案、問4茶葉をひき湯を入れかき混ぜて飲む抹茶法、問5(1)天台座主(2)園城寺〔三井寺〕(3)〔解答例〕加持祈禱によって朝廷や貴族の帰依を受けて政治的な影響力を持ち、全国各地に多くの荘園を所有し大きな経済力も持っていたから。(60字)、問6.(1)南禅寺(2)一休宗純、問7藤原〔九条〕頼経、※4代将軍、ちなみに4代執権は頼時。問8肥富)〉