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ベック式!難単語暗記法ブログ

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律令税制基礎事項(男子の年齢区分)

2017-02-03 | 『新世界史頻出年代暗記』


自由なチューナー二十歳まで無為無効なり実弟は。
丁・丁)(6561歳)(2017歳)(男・丁)

[ポイント]
1.中男17~20歳、正丁は21歳~60歳、次丁61歳~65歳

[解説]

1.正丁は21~60歳(のち22~60、さらに22~59歳に短縮)の公民男子

2.次丁は、大宝令では老丁という。61~65歳(のち60~64歳)までの公民男子


3.中男は、大宝令では少丁という。17歳~20歳(のち18~21歳)までの公民男子


〈2012明大・文

6 下線部(ウ)各種の租税制度、兵役や労役の制度について定めに関連して、律令が定める租税制度に開する説明として正しいものの組み合わせを、下の1~6のうちから一つ選べ。
 X.租を納めるもととなる口分田は、6歳以上の男女に、良・賤ともに班給された。
(〇ただし班給面積には差あり)
 Y.調は、21歳以上の男女に賦課された。
(×そもそも女子には賦課されない。また男子でも21歳以上ではなく17歳以上65歳未満男子に賦課される。2重の誤りがある)
 Z. 調や庸の都への運搬は、納めるものの負担とされた。(〇)
 1 X-正 Y-正 Z-誤
 2 X-正 Y-誤 Z-正
 3 X-正 Y-誤 Z-誤
 4 X-誤 Y-正 Z-正
 5 X-誤 Y-正 Z-誤
 6 X-誤 Y-誤 Z-正
  (答:2)


養老令の私撰注釈書『令集解』

2017-02-01 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ](りょう)の祝言(しゅうげん)に/(こ)れん旨(むね)猶本(なおもと)が
令集解(りょうのしゅうげ))(惟宗直本(これむねのなおもと))

[句意]良の祝言に私用で来れないという旨(主旨のこと)を猶本が言っている、という句。「祝言」は結婚式のやや古い言い方です。また「猶本」にはサッカー日本代表で技術に加え美人で知られる猶本光選手の姓を使いました。とするとこの場合、サッカーの試合日と重なっているのでということになるでしょう(笑)。

[ポイント]

1.養老令の現存する私撰注釈書惟宗直本撰の『令集解』がある。

[解説]
1.『令集解』は清和天皇の代の868年ころ、惟宗直本が作った養老令の私撰注釈書で残欠ながら伝存。律令研究の必須の史料である。

2.『令集解』は私撰のために、法的効力はなかった

〈2013東京家政大

正文探し4択の1誤文として→『令集解』は令の解釈を公式に統一するために、清原夏野らによって編纂された。(惟宗直本の誤り)〉

〈2012立大・経済法異文化コミ

養老令に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
 a.これの多くの部分は、注釈書『令義解』や『令集解』に引用されている(〇)
 b.藤原仲麻呂によって、757年に施行された(〇)
 c.藤原不比等らによって、701年に編纂された(×不比等らで718年成立)
 d.令とは、行政組織・官吏の勤務規定や人民の租税・労役などの規定である」(答:c)〉

〈2011近大・法済営など

問9 下線部a『令義解』についての文として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つをマークせよ。
 1.養老令の私撰注釈書として、惟宗直本によって編纂された。
 2.養老令の私撰注釈書として、清原夏野によって編纂された。
 3.養老令の公定注釈書として、惟宗直本らによって編纂された。
 4.養老令の公定注釈書として、清原夏野らによって編纂された。(〇)」〉

〈2009慶大・商

令の解釈に関して、833年、( a )が清原夏野らによって完成ざれ、9世紀後半には、惟宗直本によって( b )が完成された。」(答:a令義解 b令集解)〉


養老令の官撰注釈書(令義解)

2017-01-30 | 『新世界史頻出年代暗記』

i挟み両義で 循環器。

833年

令義解(りょうのぎげ))(清原夏野(きよはらのなつの))(官撰


[ポイント]

1.養老令の現存する官撰注釈書清原夏野らが撰した『令義解』がある。

[解説]

1.『令義解』は淳和(じゅんな)天皇の代の833年清原夏野らがつくった養老令官撰注釈書である。

2.『令義解』は官撰、つまり時の政府が編んだものなので法的効力を持つ。


3.養老律令本体は、現存しない。しかし、については、官撰『令義解』、私撰『令集解』にほとんどの令が収録されており復元ができる。

〈2016明大・文

C 藤原不比等は、カ律令制の整備に力をいれるとともに、娘の宮子や光明子を皇太子や天皇と結婚させて、天皇と密接な関係を結んだ。

問8 下線部(カ)に関連して述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 律令は、近江律令から存在している。
 2 不比等は大宝律令の編纂に従事していた。
 3 大宝令は、『令義解』として現在まで伝わっている。
 4 養老令は、養老2年(718)の成立後、施行された。」

(答:2 ※1×令のみ、3×養老令の官撰注釈書、4×施行は757年)〉

〈2015早大・人間科学

問7 下線部g律令国家の建設に関連して、律や令について述べた文として、誤っているものはどれか、1つ選べ。」

 ア 天武天皇の死後に飛鳥浄御原今が施行された。
 イ 戸籍に基づく個別人身支配を定めている。

 ウ 地方支配は受領が行うと定めている。
 エ 律とは現代の刑法にあたるものである。
 オ 官撰の令の注釈書として『令義解』がある。

(答:ウ ※ア〇施行は次の持統天皇代)〉

〈2013立命館・文法済営などA方式

清原夏野らによって編纂された令の官撰注釈書である『[ B ]』などによって今日まで伝えられている。」

(答:令義解)〉


〈2000センター追

 令の条文についてさまざまな解釈がなされていたのを統一し、政府による公式解釈を示すために、『令義解』が編纂された。」

(答:〇)〉


蘭学 発展期(医学内科書) 1793年〈宇田川玄随、『西説内科撰要』を完成〉★

2017-01-29 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 

●化政文化(蘭学)

 

"Seisetsu Naika Senyo" (Western Internal Medicine Summary), the translation of the Johannes de Gorter's medical book by Genzui UDAGAWA, had as great influence as "Kaitai shinsho" had in that it extended interest in Ranpoigaku to the area other than surgery such as internal medicine.

人泣くさ歌 切ないか。

   1793年      宇田川玄随 西説内科撰要』  

 

江戸詰の美作国津山藩医であった宇田川玄随は、はじめ漢方医だったが、大槻玄沢に入門し洋学(蘭方医)に転じた。1793年、オランダの内科書の翻訳を完成、日本最初の西洋内科学書となる『西説内科撰要』 として刊行した。

[ポイント]
1.宇田川玄随は医書『西説内科撰要』を著す。


[解説]

1.宇田川玄随(1756~98)は、江戸詰の美作(みまさか)国津山藩医。はじめ漢方医だったが、大槻玄沢に入門し洋学(蘭方医)に転じた。オランダの内科書の翻訳を完成、『西説内科撰要』(1793年、全18巻) として刊行した。これは日本最初の西洋内科学書である。

〈2016立教大・現心コミュ福観光営

問6.これに寄与した江戸時代の医療の発展に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.宇田川玄随は西洋の内科書を訳して『西説内科撰要』を著した

 b.緒方洪庵は診療所と鳴滝塾を開き、多くの人材を養成した
 c.平賀源内は通仙散を用いて全身麻酔手術を行った
 d.山脇東洋は刑死人の解剖を見学して『解体新書』を刊行した」

(答:a ※b×鳴滝塾→適塾(適々斎塾)、c平賀源内→華岡青洲、d『解体新書』→『蔵志』)〉


〈2015関西学院大・神社済教など:「

問7  a・bの正誤を判定せよ。

 a.藤原惺高の門人林羅山は、徳川家康に重用されて大学頭となり、幕府の文教政策を推進した。羅山以降、代々の林家当主は大学頭に任じられた。

 b. 蘭学はまず医学の分野で発達した。杉田玄白や大槻玄沢は、西洋医学の解剖書を翻訳した『解体新書』を刊行し、宇田川玄随も『蘭学階梯』を著して西洋医学を紹介した。」

(答:a×大学頭は3代信篤(鳳岡)から、b×大槻玄沢は翻訳に参加していない。また『蘭学階梯』は玄沢著)〉


〈2012同志社・神商心理

問ク.美作国津山藩医によって1793年に翻訳刊行が開始された著書名を選べ。

 1.『暦象新書』  2.『西説内科撰要』

 3.『ハルマ和解』 4.『解体新書』」

(答:2 ※著者は宇田川玄随)〉


蘭学(発展期) 〈大槻玄沢、『蘭学階梯』を著す〉★

2017-01-27 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

Otsuki Gentaku writes “Rangaku kaitei (A Ladder to Dutch Learning)”.

海底(かいてい)知らん お月様。

       『蘭学階梯』 芝蘭堂     大槻玄沢

 

杉田玄白前野良沢に学び、ペンネームを両人にちなんだ大槻玄沢は江戸に芝蘭堂を開設し(芝蘭堂では稲村三伯らが学んだ)、新元会(オランダ正月)を開催。また、蘭学の入門書である『蘭学階梯』を著した。

 

 

●化政文化(蘭学)

 1796年〈稲村三伯、『ハルマ和解』を完成〉

 Based on Halma's "Dutch-French Dictionary," the first Dutch-

Japanese dictionary in Japan was compiled by Sanpaku INAMURA, Genzui UDAGAWA and others in 1796 and published as "Haruma 

wage (the Japanese Edition of Halma's Dictionary)".

否苦労した春までは。

   1796年 稲村三伯 ハルマ和解不忍池図』  司馬江漢      銅版画

 

因幡国鳥取藩医であった稲村三伯は、大槻玄沢の『蘭学階梯』に影響を受け、玄沢の門に入り、蘭学を学ぶ。フランソワ=ハルマの蘭仏辞書を玄沢から借り受け、その和訳を苦心の末に完成。1796年、日本初の蘭和辞書『ハルマ和解』として完成、刊行した。のち京都で蘭学塾を開く。なお、同じハルマの辞書から、蘭和辞典(『長崎ハルマ』、『ズーフハルマ』)も作られている。このため三伯の方を『江戸ハルマ』とも呼ぶ。

 

大槻(おおつき)玄沢(げんたく))(蘭学階梯(かいてい))『環海異聞』芝蘭堂(しらんどう)

[ポイント]
1.大槻玄沢は、私塾芝蘭堂を開き『蘭学階梯』を著し、その弟子稲村三伯は蘭和辞書『ハルマ和解』を完成した。

[解説]

1.大槻玄沢(1757~1827)は、一関藩出身の蘭学者。杉田玄白前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師2人から一文字ずつもらったもの。友人に仙台藩医工藤平助がおり、その推挙で一関藩の本家仙台藩の江戸詰藩医となる。玄沢は、1788(天明8)年、蘭学の入門書『蘭学階梯』を著し、翌1789(寛政元)年、江戸に蘭学塾・芝蘭堂をひらいて稲村三伯など多くの人材を育成した。なお仙台藩の船頭津太夫(つだゆう)ら(1804年レザノフが送還)から聴取して著した漂流記に『環海異聞(かんかいいぶん)』((1807(文化4)年)がある。また1795年には太陽暦の1月1日に初めてオランダ正月を祝っている。

2.稲村三伯(1758~1811)は、因幡国鳥取藩医。大槻玄沢の『蘭学階梯』につよい影響を受け、江戸の玄沢の門に入り、蘭学を学ぶ。フランソワ=ハルマ(1653~1722)の蘭仏辞書を玄沢から借り受け、その和訳を苦心の末に完成。1796年、日本初の蘭和辞書『ハルマ和解』として完成、刊行した。のち京都で蘭学塾を開く。なお、同じハルマの辞書から、オランダ商館長ズーフ(ドゥーフ)が日本人通詞に命じ、出島で蘭和辞典(『長崎ハルマ』、『ズーフハルマ』)(1831年)も作られている。このため三伯の方を『江戸ハルマ』とも呼ぶ。

〈2016立教大・済コミュ福観光〉

 蘭学は、徳川吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したこともあって、18世紀後半から本格化した。なかでも仙台藩の蘭方医大槻玄沢は、蘭学の入門書である『( ル )』を著し、また、江戸に( ヲ )という蘭学塾を開いて多くの蘭学者を教育した。さらに高橋景保の建議によって、幕府が天文方に蛮書和解御用を設けると、そこでの翻訳作業にも従事した。」

(答:ル蘭学階梯、ヲ芝蘭堂)〉


〈2016早大・政経

【史料】大槻平次上書
 私義、昔年[ 1 ]を編著仕候大槻玄沢と申者次男に御座候所、魯西亜国の義は、……文化年中、レサノツト〔レザノフ〕え論文御渡し……。

問i 空欄1に入るものはどれか。


 a『環海異聞』  b『采覧異言』
 c『新訂万国全図』 

 d『航海遠略策』 e『辺要分界図考』」

(答:a)〉


〈2014明大・法(法律)

 大槻玄沢は、『[   ]』という蘭学の入門書を著し、江戸で芝蘭堂という蘭学塾を開いて多くの門人を育て、また宇田川玄随は、オランダ内科書を訳して『西説内科撰要』を著し、蘭学は医学分野でめざましく発展した。玄沢の門人[ ク ]は、蘭日辞書である『ハルマ和解』をつくった。

問10 空欄[ ク ]に該当する人名を記しなさい。」


(答:ク稲村三伯 ※記号の無い空欄に対し設問はないが[蘭学階梯])〉

〈2013学習院大・法

 外国語学習で必須なのが辞書である。佐久間象山も強い関心をもっていた。オランダ語については,つとに1796年,稲村三伯らが訳出した[ 7 ]和解が刊行されいた(いわゆる江戸[ 7 ]が,その後、オランダ商館長ヅーフらの編集によるヅーフ[ 7 ](いわゆる長崎[ 7 ])も作られる。辞書によって横文字を正確に和訳することが,蘭学者たちの使命であった。」

(答:7ハルマ)〉


〈2011文教大・全学部:「

問8 下線部h大槻玄沢の門下からは多くの蘭学者が輩出したに関連して、蘭学者とその著者の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

 1宇田川玄随-『蘭学階梯』

 2宇田川玄随-『ハルマ和解』
 3稲村三伯 -『蘭学階梯』
 4稲村三伯 -『ハルマ和解』」

(答:4)〉


歴代天皇 元明~光仁 桓武~光孝

2017-01-26 | 『新世界史頻出年代暗記』


元元聖孝淳称光

[ポイント]
1.歴代天皇は元明元正聖武孝謙淳仁称徳→光仁とつづく。

[解説]
1.元明天皇の在位中の710年平城京に遷都。

2.元正天皇の在位中に、718年に養老律令制定、722年に百万町歩開墾計画723年三世一身法を発布。


3.聖武天皇は、国分寺を造営、東大寺盧舎那大仏を造立(建設中の紫香楽の地で詔743年、開眼752年馴染みで/ごっつい大仏」)。皇后は藤原光明子。治世中に長屋王、藤原四子、橘諸兄と政権が推移。


4.孝謙天皇の治世下に藤原仲麻呂恵美押勝)が政権を掌握。仲麻呂は淳仁天皇を立てる。


5.孝謙上皇は道鏡を寵愛し、恵美押勝・淳仁天皇を退け重祚し、称徳天皇となる。

〈2016立教大・現心社コミュ福

問5.この人物聖武天皇に関する記述として正しくないのはどれか。
 a.元明天皇の譲位により724年に即位した
 b.皇后の光明子は藤原不比等の娘である
 c.749年に孝謙天皇に譲位した
 d.文武天皇の子である」

(答:a)

〈2015早大・商

 次の文章を読んで、下記の設問(A~J)に笞えよ。解答はもっとも適当なものを1つ選び、解笞記入欄のその番号をマークせよ。もし、適当なものがなければ6をマークせよ。

 奈良時代の天皇の歴史についてみてみよう。
天武天皇の子として生まれたイ草壁皇子は、将来を嘱望されながら、若くして世を去った。そこで、天武の皇后であった持統天皇が即位した。彼女は、草壁皇子の子である軽皇子に期待し、彼が15歳になると皇位を譲った。文武天皇である。しかし、その文武天皇も病弱であり、即位後10年程で亡くなってしまう。だが、文武と[ ロ ]の間に生まれた首皇子はまだ年若い。そこで、文武の母がハ元明天皇として即位し、ついで、文武の姉妹であった元正天皇も皇位に就いた。二代続けてのニ女帝である。
 やがて、首皇子が成長すると、ホ聖武天皇として即位した。聖武の皇后は、へ藤原不比等と ト.県犬養三千代の間に生まれた光明子であった。二人の間に待ちに待った男子が誕生したが、まもなく夭逝し、女子のみが成長した。阿倍内親王、後の孝謙天皇である。彼女は一生不婚でチ淳仁天皇をはさんで再び即位し、称徳天皇となった。
 しかし、ここで聖武・光明子の系譜d途絶えた。そこで群臣たちは称徳天皇亡き後、白壁王を擁立した。リ光仁天皇である。」

問A 下線部イ草壁皇子のライバルであり、謀反の疑いをかけられて自殺した人物は誰か。


 1.山背大兄王 2.有馬皇子 
 3.大津皇子  4.舎人親王
 5.高市皇子    

 (答:3 ※高市皇子は母が皇女でなかったため、ライバルではなかった。

問B 空欄ロにあてはまる人物は誰か。

 1.藤原宮子 2.藤原明子 
 3.藤原薬子 4.藤原順子
 5.藤原威子

(答:1)


問C 下線部ハ元明天皇の時の出来事として誤っているものはどれか。


 1.平城京に遷都した。   
 2.『日本書紀』が完成した。

 3.和同開称を鋳造した。
 4.『風土記』の作成を命じた。

 5.蓄銭叙位令を出した。

(答:2 ※元明天皇(707~15 ※15年からは元正、「正」の字に着目)、遷都710、日本書紀720、和同開珎710、風土記の編集命令713、蓄銭叙位令711) 


問D 下線部二女帝に関連して、女帝の組み合わせとして正しいものはどれか。


 1.舒明-斉明
 2.欽明-斉明
 3.欽明-推古
 4.敏達-皇極
 5.舒明-皇極

(答:6)


問E 下線部ホ聖武天皇が遷都した順番が正しいものはどれか。


 1.難波-紫香楽-恭仁
 2.難波-恭仁-紫香楽
 3.紫香楽-恭仁-難波

 4.恭仁-紫香楽-難波
 5.恭仁-難波-紫香楽


(答:5※恭仁京(740~44)→難波宮(744)→紫香楽宮(742離宮建設、743大仏造立の詔、744遷都→平城京還都(745~84) 国知れ何よ しかし閉口。


問F 下線部ヘ藤原不比等について述べた文として誤っているものはどれか。


 1.大宝律令の編纂に参加した。
 2.平城京遷都に尽力した。

 3.藤原鎌足の子であった。
 4.東大寺建設に尽力した。

 5.養老律令編簒の中心となった。

(答:4 ※不比等(659~720)、745聖武天皇が発願)


問G 下線部ト県犬養三千代のもう一人の子は誰か、


 1.吉備真備  2.橘奈良麻呂
 3.玄昉 4.石上宅嗣
 5.橘諸兄

(答:5)


問H 下線部ト.県犬養三千代に関わりの深いと伝えられているものはどれか。


 1.法隆寺橘夫人念待仏
 2.薬師寺薬師三尊像

 3.薬師寺聖観音像
 4.東大寺戒壇院四天王像

 5.東大寺日光・月光菩薩像

(答:1)

問I 下線部チ淳仁天皇が流されたのはどこか。

 1.讃岐国 2.隠岐国
 3.佐渡国 4.土佐国
 5.淡路国

(答:5)


問J 下線部リ光仁天皇について述べた文として誤っているものはどれか。


 1.即位した時の年齢は60歳を超えていた。
 2.天智天皇の孫であった。

 3.道鏡を観世音寺に流した。
 4.桓武天皇の父であった。

 5.加墾禁止令を廃止した。

 (答:3)

後任幹桓平んぎ嵯淳仁文清和陽非怒り光。    


光仁(こうにん)・桓武(かんむ))(城(へいぜい)・嵯峨(さが))(淳和(じゆんな)・仁明(にんみよう))(文徳(もんとく))(清和(せいわ)・陽成(ようぜい))


[句意]後任の幹部の丙さんが、純粋な2名にもっと手厚い世話をすることを要請させた、という句。「丙」はA氏や甲氏のように匿名の人を表わしている。

[ポイント]

1.歴代天皇は光仁桓武平城嵯峨淳和仁明文徳清和陽成とつづく。

[解説]

1.光仁天皇(位770~781)は天智天皇の孫。62歳で即位。道鏡をしりぞけた藤原百川らがはかって、壬申の乱以後続いてきた天武天皇の血統による皇位継承を廃し、ふたたび天智天皇の皇統へ。
 光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠(たかのにいがさ)とのあいだに生まれた桓武天皇が即位した。
  光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。

 

2.桓武(位781~806)・平城(位806~809)・嵯峨(位809~823)の各天皇は別項で詳述予定。

3.淳和天皇(位823~833)は、桓武天皇と藤原百川の娘の子。嵯峨天皇の弟。名は大伴(大伴氏は即位の翌日、天皇の名を避け伴氏と改めた)。漢詩文集『経国集』(827)、養老令の官撰注釈書『令義解』(833)をつくるなど文化政策に努めた。


4.仁明天皇(位833~850)は、嵯峨天皇の子。治世中、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としたが、承和の変(842)により、藤原冬嗣の娘順子との間に生まれた道康親王(文徳天皇)が皇太子とされた。


5.文徳天皇(位850~858)は藤原良房の画策により皇太子になったため、その治世は良房の政治介入を避けられなかった。第一皇子をさしおいて、良房の娘明子の生んだ第4皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生後8ヵ月で皇太子に立てられている。


6.清和天皇(位858~876)は、9歳で即位。後見役の藤原良房が事実上の摂政となる。しかし天皇自身も『貞観格式』の編纂にや学問の振興には積極的に関与している。27歳で譲位。


7.陽成天皇(位877~884)はわずか2歳で立太子、10歳で即位。乱行が絶えず、関白藤原基経により病気を理由に廃された。しかし長命で譲位後も65年生きた。『後撰和歌集』に収められた「筑波嶺(ね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」は百人一首にも採録されている。


〈2014早大・人間科学

 歴史書の編纂は平安京に遷都した後も継続され,『続日本紀』からf『日本三代実録』まで5つの勅撰の正史が残された。」

問6 下線部f『日本三代実録』に事跡の描かれた3天皇の組合せとして,正しいものはどれか,1つ選べ。

 

  ア 淳仁・称徳・光仁
  イ 清和・陽成・光孝
  ウ 桓武・平城・嵯峨
  エ 淳和・仁明・文徳
  オ 宇多・醍醐・朱雀」

(答:イ ※「清」の字。〉


〈2013早大・文

 平安時代に入ると、藤原良房が承和の変により、伴健岑・橘逸勢を排除した。また、応天門の変によって伴善男を排斥し、[ C ]天皇の摂政となった。ついで良房の養子の基経が関白となり、摂関政治の基礎を築いた。」

問4 空欄Cにあてはまる人物は誰か。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。


 ア醍醐 イ文徳
 ウ仁明 エ陽成
 オ清和

(答:オ)〉



北さ

2017-01-26 | 『新世界史頻出年代暗記』

□近世380.洋学(蘭学)(桂川甫周『北槎聞略』)◇C

[ゴロ]大黒(おおぐろ)の/北産(ほくさん)ブリを/桂川(らく)捕集


大黒屋(だいこくや)光太夫(こうだゆう))(北槎聞略(ほくさぶんりゃく))(桂川(かつらがわ)甫周(ほしゅう)・ラクスマン)


[句意]大ぶりで黒い北方産のブリを(京都の)桂川で楽々と捕集した、という句。


[ポイント]

1.桂川甫周大黒屋光太夫の供述をもとに『北槎聞略』を著す。

[解説]

1.ラクスマン根室来航1792)。ラクスマン(1766~1806?)はロシア帝国の軍人。女帝エカチェリーナ2世の命により漂流民の大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、1792年、根室に来航した。

2.大黒屋光太夫伊勢国の船頭。1782年伊勢から江戸に向かう途中遭難、アリューシャン列島に漂着。桂川甫周(1826~1881)が光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略』。「北槎」とは北のいかだ(筏)の意。


〈2014明大・農(食料環境政策)

問8 下線部オ大黒屋光太夫からの聞き取りをもとに、桂川甫周が著した書物として最も適切なものを下記から一つ選べ。

 A環海異聞 B海防臆測

 C辺要分界図考
 D北槎聞略 E慎機論)」

(答:D)〉


〈2014明大・文

問7 下線部ウこのような生産活動や商品経済の発展を支えた新しい栽培技術や農業知識は、農書によっても普及した。農書のうち、誤っているものを、次の1~5のうちから一つ選べ。

 1北槎聞略 2耕稼春秋

 3清良記  4百姓伝記
 5農業全書」

(答:1)〉


建長寺

2017-01-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

〈2014立大・経済コミュ福祉観光

 問9. この人物北条時頼に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.元から再三にわたって恭順を求められてきたが、これを拒否した

 b.評定衆の裁判実務を助けるために、その下に新たに引付衆を置いた
 c.源頼家を幽閉し、源実朝を次の将軍にすえた
 d.和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼務した

(答:b ※a8代時宗の治世、c初代時政の治世、d2代義時の治世)

 問10.建長寺に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.1325年に、その修造をはかるため、鎌倉幕府が元に建長寺船を派遣した
 b.1571年に、織田信長の焼き討ちに遭った
 c.創建に際して宋から招かれた僧侶は栄西である
 d.室町幕府のもとで五山の制が確立すると、鎌倉五山の第3位となった」

(答:a ※a.ビザ都合して建長寺。 b比叡山の延暦寺の誤り、c蘭渓道隆の誤り、d第1位)

     1325年

〈2013明大・商

 平安時代の初期には、中国の食文化の影響から、唐揚げや唐煮、唐菓子などの料理が食膳に上り、中国風の納豆なども食べられていたという。また鎌倉時代には、禅宗と共に喫茶の風習が広まった。禅寺では料理や食事も修行の一環とみなされるようになり精進料理が発達し、豆腐など現代の日本料理の基礎の一部が完成した。一説によれば鎌倉五山第一位の[ イ ]がその名の由来とされる料理も今に残っている。このような食生活の充実を支えたのが、この時代の商工業の発達であった。定期市が定着し、小売商人も活躍した。

(答:建長寺)

 

〈2015大学入試センター試験・日本史B

智 史:中世にも人の往来は盛んだったよ。たとえば、d鎌倉の禅宗寺院などは中国語が飛び交っていたと言われている。南宋や元の僧が渡来し、北条氏の帰依を受けて滞在していた。
愛 美:[ ア ]とか無学祖元ね。
智 史:そうだよ。さらに時代をさかのぼると、平安中・後期の[ イ ]には宋の商人   が来航して交易に携わっていたんだよ。」

問4 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとしで正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1.ア蘭渓道隆 イ博多  2.ア蘭渓道隆 イ堺

 3.ア桂庵玄樹 イ博多  4.ア桂庵玄樹 イ堺

(答:1)〉

 

〈2013早大・国際教養

 下線部d五山の制度に対し、権力者の保護を敢えて求めずに、自由な布教活動を行った禅宗諸宗派を総称して何と呼ぶか。漢字二字で答えなさい。

(答:林下)〉

 

〈2013早大・法

問7 下線部eについて。南宋滅亡後の1279年に北条時宗に招かれ、円覚寺を開山した僧の名前として正しいものを1つ選べ。

 あ蘭渓道隆 い無学祖元 う兀庵普寧
 え東巌慧安 お一山一寧」


(答:い)〉

 

〈2015立大・文

問5.鎌倉時代の都市鎌倉に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.勧進僧往阿弥陀仏が、この地に近い和賀江島に港湾施設を築いた

 b.市中は保という行政区画に分けられ.保奉行人がおかれた
 c.北条時宗の招きで来日した無学祖元が、円覚寺と寿福寺を開いた
 d.若宮大路が由比ヶ浜まで延ばされ、計画的な街路がつくられた」

 

(答:c×時宗の招きで来日した無学祖元が円覚寺を開いたが、寿福寺は開いていない。寿福寺を開いたのは栄西、※a鎌倉時代初期に往阿弥陀仏という名の勧進(寄付集め)僧が、鎌倉の材木座に和賀江島を築港している。ここで日宋貿易が行われた、b京都から帰還したた北条泰時は、鎌倉に京都にならって保という行政単位を設け、保奉行人を置いた、d由比ヶ浜から鶴岡八幡宮まで)〉




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蘭学

2017-01-22 | 『新世界史頻出年代暗記』



人、名成します 解体し。


(桂いた川甫周(かつらがわほしゅう)・前野良沢(りょうたく))(中川淳庵(じゅんあん)・杉田玄白(げんぱく))(『解体新書』)



[ポイント]

1.『解体新書』の訳出に参加したのは、前野良沢杉田玄白中川淳庵桂川甫周の4人である。

[解説]
1.洋学をいちはやくとり入れたのは、実用の学問としての医学である。1774(安永3)年、前野良沢(1723~1803)や杉田玄白(1733~1817)らが西洋医学の解剖書を訳述した『解体新書』はその画期的な成果であった。

2.前野良沢は、豊前国中津藩の藩医で蘭学者。43歳で晩年の青木昆陽に師事してオランダ語を学ぶ。長崎へ留学中に西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を入手、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周ら盟友と刑場の江戸小塚原で腑分け(解剖)を実見。翌日から良沢中心に同書の翻訳に着手し、3年5ヶ月で『解体新書』が成った(1774年)。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。主著は『蘭学階梯(かいてい)』(1788年)。


3.杉田玄白は、若狭国小浜(おばま)藩医。前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行い訳書『解体新書』を出す。その苦心談を晩年に、『蘭学事始』(1815年)として出版。


4.中川淳庵(1739~86)は、小浜藩医。解剖書『ターヘル・アナトミア』を入手、すでに同書を得ていた前野良沢らと腑分けを実見し、翌日からの翻訳に加わる。平賀源内とともに火浣布(かかんぷ)(不燃布)の制作もおこなっている。


5.桂川甫周(1826~1881)は、将軍家侍医。21歳で『ターヘル・アナトミア』の翻訳に参加。また大黒屋光太夫のロシア漂流記『北槎聞略(ほくさぶんりやく)』(1794年)を著した。


〈2016関西学院大学・全学部

問8 a・bの正誤を判断せよ。

 a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:a〇、b〇)〉


〈2015関西学院大・神社済教など

問7  a・bの正誤を判定せよ。

 a.藤原惺窩の門人林羅山は、徳川家康に重用されて大学頭となり、幕府の文教政策を推進した。羅山以降、代々の林家当主は大学頭に任じられた。

 b. 蘭学はまず医学の分野で発達した。杉田玄白や大槻玄沢は、西洋医学の解剖書を翻訳した『解体新書』を刊行し、宇田川玄随も『蘭学階梯』を著して西洋医学を紹介した。」

(答:a×大学頭は3代信篤(鳳岡)から、b×大槻玄沢は翻訳に参加していない。また『蘭学階梯』は玄沢著)〉


 〈2014明大・農(食料環境政策)

問8 下線部オ大黒屋光太夫からの聞き取りをもとに、桂川甫周が著した書物として最も適切なものを下記から一つ選べ。

 A環海異聞 B海防臆測

 C辺要分界図考
 D北槎聞略 E慎機論)」

(答:D ※「甫周」の〈ホ〉)


〈2014明大・法(法律)

「問9 下線部e杉田玄白に関連して、杉田玄白は『[ キ ]』のなかで『ターヘル=アナトミア』の訳述の苦労について「誠に艪・舵なき船の大海に乗出せしが如く」と述べている。空欄[ キ ]に該当する著書名を記しなさい。」

(答:蘭学事始)〉


〈2012立命館大・文系A方式

 さて、つねづね[ F ]などに出会ひし時に語り合ひしは、追々見聞するところ、6和蘭実測窮理のことどもは驚き入りしことばかりなり。もし直にかの図書を和解し見るならば、格別の利益を得ることは必せり。……然るにこの節不思議にかの国解剖の書手に入りしことなれば、先づその図を実物に照し見たきと思ひしに、実にこの学開くべきの時至りけるにや、この春その書の手に入りしは、不思議とも妙ともいはんか。……翌朝とく支度整ひ、彼所に至りしに、7(前野)良沢参り合ひ、その余の朋友も皆々参会し、出迎へたり。時に良沢一つの蘭書を懐中より出だし、披き示して日く、これはこれ8『ターヘル・アナトミア』といふ和蘭解剖の書なり。先年長崎へ行きたりし時求め得て帰り、家蔵せしものなりといふ。……そのとき翁申せしは、何とぞこの『ターヘル・アナトミア』の一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明を得、今日療治の上の大益あるべし、いかにもして通詞等の手をからず、読み分けたきものなり。(『9蘭学事始』)」

問k 空欄[ F ]に入る人物は、エレキテルの実験をするなど物理学の研究に足跡を残したほか、戯曲や滑稽本も書いた。この博学多才な人物の氏名を答えよ。


問l 下線部6に関連して、江戸時代の「和蘭実測窮理」の学について説明した文章として、もっとも適当なものを下から一つ選び、記号で答えよ。


 あ 徳川家光が漢訳洋書の輸入制度を緩和したことは、蘭学興隆の契機となった。

 い 徳川吉宗の命で蘭学を学んだ野呂元丈は、オランダ薬物の研究成果を『阿蘭陀本草和解』にまとめた。
 う 大槻玄沢は、大坂に適塾を開き、種痘の普及に尽力した。
 え 1823年に来日したケンペルは、洋学所を江戸に開き、数多くの蘭医を育成した。

 問m 下線部7に関連して、前野良沢がオランダ語を学んだ人物は、『甘藷記』を著したことでも知られている。その人物として、もっとも適当な人名を下から一つ選び、記号で答えよ。

 あ西川如見 い青木昆陽
 う稲村三伯 え三浦梅園


問n 下線部8に関連して、この書物の翻訳書を何というか。


問o 下線部9に関連して、『蘭学事始』は蘭学草創期の回想録である。著者の氏名を答えよ。」


(答k.平賀源内、lい ※「和蘭実測窮理」とはオランダの実理ということ。「窮理」とは自然法則性の解明に重きをおく思考態度で「実測窮理」とは科学を指す。mい、n解体新書、o杉田玄白)〉


〈2011文教大・全学部:「

問7 下線部g蘭学研究について述べたA~Cの文について、古いものから年代順に正しく配列せよ。

 A 徳川吉宗が野呂元丈と青木昆陽にオランダ語を学ばせた。
 B 前野良沢、杉田玄白らがオランダ語の解剖学書を翻訳し、『解体新書』を刊行した。
 C ドイツ人医師シーボルトが長崎に嗚滝塾を開き、西洋医学を教えた。」

(答:ABC)〉


洋学(蘭学)先駆者

2017-01-20 | 『新世界史頻出年代暗記』



助言粗いよ ノロ来んよ。

西川如見

(青木昆陽(こんよう)・新井(あらい)白石(はくせき))(野呂玄丈(げんじょう))(西川如見(じょけん))


[ポイント]

1.洋学のおもな先駆者は、青木昆陽新井白石野呂玄丈西川如見の4人。

[解説]
1.西川如見(1648~1724)は、天文学者で、長崎で見聞したアジアなど海外事情を紹介した。

2.新井白石は(1657~1725)、潜入宣教師に対する尋問をもとに世界の地理・物産・民俗などを『采覧異言(さいらんいげん)』『西洋紀聞』で紹介した。

3.青木昆陽(1698~1769)・野呂元丈(1693~1761)は、徳川吉宗の命でオランダ語学習を始め、洋学はまず蘭学として発達し始めた。

〈2016関西大学・全学部

問12 この史料にあるように西洋の事物が紹介され、やがて蘭学が発達した。青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学ぶよう命じた将軍は誰か。

 ア徳川綱吉 イ徳川吉宗 ウ徳川家重」


(答:イ)〉


〈2016明大・国際日本

 本草学者の[ F ]は、吉宗の命でオランダ薬物を研究し『阿蘭陀本草和解』を著した。本草学者の[ G ]が生前に前田綱紀の保護の下に編集していた本草学の大著である『庶物類纂』を、[ G ]の弟子に命じて増補させたのもまた、吉宗である。さらに吉宗に招かれて江戸に下った長崎出身の学者である西川如見は、長崎で見聞した朝鮮・中国・台湾・南洋・インド・西洋におよぶ海外事情などを記述した『[ H ]』を著していた人物である。イ新井白石がシドッチの尋間による知識や中国地理書を参考にして世界の地理・風俗を記した『采覧異言』もまた、吉宗に献上された。

問7.空欄Fに入る人物の氏名を漢字で書きなさい。


問8.空欄Gに入る人物の氏名を漢字で書きなさい。


問9.空欄Hに入る、1695年に刊行された西川如見の著書を漢字で害きなさい。


問10.下線部イの人物が侍講として仕えた人物を下記の1~4の中から選びなさい。


 1.徳川綱吉 2.徳川家宜

 3.徳川家重 4.徳川家綱」

(答:7野呂元丈 ※口2つ。、8稲生若水、9華夷通商考、10→2)〉

●元禄文化(学問)

 〈稲生若水、『庶物類纂』を編集〉

Jakusui asked Tsunanori MAEDA to be allowed to compile 'a study

 

 of various materials' and was commissioned to do so, receiving the 

 

order to edit the 'Shobutsuruisan' (book on the study of herbalism) which would complement the 'Compendium of Materia Medica,'

 

 considered the bible of herbalism at the time.

 

勝負する際 意の邪推。 

『庶物類纂』   稲生若水     

江戸中期の本草学者稲生若水は医学・本草学を学ぶかたわら、伊藤仁斎に儒学も学んだ。1693年、加賀藩主前田綱紀に仕え、その後援により当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得て『庶物類纂』の編集に従事したが、業半ばで没した。

参考 『庶物類纂』は若水の死後、これを惜しんだ将軍吉宗の命で、若水の門人たちが完成した。蘭学興隆の基礎をなした野呂元丈は若水の弟子のひとり。若水野呂を〈〉の字でつなげよう。

●元禄文化(学問)

 1695年〈西川如見、『華夷通商考』を刊行〉  

Joken NISHIKAWA from Nagasaki wrote "Kaitsushoko" (Considerations on commerce with foreign countries) which described overseas circumstances he learned in Nagasaki from the viewpoint of trade relations.

広く御助言 開通後。 

1695年  西川如見  『華夷通商考』

 

1695、江戸中期の天文学者西川如見は長崎で見聞した海外事情を通商関係の観点から記述した日本で初めての世界地誌、『華夷通商考』を著した。

[ポイント]

1.西川如見のおもな著作は華夷通商考(かいつうしょうこう)』。

[解説]

1.西川如見(1648~1724)は、江戸中期の天文学者、地理学者。長崎生まれ。長崎で儒学を学び、マテオ=リッチなどイエズス会系の漢訳書で天文暦学を学び、名声を高める。『華夷通商考』(1695)などで世界地理・風土を解説した。晩年、西洋天文学に興味をもった将軍吉宗により江戸に招かれ、数年江戸に滞在後、長崎に帰っている。

〈2016明大・国際日本

 吉宗に招かれて江戸に下った長崎出身の学者である西川如見は、長崎で見聞した朝鮮・中国・台湾・南洋・インド・西洋におよぶ海外事情などを記述した『[ H ]』を著していた人物である。」

問9.空欄Hに入る、1695年に刊行された西川如見の著書を漢字で害きなさい。


(答:H華夷通商考)〉


〈2012同志社大学・法グロコミュ

設問k 元禄8年(1695)、長崎で見聞した海外事情・通商関係を記した『華夷通商考』を著した人物は誰か。その人物名を漢字で記せ。」

(答:西川如見)〉


□近世377.新井白石のおもな5学術書 ◇C

2017-01-17 | 『新世界史頻出年代暗記』

白石お利口才で説く。『藩譜(はんかんふ)』・『西洋紀聞(きぶん)』)



[ポイント]

1.新井白石のおもな学術著作としては、洋学関係では『采覧異言』『西洋紀聞』、歴史書では『読史余論』『古史通』『藩翰譜』の5冊がある。

[解説]

1.潜入宣教師シドッチ(伊)の尋問で得た知識をもとに西洋の地理を『采覧異言』に、文化を『西洋紀聞』に著す。

2.『読史余論』『藩翰譜』『古史通』は朱子学に基づく歴史書で、いずれも6代家宣への進講のために書いたもの。

3.なお生家のこと、師木下順庵との出会い、家宣を補佐した政治的体験などについて書いた随筆(自伝)に『折たく柴の記』がある。

〈2016関西大学・全学部

問10 この史料は、西洋の地理や風俗を記した『西洋紀聞』である。作者は次の誰か。

 ア新井白石 イ西川如見 ウ荻生徂徠」


(答:ア)〉


〈2013立命館・文法済営などA方式2/1:「

問11 下線部11新井白石の著書として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ『新論』   い『本朝通鑑』 

 う『大日本史』 え『読史余論』」

(答:え)〉


〈2012立命館大・法文済営など:「

問p 下線部10新井白石の説に、天下の大勢[ G  ]変して武家の代と為り、武家の世、又五変して徳川の代に及ぶと云ひに関連して、新井白石の著した歴史書として、もっとも適当なものを下から一つ選び、記号で答えよ。

 あ『読史余論』 い『本朝通鑑』
 う『釆覧異言』 え『日本外史』


問q  空欄[ G ]にあてはまる、もっとも適当な漢数字を答えよ。」


(答:問pあ、問q九)〉


〈2012立大・経済法異文化コミ:「

 新井白石は学者としても著名で、自伝『折たく柴の記』を著したほかに、ヨハン・シドッチからの聞きとりによって『采覧異言』や『[ 15 ]』を著述した。

問15 (15)にあてはまる書名を記しなさい。」


(答:問15.西洋紀聞)〉)


〈2011近畿大・法済営など:「

 師の順庵と同じく、[ 1 ]の儒学者であるが、師の学風を継承するのみならず、現実的・政治的な関心に基づいて、f歴史や地理など実証的な学問の分野に多くの業績を残した。 1725年没。

問1 空欄[ 1 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次のうち一つをえらべ。


 1古文辞学派 2古学派

 3朱子学派  4陽明学派

問9 下線部fについての文として最も適当なものはどれか。次のうち一つを選べ。

 
 1朝廷や武家政権の推移を段階的に時代区分し、独自の歴史の見方を展開した『藩翰譜』を著した。

 2イタリアの宣教師シドッチとオランダ商館長らから得た知識を基本として、世界地理書『采覧異言』を著した。
 3入念な史料調査と厳密な史実の考証をおこない、儒教道徳の見地から人物の評価を定めた、古代から江戸時代までの通史『古史通』を著した。
 4師事した木下順庵の伝記『祈たく柴の記』を著した。」

(答:問1→3、問9→2 ※1×朝廷は含まない、3×儒教道徳に捕らわれず実証的に著す、4×白石自身の随筆)〉


H~L

2017-01-17 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

helpless 「無力な」 ※「助け」が〈ない〉のだから。

horizon (hərάɪzn)「地平線」 ※ rise 「昇る」を語源とする。

huge (hjúːdʒ ヒュージ)「巨大な」 Russia is a huge country. 【反対語】 tiny ごく小さな

【類語】 huge は大きさ・程度などが非常に大きい;enormous は普通の大きさ程度をはるかに超えているimmense は普通の規準では想像もつかないくらい大きいtremendous は驚き恐れを与えるほど大きいvast は広がり範囲などが大きい、gigantic はgiant「巨人」に〈~的〉を意味する形容詞をつくる接尾語-icがついた語なので「巨人のように大きい」

 

hype (hάɪp)「誇張、誇大な宣伝」

ideal (アイディアル) 「理想的な」 ※idea は「(いい)考え」

idleness (アイドルネス)「怠惰」

ignore (イグノアー ɪgnˈɔɚ) 

無視する」 ※ gno- はrecgnize にもある「認識」。それをinで打ち消し、子音が続いて発音しにくいので nが消失。【名】ignorance 「無知」

 

imaginary number (イマジナリー ナンバー) 

虚数 (2乗して-1になる i など)」→ imaginary は「想像上の」 

imitate 「真似る」

immunity (ɪmjúːnəṭi)「免疫」 ※ 後天性免疫不全症候群 AIDS の I は immunity を省略したもの。「医務にて免疫つきました。」

improve (インプルーヴ) 「改良する、改善する」

impulse (ímpʌls)「衝動」※ puls は〈駆り立てる〉。 〈心の内を駆り立てる〉から。「衝動買い」はimpulse buying

incident(ínsədnt)「事件」 ※ cid は 〈落ちる〉。身に降りかかってくること〉から。

 【類語】accident は思いがけなく起こる事故; event は出来事や行事。

incipient (ìnsípiənt)「始まりの、草創の」 ※cip や cep は 〈取る〉の意。〈内部で形をとる〉から。 incipient Jyomon period 「縄文草創期」 the incipient stage of a disease 「病気の初期段階」。

include (インクルード ɪnklúːd)「含む」 ※clude は〈閉じる(close)〉の意。〈中に閉じ込める〉から。「犬狂う毒 含む餌。

indicate (índɪkèɪt)「指し示す」 dic は 〈言う〉。〈仲間に向かって言う〉から。

インド!行けぇと指し示す

The evidence of shell middens indicates that the economy was well rounded. 「貝塚という証拠は経済が広範に広がっていたことを示している。」

indiscretion  (ìndɪskréʃən) 「無分別」 ※ cret には〈ふるいにかける〉の意味があり、これに〈分離〉の意の接頭語 dis-がついたdiscretion は「分別」 。この単語をin で打ち消したのが indiscretion。

infantry (インファントリィ)「歩兵」 ※ infant は「幼児」。〈よちよち歩く〉イメージから。

inherit (インヘリット)「相続する、受け継ぐ」

injure (インジャーー) 「傷つける」 ※ juris 〈正しい〉を in-で打ち消して、〈正しくないことをする〉から。「いいんじゃ人を傷つけて。

insect (ínsekt)「昆虫(sect「切断」(⇒section「部分」)」 →〈切り込まれた(体の節)〉

instead(インステッド) 「その代わり、」 Give me this instead. 「代わりにこれを下さい。」

insurance (インシュアランス) 「保険」 ※sure「確かな」

insight「洞察力」 ※sight「視野」

intuition (インチュション)「直観、直感」 ※とりあえず共通する「チ」と「ン」で。

invent (ɪnvént)「発明する」※ 。vent は〈来る〉。〈(頭の)中に来る〉から。

 

Italian

 

What nationality was Christopher Columbus?

 

Italy

 

Which country invaded Abyssinia in 1935?

 

Joan of arc

 

Which French heroine was burned at the stake having been tried for witchcraft?

 

keep(キープ)「保つ、維持する、守る」※サッカーのゴール・キーパーはシュートを入れられないように維持して守る。

 

He kept on telling the story.

 

「彼はその話を話し続けた。」

 

※keep on ~ing は「~し続ける」、 「~すること(~ing)」の〈接触(on)〉を「保つ(keep)」から「~し続ける」。

 

Well, I'll just keep on making the same mistakes.
そして僕は同じ過ちを犯し続けるだろう。」Thinking Out Loud

 

John F Kennedy

 

Who was the American President when the Berlin Wall was constructed?

 

kidney kídni)「腎臓」※「きっと2個ある 腎臓は。

 

Martin Luther king jr

 

Which civil rights leader was shot dead in Memphis in 1968?

 

Kobe

 

Which Japanese city was devastated by an earthquake on January 17th, 1995?

 

landmine lǽndmàɪn)「地雷」※

 

When you visit areas with landmines, you will neeed to (       ) a plastic face shield for protection.

 

wear ②put on③take on ④be put on 

 

「地雷のある地域を訪れるときには、保護のためにプラスチック製の防御マスクをつけておく必要がある。①wear」

 

※③のtake on は「(仕事・責任など)を引き受ける(=assume)、~を雇う、(外観・性質など)を帯びる」。

 

抵抗運 引き受ける

 

launchlˈɔːntʃ)「【他】 進水する、~を始める」※「ローンちょっとで 始め

 

North Korea has fired 21 missiles this year. Three were launched this week and are believed to have fallen in Japan's Exclusive Economic Zone. 
「北朝鮮は今年、21発のミサイルを発射しています。3発は今週に発射され、日本の排他的経済水域に落下したと考えられています。」

 

 

 

legallíːg(ə)l)「法律上の、法的な」※leg は〈法=law〉。

 

対義語のillegal を「入りがあるのは 非合法」というゴロで覚えてしまうと一石二鳥。

 

It's the first legal decision by an international judiciary on any of the sea's multiple disputes and could be felt around the region.
 
国際的な司法組織による、南シナ海の多数の紛争についての初の法的な判断であり、この地域のあちこちが影響される可能性があります。

 

解  説

 

judiciaryは「裁判所のjudges(裁判官たち)」や「司法の組織や制度」を広く指します。
ここでのbe feltは、影響が「感じられる」という意味です。
南シナ海は、中国や台湾のほか、フィリピンやベトナムなど合わせて8つの国と地域に囲まれた広さ350万平方キロメー%E


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2017-01-14 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ]吹き流川原落つ


(飛鳥本宮・飛鳥板宮(いたぶきのみや)・難波柄豊碕宮(ながらとよさきのみや))(飛鳥板宮)(飛鳥川原宮(かわはらのみや)・近江大津宮)


[句意]岡の吹き流しが川原に落ちた、という句。2都目の板蓋宮の「蓋」は(ふき)ではなく「蓋然性」「天蓋」「無蓋車」などの読み(がい)を使っています。

[ポイント]

1.飛鳥岡本宮飛鳥板蓋宮難波長柄豊碕宮飛鳥板蓋宮飛鳥川原宮近江大津宮→(飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京)の順で遷都した。

[解説]
1.飛鳥岡本宮舒明天皇(位629~641)の都だった。

2.飛鳥板蓋宮は、皇極天皇(位642~645)の都。645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。


3.難波長柄豊碕宮は、乙巳の変後の652年、孝徳天皇(位645~654)が遷都した。しかし天皇と中大兄皇子とが不和になり、皇子は母皇極など多くの宮廷人を連れ故地板蓋宮に移る。天皇は難波で寂しく死去。


4.孝徳天皇の没後の654年、中大兄皇子の母皇極は重祚し斉明天皇(位655~661)となり、飛鳥板蓋宮が都となる。


5.654年の末に板蓋宮が焼失したため天皇は飛鳥川原宮に遷都。


6.唐・新羅連合軍の侵攻を恐れた称制中の中大兄皇子は、667年に都を内陸の地近江大津宮に移し、翌年に即位して天智天皇(位668~671)となる。


7.なお近江大津宮紫香楽宮だけは畿内(五畿)外の近江国すなわち東山道にあった。

〈2012立大・全学部(理は除く):「5.4世紀末からヤマト政権は朝鮮半島への武力進出を進めるが、7世紀後半に半島での戦いに破れ、軍隊を引くこととなった。その結果、対馬の金田城から九州、さらに瀬戸内海沿岸そして畿内にかけて朝鮮式山城などの各種防衛施設が造られることとなった。667年、都が( ロ)から近江大津に移動したのもそうした動向と関連するとされている。」
A 文中の空所(ロ)にあてはまる適当な語句を、次のa~dから1つずつ選び、その記号をマークせよ。

 a.飛鳥  b.恭仁
 c.紫香楽 d.難波」

(答:a)明日から大津。

〈2012立大・経済(経済政策)・法・異文化コミュ

 孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。このころ、朝鮮半島では戦乱が続いており、660年には、唐が新羅と結んで( ハ )を滅ぼした。朝廷は、( ハ )の復興を支援するための出兵を決め、既に高齢であった斉明天皇も、出兵の拠点となる〈 い 〉宮に移るが、斉明天皇は飛鳥を離れたこの地で死去してしまった。」

 A.文中の空所(ハ)あてはまる適当な語句をしるせ。

 B.文中の空所〈い〉にあてはまる適当な語句を、次のa~dから1つずつ選べ」

 a.朝倉  b.大津
 c.紫香楽 d.難波」

  (答:ハ百済、いa)〉※斉明の「さ」。


□古代35.八色の姓の覚え方  

2017-01-12 | 『新世界史頻出年代暗記』



天武八色まあすぐね。


684年・八色(やくさ)の姓)(真人(まひと)・朝臣(あそん))(宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・天武天皇)

以下の4姓道師(みちのし)・臣・連・稲置(いなぎ)はあまり出題されないので省略しています。


[ポイント]

1.八色の姓684年)は、上位から真人朝臣宿禰忌寸などの8姓。

[解説]
1.八色の姓は684年、天武天皇が制定した8ランクの姓。以下は道師稲置とされる。天皇家への忠誠の厚い氏を優遇し、天皇家への権力掌握をはかった新氏姓制度と思われる。

2.真人は、最高位の姓(かばね)。継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。


3.朝臣は、従来からあった、臣、連などの姓の上位に新設した姓。主に壬申の乱で功績のあった臣の姓をもつ氏族に与えられた。


4.宿禰は、大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持つ神別氏族(祖先が神だとされる氏族の総称)に与えられた。


5.忌寸は、直(あたえ)姓の国造や、渡来人系の氏族に与えられた。


6.5位の道師は実際に授与されておらず、対象とされた氏族はどのような階級だったかは不明。


〈2016立命館大・全学部

〔D〕蘇我臣日向、倉山田大臣を皇太子に譖(しこ)じて曰はく、僕(やつかれ)の異母兄麻呂、6皇太子の海浜に遊ぶを伺ひ、まさに害せんとす。まさに反(そむ)かんとすること、それ久しからじ、と。6.皇太子、信じたまふ。7天皇、大伴狛連、三国麻呂公、穂積噛臣を蘇我倉山田麻呂大臣の所に使はし、反くことの虚実を問はしむ。大臣答へて曰く、問はるる所の報、僕面営(まのあたり)天皇の所に陳ぶる、と。(『日本書紀』)    

問g 下線部6の皇太子が正式に即位して天皇となった時期に行われた政策は何か。もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ 八色の姓を制定して、新たな身分秩序を構築した。
 い 氏姓をただす台帳として、庚午年籍を作成した。
 う 百済の復興を支援するために、朝鮮半島に大軍を派遣した。
 え 隋・唐で学んだ旻と高向玄理を国博士に任命した。

問h 下線部7の天皇は誰か。もっとも適当な天皇名を下から一つ選べ。

 あ皇極天皇 い孝徳天皇
 う斉明天皇 え天智天皇」

(答:gい〇庚午年籍は天武天皇のときの670年、※本資料は中大兄皇子=孝徳・斉明両天皇の皇太子にして後の天智天皇(位668~71)に関するもの。あ×八色の姓は天武天皇のとき、う・え×中大兄皇子時代、h.い)

〈2013立命館・文法済営などA方式:「
 八色の姓……のなかで、旧姓を「公」と称していた皇親氏族に与えられ、第一位の姓として定められた姓は何か。」

(答:真人)〉


〈2012早大・人間科学:「
 八色の姓のうち、最上階の姓は何か。

 ア真人 イ宿禰 ウ連 エ朝臣 オ忌寸

(答:ア)」〉


国学

2017-01-11 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 

《重要暗記ポイントー国学の四大人》

●享保期、契沖に学んだ荷田春満は『創学校啓』を吉宗に提出。その門人であった賀茂真淵は『国意考』『万葉考』などを著した。さらに真淵の門人である本居宣長は『古事記伝』を著し、国学を大成。宣長の死後の門人として平田篤胤が出て復古神道をおこし、尊王譲位運動に影響を与えた。「経過だ家紋 もとあった」と国学の祖と称された契沖の名と、国学の四大人の名前と活躍の順序を覚えよう。     契沖 荷田春満 賀茂真淵 本居宣長 平田篤胤

 

[ポイント]
1.国学契沖荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤と発展。

[解説]

1.戸田茂睡(1629~1706)は、秘事口伝制の詞(せいのことば)(和歌で使用を制限された歌語)などによる和歌の自由が束縛されることを否定。歌学の革新を提唱。

2.契沖(1640~1701)は、古典研究に合理的方法を開き、国学の基礎を築く。和歌に使えない言葉(制の詞)が定められてきたことの無意味さと、俗語を用いることの正当さを説いた。


3.荷田春満(1669~1736)は、日本固有の道(古道)を明らかにするために、「万葉集」「古事記」「日本書紀」の研究の基礎を開く。この荷田春満から平田篤胤までの4人が国学の四大人と呼ばれる。


4.賀茂真淵(1697~1769)は、古代の日本精神すなわち古道への復帰を説き、国学に思想的発展の契機を与える。


5.本居宣長(1730~1801)国学上の巨人、大成者。「大和心(やまとごころ)(日本古来の精神)」へもどるべきだと説き、文学の本質を「もののあはれ」にあるとした。


6.平田篤胤(1776~1843)は、国学に神道的色彩を加え、尊王思想・排仏・排儒の国粋主義にたつ復古神道を確立。尊王攘夷運動に影響。

〈2013慶大・文:「

 次の文章を読んで、文中の空欄(K~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選び、l~9の数字を、また語群の申に適当な語句がない場合は0をに記入しなさい。

 元禄期からの古典研究は、国学の興隆へとつながった。( K )の門人である賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ、その教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した。続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した。一方、塙保己一は( 0 )を設立して『群書類従』の編纂に従事した。こうした国学の興隆は、幕末期の政治運動にも影響を与えることとなった。

 l復古神道 2国意考  3荷田春満
 4垂加神道 5契沖   6本朝通鑑
 7蕃書調所 8古事記伝 9和学講談所

(答:K3,L2、M8、N1、O9)〉

〈2013早大・文化構想学部

 近世は、多種多様の学問が成立し、展開した時代だった。まず、江戸時代になると、儒学が盛んになっていき、特に朱子学が幕府や諸藩に受け入れられた。また一方では、朱子学に批判的な儒学者も現れた。さらに、e.歴史・古典の研究や自然科学への関心も高まり多くの著作が出された

問7 下線eに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。


 ア 徳川光圀は、歴史書『本朝通鑑』の編纂を開始した。

 イ 賀茂真淵は、門人の荷田春満に『古事記』研究を指導した。
 ウ 戸田茂睡は従来の歌学を批判し、用語の自由を説いた。
 エ 吉田光由は『発微算法』を著し、和算の普及に功があった。
 オ 稲生若水は本草学を研究し、『大和本草』を著した。」

(答:ウ ※ア×本朝通鑑→大日本史、イ×荷田春満は賀茂真淵に、エ×発微算法→塵劫記)〉


〈2013慶大・文

( K )の門人である賀茂真淵は」

(答:荷田春満)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

本居宣長は30年以上の歳月をかけて[ D ]を著して、日本古来の心のありさまを説いた」

(答:古事記伝)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

本居宣長につづく[ 8 ]も、儒教や仏教という外来思想を排斥して古神道を主張し(復古神道)、幕末の尊王攘夷運動に多大な影響をあたえることになった」

(答:平田篤胤)

万葉大好き傾注し。

 『万葉代匠記』 契沖 注釈書 

契沖)(万葉代匠記(まんようだいしょうき))

[ポイント]
1.契沖の主著は、『万葉代匠記』。

[解説]
1.契沖(1640~1701)は、祖父、父は武士。若くして出家し、高野山で学問に志して頭角を現し、高僧(阿闍梨(あじやり)の地位)に達す。のち下河辺長流(しもこうべちようりゆう)(?~1686)に学び、古典研究を行い国学の基礎を築く。『万葉集』を研究し、多くの実例によって戸田茂睡の説の正しさを明らかにした。

2.契沖は徳川光圀の命で注釈・研究書『万葉代匠記』を著し、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を批判した。

〈2012立大・文学部

 下線部1元禄文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.尾形光琳は京都の町衆の画風を学び、『洛中洛外図巻』を描いた。
 b.熊沢蕃山は孔子・孟子の古典に直接たちかえろうとする古学派を創始した。
 c.契沖は『万葉集』を研究し、『万葉代匠記』を著した。
 d.関孝和は和算を発達させ、『塵劫記』を著した。」

(答:a×光琳作に『洛中洛外図』は知られていない、b×蕃山は中江藤樹門下の陽明学者。古学派は山鹿素行、伊藤仁斎・東涯父子ら、d×吉田光由の著作)


非難に発想学校か。

1728年 創学校啓荷田春満


[ポイント]

1.荷田春満(1669~1736)は、『古事記』や『日本書紀』を研究し、日本固有の道(古道)を明らかにするために、古語・古典(国学)の振興を説く。

2.儒学中心の学問のあり方を批判、国学中心の学校設立を唱え、古典研究(国学)の学校創設を『創学校啓』で8代吉宗に建言(1728年)した。書名は和学校を創造することを啓蒙するの意。

〈2013慶大・文

 次の文章を読んで、文中の空欄(K~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選び、l~9の数字を、また語群の申に適当な語句がない場合は0をに記入しなさい。

 元禄期からの古典研究は、国学の興隆へとつながった。( K )の門人である賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ、その教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した。続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した。一方、塙保己一は( 0 )を設立して『群書類従』の編纂に従事した。こうした国学の興隆は、幕末期の政治運動にも影響を与えることとなった。

 l復古神道 2国意考  3荷田春満
 4垂加神道 5契沖   6本朝通鑑
 7蕃書調所 8古事記伝 9和学講談所」

(答:K3,L2、M8、N1、O9)

 

国学・賀茂真淵


[ポイント]
1.賀茂真淵の主著は、『万葉考』と『国意考』。

 

[解説] 
1.賀茂真淵(1697~1769)は遠江国の神職の子に生まれる。荷田春満に学び、御三卿田安宗武に国学をもって仕える。

2.『万葉集』を研究し独自の注釈を加えた『万葉考』を著し、『国意考』では儒仏を批判し、古道復帰を説き、国学に思想的発展の契機を与える。また本居宣長ら多くの門人を育てた。


 〈2016明大・農:「

問4 下線部(イ)従来の国学者の研究に関連して、国学者とその著作物の組み合わせとしてもっとも適切なものを一つ選べ。

 A荷田春満-『玉勝間』

 B賀茂真淵-『国意考』
 C本居宣長-『群書類従』
 D塙保己一-『古事記伝』
 E平田篤胤-『農政本論』」

(答:B)〉


〈2016上智大・神外(英)総人(教・心):「

 遠江国浜松の神職の子で、a荷田春満に学び.1746年b和学御用としてc徳川吉宗に仕え、『万葉集』や『古事記』の研究からd古道説を説き.『国意考』を著し、儒仏の影響を受けない純粋な日本固有の道を主張した。

 

〔語群〕
 1習合 2契沖 3本居宣長 4松平定信
 5徳川家治 6漢心 7田安宗武 8塙保己一」

(答:c7田安宗武 ※Fは賀茂真淵)〉


〈2015立命館大・全学部2/2:「

問 下線部gの「かれ」の氏名を答えよ。かつqの問に答えよ。

 gかれは、伊勢松坂の出身で、京都で医学の修学中に日本の古典研究にめざめ、『源氏物語』などの研究に没頭した。やがて、7師事した学者の勧めもあって『古事記』研究に専心し、主著『古事記伝』で儒教を厳しく批判し、「やまとことば」「やまとごころ」を古代日本の事績に見い出している。

q 下線部7に関連して、この学者は、『万葉考』「国意考」などの著書で知られる学者である。その氏名を答えよ。」

(答:g本居宣長、q賀茂真淵)


〈2013愛知教育大・前期

問3 下線部2契沖や賀茂真淵のように、和歌や日本の古典に関心を抱く人々が登場してきたについて、本居宣長に影響を与えた。和歌や日本の古典にたいする契沖や賀茂真淵の学問方法とは、どのようなものであったか、述べよ。」

(解答例:契沖は『古事記』や『日本書紀』などを実証的に研究し、古典研究を学問のレベルまで高めた。また賀茂真淵はその成果を体系化し学問として完成させた。)〉


〈2013慶大・文

 賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ……」

(答:L国意考)〉

〈2012同志社大・神商心理:「

問d.真淵の著作であり、1765年に成立し、1806年になって刊行された、儒仏の影響を受けない日本固有の道を主張した著書名を記せ。」

(答:国意考)〉

 

 



人なくば元古事記伝。


漢心(からごころ)を排す)(本居宣長(もとおりのりなが))(古事記伝


[句意]心から言います、モトつまりオートバイを降りる、つまりやめる好時期です、とオートバイ乗りのお爺さんを諫(いさ)めている句。


[ポイント]
1.本居宣長は、漢心を排し、『古事記伝』を著した。

[解説]
1.本居宣長(1730~1801)国学上の巨人。賀茂真淵に学ぶ。伊勢松坂の医者。自宅を塾とした鈴屋(すずのや)で多くの門人を育てる。

2.『古事記伝』44巻で「古事記」を文献学的、実証主義的研究態度で注釈。その巻1(全44巻)は総論「直毘霊(なおびのみたま)」で、「漢意(からごころ)」を排し、「大和心(やまとごころ)(日本古来の精神)」へもどるべきだと説く。


3.『源氏物語玉小櫛(たまのおぐし)』では「源氏物語」を注釈し、文学の本質を「もののあはれ」にあるとした。紀州藩主徳川治貞への政治意見書『秘本玉くしげ』では、国を治める心構えを、宣長の古道説によって論じている。また、円熟した宣長が古典研究を通じて悟った境地を述べた手記に『玉勝間(たまかつま)』がある。

 
〈2016明大・農

問4 下線部(イ)従来の国学者の研究に関連して、国学者とその著作物の組み合わせとしてもっとも適切なものを一つ選べ。

 A荷田春満-『玉勝間』

 B賀茂真淵-『国意考』
 C本居宣長-『群書類従』
 D塙保己一-『古事記伝』
 E平田篤胤-『農政本論』」

(答:B ※塙保己一『群書類従』、佐藤信淵『農政本論』「う」、「の」、「ろ」に着目!

〈2014明大・国際日本(国際日本)

 次の史料Ⅰは近世の社会について述べたものである。これを読んで、以下の設問に対するもっとも適切な答えを選べ。

【史料Ⅰ】

 百姓町人大勢徒党して、強訴濫放することは、昔は治平の世には、をさをさうけ給はり及ばぬこと也。近世になりても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は年々所々にこれ有て、めづらしからぬ事になれり。(中略)いづれも困窮にせまりて、せん方なきよりおこるとはいへども、詮ずる所上を恐れざるより起れり、(中略)抑此事の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世百姓町人の心も、あしくなりとはいへ共、よくよく堪がたきに至らざれば、此事はおこる物にあらず。(中略)然るに近年此事の所々に多きは、他国の例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取はからひもいよいよ非なること多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。(中略)近年たやすく一致し固まりて、此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず。上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也。然りとていかほど起らぬやうのかねての防ぎ工夫をなす共、末を防ぐばかりにては、止めがたかるべし。とかくその因て起る本を直さずばあるべからず。その本を直すといふは、非理のはからひをやめて、民をいたはる是なり。たとひいかほど困窮はしても、上のはからひだによろしければ、此事は起る物にあらず。(中略)さて又近来此騒動多きにつきて、其時の上よりのあしらひも、やゝきびしく成て、もし手ごはければ、飛道具などをも用ふる事になれり。これによりて下よりのかまへも、又先年とは事長じて、或は竹槍などをもち、飛道具などをも持出て、惣体のふるまひ次第に増長する様子也。

問1.この史料Ⅰについて、その概要と著者名の正しい組み合わせを、下記の1~4の中から選びなさい。

[概要]

 A:紀伊藩主徳川治貞に奏上されたもの。社会状況に対して為政者がとるべき方策を、古道の精神に即して説いている政治論である。百姓一揆など、現実の社会問題に触れているため、著者の生前には公表されなかった。

 B:薩摩藩の重臣猪飼氏に奉上されたもの。「百姓は国家の根本、農業は政事の基源」という理念のもと、農政の沿革、農民の心得、商人による田産収奪の禁止などを内容とする。

[著者名]

 ア:佐藤信淵 イ:本居宣長

 1.A-ア 2.A-イ
 3.B-ア 4.B-イ


(答:2 ※史料Ⅰは本居宣長の『秘本玉くしげ』)〉

〈2013慶大・文

 その(賀茂真淵)教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した」

(答:M古事記伝)〉。

〈2013北海道大・前期

問3 18世紀には、下線部c漢字で書き表すことが困難な日本の古語を、音・訓を巧みに交えて記したの特徴を持つ『古事記』こそが日本古来の精神を伝える重要な書物だと主張する国学者によって、『古事記』の詳細な注釈書が著された。

 1 1798(寛政10)年に完成した、その注釈書の書名を答えなさい。」


 2 1の注釈書を著した国学者の氏名を答えなさい。


(答:1古事記伝、2本居宣長)〉

〈2012同志社・神商心理

 彼は、享保15年(1730)に伊勢国松坂の木綿商の家に生まれた。11歳の時に父親が没し、義兄が家業を継いだ。 19歳で紙商の家に養子に出されたが、生来読書を好む学者肌であったことも要因となって離縁となり、21歳で実家に戻った。資質が商人に向いていないことを知った母の勧めで医者として身を立てることを決意して、23歳の宝暦2年(1752)にエ医学修行のため京都に上った。

 京都遊学中に医学と漢学を学んだが、なかでもc『万葉代匠記』を著した人物の斬新な古典研突にふれた影響は大きく、彼を国学に向かわせるきっかけとなった。宝暦7年28歳で松坂に帰り医師を開業するとともに、国学にも本格的に取り組むようになり、研究と門人への教育を始めた。門人への講義では、オ『源氏物語』『万葉集』『伊勢物語』『古今和歌集』『日本書紀』などを採りあげた。


 34歳となった宝暦13年に、かねてからその著書を読んで敬慕していたd賀茂真淵が大和旅行の帰途、松坂に立ち寄った際に訪ね、生涯ただ一度の対面を果たし、翌年正式に門人となった。以後、真淵からは書簡のやりとりを通じて教えを受けた。


 真淵に入門後は、『古事記』を中心とした上代研究に関心を向けるようになった。大著『古事記伝』は、執筆開始後ほぼ35年を費やして69歳の寛政10年(1798)に完成した。上代研究と並行して言語に関する研究、評論執筆にも精力的な活動を続け、天明7年(1787)には領主である徳川治貞に為政者の心構えを説いた『秘本玉くしげ』を献上した。


 彼が終生の課題としたことは、漢意の影響を排して、真に日本文化に根差した学問を築くことにあったのであり、それは「物のあはれを知る」「やまとだましい」という言葉に表出している。国学者としての名声は次第に揚がり、カ門人は500人を超えた。没年は享和元年(1801)、72歳であった。


【設問】

問エ.1759年に刊行された日本最初の解剖図録『蔵志』の著者名を選べ。

 1.青木昆陽 2.杉田玄白
 3.山脇東洋 4.稲村三伯


問c.この『万葉代匠記』を著した人物名を記せ。


問オ.『源氏物語』を借り、時代を異にして江戸草府大奥の実情を描写したともいわれる『偐紫田舎源氏』の著者名を選べ。


 1.柳亭種彦 2.上田秋成
 3.為永春水 4.恋川春町


問d.真淵の著作であり、1765年に成立し、1806年になって刊行された、儒仏の影響を受けない日本固有の道を主張した著書名を記せ。


問カ.没後の門人を自称し、「かんながらの道」を説いて復古神道を大成した人物名を選べ。


 1.荷田春満 2.平田篤胤
 3.吉田松陰 4.藤田東湖」


(答:エ3山脇東洋、c契沖、オ1柳亭種彦、d『国意考』※否無効かも国意考。、カ.2 平田篤胤)〉

 

 

復興しんど ひらったね。


古道大意(こどうたいい)・古史伝)(復古神道(ふっこしんとう))(平田篤胤(ひらたあつたね))


[ポイント]
1.平田篤胤は、復古神道をひらき、主著は『古道大意』『古史伝』。

[解説]

1.平田篤胤(1776~1843)は、国学者・医者。出羽久保田藩の武士の家(現秋田市)に生まれるが、20歳の時江戸へ出奔(家出)し、江戸で生活苦のなかでさまざまな職業に就いた末、25歳のとき、備中松山藩藩士平田氏の養子となる。宣長の影響をつよく受け(宣長の弟子と自称したが、会ったことも教えを受けたこともない)、儒教・仏教と習合した神道を批判することからスタートするが、次第に宣長的な実証主義から逸脱して神秘的な方向に傾斜していった。

2.『古道大意』『古史伝』で日本古来の純粋な信仰、すなわち尊王思想・排仏・排儒の国粋主義にたつ復古神道を確立、儒教や仏教を強く排斥した。復古神道は各地の豪農・神職に浸透し、幕末期には内外の危機感の中で、現実の政治運動との結びつきを強めていった。

〈2016慶大・商AB方式:「
 国学では[ 26 ]が、『古史伝』を書き、儒教・仏教が渡来する以前の神道に戻ることを主張する[ 27 ]を説いた。この思想は地方の神職・豪農らに受け入れられるとともに、(ウ)幕末にいたるまで影響力をもった。

問3 下線部(ウ)で述べられている思想は、幕末においてどのような運動を支えるものとして発展したと考えられるか。その運動を漢字4文字で書きなさい。」


(答:26平田篤胤、27復古神道←原問には65語句の選択肢あり、問3尊王攘夷)〉


〈2014明大・全学部前期

  19世紀に入ると、不安定になる社会への危機意識から、日本の神代の時代を理想とする復古的な国学が登場し、[ 5 ]が復古神道を盛んにし、水戸藩では国学を政治論までたかめ、国体論を形成し、尊王懐夷運動に影響を与えていったのである。

問8 空欄5に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちからいっ選べ。


 A塩平八郎 B平田篤胤
 C本多利明 D賀茂真淵」

(答:B)〉


〈2013慶大・文:「

 (本居宣長に)続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した」

(答:復古神道)〉