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ベック式!難単語暗記法ブログ

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三関

2017-02-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

蓑ふわっとさ いすずとか エッチ荒地帆 三軒じゃ。

[ポイント]1.「三関(さんげん)」とは鈴鹿(東海道伊勢)、不破(東山道美濃)、愛発(北陸道越前)の三つの関をさす。

[解説]
1.反乱を企てるものが東北や北陸におもむいて兵を集めるのを防ぐために、三関の守りを固めることになっていた。「左京の人従七位下漆部造君足・無位中臣宮処連東人ら、密を告げて、「左大臣正二位長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」とまうす。その夜、使を遣して固く三関を守らしむ」(原漢文『続日本紀』)

2.天皇崩御や国家的反乱の際に固められることを固関(こげん)という。

〈2016立命館大・全学部2月3日

b)下線部2固関に関連して、古代の三関の一つである不破関は、七道のうちいずれに設置されたものであったか。もっとも適当なものを下から一つ選べ。
 あ 東海道 い 東山道
 う 北陸道 え 山陰道」

(答:い)〉

〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

4.このうち東海道におかれたのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.愛発関  b.鈴鹿関

 e.箱根関  d.不破関

(答:b)」〉


〈2008東大・前期

第一問.次の(1)~(6)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

 1.奈良時代の東国の郡司には、金刺舎人(かなさしのとねり)など6世紀の大王宮があった地名を含む姓が見える。これはかつて国造たちが、その子弟を舎人として、大王官に仕えさせていたことによると考えられる。

 2.672年、近江朝廷と対立し、吉野で挙兵した大海人皇子は、伊賀・伊勢を経て、美濃こ移って東国の兵を集結し、不破の地を押さえて、近江朝廷に勝利した。

 3.大宰府に配属された防人は、全て東国の諸国から徴発されており、前の時代の国造に率いられた兵力のあり方が残っていたと考えられる。

 4.律令制では、美濃国不破・伊勢国鈴鹿(すずか)・越前国愛発(あらち)にそれぞれ関が置かれ三関(さんげん)とよばれた。奈良時代には、長屋王の変や天皇の死去など国家の大事が発生すると、使者を三関のある国に派遣し、関を閉鎖する固関(こげん)が行われた。

 5.聖武天皇の詔には、「額(ひたい)に矢が立つことはあっても、背中に失が立つことはあるものか」と身辺警護の「東人」が常に誇っていたことが見える。古代の天皇の親衛隊は、東国出身者が中心であったらしい。

 6.764年、反乱を起こした藤原仲麻呂は、平城京から山背・近江を経て、越前に向かおうとしたが、愛発関で阻まれ 近江国高島(たかしま)郡において斬殺された。

 A 東国は古代国家にとって、どのような役割を果たしていたのか。3行以内で述べなさい。

 B 律令国家は、内乱にどのように対処しようとしたのか。古代の内乱の傾向を踏まえて、3行以内で述べなさい。」

(解答例:
 A 東国は古代国家の軍事力の供給源であった。すわち東国の豪族の子弟は、平時には王宮警備・北九州をはじめ辺境防備の主力であり、戦時には反乱に対する勝利を決定づける軍事力の要であった。

 B 古代の内乱では、東国の武力の帰趨が勝敗を決する傾向が強かった。このため反乱勢力は軍事力の加勢を受けんとして東国に向かうことが多かった。これを未然に防ぐために三関が設置され、有事の際に閉鎖された。)


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2017-02-23 | 『新世界史頻出年代暗記』

□近世393.有田焼  ◇C

[ゴロ]アリさんが/えていました


絵・田焼・李参平)(井田柿右衛門・伊万里)


[ポイント]

1.有田焼、別名伊万里焼は、連行された朝鮮陶工の李参平らが開き、酒井田柿右衛門赤絵を完成した。

[解説]

1.秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に従った大名は、推定数万人の捕虜を朝鮮から連行した。とくに高度な技術をもつ陶工が優先され、各大名に拉致された朝鮮人陶工が登窯(のぼりがま)や上絵付(うわえつけ)けの技術を伝えた。こうして九州・中国地方の各地で陶磁器生産が始まり(有田焼(鍋島氏)・薩摩焼(島津氏)・萩焼(毛利氏)・平戸焼(松浦(まつら)氏)・高取(たかとり)焼(黒田氏)などが有名)、このため秀吉の朝鮮侵略は「やきもの戦争」とも称される。

2.李参平もその一人で、有田焼の祖と伝えられている。有田焼はその外港伊万里港から世界へ向けて出荷されたので伊万里焼の名でも知られる。その後の有田では陶磁器がつづけられ、酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)(生没年不詳)は赤絵の技法を完成させた。


〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

 茶の湯は、信長や秀吉らの保護を受けてさかんになった。なかでも( A )は、簡素を尊ぶ茶の様式を大成した。茶の湯の流行とともに、茶器や茶室、庭園などにもすぐれたものがうまれ、茶道に華道や香道なども発達した。また、西国大名が朝鮮から連れ帰り、そのうち肥前に赴いた( B )によって創始された( C )は、後に( D )の赤絵で一層発展した。さらに薩摩へ赴いた( E )らの陶工によって、当地でも陶器の分野で発展がみられた。

問1 文中の空欄A~Eに入る適切な語句を、次の中から1つずつ選びなさい。


 1以心崇伝 2沈寿官 3高山右近

 4蒲生氏郷 5王直   6李参平
 7千利休  8細川幽斎 9李舜臣
 10白磁 11天海 12墨絵 13楽焼
 14古田織部 15 酒井田柿右衛門」

(答:A7、B6、C10、D15、E2※「摩→寿)〉


〈2014明大・文

問6 下線部イ多様な手工業生産のひとつとして磁器生産がある。朝鮮陶工李参平が創始し、佐賀藩の保護のもとで磁器が生産された場所はどこか。正しいものを、次の1~5のうちから一つ選べ。

 1有田 2萩 3平戸

 4瀬戸 5多治見」

(答:1)〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問10.これに関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.阿波の藍玉と出羽村山の紅花が染料として利用された

 b.紀州みかんや甲州ぶどうといった果物が生産された
 c.薩摩藩の専売品となった伊万里焼が、長崎から輸出された
 d.名産品の生産現場を紹介した『日本山海名産図会』が刊行された」

(答:c)


地方行政区画(七道)

2017-02-22 | 『新世界史頻出年代暗記』



ぽっくり倒産 都会難 再開どうさ 陰と陽

陸道(ほくりくどう)・東山道(とうさんどう))(海道・南海道・西(さいかいどう)・山陰道・山道)

[ポイント]

1.七道とは東山道北陸道東海道南海道西海道山陰道山陽道の7つの道および地方行政区画。    

[解説]

1.地方組織としては、全国が畿内七道に行政区分され、国・郡・里(のち郷と改められる)がおかれて、国司・郡司・里長が任じられた。

2.近江国紫香楽宮近江大津宮)は畿内ではなく東山道


3.外交・軍事上の要地である九州北部には西海道を統轄する大宰府がおかれた。


4.特別行政区として、外交の要(かなめ)難波津(なにわのつ)がある現大阪には摂津職がおかれた。


〈2013青山学院・経営

下線部j七道に関連して、七道のうち東山道に入っていない国を下から選び、その番号をマークしなさい。

 1飛騨 2上野 3常陸 4下野」

(答:3)〉


〈2013早大・文化構想:「

下線部七道に関連して、古代国家において「七道」と呼ばれる行政区画が敷かれたが、その七道として誤っているものはどれか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 東海道  イ 南海道
 ウ 北海道  エ 西海道
 オ 中山道」


(答:ウ、オ)〉


〈2005大学入試センター

問5 下線部d七道に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

 X 中央と地方を結ぶ幹線道路である七道は、行政区画の名称でもあった。

 Y 東海道や東山道などの幹線道路には、一定の間隔ごとに駅家が置かれた。
 1.X正、Y正  2.X正、Y誤
 3.X誤、Y正      4.X誤、Y誤」

(答:1)〉

[ポイント]
1 西海道九州全域で、南海道四国に加え紀伊国を含む。

[解説]

1.西海道の統轄、外交・防衛は大宰府が管轄する。

〈2009大学入試センター試験

下線部a畿内・七道諸国に関連して、律令国家の地方支配に関して述べた文として正しいものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。
 1 大宰府には、西海道諸国を統括する機能があった。
(〇)

 2 薩摩国には、防衛のために衛士を配置した。
(×衛士は都の警備)

 3 七道諸国には、交易を管理するために東西の市司を設けた。
(×市司は都の役所)

 4 東国の入口である近江国は、東海道に編入された。
(×近江国は東山道)」


農書

2017-02-21 | 『新世界史頻出年代暗記』



最後田舎の清良記。


最古書)(清良記(せいりょうき))


[句意]これは最古の清涼水だ、という句。


[ポイント]

1.最古の農書に『清良記』がある。

[解説]

1.『清良記』は、17世紀中ごろ(寛永年間)にが著された、伊予宇和郡の豪族土居清良の一代記(軍記物)。その一部に第7巻に農業に詳しい家臣との間での農事に関する問答が収められており、最古の農書と言われる。

〈2015立命館大・全学部

 これらの農具や肥料の普及の背景には、農業技術の解説書である農書の広まりがあった。すでに17世紀なかごろには、伊予国の戦国武将の軍(いくさ)物語である『[ H ]』の一部に、農書に相当する記述が見られたが、6)1697年、宮崎安貞によって初めての体系的農書といえる『農業全書』が刊行された。また19世紀には、[ I ]も『農具便利論』や『広益国産考』などの農書を著し、農具の用法や商品作物の栽培法などの普及につとめた。

問m  [ H ]にあてはまる、もっとも適当な書物の名を答えよ。


問n 下線部6に関連して、同じころの学問・文化の勤向を説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。


 あ 井原西鶴の『世間胸算用』が刊行された。

 い 林信篤が大学頭となった。
 う 西川如見が『華夷通商考』を刊行した。
 え 塙保己一が和学講談所を設立した。

問o 空欄[ I ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。」


(答:m清良記、nえ、o大蔵永常)〉



[ポイント]

1.江戸時代の3大農学者は、宮崎安貞・大蔵永常佐藤信淵

[解説]

1.宮崎安貞(1623~97)・大蔵永常(1768~1860?)・佐藤信淵(1769~1850)の3人は明治以前の「三大農学者」と言われる。宮崎安貞は17世紀、その他の二人は18~19世紀の農学者。2人は、ほぼ同時代人であることに注意してください。

〈2016立教大・文:「

問3.これに関連して、江戸時代には数々の農書がしるされた。大蔵永常の書いた農書はどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.清良記 b.農業全書
 c.農具便利論 d.老農夜話」

(答:c)〉


〈2013関西学院大学・済総合国際〉

問7.下線部gについて、農書とその著者の組み合わせのうち、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は、「エ」をマークしなさい.

 ア.『農業全書』-宮崎安貞

 イ.『広益国産考』-大蔵永常
 ウ.『農具便利論』-田中丘隅」

(答:ウ×田中丘隅→大蔵永常)

 

 

 

江戸時代元禄10

 

 

 

 

江戸時代元禄10

 

 1697〈宮崎安貞、『農業全書』〉★★

 

Miyazaki Yasusada wrote “'Nogyo zensho (Compendia of agricultural knowledge),”.

 

疲労苦難は 農民や。

1697年   『農業全書』   宮崎安貞 

 

広島藩士の子に生まれ、福岡藩に仕えた後帰農し、諸国を回り農業を研究した宮崎安貞は明の徐光啓が著した『農政全書』を学び、1697年、自らの体験・見聞を基にわが国最初の体系的農学書『農業全書』を著した。 

 

▼「農事図」。農政全書, 第一巻より

 

 

 

 

 

 

 

[ポイント]
1.宮崎安貞は、1697年に、『農業全書』を出した。

[解説]
1.農学では、江戸時代初めに一部農書としての記述を含む『清良記』が出た。

 

 

 

2.本格的農書としては宮崎安貞(1623~97)の『農業全書』が1697年に出版され、農業技術の普及に大きな役割を果たした。同書は明の徐光啓(じょこうけい)『農政全書』を下敷きに、日本の実情に合わせ五穀中心集約的農業の技術を説いている。

 

 

 

3.宮崎安貞は元福岡藩士だったが、禄を辞し近隣各国の農業を視察し農民たちから取材する生活に入る。その成果を『農業全書』として刊行。日本最初の体系的農業技術書である。同書の序文は同じ福岡藩の儒者貝原益軒(かいばらえきけん)が書いている。安貞は出版直後に亡くなり、その評判を聞くことができなかった。

〈2015関西大・法:「
 その後、17世紀に成立した、2[ア宮崎安貞 イ大蔵永常 ウ貝原益軒]の『農業全書』では、田畑を年々、換えて耕作し、作物も変えることとともに、農具を、それぞれの土地に従って選んで使うことを勧めている。こうした農業技術は、農業の心得とともに農書として刊行され、全国に普及した。」

(答:ア)〉

〈2013立大・全学部2/6実施:「
 農業技術の改良には( ニ )の著した『農業全書』など……」

(答:宮崎安貞)〉

〈2013愛知教育大・前期:「
 また農村では、農業生産の技術革新が行われ、特産物の開発など、商品経済が活況を呈してくると、商品作物の出荷や契約に読み・書き・算用が求められるとともに、宮崎安貞の『( c )』のような農書も広く読まれるようになった。都市でも、京都の商家に勤めていた( d )が、正直や倹約などの通俗道徳を平易に説いて、商人の社会的役割を高く評価し、庶民教育につとめた。」

(答:c農業全書、d石田梅岩)〉

 

 

 

〈2012早大・文学部:「
問7 下線d農業技術的側面を記述した著作物が著されたについて。宮崎安貞が著した著作物として正しいもめを1つ選べ。

 ア「耕稼春秋」 イ『百姓伝記』
 ウ『農業全書』 エ『老農夜話』
 オ『会津農書』」

(答:ウ)〉

〈2012立大・全学部2/6実施:「
  食生活の変化を見るならば、江戸時代を通じて、1日3度の食事をとることが広まり、一般化していったと考えられる。江戸時代、米は主食であるとともに、徳川幕府や諸藩の財政の中心として位置づけられた。江戸初期の約100年間で米の生産高は大きく上昇したが、これは、灌漑用水の整備、( ハ )児島湾や下総椿海の干拓などによる新田開発、農業技術の改良によってもたらされたものであった。農業技術の改良には、( ニ )の著した『農業全書』などをはじめとする農書の普及も関わっており、米以外の野菜の生産もさかんになって、商品作物が作られるようになっていった。

 ハ.a.紀伊 b.長門
   c.備前 d.豊後

 ニ.a.大蔵永常 b.田中丘隅
   c.二宮尊徳 d.宮崎安貞」

(答:ハ備前、ニ宮崎安貞)〉

 

 

 

 

経済よろしくサッと乗せ。


経済要録)(佐藤信淵(のぶひろ)・農政本論)

 

[ポイント]
1.佐藤信淵は、『農政本論』・『経済要録』を著した。

[解説]

1.佐藤信淵(1769~1850)は、出羽の人。3大農学者の一人とされる。江戸に出て蘭学を宇田川玄随に、国学を平田篤胤に学ぶ。

2.『農政本論』で救民、富国の策など農政の心得を説いた。また強大な中央集権政府主導の絶対主義的な産業国営化・貿易振興を主張し、『経済要録』を著す。「大東亜共栄圏」の先駆ともされる、皇国日本による世界征服論を主張した『宇内混同秘策(うだいこんどうひさく)』(1823年)といった奇書も書いている。自ら述べる経歴には不明な点も多く、主張には虚偽があるという批判もある。


〈2014立大・現心コミュ福観光営:「

問9.この人物(佐藤信淵)の著作でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.宇内混同秘策 b.経済要録

 c.西域物語 d.農政本論」

(答:c×『西域物語』は本多利明)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

問 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

5 日本沿岸の防備の必要性については、aロシアの使節が来航するようになる以前から、すでに林子平が『海国兵談』において説いていた。そうした対外警戒論の一方で、b本多利明は『西城物語』『経世秘策』を著して貿易振興の必要を説き、c佐藤信淵も『経済録』において貿易の拡大を主張した。」


(答:a〇、b〇、c×『経済録』は太宰春台)〉



心学の系譜

2017-02-21 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]医師大進学には遠い答案どうにかでは


石田梅岩(いしだばいがん)・心学都鄙問答(とひもんどう))(手島堵庵(てしまとあん)・中沢道二(なかざわどうに))


[句意]医師大進学には遠いよ、答案がどうにか赤点スレスレでは、という句。


[ポイント]

1.石田梅岩心学を創始し『都鄙問答』を著し、手島堵庵、その弟子中沢道二によって発展した。

[解説]

1.18世紀の初め、京都の町人石田梅岩は心学をおこし、儒教道徳に仏教神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活倫理をやさしく説いた。社会の中での町人や百姓の役割を強調し、その人間としての価値を説く心学は、弟子の手島堵庵中沢道二らによって全国に広められた。

2.石田梅岩(1685~1744)は、百姓の次男として生まれ、11歳で呉服屋に丁稚(でっち)奉公に出て、寝る間も惜しんで独学し、45歳の時京都の自宅で心学(石門心学)をおこす。儒教道徳に仏教・神道を取り入れ、日常生活に即した道徳の実践を説く。主著は講義問答集の『都鄙問答』。商業や商人を蔑視する当時の風潮に対して、梅岩は同書で、商人の利潤追求を社会におけるその職分であり正当とし、商人の存在意義を強調し、倹約・堪忍・正直などの徳目を説いたため、心学は町人とくに商人の道徳として広まった。


3.手島堵庵(1718~86)は、京都の商人の出。心学教育にふさわしい教材や教科書を工夫し、講話の場と修行道場を兼ねた心学講舎(心学舎)を各地に設け教化に努めた。子供への訓話教育を創始。女子にも聴聞を許す。


4.中沢道二(1725~1803)は、京都の機織り職人の出。40歳にして堵庵の弟子となり頭角を現す。堵庵の要請により関東に進出し、各地に道二とその弟子による心学講舎を設立、聴講者には一般庶民はもとより大名までおり、松平定信の設けた佃島の人足寄場の講師(教諭方)も務めた。


〈2016関西大・全学部2/8:「

C さらに、庶民の道徳教養を高める動きもみられた。4[ア石田梅岩 イ熊沢蕃山 ウ谷時中]が唱えた心学は弟子たちによって広められ、全国に講舎が建てられた。 18世紀後半には、京都の手島堵庵の弟子である5[ア中沢道二 イ山鹿素行 ウ野中兼山]が江戸に下り、関東・東北地方への普及につとめた。」

(答:4ア、5ア)〉


〈2013愛知教育大学・前期:「

 都市でも、京都の商家に勤めていた[ d ]が、正直や倹約などの通俗道徳を平易に説いて、商人の社会的役割を高く評価し、庶民教育につとめた。」

(答:石田梅岩)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ:「

問 通常、田沼時代とは田沼意次が幕政の実権を握っていた1760~1786年の期間をいうが、次の1~4の中でこの時期に当てはまらないものを1つ選べ。

 1.平賀源内が火浣布・エレキテル・寒暖計などの製作を試みた。

 2.本居宣長が賀茂真淵と松坂ではじめて会った。
 3.恋川春町の『金々先生栄花夢』がはじめて刊行された。
 4.石田梅岩が心学を広めた。」

(答:4 ※梅岩は吉宗時代とほぼ重なる)〉


思想家(安藤昌益)

2017-02-19 | 『新世界史頻出年代暗記』



次年浸透安堵しょう。


安藤昌益(しょうえき))(自然真営道(しねんしんえいどう))



[ポイント]

1.安藤昌益は、『自然真営道』を著す。

[解説]

1.安藤昌益(?~1762)は、八戸在住の医者を業とする思想家。いかなる学派にも属さず、儒教・神道・仏教を批判し、独創的な思想を展開。『自然真営道』で万人直耕作の世の平等社会(自然世(しぜんのよ))を理想とし、生産に従事しない武士が農民を収奪して生活することを批判(封建制批判)した。この書は江戸時代、公に出版されたものではなく、禁断の書として人から人へ秘密裡に読まれたものと思われる。その証拠に、200年以上時代を経た明治時代(1899年(明治32))に、八戸から遠い奥州街道の端、東京上野の古本屋で発見されたことからもうかがえる。発見者は、異端の思想家狩野亨吉(かのうこうきち)(1865~1942、のち京都帝大文科大学初代学長)。この書は非常に回りくどくて真意がとらえにくく、発見者が狩野でなかったらうち捨てられていた可能性はきわめて高い。この反逆の書は、軍国的な潮流の中でふたたび忘れられていった。しかし第二次世界大戦後、カナダ人外交官にして日本史学者のE・H・ノーマン(1909~57)により「忘れられた思想家」として再評価されたことにより広く知られるようになる。江戸時代の厳しい封建社会の中で、このような平等社会を唱える思想家を産んだということは、日本人の高い思想的到達点を示す。これこそが、江戸時代、世間に知られていない本書がなぜ日本歴史上で重要視されるのかの意味である。

〈2016早大・文化構想

 近世にはいって儒学が興隆すると、その合理的思想にもとづいて歴史書の編集がすすめられた。宋の歴史書にならった『[ A ]』が幕府の命令で編纂され、水戸藩では歴史書の編簒事業から独自の学風がおこった。また、新井白石は歴史研究にも重要な業績をのこした。他方、万人がみずから耕作して生活する世を理想とする『[ B ]』もあらわれ、支配者が民衆を搾取する社会を否定する歴史観を示した。

問2 空欄Aに該当する著作は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。


問5 空欄Bに該当する著作は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。」


(答:A本朝通鑑、B自然真営道)〉


〈2016法大・法(政法)国際キャリア

問8 江戸時代の歴史に名を残している知識人には医業を営んだ人が少なくない。しかし、[   ]は医者ではない。

 ア 安藤昌益 イ杉田玄白  ウ渡辺崋山

 エ 高野長英 オシーボルト カ本居宣長」

(答:ウ)〉


〈2015早大・人間科学

問3 下線部aに関連して、武士が年貢を収奪する社会を批判し、農本主義の平等社会を唱えた著書はどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カを選べ。
 
 ア『自然真営道』 イ『老農夜話』

 ウ『夢の代』   エ『農政本論』
 オ『経世秘策』」

(答:ア)〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問7.この社会の身分制を批判した自然真営道の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a安藤昌益 b富永仲基

 c三浦梅園 d山片蟠桃

(答:a)〉
〈2012早大・政経

問ⅴ 下線部6(津軽と南部)で医業を営み,後に大館で没した、「万人直耕」を理想とした人物の著作はどれか。

 a稽古談 b夢の代 c価原

 d自然真営道 e宇内混同秘策」

(答:d)


地方行政区画(畿内)

2017-02-18 | 『新世界史頻出年代暗記』


やや世界
大和(やまと)・山城(やましろ))(津(せっつ)・内(かわち)・泉(いずみ))


[ポイント]

1.五畿畿内)は大和山城摂津河内和泉の5国。

2.近江東山道に属し、畿外であることに注意してください。よって近江大津京紫香楽京は畿外であることに留意してください。


〈2016早大・人間科学〉
問7 下線部g畿内にあてはまらない国はどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。

 ア大和 イ近江 ウ和泉
 エ摂津 オ河内」

(答:イ)〉

〈2014早大・文化構想

8.下線f摂津・河内・和泉に関する説明として誤っているものはどれか。1つ選びなさい。

 ア.これら三国は、畿内にある。

 イ.宮殿が造られたところがある。
 ウ.これら三国は、相互にすべて国境を接している。

 エ.和泉国は、大和国から分離独立した。
 オ.河内国と和泉国は、ともに紀伊国に接している。」

(答:エ ※エ×757年河内より分離、イ〇和泉には都はないが3国を1つとして聞いているので)〉


〈2013明大・文

下線部(イ)畿内は、律令制下では五畿内となり、大和国・山背(山城)国・河内国のほかに、二国がある。その二国の名を記せ。」

(答:摂津・和泉)〉


富永仲基

2017-02-17 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

江戸時代延享2

 1745年〈富永仲基、『出定後語』を刊行〉

Tominaga Nakamoto writes Shutujyokogo; Buddha’s Comments after His Meditation.

異な仕事みな出場な。

      1745年 富永仲基 『出定後語』         

 

 江戸時代、大坂の町人学者であった富永仲基懐徳堂で三宅石庵に学び、1745年『出定後語』を刊行。儒教・仏教・神道を批判し、人のあたり前を基本とする「誠の道」を提唱したが、翌年32歳で夭折した。

 


[ポイント]

1.富永仲基は、『出定後語』(1745年)を著した。

[解説]

1.富永仲基(1715~46)は、父は醤油(しょうゆ)醸造業者で懐徳堂創立者の一人。10代初めから懐徳堂に学び、三宅石庵から儒学を学んだ。やがて合理主義の立場から、儒・仏を歴史的に批判した書『出定後語』(1745年刊)を著す。32歳で没。

〈2014早大・教育

問9 下線部e文政の時代に活動していた文人をすべて選べ。

 ア柳亭種彦   イ曲亭馬琴
 ウ近松門左衛門 エ三浦梅園
 オ松尾芭蕉   カ富永仲基
 キ井原西鶴」


(答:ア・イ ※ウ近松・オ芭蕉・キ西鶴は元禄期(17世紀後半)、エ梅園は明和・天明期(18世紀後半)、カ仲基は享保・元文期(18世紀前半))〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問7.この社会の身分制を批判した自然真営道の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.安藤昌益  b.富永仲基

 c.三浦梅園  d.山片蟠桃」

(答:a)〉


〈2011文教大・全学部

「1820年、懐徳堂に学んだ山片蟠桃は「生ズレバ、智アリ、血気アリ、四支・心志・臓腑ミナ働キ、死スレバ智ナシ、神ナシ、血気ナク、四支・心志・臓腑ミナ働クコトナシ。然レバ何クンゾ鬼アラン。又神アラン」と、その(j)著書の中で無神論を問いた

問10  下線部(j)の「著書」に該当するものとして正しいものどれか。次の中から一つ選べ。

 1自然真営道 2夢の代

 3出定後語  4西域物語」

(答:問10→2)


税制払うもの例外(京畿内の調庸)

2017-02-16 | 『新世界史頻出年代暗記』


狂気用無し 丁半で。
京畿内)(庸無し)(調半減

[ポイント]

1.畿内調は半減。                        

2.の義務は、次丁は正丁の2分の1、中男は無し。とくにに京・畿内の住民は(正丁、次丁も)無し

〈2009関西学院大・文(改)

下線部地方から貢納された産物に関連して、一般に正丁が、調として布2丈6尺(約8m)、庸として布2丈6尺ずつ負担するとした場合、河内国の62歳、30歳、18歳の3人の男子が負担する調と庸の布の長さの合計はいくらか。
(答:7㍍ ※京・畿内の住民は庸は無し。さらに調は半減。いずれも男子で、30歳正丁は4㍍、62歳次丁は2㍍、18歳中男は1㍍で、合計7㍍)〉

税制払うもの例外(中男の調庸雑徭)  

中チューナー用無し。
中男)(庸なし

[句意]一句目は中男は用なしだ、という句。


[ポイント]

1.中男無し

[解説]

1.中男(17~20歳、大宝令では少丁)の負担する調雑徭正丁(21~65歳)の1/4だが、無し

2.さらに次丁(61~65歳、大宝令では老丁)の負担する調雑徭正丁1/2


3.令には「……次丁二人中男四人は、並びに正丁一人に准(じゅん)ぜよ」とあり「二分が一」などという分数が出てこない(分数という概念がない)ことにも注意。


〈2014明大・経営:「問3 下線部(ア)に関連して、以下のA~Dの文のうち、適切なものを1つ選び、その記号を解答欄にマークしなさい。

 A 租は、正丁の場合口分田1反あたり稲2束2把であり、次丁はこの2分の1であった。
(×6歳以上の男子(正丁も次丁も6歳以上)は同じ2反の口分田をもらえ、両者に差はない)

 B 庸は、都での労役に代えて、正丁の場合布2丈6尺を収めるもので、中男はこの4分の1であった。
(×調なら4分の1だが庸に関しては中男は無し)

 C 調は、絹・糸・布などの特産品を中央政府に収めるもので、運脚によって都まで運ばれた。
(〇)

 D 雑徭は、郡司の命令によって、正丁の場合年間30日を限度に奉仕する労役であり、のちに倍増された。
(×60日の誤り、30日限度は次丁)」〉


暦法の変遷

2017-02-12 | 『新世界史頻出年代暗記』


宣命上司 完成だ。


宣明(せんみよう)暦)(貞享(じょうきょう)暦)(寛政(かんせい)暦 高橋至時


[句意]暦はその誤りを鮮明に除去し完成した、という句。


[ポイント]

1.暦は宣明暦貞享暦寛政暦と変遷した。

[解説]

1.日本のおもな暦は平安時代から823年間も使われた宣明暦(862年~)から、江戸時代にはいり貞享暦(1685年~)→宝暦暦(1755年~)→寛政暦(1798年~)→天保暦(1844年~)→グレゴリオ暦(明治5年11月9日=1872年12月9日)と変遷。

2.貞享暦は、渋川春海が中国の郭守敬(かくしゅけい)作の授時暦(じゅじれき)を元に、独自の観測結果を用い、日本と中国との地域差を加味して完成。春海はこの功により、新設の幕府天文方に任命された。


3.寛政暦は、幕府天文方に登用された高橋至時(よしとき)が西洋天文学を取り入れ完成させたもの。

〈2016慶大・商AB方式

 洋学の分野では、幕府は西洋暦をとりいれた寛政暦を天文方の[ 28 ]に作らせたり、天文方に[ 29 ]を設けて、洋書の翻訳に当たらせたりした。[ 29 ]は、のちに洋学の教育研究機関である[ 30 ]になり、明治以降における大学の前身となった。」

(答:28高橋至時、29蛮書和解御用(至時の子景保が建議)、30蕃書調所 ※原問には選択肢65語あり)〉


〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

L 初め安井算哲として幕府のa碁所で活動していたが、のちにa貞享暦を作成し、初代c天文方に任じられた。 1684年に完成した暦は、平安時代以来のd授時暦の誤りを、元の暦をもとにしながらも、天体観測の結果を加えて修正した太陰太陽暦であった。

〔語群〕

 1宣明  2歌学方 3和学方 4閏月
 5太陽 6和算  7書物方 8勘定方」

(答:d1)〉


〈2016明大・文

問5 史料Aの政策が出された時期に関連して、18世紀末から19世紀前半の学問・文化についての説明として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 越後の小林一茶は、村に暮らす民衆の生活を和歌に詠んだ。

 2 大田南畝(蜀山人)らのつくる狂歌には、為政者への風刺や世相を皮肉るものもあった。
 3 幕府天文方の高橋至時は、西洋暦を取り入れた寛政暦を作成した。
 4 幕府天文方に学んだ伊能忠敬は、幕命を受けて全国の沿岸を測量した。」

(答:1×越後→信濃)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問10.史料Ⅰ(本居宣長『秘本玉くしげ』)が著される時期まで、江戸時代を通じて、総じて農業技術は発達し、農村の生産力は上がったが、その結果、農村は全国的な貨幣経済に組み入れられ、村内では豪農などの有力百姓と、貧農の間の格差が広がり、多くの人々が村を離れ、仕事を求めて都市に流入するなど、社会の構造が大きく変容することにもつながった。これに限らず、この史料が著された頃にも社会の様々な局面で、徳川幕府の体制が揺らぎ始めていた。そうした状況の中での学問・思想について述べた文として誤っているものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 1 『海国兵談』でロシアの南下を警告し海防論を説いた林子平が、人心を惑わせたとして『海国兵談』の版木は没収、本人も禁固刑となるなど弾圧されたが、同じ年、ロシアの使節ラクスマンが、大黒屋光太夫を伴い根室に来航し通商を求めた。

 2 天文方では、高橋至時が西洋暦法を取り入れた寛政暦を作り、高橋に学んだ伊能忠敬が全国の沿岸を測量し、『大日本沿海輿地全図』を作成した。
 3 水戸学においては、『大日本史』の編集に当たった藤田幽谷、幽谷に学んだ会沢正志斎、幽谷の子藤田東湖らによって、朱子学の大義名分論に基づいて天皇を幕府より上位とみなす尊王論が展開され、攘夷思想とも結びつき、倒幕連動の思想的基盤となった。
 4 八戸の医師だった山片蟠桃は、自然の世界の根本法則を追究し、これに反するものとして封建社会を厳しく批判し、万人が農耕に従事すべしとする『自然真営道』を著したが、当時は公刊されなかった。」

(答:4×山片蟠桃ではなく安藤昌益の誤り)〉


〈2013早大・文

  1680年代には幕府に天文方が設置された。これは、渋川春海が平安以来の[ B ]の誤りを修正した貞享暦を作ったことに端を発していた。また和歌の研究や詠歌を担当する

問6 空欄Bに該当する暦を、漢字3字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:宣明暦)〉


〈2013中大・法

問8 下線部7自然科学の分野でも多くの成果がみられたに関連する説明文(原問:正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい)の正誤を判断せよ。

 a 安井算哲は平安時代から用いられていた暦に代わる貞享暦をつくった。

 b 貝原益軒が灰吹法を発明し、これにより銀の産出量の増加傾向に拍車がかかった。
 c 関孝和は代数学のほか円周率などの研究を進めた。」

(答:問8a〇、b×貝原益軒→神谷寿禎、c〇)〉


〈2012立大・全学部2/6実施

問7.太陰太陽暦の旧暦から新暦施行の直前の旧暦は天保暦であるが、その前に50年近く施行されていた寛政暦は、幕府が18世紀末に天文方のある人物に命じてつくらせたものであった。この人物とは誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a伊能忠敬 b志筑忠雄
 c渋川春海 d高橋至時」


(答:d)〉

 

 

 

 

 

 

●元禄文化(学問)

 〈渋川春海、『貞享暦』を作成〉

 Shibukawa Harumi revises the Chinese lunisolar calendar at the imperial request.

一路走るし 上京し。

1684年  渋川春海  『貞享暦』

 

初め安井算哲として幕府碁書で活躍した渋川春海は天文学に転じ、1684(貞享元)年、平安時代以来の宣明暦の誤りを元の授時暦をもとに天体観測天体観測で経度差を修正した貞享暦をつくり、初代の幕府天文方に任じられ代々世襲となった。



租の課税額)  

2017-02-11 | 『新世界史頻出年代暗記』

そっと不足に いったんさ。
租稲(そとう)2束(そく)2把(わ))(1(たん)つき・収穫量の3%
[句意]添い寝するのが不足している夫婦は単に3%しかいない、という句。最近セックスレス夫婦が増えているという報道を材料にした。この句は調べてみたら、そんなことはない、一緒に寝ていない夫婦は3%しかいない、という主張になり、報道を否定していることになる。さて真実は(笑)。


[ポイント]

1.1段につき稲2束2把で、収穫量3%であった。

[解説]

1.は男女良賤を問わず班給された口分田(くぶんでん)1段につき稲2束2把だった。

2.は口分田の理想的収穫量の3%程度の舂米(しょうまい)(稲穀の籾 がらをとり除いたもの)で納めるもので、おもに諸国において保存された。

〈2014早大・文化構想

3 下線c律令制下の農村に関する文章として正しいものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
 ア 人々は口分田1段につき、2束3把の稲で納める租を負担させられた。(×)
 イ 朝廷は6年ごとに戸籍をつくり満6歳以上の男子のみに口分田を与えた。(×)
 ウ 人々は姓を持つ部民と姓を持たないに区分されていた。(×)
 エ 凶作に備えて粟などを徴収して貯蓄しておく義倉の制度が行われた。(〇)
 オ 主に金銭を民間で貨し出す私出挙や、国衙などが貸し出す公出挙が行われた。(×貸し出すのは稲)」〉

〈2012学習院大・法

問2 下線部租を納める義務を負ったに関して、租は、律令の規定では口分田1段あたり何束何把と定められていたか、答えなさい。」
(答:2束2把)〉


蘭学)発展期(シーボルト事件)

2017-02-11 | 『新世界史頻出年代暗記』

一夜にバレて しぼられた。

1828年 シーボルト事件 高橋景保(かげやす)


[ポイント]

1.シーボルト事件で、高橋景保らが処罰された。

[解説]

1.1828(文政11)、オランダ商館医シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外持ち出し禁止の日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方高橋景保ら十数名が処罰された(シーボルト事件)。

2.シーボルト(1796~1866)は、医師、博物学者。ドイツ人であることを偽って来日。1824年、幕府の許可を得て、出島の長崎郊外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの塾生に西洋医学(蘭学)教育を行った。その中の俊才に高野長英・伊東玄朴小関三英らがいる。シーボルトは、日本の自然・文化を研究し、多くの動植物標本を集め本国に送っている。また地図など軍事機密に類するものも集めていることから、単なる学者ではないプロイセンのスパイ的地位にあった人物という説もある。シーボルトは帰国後、『日本』(中で間宮海峡を命名して紹介)などを著して、ヨーロッパにおける日本研究の第一人者となった。開国後の1859年、再来日し、幕府顧問となっている。


3.高橋景保(1785~1829)は、幕府天文方。高橋至時(よしとき)の子で洋書翻訳機関の蛮書和解御用掛の創設を幕府に建議(1811年)。帰国直前のシーボルトに禁制の伊能図(大日本沿海輿地(よち)全図)の簡略地図を渡したことが露見し、処罰され獄死した。


〈2016慶大・商AB方式

 またオランダ商館医であったシーボルトは長崎に[ 34 ]を開き、(オ)後進の育成に従事した。

問5 下線部(オ)後進の育成に従事したについて、シーボルトから医学、蘭学を学んだのちに、蛮社の獄で永牢の処分を受けた人物の名前を漢字で書きなさい。」

(答:34鳴滝塾※「滝」のサンズイ偏を意識。 問5高野長英)〉


〈2013学習院大・法

 蘭学の主な専門分野は、医学、兵学、天文地理学など、実用に資する学問であったが、それでも政治問題化することがあった。オランダ商館医師シーボルトの帰国の際のいわゆる8シーボルト事件もあれば、そのシーボルトに学んだ医師である高野長英らが、アメリカ船[ 9 ]号を打ち払った政策を批判したかどで、蛮社の獄において厳しく処罰されたこともあった。

 オランダ通詞だった志筑忠雄は、天文学書の翻訳・紹介で有名であるとともにケンペル『日本誌』の一部を「[ 10 ]論」の題で和訳した(1801年)ことでも知られる。この[ 10 ]という語は、以後、誤解を招きながら、近世日本国家の対外関係を批判的に表現するために用いられるようになった。


 開国の過程で、オランダ語だけでは諸問題に対応できないことが明らかになると、「蘭学」よりも、英語・フランス語・ドイツ語などの学問を総称した「洋学」として考えられるようになる。近代日本の大学は、まさに洋学を具現する場として設立されるのである。


問8 [ 8 ]に関して、この事件において持ち出し禁止の日本地図を渡したことで、天文方のある重要な人物が厳しく処罰され、獄死した。彼は蛮書和解御用の設置を建議したり、伊能忠敬の測量事業を支援したりと、蘭学の発展で欠かせない人物であった。その人物とは誰か、人名を記しなさい。


問9 [ 9 ]にあてはまる船名を記しなさい。


問10 [ 10 ]にあてはまる語を記しなさい。」


(答:問8高橋景保、問9モリソン、問10鎖国)〉


〈2012京大・前期

次の史料を読み、下記の問7~12に答えよ。なお、史料の表記は便宜上、改めたところがある。

B 権威ある将軍の専制政治の命令により、全国の大官はすべて其家族のためe.常住の殿邸をこゝに置き、又暫(しばら)くは多衆の従臣とともにこゝに住居すべき規定なれば、[ ウ ]は将軍の治所として非常なる広地と住民とを擁し、市民的住人は、宮(注)中を除き、将軍と大名との軍人を除きて、百三十一万人と注せらる。されば総人口は少なくとも、百五十万人なるべし。(略)


 町司中の年長者たちは町年寄と称へ、特別の役所ありて、かゝるもの寄り集まりて、二人の知事即ち[ エ ]の下に隷属す。市の理財的の事務はすべて御代官及びf御勘定奉行に於いて司配す。両[ エ ]・御代官・勘定奉行の他に宗教事件の管理者として五人の[ オ ]を長官としたる特別の裁判所あり。


(注)「宮」とは将軍の居城のこと。


問7 この文章は、ドイツ語で書かれた『日本』という書物の一部を、1928年に翻訳したものである。


 (あ)ドイツ語の原文を書いた人物は誰か。


 (い)この人物は、日本を出国するに際して、ある理由から国外追放処分となった。その理由は何か。


 (う)下線部eの「常住の殿邸」はある制度の必要上設けられた。この制度を何というか。


問9 [ ウ ]にあてはまる語句を記せ。


問10 [ エ ]にあてはまる語句を記せ。


問11 下線部fの「御勘定奉行」の担当する主な職務を1つ記せ。


問12 [ オ ]にあてはまる語句を記せ。」


(答:問7(ア)シーボルト(イ)禁制の日本地図を持ち出そうとしたから、問8参勤交代、問9江戸、問10町奉行、問11租税の徴収(または幕領の支配)、問12寺社奉行)〉


〈2012法政大学・文営人間環境

問9 下線部7の用語鎖国は、江戸時代後期、『日本誌』の一部を日本人が和訳し、「鎖国論」と題したのが最初である。この「日本誌」を著した外国人の名前を以下のア~エのなかから一人選べ。

 ア シドッチ  イ ルイス=フロイス

 ウ シーボルト エ ケンペル」

(答:エ ※シーボルトの著作は『日本』)

〈2011文教大・全学部:「
問7 下線部g蘭学研究について述べたA~Cの文について、古いものから年代順に正しく配列せよ。

A徳川吉京が野呂元丈と青木昆陽にオランダ語を学ばせた。
B前野良沢、杉田玄白らがオランダ語の解剖学書を翻訳し、『解体新書』を刊行した。
Cドイツ人医師シーボルトが長崎に嗚滝塾を開き、西洋医学を教えた。」

(答:ABC)〉


蘭学 発展期・自然科学(平賀源内)

2017-02-07 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]幹部との/歓談来てるヒラがげんなり


果敢歓談エレキ髭。


[句意]会社幹部との歓談の場に来てる平社員がげんなりしている、という句。


[ポイント]

1.平賀源内は、火浣布寒暖計エレキテルをつくった。

[解説]

1.平賀源内(1729~79)は、讃岐国高松生まれ、江戸中期の科学者、戯作(げさく)者、浄瑠璃作者。エレキテル(摩擦(まさつ)起電機)・寒暖計・石綿による火浣布(かかんぷ)(不燃布)をつくる。多才で西洋画にも優れ代表作に『西洋婦人図』、戯作者、浄瑠璃作家としても活躍した。
友人に中川淳庵杉田玄白がいる。誤って門弟を斬り、牢で獄死した。

2015明大・商

 しだいにこういった大衆広告手法は追随者を生み、江戸後期にかけて隆盛をむかえた。このような広告類に記されるのは一般には新商品や開店、バーゲンセールを告知する広告文であるが、紋切り型の宣伝文句はすぐに陳腐化してしまうため、宣伝文句を専門に考える人(コピーライター)へのニーズが生じた。当時流行りの戯作者や有名な学者、あるいは落語家がコピーライターとしてこれにかつぎだされたのである。讃岐高松出身の本草学・科学・戯作者で、寒暖計などを製作し「西洋婦人図」でも著名な[ う ](1728~1779)の「漱石香」という歯磨き粉のコピーなどが代表的なものである……(後略)」

(答:平賀源内)〉


2014立大・文

問3.これ町人文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.伊藤若沖は、尾形光琳の装飾性に写実性をくわえた画風をうみだした

 b.小田野直武は、日本初の腐食銅版画を創製した
 c.平賀源内は、文人画と呼ばれる画風を大成した
 d.松村月渓は、錦絵と呼ばれる多色刷の画法を完成させた」

(答:a ※b×小田野直武→司馬江漢、c×文人画→西洋画、d×松村月溪→鈴木春信)


2013同志社大学・法グロコミュ:「

問ク.通常、田沼時代とは田沼意次が幕政の実権を握っていた1760~1786年の期間をいうが、次の1~4の中でこの時期に当てはまらないものを1つ選べ。

 1.平賀源内が火浣布・エレキテル・寒暖計などの製作を試みた。

 2.本居宣長が賀茂真淵と松坂ではじめて会った。
 3.恋川春町の『金々先生栄花夢』がはじめて刊行された。
 4.石田梅岩が心学を広めた。」

(答:4石田梅岩(1685~1744) ※平賀源内(1729~79)、本居宣長
(1730~1801)、恋川春町(1744~89))〉


2012立命館大・文系A方式:「

 さて、つねづね[ F ]などに出会ひし時に語り合ひしは、追々見聞するところ、和蘭実測窮理のことどもは驚き入りしことばかりなり。

問k 空欄[ F ]に入る人物は、エレキテルの実験をするなど物理学の研究に足跡を残したほか、戯曲や滑稽本も書いた。この博学多才な人物の氏名を答えよ。」


(答:平賀源内)〉


税制基礎事項(面積単位)

2017-02-06 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]1跳10段 段差蒸れ。


1町10段)(1360歩(ぶ))




[ポイント]

1.1町10段1段360

[解説]
1.令には「凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段と為(せ)よ。十段を町(ちょう)と為よ」とあり、「三百六十」という数字が出てこないことに注意してください。


2.豊臣政権以降は1段300歩となるので注意してください。

〈2013青山学院・経営

太閤検地では、土地の面積表示を新しい基準の下に統一した上で行われたが、その基準について説明したものとしてもっとも適当なものを、次の選択肢から選びその番号をマークしなさい。」

 1 6尺5寸(約197センチ)四方を1歩とし、360歩を1段とした。

 2 6尺5寸(約197センチ)四方を1歩とし、300歩を1段とした。
 3 6尺3寸(約191センチ)四方を1歩とし、360歩を1段とした。
 4 6尺3寸(約191センチ)四方を1歩とし、300歩を1段とした。

(答:4)〉

〈2005大学入試センター試験(追試)

第2問 古代における人の一生に関するAの文章を読み、下の問いに答えよ。

A 出雲真土売(まつちめ)は良民の女性で、691年、おそらく山背(やましろ)国愛宕(おたぎ)評(現在の京都市)の有力氏族の家に生まれた。(a)彼女は、数え年で5歳か6歳のとき、はじめて戸籍に登録され、そののち口分田を与えられたと考えられる。」

問1 下線部(a)について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.この戸籍は、庚寅年籍とよばれる。
 2.こののち真土売は、毎年新しい戸籍に登録された。
 3.律令制の原則によれば、真土売には口分田1段120歩が与えられる。
 4.律令制の原則によれば、真土売には口分田2段が与えられる。

(答:3〇真土売は6歳以上良民女子だから、良民男子の2段×2/3=1段120歩 ※1×これは戸籍ではなく計帳、2×戸籍は6年毎、毎年は計帳、4×良民で女子はその男子2段の3分の2)〉


□古代47.律令税制基礎事項(五色の賤) ◇B

2017-02-05 | 『新世界史頻出年代暗記』



量感クヌギ家人死ぬ


(りょうこ)・戸(かんこ)・(くぬひ))(家人(けにん)・私奴婢(しぬひ))



[ポイント]

1.五色の賎とは家人の5種。

[解説]

1.身分制度は、良民に分けられ、には官有の(官)と、私有の家人の五種類()があった。の割合は人口の数%程度と低かったが、大寺院や豪族のなかには、数百人を超えるを所有したものもあった。

2.は、天皇・皇族の陵墓を守衛する。死を忌(い)む思想からその仕事に携わる者まで化したらしい。


3.は、官有の。


4.は、官有の奴隷(奴隷だから売買の対象)。ただし10世紀初めには廃止。


5.家人は、私有の。


6.は、私有の奴隷(売買の対象)。ただし10世紀初めには廃止。


7.口分田は、官有の・・には良民と同面積が、私有の家人・は良民の1/3が支給される。

〈2014立大・文

「口分田に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.家人やの口分田は良民の10分の1とされた 
 b.死者の口分田は6年ごとの斑年をまって返還されるきまりであった

 c.男性にも女性にも2段の口分田があたえられるきまりであった
 d.班田収授を円滑に行うため、条坊制によって口分田などを含む土地の区画を行った」

(答:b ※a×:良民の3分の1、c×:女性は同身分男性の3分の2、d×条里制の誤り。条坊制は宮都の区画)※女身分に寒い。