anecdote (ˈænɪkdòʊt)「逸話」※anは〈打消し〉、ecはexが変化した接頭語。〈与える〉の意のdot- について〈外に出たことのない話〉から。 「姉、工藤との 逸話あり。」
donor贈与者
anecdote (ˈænɪkdòʊt)「逸話」※anは〈打消し〉、ecはexが変化した接頭語。〈与える〉の意のdot- について〈外に出たことのない話〉から。 「姉、工藤との 逸話あり。」
donor贈与者
さあウソ?国見た。
(大化の改新)(左大臣・阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ))(国博士(くにのはかせ)・僧旻(そうみん)・高向玄理(たかむこのげんり))
[ポイント]
1.大化の改新では左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、国博士に僧旻と高向玄理が就任した。
[解説]
1.7世紀半ばに唐が高句麗に侵攻をはじめると、緊張のなかで倭は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。
2.倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。
3.そして王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣(うちつおみ)、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、飛鳥から難波にうつって政治改革を進めた。
4.阿倍内麻呂の娘は孝徳天皇の妃で有間皇子(ありまのみこ)の母。
5.『日本書紀』は大化の改新を律令国家体制への起点として描いている。しかし1960年代半ばから、改新は藤原不比等が父鎌足の業績を粉飾するために、律令国家体制の起点を改新に求めたものとする「大化の改新否定論」が出てきた。
6.藤原京出土の木簡により「郡」制以前に「評」制が行われたことが証明され、『詔』にある「郡」字は、改新当時は「評」でなければならないことが判明。これより改新の根拠である『日本書紀』の記述を全面的に信じることが出来なくなっている。少なくとも、『日本書紀』の語るようにまず「改新の詔」という周到な新政治のプランがあり、かつその直後改新のクーデタが行われた、とは信じがたい。
7.新政府にはゴロ句の4人の外に2人の主要人物がいる。すなわち皇太子の中大兄皇子、内臣(うちつおみ)の中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。内臣は大化の改新の際に新設された左右大臣に並ぶ官職。令制にはなく職掌は不明。
8.またこの2人に改新のヒントを与えた人物として南淵請安(みなみぶちしょうあん)もはずせない。南淵請安(生没年不詳)は608年の遣隋使で隋にわたった学問僧。640年帰国後、中大兄皇子・中臣鎌足に中国の新知識を教え、大化の改新に影響を与えた。留学仲間の高向玄理・僧旻が政府に参加したのに請安が参加していないのは、その直前に死んだという説と、かれが蘇我氏配下の渡来人の出だったためという説とがある。
〈2016関西学院大学・全学部
[Ⅱ] 次の文章A・Bを読んで設問に答えなさい。答えを一つマークしなさい。
A.1.乙巳の変の後、「改新の詔」が出され、基本的な政治方針が示されたといわれている。そこでは、2従来的な土地および人民支配のあり方が否定され、公地公民制が提起されるとともに、3行政区画の確定によって人民を地域的に支配すること、4戸籍・計帳による班田制を施行すること、5統一的税制を施行することがうちだされた。
問1 下線部1に関して、誤っている文を下記より選びなさい。
ア.中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂らと協力し、蘇我瑕夷・入鹿を滅ぼした。
イ.乙巳の変後、皇極天皇の譲位を受けて、孝徳天皇が即位し、飛鳥から難波に遷都した。
ウ.乙巳の変後、蘇我倉山田石川麻呂と中臣鎌足が左・右大臣の地位についた。
エ.旻と高向玄理は国博士として唐の諸制度の導人と制度化をはかることになった。
問2.下線部2に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.かつての天皇が置いた屯倉や、子代の民は存続を認められた。
イ.改新前の有力豪族は品部とよばれる私有民をもち、田荘とともに経済基盤としていた。
ウ.防人や衛士といった兵役制度は、改新前から整備されていた。
問3.下線部3に関して、誤っている文を下記より選びなさい。すべて正しい場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.7世紀後半、地方行政組織として、各地に評が設けられた。
イ.「改新の詔」でいわれる「関塞」とは、唐・新羅の軍事的脅威に備えた施設である。
ウ.「改新の詔」では「山河を定めよ」として、地方の境界を定めることを命じている。
問4.下線部4に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.計帳とは兵役に就くものを選ぶための台帳であり、国ごとに作成された。
イ.最初の全国的な戸籍は、天智天皇の時代に作られた庚午年籍である。
ウ.庚午年籍に次いで、天武天皇の時代にも庚寅年籍と呼ばれる戸籍が作られた。
問5.下線部5に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.旧来の税制も廃されることはなく、並行して用いられた。
イ.田地に賦課する租と、各戸に課される庸・調の併用で、いわゆる人頭税はなかった。
ウ.後の大宝令では、田に対して収穫の約15%の税が課せられた。」
(答:問1ウ×右大臣→内臣、※「中臣」の名で。 問2エ※ア×認められた→否定された、イ×品部→部曲、ウ×整備されていた→整備されていない、問3イ×※関塞は関所のこと、問4×庚午年籍→庚寅年籍、問5エ※ア×旧来の税制は廃止、イ×庸調は人頭税、ウ×約15%→約3%)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本):「6.遣隋留学生として608年から640年に隋に渡り、帰国して国博士となり、下線部(イ)八省の政務分担の立案に関わった後、654年に遣唐使として入唐し、そこで死去したとされる人物を下記の1~4の中から選びなさい。
1.阿倍仲麻呂 2.阿倍内麻呂 3.玄 4.高向玄理」
(答:4)〉
〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営):「
1.乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされ、( イ )天皇が即位すると、中大兄皇子が中心となって、大化改新と呼ばれる1)政治の刷新が進められた。そのなかでも646年に出されたとされる改新の詔では、皇族や豪族がそれぞれに土地や人民を支配する制度を改め、公地公民制を実施する大原則が示された。こうして民衆には耕作地として口分田が国家から支給されることとなった。もちろん改新の詔で発せられた内容がすべてこのとき実現できたわけではなく、口分田の支給については、飛鳥浄御原令が施行された翌年に( ロ )という戸籍がつくられ、これを基礎としてようやく確立した。」
問1.文中の空所(イ・ロ)それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
問2.下線部1政治刷新に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.左大臣と右大臣の職が廃止となった
b.蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込まれた
c.高向玄理と旻が国博士となった
d.難波長柄豊碕宮に遷都した」
(答:問1イ孝徳、ロ:庚寅年籍、問2a)〉
●化政文化(国学と洋学)
〈塙保己一、『群書類従』を編纂〉★★
Hanawa Hokiichi devotes his life to the editing “Gunshoruijyu”.
鼻(はな)はグショグショ 我が子でしょ。
塙保己一 『群書類従』 和学講談所
武蔵に生まれ7歳で失明した塙保己一は江戸で賀茂真淵の門に入り、和漢の学に通じた。1793年に和学講談所という学問所を創立し、ここで古代から江戸初期に至る国書を25項に分類し、合冊して『群書類従』を編纂した。
ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、来日した際、記念館を訪れている。
[ポイント]
1.塙保己一は、和学講談所を設け『群書類従』を刊行した。
[解説]
1.塙保己一(1746~1821)は盲目の国学者で、古典の収集・保存を心がけ、寛政期(1789~1801年)に幕府の援助を受けて和学講談所を設け『群書類従』を刊行した。
2.『群書類従』は古代より江戸初期までの古書1200余を編集し、1793(寛政5)年から1819(文政2)年までに木版で刊行した叢書(そうしよ)で全660余冊。古典の収集・保存に心がけ、のちの国史学・国文学の基礎を築いた。今日、現代人が多くの古典を読むことができるのは、塙保己一に負うところが大きい。
3.続編の『続群書類従』(1180余冊)は保己一の死後、弟子や子孫に受け継がれ、明治代に完成した。
〈2016立教大・済コミュ福観光
また寛政の改革期に、幕府は林家の家塾を幕府直轄の学問所とし、地誌類や歴史書の編纂を担当させた。幕府が塙保己一を援助して江戸麹町に建てさせた( ヌ )では、古代からの文献を集めた『群書類従』が編纂されたが、これは学問所において編纂されたさまざまな書物とともに、現在の日本史研究の基礎文献となっている。」
(答:和学講談所)〉
〈2013慶大・文:「
一方、塙保己一は( 0 )を設立して『群書類従』の編纂に従事した」
(答:和学講談所)〉
群れやみな斑点 苦労見ん。
(608年 第三回 南淵請安(みなみぶちのしょうあん))(高向玄理(たかむこのくろまろ))(僧旻(みん))
[ポイント]
1.第三回遣隋使(608)に随行した留学生は、南淵請安・高向玄理・僧旻など8名だった。
[解説]
1.旻(?~653、日本名は日文)は、第三回遣隋使(608)で大使小野妹子に随行した学問僧。帰国後、私塾を開き、中臣(藤原)鎌足も受講したという。改新政治では高向玄理とともに国博士に就き最高顧問となった。
2.南淵請安(生没年不詳)は608年の遣隋使で隋にわたった学問僧。640年帰国後、中大兄皇子・中臣鎌足に中国の新知識を教え、大化の改新に影響を与えた。留学仲間の高向玄理・僧旻が政府に参加したのに請安が参加していないのは、その直前に死んだという説と、かれが蘇我氏配下の渡来人の出だったためという説とがある。
3.高向玄理(?~654)は、本姓高向漢人で渡来人の子孫。608年、隋に渡り、
645年帰国後、大化改新では国博士に就き最高顧問となった。654年遣唐使として再び唐都長安にはいり、同地で亡くなった。
〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営)
問1.これ(大化改新と呼ばれる政治刷新が進められた)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.左大臣と右大臣の職が廃止となった(×)
b.蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込まれた(〇)
c.高向玄理と旻が国博士となった(〇)
d.難波長柄豊碕宮に遷都した(〇)」〉
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
2.下線部2)推古天皇に関連する記述として正しくないのはどれか。次のa~dからlつ選べ。
a.甥の厩戸皇子が編纂したとされる書に『天皇記』と『国記』がある(〇)
b.小野妹子が遣隋使として派遣された(〇)
c.十二階からなる冠位の制度がもうけられた(〇)
d.中国の文物を学ばせるため、高向玄理、南淵請安、玄昉を留学させた(×玄昉→旻)
〈2012立大・経済法異文化コミ
5.このとき(推古天皇の治世は、30年以上にも及び、その間、厩戸王や蘇我馬子らが協力し、冠位十二階の制、(4)憲法十七条の制定といった施策が行われ、また、(5)中国との外交も再開された。)中国に渡り、帰国後日本に中国の制度や思想・文化を伝えた人物でないのは誰か。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.高向玄理 b.曇徴 c.南淵請安 d.旻」(答:b)〉
無理さ徳仁礼信義っ智。
(冠位十二階)(徳・仁・礼・信・義・智)(603)
[ポイント]
1.冠位十二階は徳・仁・礼・信・義・智の6種×各2階で、603年制定。
[解説]
1.冠位十二階(603年)は、徳・仁・礼・信・義・智の6種をそれぞれ大・小に分けて12の位階としたもので、世襲される姓とは異なり、個人に対しあたえることで、氏族単位の王権組織を官僚組織による中央行政機構に再編成しようとしたもの。
2.憲法十七条(604年)とともに豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるものでもあった。こうして王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められた。
〈2016立命館大・全学部
下線部2聖徳太子が礼義を制定したに関連して、『懐風藻』序には、聖徳太子が「爵を設けて官を分かち、はじめて礼義を制す」とある。聖徳太子の時代に制定された、この制度を何というか。」
(答:冠位十二階の制)〉
〈2013立命館・文法済営などA方式
下線部1冠位十二階の制に関連して、次の史料はこの制度に関する『日本書紀』の記事である。
始めて冠位を行う。大[ ア ]・小[ ア ]・大[ イ ]・小[ イ ]大[ ウ ]・小[ ウ ]大[ エ ]・小[ エ ]・大義・小義・大智・小智、并(あわ)せて寄せて十二階。軌並びに当色の絁(きぬ)をもって縫えり。……」
空欄[ ウ ]にあてはまる、もっとも適当な語句を下から一つ選び、記号で答えよ。
ア.徳 イ.礼
ウ.仁 エ.信」
(答:イ)〉
〈2010大学入試センター試験
問2 下線部a四天王寺は、蘇我馬子とともに戦った、ある皇子(王)が創建したと伝えられている。この人物が国政にかかわっていた時期の出来事について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.世襲による氏姓制度とは異なり、個人の功績や才能を評価する冠位の制度が定められた。
2.中国南朝に使者を派遣し、倭と朝鮮半島南部での軍事指揮権を示す称号を求めた。
3.倭国では大きな争乱が起こり、しばらく収まらなかったが、諸国が共同して女性の王をたて、約30国からなる連合体をつくった。
4.稗田阿礼によみならわせていた神話や伝承、歴史などを、太安万侶が筆録し、書物として完成させた。」
(答:1〇厩戸皇子の記述 ※2×478年など倭の五王の記述、3×239年など邪馬台国の記述、4×712年古事記の完成)〉
[ポイント]
1.歴代天皇は舒明→皇極→孝徳→斉明→天智→天武→持統→文武とつづく。
[解説]
1.舒明天皇は蘇我蝦夷が擁立した。実権は蝦夷がにぎる。
2.皇極天皇は舒明天皇の皇后。中大兄皇子と大海人皇子の母。在位中の645年に蘇我入鹿が暗殺される(乙巳の変)。
3.孝徳天皇は、中大兄皇子といわゆる改新政治を推進するが、政治の主流から疎外され難波宮で死す。
4.斉明天皇は皇極天皇の重祚。百済救援に筑紫へ向かい、筑紫朝倉宮で死去。
5.天智天皇は称制(即位しないまま天皇としての政治を執ること)中の663年に白村江の戦に大敗。近江大津宮で即位。近江令、庚午年籍をつくる。
6.天武天皇は兄天智天皇の子、大友皇子を672年、壬申の乱で倒し即位。飛鳥浄御原宮に遷都、八色の姓を制定。
7.持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后。草壁皇子の病死により称制の後即位。飛鳥浄御原令の施行、藤原京遷都、庚寅年籍(こういんねんじゃく)の作成をおこなう。
8.文武天皇の治世に大宝律令を制定。
〈2013青山学院・文
百済からわが国に仏教が公的に伝えられたのは[ a ]天皇の時代である。
問1.空欄[ a ]に入るもっとも適切な語句を、次の選択肢の中から選びマークしなさい。
(1)安閑 (2)宣化 (3)欽明 (4)敏達」
(答:(3)欽明)〉
〈2012立大・経済法異文化コミ:「
ところが、推古天皇が死去すると、再び、皇位継承をめぐる混乱が生じる。田村皇子や、このとき既に没していた厩戸王の子である( ロ )らが、有力な後継者にして存在していたのである。結局、田村皇子が即位し舒明天皇となるが、その後も、( ロ )をはじめとする複数の皇位継承候補者が存在していた。
舒明天皇の死後、その皇后が即位し皇極天皇となる。蘇我入鹿は、( ロ )を滅ぼし、権力の集中をはかった。ところが、蘇我入鹿は、皇極天皇の子である中大兄皇子らに殺害されてしまう。この乙巳の変の後、退位した皇極天皇に代わって孝徳天皇が即位すると、蘇我氏が推していた古人大兄皇子も滅ぼされ、王族を中心とした政治体制ができあがっていった。
孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。このころ、朝鮮半島では戦乱が続いており、660年には、唐が新羅と結んで( ハ )を滅ぼした。朝廷は、( ハ )の復興を支援するための出兵を決め、既に高齢であった斉明天皇も、出兵の拠点となる〈 い 〉宮に移るが、斉明天皇は飛鳥を離れたこの地で死去してしまった。
斉明天皇の次に登場する女性天皇は、持統天皇である。天武天皇の在位中に〈 う 〉皇子が皇太子となっていたが、天武天皇の死後間もなく、〈 う 〉皇子が早世したことから、その母持統天皇が即位したのであるこ持続天皇は、天武天皇の後を受けて、689年に飛鳥浄御原令を施行し、その年から翌690年にかけて、全国的な戸籍である( ニ )を作成して民衆の把握につとめまた、694年には、(6)藤原京への遷都を行った。持統天皇は、〈 う 〉皇子の子が成長すると譲位し、即位した文武天皇の後見役となった。」
A.文中の空所(ロ)~(ニ)のそれぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の空所〈 い 〉~〈 う 〉にあてはまる適当な語句を、それぞれ対応する次のa~dから1つずつ選びその記号をマークせよ。
(答:ロ山背大兄王、ハ百済、ニ庚寅年籍、い朝倉、う草壁、※い~うは4択)
C.これ(藤原京)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.条坊制が施行された
b.中国にならった瓦茸で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられた
c.藤原宮跡から出土した木簡には、各地の「評」の記載が見られる
d.藤原宮跡は、平城宮跡よりも北に位置する
(答:d×南に位置)〉
こうで郷学。
(閑谷学校(しずたにがっこう))(岡山・池田光政)
[ポイント]
1.閑谷学校は岡山藩の池田光政が設立した。
[解説]
1.郷校は、郷学、郷学校、郷学所ともいう。藩士教育のためのものと庶民教育のためのものとの2種類がある。後者として閑谷学校(1688)が代表例。領民教化のため藩が経営するもの、有志による民営、あるいは藩民合同ものとがあった。読み・書き・算盤(そろばん)がおもな学習内容であった。
〈2016早大・文化構想〉
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。
イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」
(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾。なおエの「懐徳堂も郷校(郷学)と言える」には議論があると思う)〉
〈2012立命館大・文系A方式:「
問b 下線部1熊沢蕃山に関連して、熊沢蕃山を登用した岡山藩の藩主が創設した、農村の子弟も入学を許可された郷学を何というか。」
(答:閑谷学校)〉
いうえい
(蘇我稲目(いなめ)・馬子(うまこ))(蝦夷(えみし)・入鹿(いるか))
[句意]嘶(いなな)く馬を見て笑ってるイルカ君だ、という句。
[ポイント]
1.蘇我氏は稲目・馬子・蝦夷・入鹿と4代つづいた。
[解説]
1.稲目は、娘を欽明・用明天皇の妃として皇室との姻戚関係を固めた。
2.馬子は、587年に崇仏に反対する大連の物部守屋を滅ぼし、592年には崇峻天皇を暗殺して政治権力をにぎった。
3.馬子は、飛鳥寺(法興寺)を596年に完成した。
4.馬子は、厩戸王らと協力して、603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条を定め、607年には遣隋使を派遣した。
5.蝦夷・入鹿父子は、643年に厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼした。
6.入鹿は645年に、中臣鎌足・中大兄皇子らに暗殺され(乙巳の変)、蝦夷も自殺し滅亡した。
〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポ一つウェルネス)・観光(観光)
4.蘇我氏に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.蘇我入鹿は物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺して政治権力を掌握した(×物部守屋を滅ぼしたのは馬子(入鹿の祖父)。崇峻天皇も馬子の配下東漢直駒に暗殺されている)
b.蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子に協力して蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(〇)
c.蘇我馬子は娘の堅塩媛を欽明天皇の后とし、推古天皇らの外祖父となった(×堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目(馬子の父)の娘。稲目が欽明天皇の妃とした)
d.蘇我馬子は山背大兄王を滅ぼした(×山背大兄王を滅ぼしたのは入鹿)」〉
〈2014大学入試センター試験:日本史B
問3 下線部c磐井の乱に関連して、6~7世紀の政治的事件に関して述べた次の文1~3について、古いものから年代順に正しく配列したものを以下のア~カのうちから一つ選べ。
1.蘇我入鹿らが、厩戸皇子(厩戸王)の子の山背大兄王を自殺に追い込んだ。(643年)
2.大連の大伴金村が、対朝鮮諸国外交の失敗を糾弾されて失脚した。(540年)
3.大臣の蘇我馬子を中心とする勢力が物部守屋らを攻め滅ぼした。(587年)
ア.123 イ.132 ウ.213 エ.231 オ.312 カ.321」(答:エ)〉
雪中deで缶拾ったぞ
(折衷学(せっちゅうがく)派)(咸宜園(かんぎえん)・広瀬淡窓(ひろせたんそう))
[ポイント]
1.折衷学派の広瀬淡窓は私塾咸宜園を開く。
[解説]
1.折衷学とは、江戸中期(18世紀後半)に興った朱子学・古学・陽明学など特定の学派にとらわれずそれらの長所を取り入れようとする儒学の一派。江戸中期に輩出したこれらの傾向の学者たちを総称していうもので、一人一学説が特色。朱子学派の場合のように一定の学説があるわけではない。その一人に広瀬淡窓がいる。
2.広瀬淡窓(1782~1856)は、豊後国日田の商家の生まれ。身体が弱く、生涯を多病で苦しんだ。ほぼ独学で学ぶ。日田の塾咸宜園は明治30年まで続くが、淡窓一代の入門者は全国から2900余名もあったという。同塾は近世最大の漢学私塾で、高野長英や大村益次郎ら幕末の思想家や志士を多く育てた。
〈2016関西大・全学部2/8
B 都市・農村を問わず、庶民が生活していくうえで必要な「読み・書き・そろばん」の能力を習得する場として、寺子屋がつくられた。また、より高度な教育を行う機関として、著名な学者による私塾も各地に設けられた。なかでも儒 学者の広瀬淡窓による豊後日田の3[ア適々斎塾 イ蘐園塾 ウ咸宜園]は、多くの塾生を集め、高野長英や大村益次郎らの逸材を輩出した。」
(答:ウ)〉
〈2016法大・文(哲史)営(営)人間
問9 下線部i広瀬淡窓の私塾として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア咸宜園 イ懐徳堂 ウ洗心洞 エ鳴滝塾」
(答:ア)〉
〈2012立命館大・文系A方式
h.下線部3に関連して、「異学」について説明した文章として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。
あ 「異学」とされたキリスト教に対する取り締まりが強化された。
い 「異学」とされた「和学」が厳しく取り締まられ、多くの人びとが処刑された。
う 当時流行していた古学派・折衷学派などの説が「異学」とされ、道徳を軽視する風潮を生み出すものとして批判された。
え 当時百姓一揆の背景にあったと見なされた一向宗が、「異学」にあたるものとして弾圧された。」
(答:う ※異学とは朱子学以外の儒学各派を指す。したがってキリスト教、和学、一向宗は異学に当たらない)
わに革あちゃま柚子張った。
(東漢氏(やまとのあやうじ)・阿知使主(あちのおみ))(王仁(わに)・西文氏(かわちのふみうじ))(秦氏(はたし)・弓月君(ゆづきのきみ))
[句意]東のあっちの方で鰐氏がバタンキュウとくたばっている、というナンセンスの句。「鰐」は、は虫類のワニ。「鰐氏」は「王仁」と「西」を複合させたゴロです。出題されるとすれば全部漢字で示されるでしょうから、漢字を見分けるだけでよいので、「東」(やまと)・「西」(かわち)および「弓月」(ゆづき)の読みはあえて使っていません。「鰐氏がバタンキュウ」だけでも十分使えると思います。
[ポイント]
1.応神期(4~5世紀)の主な渡来人は阿知使主(東漢氏の祖)・弓月君(秦氏の祖)・王仁(西文氏の祖)の3人である。
[解説]
1.東漢氏の祖の阿知使主は、応神朝に帯方郡(たいほうぐん)を経て渡来したという説話がある。後漢の霊帝の曾孫(そうそん)だという。文筆に秀でており、史部(ふひとべ)を管理した。
2.秦氏の祖の弓月君は応神朝に百済から渡来したという説話がある。秦の始皇帝の曾孫という。養蚕(ようさん)・機織(はたおり)を伝えた。
3.西文氏の祖の王仁は、応神朝に百済から渡来したという説話がある。漢の高祖の末裔(まつえい)という。論語10巻・千字文(せんじもん)(書道の手本となった漢字の初級教科書)1巻を伝えた。
〈2016立命館大・全学部
問a 下線部1の人物王仁を祖とする渡来系氏族として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。
あ東漢氏 い西文氏 う秦氏 え百済王氏」
(答:い)〉
〈2015関西大・全学部
(B)漢字や儒教の経典は5世紀頃に渡来人によって伝えられた。埼玉県の稲荷山古墳からは、倭人の名と倭国の地名を漢宇で記した鉄剣が出土している。阿知使主を祖とする( 2 )氏は、ヤマト政権の記録や出納をつかさどり、漢宇の使用を定着させていった。」
(答:2東漢)〉
〈2013東京家政大
次の渡来人系の氏についての説明のうち、内容が正しいものはどれか。
1.秦氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した弓月君だといわれている。
2.東漢氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した王仁だといわれている。
3.西文氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した阿知使主だといわれている。
4.坂上氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した曇徴だといわれている。」
(答:1)〉
声楽講義古文辞
(古文辞学(こぶんじがく)派)(聖学(せいがく)・古義学(こぎがく)派)(古学)
[ポイント]
1.古学は聖学、古文辞学派、古義学派の3系統に分かれる。
[解説]
1.17世紀後半になると、朱子学を批判し、朱子以前の孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとする古学派がはじまった。
2.山鹿素行(1622~85)は朱子学を批判し、直接古典を学ぶ新しい学問としての聖学(聖教)を唱えた。これが朱子学に対する古学のはじまり。
3.伊藤仁斎(じんさい)(1627~1705)・東涯(とうがい)(1670~1736)父子は、『孟子』・『論語』を重視する古義学を唱えた。
4.荻生徂徠(1666~1728)は古義学に対抗し、古語(古文辞)の本来の意味をあきらかにする古文辞学を唱えた。
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)
Ⅲ 次の短文J・Kは、江戸時代の文化を担った人びとについて叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。
J.古学派の儒学者。会津の人。朱子学・神道・兵学に通じ、実用の学を提唱して朱子学を批判し、自らb実学と呼んだ。幕府により赤穂へ配流された。著書c『聖教要録』は、「聖人とは何か」から説き起こし、武士日用の道徳を主張して儒学古典の朱子学的解釈を批判している。もう一つの著書d『中朝事実』は、中国崇拝を廃して日本主義を主張し、「中華」にたいする日本の呼称も示した。
〔語群〕
1南 2陽明 3聖 4理
5『自然真営道』 6『国意考』
7『古事記伝』 8『玉くしげ』
K a大坂の町人の家に生まれる。『論語』『孟子』などの原典の研究を通じて直接聖人の道を正しく理解しようとし、b古義学をとなえ、京都c堀川に塾を創設した。政治と道徳を区別する学風を形成した。著書にはd『童子問』などがある。
〔語群〕
1江戸 2京都 3陽明 4心
5下賀茂 6丸太町
7『万葉考』 8『玉勝間』
問1 K・Jの各文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。K・Jそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。」
(答:Jb3、Ka2 ※Jは山鹿素行、Kは伊藤仁斎)〉
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
古代の聖賢にたち帰ることを主張した[ 7 ]は、伊藤仁斎らとともに古学派と呼ばれる」
(答:山鹿素行)〉
恥かく弥生 須恵挑戦。
(古墳時代)(土師器(はじき)・弥生系)(須恵器(すえき)・朝鮮系・灰色)
[ポイント]
1.古墳時代は前代弥生文化の系譜の土師器と朝鮮半島から伝えられた須恵器が用いられた。
[解説]
1.古墳時代前期から中期の初めまでの土器は、弥生土器の系譜を引く赤焼きの土師器が用いられた。
2.5世紀になると朝鮮半島から登り窯で焼かれる、硬質で灰色の須恵器の製作技術が伝えられ、土師器とともに用いられるようになった。
〈2013青山学院・文教育経済法経営など
正文を問う4択の1誤文として(3)朝鮮半島から硬質の土師器の技術が伝えられ、それまでの須恵器とともに用いられるようになった。」(朝鮮半島から伝わったのは須恵器)〉
〈2012立教大・全学部
正文を問う4択の1誤文として b.5世紀には登り窯で焼かれた土師器が作られるようになる(×登り窯で焼かれたのは須恵器)〉
エースいないぞ 金石文。
(江田船山(えたふなやま)古墳(こふん)鉄剣(てっけん)銘(めい)・隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)人物画像(じんぶつがぞう)鏡銘(きょうめい)・稲荷山(いなりやま)古墳鉄剣銘・石上神社七支刀銘(いそのかみじんじやしちしとうめい))(金石文(きんせきぶん))
[ポイント]
1.最古の漢字使用例は江田船山古墳鉄剣銘・隅田八幡神社人物画像鏡銘・稲荷山古墳鉄剣銘・石上神社七支刀銘の4金石文銘。
[解説]
1.隅田八幡神社人物画像鏡銘の癸未(きび)年を443年とすると、「意柴沙加(おしさか)」は漢字(中国の文字)による国語表記の初めとなる。
2.稲荷山古墳鉄剣銘と江田船山古墳鉄剣銘にある「獲加多支鹵(わかたける)」大王(おおきみ)は雄略天皇と思われる。
3.稲荷山古墳鉄剣銘は『宋書倭国伝』の記述に対応し、5世紀末にヤマト政権の支配が関東(埼玉)にまでおよんでいたことを裏付ける。
4.江田船山古墳鉄剣銘も、同様にヤマト政権の支配が九州(熊本)におよんでいたことを裏付ける。
5.石上神宮七支刀これだけは百済から贈られたもの。一本の鋼から7つの枝部を鍛造(叩き出)した見事な工芸品。金象嵌(ぞうがん)の年号「泰和四年」は東晋の太和四(369)年とする説が有力。ほかに、南宋の泰始四(468)年、北魏の太和四(480)年などの説がある。
〈2014慶大・文
次に文章の空欄(M~O)に適当な語句、それぞれ語群の中から選び、1~9の数字を、また語群の中に適当な語句がない場合は0を、解答欄に記入しなさい。
稲荷山古墳出土鉄剣や隅田八幡神社人物画像鏡の銘文には、多くの固有名詞が記されており、前者の( M )、後者の( N )は、倭王権に関係する宮の名称と考えられる。それぞれ年代の表記もあり、隅田八幡神社人物画像鏡に記された「癸未年」は、西暦( O )年とする説が有力である。
1.難波高津宮 2.意柴沙加宮 3.長柄豊碕宮 4.斯鬼宮 5.小墾田宮
6.438 7.462 8.471 9.478」
(答:M4,N2、O0→正しくは443年)〉
〈2014同志社大・全(文系)
奈良県天理市に鎮座する石上神宮は、神武天皇が東遷したときに使用した剣を祀ったのが創始と伝えている。仏教伝来まもなくの頃、仏教排斥を主張して、しばしば蘇我氏と衝突したというa【1.大伴氏 2.小野氏 3.物部氏】が祀ったことから同氏の氏神ともされた。神宝の( ア )は鉄製で、身の左右に3本づつ枝が出ており、百済王が倭王のために作ったなどという趣旨の61字の銘文があり、4世紀後半頃の大陸との交渉を示す重要な史料である。
京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、c【7.8世紀 8.9世紀 9.12世紀】半ば頃に、九州の( カ )八幡宮の祭神を勧請したもので、応神天皇・神功皇后ほかを祀る。八幡神は、源氏の氏神となったほか、広く信仰が普及して全国に八幡宮が分布するようになった。後に鎌倉幕府の守護神ともなった鶴岡八幡宮もその一つである。和歌山県橋本市に鎮座する( キ )八幡神社所蔵の人物画像鏡は「癸未年八月」「意柴沙加」など計48文字の銘文があることで有名である。
(答:a3、c8、ア七支刀、カ宇佐、キ隅田)〉
大御所関東 担うよく、去ろうかグッナイ、三河かも。
(天保の飢饉・大塩平八郎の乱)(1805年・関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)1827年・寄場組合(よせばくみあい))・36年甲斐郡内騒動・三河加茂一揆・
[ポイント]
1.大御所時代は、関東取締出役の設置・天保の飢饉・大塩平八郎の乱・寄場組合の設置・生田万の乱があった。
[解説]
1.将軍徳川家斉(1773~1841)は、一橋家出身。一橋治済(はるさだ)の長男で、15歳で11代将軍となる。将軍職を家慶(1793~1853)に譲った後も大御所として実権を握る(1793~1841)。奢侈におぼれた放漫政治であったために幕府財政は逼迫したが、市中の商品貨幣経済はますます発展し、化政文化が花開いた。
2.1805(文化2)年創設された関東取締出役(かんとうとりしまりで(しゅつ)やく)は、俗に「八州(はっしゅう)廻(まわ)り」とも呼ばれ、2人1組計8人でなんと関東8カ国の犯罪者の取締りにあたった。
3.関東取締出役が少人数で手が回らなかったため、1827(文政10)年に、関東の農村で近隣の村々を組みあわせた寄場組合を、協力組織として置く。
4.天保の大飢饉が1832~33(天保3~4)年に発生、全国的に収穫が例年より半分以下の凶作となり、きびしい飢饉にみまわれた。
5.農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、甲斐国郡内(ぐんない)一揆や三河国加茂(かも)一揆など百姓一揆・打ちこわしが続発した。
6.大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎(1793~1837)は、1837(天保8)年に、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した(大塩の乱)。
7.国学者生田万(1801~37)が、1837年、大塩門弟と称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり(生田万の乱)、各地に大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。
〈2016立教大・現心社コミュ福
天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。大坂では1837年に元奉行所の役人で、11陽明学を講じていた大塩平八郎が米を買い占める富商を襲撃する事件が発生した。その後、越後柏崎では大塩門弟と称する国学者( ヲ )が陣屋を襲撃したほか、各地で大塩に共嗚する百姓一揆が続発した。
問11.これ陽明学に関する記述として正しいのはどれか。
a.岡山藩主に仕えた熊沢蕃山は『大学或問』を著した
b.寛政異学の禁において、昌平坂学問所で講義することが認められた
c.唐の王陽明が創始した儒学の一派である
d.日本におけるこの学の祖とされるのは太宰春台である」
(答:ヌ郡内、ル三河、問11a、※b×禁止された、c×陽明学は南宋の陸象山を基礎に明代の王陽明が展開した学、dは徂徠の弟子で古学派のうちの古文辞学派で『経済録』)をあらわ著した。 徂徠の子分太宰経済。
『経済録』)〉
〈2014早大・教育
問7 下線部c江戸時代後期に各地で起こるさまざまな問題に関連して、18世紀後期から19世紀前期の出来事に該当しないものはどれか。
ア 人足寄場の設置 イ 生田万の乱
ウ 関東取締出役の設置
エ 浅間山の噴火 オ 服忌令の発令」
(答:オ※服忌令(父母などが亡くなった時の忌引きなどの日数を定めた法令)の発令は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の時代)〉
〈2013上智大・法総合人間科神外国語
江戸幕府の12代将軍B(在職1837~53年)に関する次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。
Bは、将軍職を継いだが、当初(1837~41年)は( ウ )が大御所 として政治の実権を握っていた。( ウ )の死後、信任する老中( エ )に倹約令と風紀取締を基調とした改革を実施させた。ただ1843年には( オ )の問題が紛糾したため、( エ )を罷免した。
問6 空欄(ウ)に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。
1徳川家治 2徳川家重 3徳川家斉
4徳川綱吉 5徳川斉昭 6徳川吉宗
問7 空欄(エ)に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。
1田沼意次 2水野忠邦 3松平定信
4阿部正弘 5松平慶永 6安藤信正
問8 空欄(オ)に当てはまる政策は何か。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。
1上知令 2人返し令 3異国船打払令
4足高の制 5倹約令 6棄捐令
問9 Bの在職期間中に起きた事件はどれか。適切なものを、次から1つ選びなさい。
1天明の飢饉 2ゴローニン事件
3浅間山大噴火 4フェートン号事件
5シーボルト事件 6蛮社の獄
問10 Bの在職期間中に書かれた著作はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。
1『戊戌夢物語』 2『西洋紀聞』
3『都鄙問答』 4『政談』
5『農業全書』 6『発微算法』
問11 前問10で答えた著作の作者は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。
1新井白石 2荻生狙練 3関孝和
4高野長英 5石田梅岩 6宮崎安貞
問12 Bの在職期間中に、長州藩で財政改革を断行した人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。
1吉田東洋 2調所広郷 3白石正一郎
4久坂玄瑞 5平野国臣 6村田清風」
(答:問6→3徳川家斉、問7→2水野忠邦、問8→1上知令、問9→6蛮社の獄、問10→1『戊戌夢物語』、問11→4高野長英、問12→6村田清風、 ※Bは家慶)〉
沙汰よしメイト秋の田を。
(佐竹義和(さたけよしまさ)(秋田・明徳館)
[ポイント]
1.佐竹義和は、藩校明徳館を設立した。
[解説]
1.佐竹義和(1775~1815)は、18世紀末頃から秋田藩の寛政の改革を実施し、荒廃する農村と財政難を克服した。また藩校明徳館や郷校を設立するなどの教育の振興による人材の育成をおこなった
〈2016早大・人間科学
問5 下線部c(18世紀後半の農村)の村内の階層分化に関連する記述として、正しいものはどれか、1つ選べ。
ア 困窮した百姓に金を貸し、質にとった土地を集めた町人は蔵元と呼ばれ、商品作物の生産流通の中心を担った。
イ 自分の土地や家を失った百姓は、小作人になるか、年季奉公・日傭稼ぎのために村を離れていった。
ウ 18世紀後半、幕府は質流れのかたちで田畑が売買されるのを禁じたため、各地で質地騒動が起こった。
エ 天災や飢饉で疲弊した農村の立て直しを図るため、松江藩の佐竹義和は徹底した勧農抑商策をとった。
オ 享保の改革では、江戸に流入していた没落農民の帰村・帰農を奨励する旧里帰農令が出された。」
(答:イ ※ア×蔵元→質地地主、ウ×「田畑の質入れは認めるが質流れは認めない」という趣旨の質流地禁止令を農民が質地取り返しができる徳政令と解釈したためおきた騒動、エ佐竹義和は秋田藩主、オ×旧里帰農令は寛政の改革)〉
〈2012中大・法
諸藩では幕府にくらべ財政が不安定であったという・こともあり,藩政の見直しをせまられるという事態が早くからみられた。土佐藩では江戸時代前期に儒学を学んだ野中兼山が積極的に新田開発や殖産興業につとめた。なお,大名のなかには木下順庵などの儒学者を侍講・顧問などとして積極的に用いる例がみられた。
藩政改革において成果をあげた大名は名君とよばれた。秋田藩[ 5 ]はそのひとりである。彼は職制を整備し,農業・林業・鉱業をさかんにした。また人材育成をめざして4藩校を設立した。
問6 下線部4藩校に関連する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。
a この藩校の名称は日新館である。
b この藩校の設立は水戸藩の藩校である弘道館の設立より早かった。
c 小田野直武はこの藩校開校にあたり招かれた儒者である。
(答:5佐竹義和、問6aロ×明徳館、bイ、cロ×小田野直武は秋田蘭画という一派を形成した画家。明徳館にはそれほど著名な儒者は招かれていない)〉